【 4. 血液銀行 】
日本製薬(株)は、1950年代から、本社ビルがあった立石8丁目で、国策による輸血用の血液採血を実行するため、国民からの売血を受ける施設、『 ニチヤク血液銀行 』 を開設した。
この跡地が、現在(2018年)の財務省国税庁の葛飾税務署である。平成2(1990)年9月30日に、売血制度が完全に廃止されるまでは日本製薬(株)葛飾工場だった。
左の写真がかつての日本製薬(株)の跡地である。
現在は、葛飾税務署となっている。
日本で最後の 『ニチヤク血液銀行』 だった。売血に訪れる人が絶えなかった。 地元立石の人達は 『バンク』 と呼んでいた。
・ 1956(昭和31)年に、貴重なヒトの血液を原料とした、『ガンマグロブリン』という血液製剤の開発を成功させ、製造販売の事業を拡大させた。
1966(昭和41)年の頃、アメリカ軍がベトナム戦争の最前線で、この緊急輸血用の血液製剤を、大量に消費していた。
昭和41年の国会の予算委員会で、血液製剤の輸出内容について、審議された歴史がある。
・ 沢田教一写真集:ベトナム戦争 1989刊 より
『散歩の達人 267号』より (P.25)
右写真は、つげ忠男さんが、若い頃、地元立石の血液銀行で働いていた時のことを書いた雑誌に載せた、写真である。
キャプションには『 製薬会社社員の着替え部屋から見えた風景で、社員も売血すると400円もらえ、半休ももらえたんです 』 と、書いてある。
昭和30年代前半頃の、血液銀行の一角である。そして、つげ忠男さんは、当時の必死に生きる人々を間近に見られたことが、自分の漫画の肥やしになってなっていると思いますと、この雑誌につづっている。
著作の単行本、『つげ忠男劇場』:(ワイズ出版、1998年刊)は、葛飾区では中央図書館に1冊しかない。
松竹映画 『 張込み 』 :1958(昭和33)年1月公開
上写真は、1958年公開の松竹映画 『 張込み 』 の一場面である。 この場面は葛飾区立石にあった、本物のニチヤク血液銀行の中を使って撮影された。
松本清張原作、同名の短編小説の映画化であり、新潮文庫、松本清張短編集(5)に作品がある。 10ページの12行目に『・・血液を売ったりした。・・』 の活字がある。
映画では、刑事が犯人石井の身もとを洗う場面である。
当映画のDVDビデオ映像では、スタート後、37分54秒から、13秒間1カットの固定カメラ映像である。
昭和30年代前半頃、血液銀行にやって来た売血者は、一日600人~800人、まれには1000人を超える日もあったという。
映画の画面に見える待合室は、実際には順番を待つ人で、大混雑していたであろう。
必死の思いで、比重試験に合格した人が、200ccの採血で得た金額は400円である。2018年現在のお金に換算してみると、約20倍とすれば、8000円になる。ぜいたくしないで食べて飲むだけなら、いい稼ぎだったにちがいない。
≪人びとは、血液銀行へ、京成立石駅から、この道を歩いた≫
筆者は平成30年7月10日、血液銀行への道を歩いてみた。
バンクへ向かう時、400円ふところにして立石駅へ帰る時、みんな何を考えながら、この道を歩いたのだろう。
立石駅への帰り道、なかには貧血で倒れてしまった人も、多くいたという。
知らせを受けたバンクから、すぐに看護婦が駆けつけて、バンクに連れ戻して手当てしたという。 薄い血の方が、血液製剤の原料として貴重な時代もあったので、だいじに扱ってもらえた。
血を売る人の中には、女性もいた。さほど多くはなかったが、ほとんど赤ちゃんをおぶった人だった。 彼女たちは弱い立場だったので、採血の順番を都合付ける、仕切り屋に付いた。そして、ピンハネされていた。
立石駅からバンクへの途中には、お菓子屋(食品店)があった。
山崎パン屋が毎朝店の前に、パンが入った箱を置いていく。良からぬ売血者が、そのパンをバンクの待合所で売っていたのがばれて、バンクの職員がいつもお店にあやまりに行っていたという。
売血者の血液型の中で、Rh(-)の人がいたら、それはもう大変な待遇で、特にAB型の人の時は、会社役員が出てきて、完全な特別待遇だったという。
昭和40、50年代の頃、筆者の知人が、病院に入院して手術を
することになった時、その人と血液型は違っても、200ccとか400
ccとかを、その病院に献血しに行った記憶がある。 近年では、
エイズウィルス感染のチェックを兼ねて街頭での献血が、ブーム
のようになったことも思い出した。
【 5.編集後記・謝辞 】
わがまちでは、京成立石駅の北側と南側に、新しい区役所を含む、商業施設と高層住宅に造り変える≪再開発≫という名の計画が、進められている。
北側は、かつて赤線と呼ばれた歓楽街もあった街であり、こんにちでは、その名を知られた立石独特の飲食店が、数多くにぎわっている。
南側には『昭和』 の名残りとして特に名高い、飲食・商店街が、人気高く残っており、区内外の多くの人達から、親しまれている。
立石という街に、これだけのメスを入れるのであれば、この街の、戦前から戦後の復興史での、部分的な封印の姿勢を解くべきである。
この街と人々の生活の歴史を、消滅させてしまう前に、わがまちは、かつて都道環状7号線工事の関連で実施した、遺跡調査活動のようなエネルギーで、口述記録、写真画像・映像、生活物品などの記録を、探し出して保存してほしい。
いま生活している私たちの先輩たちは、戦後のきびしい生活環境の中を、生き抜いてきて、こんにちの、わがまちかつしかの生活風土を、築き上げてきた。
誇るべき歴史の歩みと言える。
このようなことにきちんと取り組んで、区民に広く情報公開することが、わがまちの、文化的品格を向上させるための責務である。
再開発施設の中に、ぜひとも立石博物館を作ってほしい。
本冊子で取り組んだ3件について、岡島秀夫さん(76才、立石で古書店を営んでいる)と、石戸暉久(てるひさ)さん(74才、町の文化と歴史をひも解く会で活動中)には、歴史の口述から図書・資料の拝借までお世話になった。
特に、血液銀行については、石戸さんからは、『張込み』という映画の1シーンが、実際の建物がロケ地だったことを教えてもらった。
岡島さんからは、親類の方が3名もバンクに務めておられ、その方達の口述記録のメモを見せてもらった。感謝多大です。
数年前から、どうしても取組んでみたかった、立石地区の封印されている歴史の糸口を、やっと少し見ることができたような思いである。
≪参考資料・図書≫
・ 野中尚子 『立石の赤線地帯を通して見る日本の公娼制度』
平成28年度 かつしか区民大学 ゼミ調べて書く 葛飾区教育委員会
・ 石尾光之祐 『日の丸堂・その他』: 青木書店、昭和61年 【古本屋】創刊号
・ つげ忠男 『つげ忠男劇場』:ワイズ出版、1998年1月
・ 『散歩の達人 No.267』: 交通新聞社、2018年6月
【了】