Pops Singars Festial vol.1=写真で楽しむポップス②
Pops Singars Festial vol.1=写真で楽しむポップス①
沢村まみさんはソロシンガーとして活躍されている。兄には、曲家の著名な・中島安敏さん、姉には故・澤村美司子さんをもつ、音楽一家に育った。、
「Pops Singars Festial vol.1」が、5月30日に東京・赤坂の草月ホールで行われた。
パティオイカウイイさんは、ハワイのシャーマンが名付け親です。プレスリーに憧れで、16歳で世界に飛び出す。
世界的な交流イベントに数多く参加する。レパートリーはポップス、ジャズから、民謡、童謡まで、幅広い。
由紀 真さんは俳優座養成所10期生です。活躍の場はTV、ラジオ、ショー、CMなどと幅が広い。浅草ジャズコンテストの常任審査委員です。
舞台のスポットライト
歌手たちの豪華な世界を演出しています。
さが ゆきさんは5のときに歌手になろうと決めた。84年には中村八大グループの専属歌手になってから、8年間在籍した。
現在は、海外公演も多い。
透明水彩画とパステルを鑑賞する=写真集
東京・江東区「ギャラリーコピス」で、6月12日ー17日に、二人展が開催された。タイトルは「ココニイルコト ココロニイルコト」である。(ここに居ること、心に居ること)
ギャラリーのオーナーは、tempみどりさん(左)は実力派の画家です。伯父には著名な脚本家もいる、芸術一家で育っています。
透明水彩画のパステル画の柏木照美さんは、「かつしかPPクラブ」(会計)のメンバーです。
ギャラリーに一歩入った、10代、20代の女性がとたんに「かわいい」「かわいい」の連呼でしょう。すぐさま童話の世界に入れます。
現代童画展の入選作品の前で、柏木照美さんは、今回の二人展をステップとし、近い将来は個展を開きたい、と意欲を語ってくれました。
紙芝居は、少年・少女に夢を与えます。
子どもたちに空想の世界で遊んでもらう。つちかわれた感性が、やがて将来の画家や小説家など独創性のある、職業に向かわせます。
柏木さんは二人展のために3作の紙芝居を創作しました。
題名は「あまもり」「おさかなブレスレット」「たぁちゃんと、くぅちゃん」。彼女のやさしさが伝わってきます。
白いワンちゃんは床に寝そべっていますが、無人のときは来客を教えてくれるそうです。時には、作品の主人公になるようです。
狭山丘陵には、華麗な「ゆり」が開花=西武ドームとなり
うっとうしい梅雨ですが、待ち焦がれていた、ゆりの花が咲きはじめました。
狭山丘陵(埼玉県)の自然林の一角には、広大な「ゆり園」があります。
花の撮影は夕暮れが狙いどきです。
6月9日の午後は、埼玉・所沢に出かけてみました。
あやしげな天気でした。霧雨が折々に降る、陽が射す、不安定な空模様です。広大な3万㎡はほとんど蕾(つぼみ)ばかり。それでも、あっちに一つ、こっちに一つ。華麗な花弁のゆりが散見できました。
西武球場前駅を下車すると、「ゆり園」のゲートがあります。大人1000円。ゲートからは森に囲まれた園内は見えません。
どのていどの規模のゆり園かわかりません。それだけに、「ちょっと高いな」という印象を持ちました。
「きょうは無料です」
受付嬢は西武直営だからでしょう、彼女は青い制服です。
「なぜですか?」
「ゆりが園内でまだ、そんなにも咲いていないからです。咲きほこったときから、入園料を頂きます」
ずいぶん得したな、という気持ちで、ゆり園内をゆっくり鑑賞しました。
ゆり園はすべてつぼみ。
一つ二つと、素敵なゆりを見つけて撮影する。
自然の森林で、思わぬところでゆりを発見するに似た、
格別な感動がありました。
「ゆり園」は50種類、 約45万本のゆりが密集しています。
あと一週間もすれば、ほぼ満開になります。
7、8人の職員の方々は手入れに余念がありません。
華麗なバラの庭園・旧古河庭園=東京・北区
可憐な花弁で、宝石のような輝きです。その花の名は「 ローズマリー」です。
旧古河庭園の魅力は、美の極限のバラと、大正6年5月に竣工した煉瓦造の建物とのコントラストです。
花壇に見入る人たち
味わう、感動する、感銘する
どんな言葉が浮かんでいるのかしら
かつては旧古河庭園は陸奥宗光の別邸でした。武蔵野台地は小高い丘で、そこに洋館を建て、日本庭園を配しています。
