色彩豊かな春を満喫する、小時の憩い=広島植物公園
広島県の島に生まれ育ち、18歳で東京に出た。
それから長い歳月が経った。
「広島市植物公園」があると初めて知った。
4/10は招かれて、早朝7時から「積極人間の集い」で講演した。参加者は約40人だった。
私は夜型なので、ふだんは朝4-5時に寝て、11時頃に起きている。
体内時計が狂ってしまった。
広島に来れば、観光気分などないし、ほとんど東京へとんぼ返り。きょうの午後くらいは半日、ゆっくりすごそうと決めた。
私は数多く写真を撮るが、自分の写真を撮ることはない。
むろん、撮ってください、と頼むことはない。
「撮ってあげましょうか」
そう言われて断るわけにもいかなかった。
広島の女(ひと)は親切だな。
警戒心を持たれない年齢になったのかな。
頭上の枝葉が網目になり、芸術的な美を構成していた。
植物の被写体は、時おり、頭上にある。
水連が盛りだった。
一輪ごとは心に収めておいた。
見事な花弁は誰でも撮るから、あえて鮮明に取り込まなかった。
クローズアップした花弁はゼロではない。味気ないから掲載しなかった、というのが適切な表現だろう。
植物園には窪地を利用した沼がある。ゆったり一周してきた。
先刻、写真を撮ってくれた彼女に、ふたたび出会った。
わたしは取材癖で、話しの糸口をつかみ、昨年、広島市内で発生した災害・土石流の被害などを聞いていた。
「ボランティアに行かれましたか」
そんな投げかけをしていた。
「おふたり、撮ってあげますよ」
園内ガイドのおじさんに言われた。世のなかには親切な人もいるものだ。
「そうですか。じゃあ、お願いします」
そう言ったのは私だった。
園内には多くのカップルが散策していた。それが脳裏に焼き付いていたので、
私もカップルぽく近寄ってみた。
青空とモクレンは相性が良い。
雲の形にとらわれていると、心のなかが空っぽになる。
虚無、という用語などが去来してきた。
植物の品種の多さには驚かされた。
小説を書きはじめた習作時代から、約20年間は、純文学を書いていた。
その頃は植物などは丹念に観察し、描写していたものだ。
今こうして、シャクナゲを観察すると、純文学の執筆よりも、尾瀬を思い出し、山に登りたくなる。
公園内は丘陵地帯だった。小高い場所に行くと、広島・宇品あたりの海と宮島が遠望できる。
植物園から帰り間ぎわになると、早朝の講演の参加者から電話が入った。別途「幕末の講演」依頼の打診だった。
次に広島に来たら、私が知らない広島を発見してみたい。探せば、それなりにあるだろう。そこでは思いがけない出会いがあるかもしれない。