四国・本州を渡る、瀬戸内の旅情=写真で航路をいく。
幕末史を執筆している。維新志士たちが九州・関西の間を蒸気船で行き来していた。藩士たちの旅情なども組み込みたい。そんな眼で、瀬戸内の情景を見つめていた。11月にしてはことのほか無風で晴れていたので、
「いつもはバタバタ時間に余裕がないし、一日のんびり、藩士たちの気持ちで芸予の海を旅しよう」
と息抜きの気持ちになった。
ふだんはホテルどまりだが、大三島にわたり、魚料理が新鮮でおいしい民宿(私が唯一穴場とする民宿・なぎさ)に前泊し、翌朝は来島海峡大橋を渡り、今治市に入った。
瀬戸内の海は4シーズンの顔は違う。春は濃霧、夏は海水浴・マリンスポーツ、秋は味覚の旅。それぞれ楽しみ方がある。
私は強いて言えば、寒風で海が荒れるの冬は好きでない。船上の甲板には寒くて出られないし。秋ならば、心地よく最適な旅ができる。
見知らぬ土地ならば、創作上の細かな文章スケッチもするけれど、瀬戸内の風景となると、子どものころから知り尽くしているし、あえて書きとめることもない。
カメラワークを試みた。
風景写真には人物が欲しい。ただ、過疎化した地方都市では、地元民を被写体に取り込む機会が少ない。もはや若い男女なんて、贅沢は言えない。
瀬戸内海の狭い海峡に架かる大橋は、様々な形状である。そのワイヤーロープはいずれも巨大だ。
各大橋のたもとには、ロープの形状を示す、円形の模型(実物の一部)が飾られている。特殊工法を知るのも、一つの知識の吸収になる。どこまで記憶にとどまるか、それは別だが。
手元には最終の松山発の「羽田行」チケットがある。あしたは受け持つ講座が2つ重なっているから、今日中に帰らなければならない。
腕時計を見、頭のなかで所要時間を計算し、本州に渡ろうと決めた。そして、ふたたび四国に戻ってくる。時間的にはややリスキーだな、と思うけれど……。
瀬戸内の秋はかんきつ類が豊富だ。
あの甘酸っぱい香りが鼻孔を刺激する。
今治から尾道・福山まで定期バスが走っている。1時間に1本の割合だ。交通機関は知り尽くしているから、車中でスマホで時刻を調べながら、車窓の風景を横目で見る。
手もとには受講生たちの創作作品がある。それらにも目を通す。
山陽本線から呉線に入り、瀬戸内の列車の旅を楽しんでから、呉駅で下車した。ローカルだから、時間はかかる。すでに午後3時だ。遅い昼食だったが、駅ビルの飲食店で、「お好み焼き定食」を取った。
子どものころ、お好み焼きは魚介類が一杯だった。最近はうどんやソバがたくさん入っているので、いつも妙にごまかされた心境になってしまう。
やはり刺身定食にするべきだった。そんな気持ちで、松山行きのフェリーに乗った。
港の桟橋から離れていく情景が好きだ。後ろへ後ろへと航路の波道ができていく。
心地良い。だから、快速艇など乗らない。むかしの連絡船の情緒が、多少なりとも残っている、低速のフェリーに乗る。
これがいつもの私の船旅だ。
広島・呉と言えば、戦前は軍港だった。軍艦・大和などが建造された。向かい合う江田島には、海軍士官学校があった。広島には師団があった。
もっと遡れば、日清戦争のとき、大本営が広島につくられた。大元帥の天皇陛下が広島に来て、陣頭指揮を執っていたようだ。
第二次世界大戦の末期、呉の市街地も軍港も空爆を受けた。広島も原爆の投下で廃墟になった。
終戦で、それら軍活動がなくなったと思っていた。歳月が経ち、いつしか自衛艦が数多く呉港内にいる時代になった。
人間は戦うことが好きなのかな。血を流しあうなんて、嫌だな、と思った。
音戸の瀬戸は、平清盛が一日で、掘削したという。沈みかけた太陽を扇で仰ぎ、日没を延ばさせて完成したという。伝説にしても、スケールが大きい。
「平家に非ずンば、人に非ず」
その傲慢さが理解できるほどだ。
この極度に狭い海峡は、いつもならば大型船がぎりぎり行き交う。超小型の渡し船の船長が、上手な操舵で、それら大型船を縫い、スリリングな妙技をみせるのだが……。
こんかいはこちらの都合よく、大型貨物船とか、美形の客船とか、いい被写体の船は現れなかった。渡し船も。
夕暮れだ。芸予の島々のかなたが暮色になっていく。
考えてみれば、今治から松山まで列車にしても、定期バスにしても、一時間以内で行ける。
ずいぶん遠回りしてきたものだ。それが旅の味かもしれない。
太陽が海面にきらめく。この情感が次なる旅へと誘う。
余談だが、松山観光港から高浜駅までバスに乗り、そこから伊予電鉄で、松山市駅に出た。路線バスに乗り、松山空港に向かった。
30分前に空港に着くはずだった。ところが「空港通り一丁目」で交通事故があり、バスは渋滞に巻き込まれてしまった。信号機が変わるたびに、2~3台の車しか動かない。
羽田行き飛行機の手続きに、間に合うか否か、と冷や汗ものだった。私がぎりぎり最後に搭乗した客となった。