洋館と洋風庭園の設計者は、英国人ジョサイア・コンドル博士(1852~1920)です。わが国の建築界に多大な貢献をした人物です。
日本庭園の作庭者は、京都の庭師植治・と小川治兵衛(1860~1933)です。
職員が目立たないように、バラの花壇の手入れをしています。咲くのはわずか数週間です。残る11ヶ月間は地道な努力をなされているのでしょう
花を撮る、真剣なまなざし。人間の真剣さは絵になります。
バラを観た、感動を写真でどう表現できたのでしょうか。
最寄り駅はJRと南北線の駒込駅です。シーズン中は、狭い庭園に大勢の人出があります。平日が賢明です。
小雨の降る日はバラ園に出むくのが最適です。花弁と葉っぱに浮かぶ、水滴が宝石のようです。
写真で登ろう・奥多摩の低山ハイキング
奥多摩の魅力の一つは、V字形渓谷の山腹を走る単線です。立川駅から青梅駅までは複線ですが、その先から単線です。
1時間に1本か、2本の電車です。「時間を忘れる」、それが奥多摩に足を入れる心構えとして大切です。
2000メートル級の雲取山から、400メートル前後の低山まであります。時間を気にせず、家族、仲間、カップルで、ペチャクチャ喋りながら登る。
そんな気ままな山登りができる。奥多摩の山をともに歩きましょう。
軍畑(いくさばた)駅は、まず読めない駅名です。有人か無人駅か。それは定かではありません。時々、駅員がいます。夜は間違いなく不在です。
駅舎から出た展望は、これが大都会・東京都かと思わせる、閑散としたものです。歩く住民はまったく見かけません。
写真指導の場において、受講生にはかならず人物を入れなさい、「人間は人間に感動するもの」と話しています。
床屋がありました。店内をのぞいても、お客さんがいません。店主にモデルになって、と厚かましい願いもできませんでした。
奥多摩ですが、床屋「立川」とは都会を感じさせます。「人物がいなくても、将来は奥多摩の貴重な写真になるだろう」という予感を覚えました。
坂道を登るほどに、青いはっぴ姿の住人を見かけました。「お祭りかな?」やっと、人にめぐり合えたな、という感動を覚えました。
「高源寺」の門前からが、最も人物が集約できる、アングルでした。
石垣を凝視すると、そこには草花がしっかり根を張って生きていました。強い生命力を感じさせてくれました。
生きる努力は境遇、境地も選ばず。そんな植物の逞しさに心する。それも低山ハイキングの魅力の一つでしょう。
山間の民家のまえで、足を止めました。庭先には彩り豊かな花が咲いていました。住む人の心が花を通して伝わってきます。
自然の四季と、上手に調和させていました。
「カメラマン」「寄稿・みんなの作品」新設の案内(2)=幅広い筆者で
かつて「ライブドア事件」が起きました。堀江氏が収監されたときから、PJニュースの存在が危うくなりました。小田編集長が、新たに㈱PJニュースという別会社を作り、処していました。
しかしながら、ライブドアに外資系の資本が入り、果たして2011年1月をもってPJニュースがライブドアから切り離されました。
「ライブドア・PJニュース」のバックナンバーがすべて削除。ある程度は読めていましたが、現実に過去に積み重ねてきた記事が抹消となると、痛手です。
私の書いた記事にリンクを張っている方々に迷惑が及ぶわけですから。
㈱PJニュースが独自のサイトを持っていました。約3年間の記事はさかのぼれます。
蒲池潤さんの並々ならぬ努力で、『穂高健一の世界』において、私の3年間にわたるPJニュース記事の復元できました。
この先はPJニュース一辺倒から脱しなければならない。むしろ、穂高健一のホームページをより充実しよう、と考えました。
内容の濃い記事とか、楽しい写真とかを掲載していく。かならず読者は見にきてくれると確信のもと、過去には骨太の記事はすべてPJニュースに載せていました。それらの大半をホームページへとシフトさせることに決めました。
「カメラマン」「寄稿・みんなの作品」新設の案内(1)=5年間を省みて
【当該・HPの5年の歴史を顧みて】
ライブドア・PJニュースの市民記者になったのが、2005年11月でした。その活動を押し進め、記事をさらに広く読んでいただくためにも、ホームページが必要になりました。
