A025-カメラマン

ふるさとの離島が懐かしくて=広島県・大崎上島を写真で訪ねる


大崎上島は離島である。

8月1日、2日に、同島を訪ねた。

砂嘴(さし)の海岸はとても美しい。


四国と本州のいずれかに橋が架かると、離島でなくなる。

小豆島、淡路島には橋が架かった。

だから、大崎上島は瀬戸内海で最も大きな離島になった。


 島っ子たちが沖で泳ぎ、戯れている。

 かつての自分を見ているようだ。


 愛媛県・今治港、広島県・竹原港、いずれかからフェリーで来島する。

 不便さが魅力だといい、島に訪ねてくる人が増えた。

 それでも、島の海水浴場は静寂だ。ゆっくり楽しめる。



 私が指導する受講生・鈴木會子さん(福島・楢葉町から避難中)が『葛飾にこの人あり』で紹介された増山美貴子さんが同島出身者だった。

 その増山さんにお会いすると、「島には、実兄の杉野勝彦さんが夫婦で住んでいます。ぜひお出かけてください」という。その縁から、懐かしいふるさに出むいたのだ。

 
 島の西端にある、旧西野地区にも出向いた。集落は昔の名残がたっぷりあった。


目の前に大崎下島がある。

対岸の島まで、そう遠くはない。もし結ばれていると、呉市に吸収されたのかな。

連絡船の桟橋があってこそ、島の値打ちがある。そう思えてしまう。


 わずか高台に上ると、真向いには愛媛県の島がある。

 ここは県境の海だ。


 杉野さんが観光案内版から、「紫雲丸記念館」を見つけてくれた。それは木江(きのえ)小学校の別棟にあった。ちょうど、クラブ活動が行われていた。

 同校の校長と教頭の取り計らいで、改めて夕方6時に出むいた。

 祭壇には宇高連絡船事故で亡くなった、25人の遺影があった。(教師3人を含む)。と同時に、私が「海は憎まず」で、取り上げた、沈没する紫雲丸の写真が4枚展示されていた。
 
 甲板で死に逝く、幼い生徒や一般客たちの痛々しい写真だった。

 この4枚の写真から、四国と本州を結ぶプロジェクトが立ち上がり、瀬戸大橋ができたのだ。
 

 大崎上島の霊峰・神峰山(かんのみねやま)に、杉野さんの車で登った。

 山頂から約110の大小の島々が見える。この数は日本一である。

 「観光の売り込みが下手だな」
 そう思う。

 多島群の絶景は、日の出でも、夕焼けでも、とても素晴らしい。むろん、昼間でも見飽きない。

 まず日本一の景色だといっても、過言ではない。

 木江港は、汽帆船時代には瀬戸内海で、最も栄えた港だった。

 何気ない堤防すら、高級な御影石で組まれている。

 こんな贅沢な堤防はないと、島研究者がかつて教えてくれたことがある。

 3階建ての旅館は、連日、三味線、琴、太鼓の音が響き、芸子が出入りしていた。


 
 杉野さんに無理を言って、1泊を2泊にさせてもらった。

 ふるさとが堪能できた。


漁船までも見送ってくれる。

 去りゆく大崎上島を見つめながら、あの紫雲丸事件の写真を思い浮かべた。

「悲惨な事故があったと、多くのひとに知ってもらいたいし、皆さんに来てもらいたい」と校長が話す。この言葉こそ、真実だと思った。

『被災者の気持ちを想い、写真は見せたくない』。事件・事故当初はそういう人もいるだろう。

だけど、事後を教訓にする。そのためには災害は痛々しくても、生々しくても、しっかり伝えれば、亡くなった人の気持ちに近づける、教訓として役立つと思う。

 それが確認できた旅だった。

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