ふだん取材カメラは、デジカメをつかっている。正式に構えた写真となると、ニコンの一眼レフだ。
「スマホでも撮っておくか」
この程度のもので、見直しもせず放置している。「フォトコレクション」を開くとやたら多いので、USBメモリーにすべて移した。
ここ1年間で、ずいぶん歩いているな、と思った。1年の活動の足跡にもなるかな、と写真を拾ってみた。
読売カルチャーセンター・金町で「文学賞をめざす小説講座」を持っている。受講生たちの要請で、5月の連休に外房・千倉で一泊の合宿を行った。
夕方、海岸に出てみると、子どもらが波打ち際で戯れていた。カメラを持っていないので、スマホで撮っておいた。
谷津遊園のバラ。最近はそのネーミングはあまり聞かないので、出かけてみた。
スマホを買い替えたばかりだった。
試し撮りに近かった。
祝「山の日」推進委員会で、谷垣会長がいい笑顔をしていた。
委員の私は、壇上の微笑みをなんとなく撮りたくなった。デジカメも持っていたが、スマホのほうが気楽に撮影できる時代になってきたので、(被写体もかまえない)、会議などではつかう場面がふえてきた。
阿波・徳島の平家の里に行ってみた。
『かつしかppクラブ』の郡山さんが松永伍一著「平家伝説」を教えてくれた。たいへん興味深いので、出むいた。
平家時代の面影はなく、現代的だったな。
甲斐駒ケ岳に登った。
最初から、山頂に登る気がなかった。山小屋にパソコンを持ちこんで、3時間くらい原稿を書いていた。山小屋に3泊だった。私ひとりパーティーから外してもらい、仲間が下山してくるルートにむかってのんびり登っていた。
「ここらで仲間を待つか」とスマホを取りだしたけれど、通話の電波がとどかない。手元に取り出したからにはと、数枚、甲斐駒岳を撮影しておいた。
山稜が雲と戯れている方が、山岳写真としては迫力がある。その典型的な写真だった。
広島には2か月に一度は出むいている。と同時に、原爆ドームは折々にでむく。
「2度とこんな戦争はしてはいけないのだ」と、崩壊したドームを凝視していると、心が引き締まってくる。
徳川時代は260年戦争しなかった。明治時代から10年に1度は戦争をする国家になった。『だれがこんな軍事国家にしたのか』『だれがこんな戦争を引き起こしたのだ』。事実・史実をたぐれば、諸悪の根源の人物が長州藩に多くいる。
かれらは決して英雄ではない。軍事国家の醜い歴史をつくったのだ。
長州・毛利家はもともと広島だった。関ヶ原で負けて、萩に転封された。武士は武士同士で婚姻し、地場の農商人と交わらない。だから、毛利家の家臣団には広島の遺伝子が脈々と流れている。
だからこそ、広島出身の私は、長州の暴走による戦争責任のかれらを明確に正さねばならないのだ。広島人として義務だ。やらねばならないのだ。
私はそれを書籍や講演で、日本中に知らしめていく。
明治から原爆投下までの77年の戦争は、庶民犠牲だ。これまでの歴史作家は英雄史観で持ち上げて、庶民の犠牲をないがしろにしてきた。
「温故知新」で古きを訪ねてみたら、そこは欺瞞だらけの歴史だった。となると、新しきものが大きく狂ってくる。
軍事思想、戦争起爆の張本人など、ヒーローにしてはいけないのだ。執筆した歴史作家も糾弾していく。かれらは決して大作家ではない。読書を通して民をミスリードしているのだ。
長州藩を中心とした明治時代の官吏がつくった嘘の歴史は、もう教えてはならない。
「国づくりは100年教育から」である。明治政権でなく、明治軍事政権、と正確な表記の歴史教科書にする。
この記載自体だけでも、将来は安全な国家づくりになる。
教科書の記載まで変えさせるとなると、高い壁かもしれない。これが私の役割りだと、じぶんに言い聞かせている。
必ずやり遂げる。それを誓いに、より信念を固めるためにも、原爆ドームにはよく足を運ぶ。
原爆投下の直後から、大勢の女学生が悲惨な死となった。着衣は爆風ではぎ取られ、皮膚はただれる。幼い子どもらも、生きながらえても、白血病で血をはいて死ぬ。
こうした像は、「平和のありがたさ」もおしえてくれる。
メール文を打っていた時、外国人がきた。「外国人とお城」面白い組み合わせかな、と思った。
むろん、何かで使う気はなかった。ただ、一瞬、面白いな、と思うと、シャッターを押したくなる。
【つづく】