IBM社ホームページ・ビルダーは私の手に負えず、IT関係の2人の方に強力な支援をいただき、ホームページを立ち上げることができました。
「穂高健一ワールド」がスタートとしたが、2006年の春で、肥田野正輝さんの好意によるものでした。
ほぼ同時期に、蒲池潤さんの好意から「穂高健一の世界」もスタートできました。
2つのホームページを持った、贅沢なものになりました。
肥田野さんから、HPを運営・管理する秘訣を聞きました。「コンテンツを継続することです。絶やさなければ、読者がつきます」という一言を頂きました。
ライブドア・PJニュースには精力的に取り組み、毎月13-17本ほど記事を書き続けました。
穂高健一のHPが継続して読まれる。それが主たる目的でした。
記事に入り込むほどに、長年にわたり伊藤桂一氏の指導の下に小説家になれたのに、小説の執筆が疎かになっている。これではだめだな。そんな気持ちから、「東京美人シリーズ」を立ち上げました。「写真小説」というジャンルの開拓です。
美人の方にもモデルになってもらい、ポート・レートを取らせていただきました。
写真を先行して、小説のストーリーを後からつけていく。執筆としてはかなり難易度の高いものでした。ふつうは小説が出来上がってから、イラストを描いてもらう。それが逆でしたから。
千葉・内房の気ままな散策(人間の魅力)=写真エッセイ
3月ともなれば、春の盛り、初旬は梅から桜へと移る、端境期である。ここぞ、と思う花の名所はないものだ。河津桜はもはや終わっている。ならば、房総にでも出かけてみるか、という気持になった。
3月8日は一昨夜からの雨が上がった。明け方にはまだ厚い雲が残っていたが、天気予報を信じてみた。
東京駅から君津で乗り換えた。駅の備え付けの観光パンフレットを手にした。それでも、ここぞ、と思う場所はなかった。保田は20代の頃、海水浴にきたことがある。それを根拠に、ともかく同駅に降りてみた。
ホームの先端の踏み切りをわたり、保田神社の前で、初老の女性から声を掛けられた。水仙と頼朝桜(河津桜と同種)で有名だという。
「遅かったね。水仙も、桜も終わったし。まだ少しは花が残っているから」と、慰められながらも、保田川への道順が教えられた。
すれ違う町の人から、またしても声がけされた。「保田に来てくれたのに、桜はもう散り始めている。時期が悪いときにきたね」と気の毒がられた。人情を感じた。花よりも、見知らぬ町で、人のふれあいの旅だと、気持を切り替えた。
次に出会った人は、町の特徴を紹介してくれた。
「若い者がいない。そのうちの、うちら年寄りが死んだら、この町は無人になるよ」
深刻な過疎化を語る。房総でも、ここが一番の過疎化が進んでいるという。
保田川の土手には、ピンクの葉桜と黄色い菜の花、水仙も季節はずれでも咲いていた。ふいに、東京ナンバーの車から声を掛けられた。
「頼朝塚はどこでしょうか」
「さあ? 頼朝の上陸地点はこの近くの海ですから、海岸で尋ねられたらいかがですか」と答えておいた。
保田川から鋸山にでも登ってみるかな。きょうは春霞で遠景の三浦半島はかすんでいそうだ。そう思うと、ロープウェーのある鋸山ハイキング・コースすら、興味がなくなってしまった。
目的地はなく、気ままに農道を歩き続けた。時には腰を下ろして、日向ぼっこう。登山やハイクのように、時間も気にしない。リフレッシュな時間が過ごせる。心地よいものだ。
菜の花畑の隣り合う畑で、クワをふる農夫(推定90歳)がいた。シャレた二階建てに赤い車が駐車している。おおかたそこが住まいだろう。農夫に声を掛けると、これからの耕作について語ってくれた。
話の合間には、土を指先で揉んで、粘りなどを感触を確かめている。金儲けでなく、畑(土地)を心から大切にしている、その姿に感動させられた。やがて、農道の側に、花栽培の温室が見えてきた。のぞき込むと、色彩のよい花が出荷を待っていた。
お腹は空いたけれど、コンビニはない。あまり気にしないことにした。
鋸山から下山してきた集団がやってきた。
日本人は群れて行動するのが好きだな。一瞬、そう思った。だけど、単独の歩き、単独行のハイクは不安だと思う人もいるだろう。人それぞれが自分流に見知らぬ土地、野山を楽しめばよいのだ。ものごとに流儀は必要ない。群れてもいいのだ。
そんな考えにたどりついた私は、大勢の後姿を見送った。