かつしかPPクラブ

東日本大震災・2人の友人①=斉藤永江

作者紹介:斉藤永江さん

 彼女は栄養士で、製菓衛生士です。チョコレート製作を始め、洋菓子作りと和菓子作りに携わっています。傾聴ボランティアとして、葛飾区内の施設、および在宅のお年寄りを訪問する活動をしています。

 葛飾区民記者の自主クラブ「かつしかPPクラブ」に所属し、積極的な活動をしています。さらに、朝日カルチャーセンター・新宿『フォトエッセイ入門』の受講生として、叙述文にも力を入れています。
  

作者HP
  


東日本大震災・2人の友人①  斉藤永江


 平成23年3月11日、14時46分、東日本大震災が起きた。

 職場のテレビで、家屋や木々、飛行機までもが津波に飲み込まれていく映像を見ながら、大変なことが起きてしまった、と恐怖感でいっぱいになった。
 即座に、福島県と宮城県に住む2人の友人の安否が頭をかすめた。
「どこだっけ、2人の住まいは」
 私は、夢中で今年の年賀状を広げた。早く早く、早く確認しなくちゃ。年賀状をめくる手がもどかしく震えた。
「あった。年賀状があった」
 1人は福島県南相馬市、もう1人は宮城県名取市であった。
 私は絶句した。一番、被害が大きい所じゃないの、と。すぐに安否を確認するメールを送ったが、地震当日は届くわけもなかった。

 私は、テレビ画面を食い入るように見た。ニュースから流れる情報を1つとして聞き逃すまいと、全てのチャンネルをくまなく合わせて回し続けた。
 悪夢のような津波映像をじっと眺めながら、生きた人間が流されていく。この現実を想い、やり場のない怒りと悲しみから体が熱くなった。
「こんなことが現実に起きるなんて」
 ニュースの報道は、最悪に最悪を重ね、とどまることのない惨劇を流し続けていた。その日の私は、寝ることもなく朝までニュースの映像を見つめていた。
 翌日になると、更に信じられないニュースが流れた。福島第一原発の事故だ。

「うそだ」
 南相馬に住む友人の職場は、浪江町にあるのだ。
「ありえないわ、なんてこと・・・」
 曖昧とした関係者の記者会見の映像を見ながら、これ以上の惨状にはならないことを強く願った。

 震災から一夜明けた日、2人の友人は、今どこでどうしているのか。もしかしたら・・・と、最悪の事態が頭をかすめる。もう1人の私がかき消す。そんなわけない。あるはずない。あってはならない。
 私は不安な気持ちをどこにぶつけていいのか解らず悶々としていた。

 ニュースでは、被害状況、死者行方不明など、信じがたい現実が少しずつ明らかになっていった。
 翌日は、メールを送らなかった。身内でも親戚でもない私が騒ぎたてても、という思いもあったが、2人の安否を確認するのが怖くなったからだ。
 向こうからの連絡を待つしかないか、と私は一方で観念した。

 震災から3日目、携帯電話が鳴った。名取市の友人からだった。心臓がギクリとして、受信ボタンを押す手が震えた。
「もしもしっ、H君?」
「あーもしもし、のりちゃん?僕は無事です。安心してください」
 東北なまりの朴訥(ぼくとつ)とした懐かしい声を聞き終わる前に、安堵で胸が張り裂けそうになった。
「無事だったのね。良かった。心配してたんだよ。でもこんな時に、私なんかに電話してて大丈夫の?」 連絡をくれてありがとう、という嬉しい気持ちと、大変な時に、わざわざ東京まで電話をくれるなんて、と心配する気持ちが交錯して自分でも複雑な心境だった。
「のりちゃん、心配してると思って」
 その言葉を聞いた後、私は声にならなかった。
                               

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かつしか区民大学・特別講演会=パネラーも「楽しかった一日です」

「楽しかったよ。パネラーも楽しめる、フォーラムだった」
 出久根達郎さん(直木賞作家)が、会場から出て、雨降るなか、葛飾・立石の飲み屋に向かうさなか、開口一番に、そう言った。

 日本ペンクラブの「ペンの日」(11/26)の東京會舘で、各パネラーから声をかけられた。

「いや、良かった。楽しかったよ」
 轡田隆史さん(元朝日新聞論説委員)が笑みを浮かべていた。
「良い写真冊子が届いた、凄いね。かつしかPPクラブのメンバーなの。すごいね」
 吉岡忍さん(ノンフィクション作家)が、郡山利行さんの記事・写真集をべた誉めしていた。
「そんなに、ニコニコ顔だった、ぼくが?」
 吉澤一成さん(日本ペンクラブ事務局長)
「ありがとう。もっと本を持って行けばよかった。20冊があっという間に売れたし」
 新津きよみさん(推理小説作家)の紹介本で、私が会場で掲げて見せた、その文庫本までも販売した。彼女からは、差し上げたものだったからと言い、ていねいにも、その本が郵送で届いていた。

 東京・葛飾区は区制が敷かれて、今年で80年を迎えた。80周年記念行事で、「かつしか区民大学」の特別講演会が11月17日(土)午後2-4時開催された。場所はウィメンズパル(同区・立石)で、タイトルは「日本ペンクラブのメンバーが『下町葛飾・立石』の魅力を語る」である。
        
 各パネラーが「台本なし」で思いのまま語った。私(穂高)はコーディネーターを行った。

 かつしかPPクラブの区民記者が講演録と写真を取っているので、いずれかの機会に、「みんなの作品」コーナーに掲載されます。
 各パネラーの顔の表情とか、二次会の写真とか、その様子も含めて?


                     写真提供:郡山利行、滝アヤ

いちばん好きなこと=井出三知子

作者紹介:井出 三知子さん
      かつしか区民大学「区民記者養成講座」を経て「かつしかPPクラブ」で、取材活動を行う。
      他方で、朝日カルチャーセンター「フォトエッセイ入門」の受講生
      海外旅行と海中写真撮影を得意としています。 


                           いちばん好きなこと PDF


 いちばん好きなこと  井出三知子 

 月に3回は夜7時に迎えに行って、わが家に一緒に帰るようになって、2年が経った。
 彼は星が大好きで、かならず北斗七星を探して教えてくれる。私は移動する星の位置で季節の移り変わりを感じていた。

 8月のある日、いつものように星を探して歩いていると、彼は何を思ったのか、突然に、
「僕は好きな人が3人いるんだけど、いでちゃんが一番好きだよ」
 と言い出した。
 一番好きか、なんて、言われた事も言った事も、その遠い昔にあった。だが、すでに記憶のかなたに埋もれてしまっていた言葉だった。
 久しぶりに聞いた、その言葉の響きが、私の心の中を暖かい風のように吹きぬけていた。
 「3人って誰なの?」
「お母さんと幼稚園のゆうたくんと、そしていでちゃんだよ」
「お兄ちゃんが入ってないの」
「お兄ちゃんはいじわるするから嫌い。いでちゃんが一番好だって言ったことは、お母さんに内緒だよ」
 まったく調子がいいのだから、子ども特有の世渡りの術で、私を喜ばしてくれる。もちろん、母親が一番好きなのは百も承知だ。それでも一瞬でも、彼の口から出た一言は、一緒に過ごした時間が報われたように思えた。

                                     日本大百科全書より


 彼の名前は暖貴君(ハルキ)6歳、しし座、あだ名は物知り博士。好き物はチョコレート、ウルトラマン、トム&ジェリーそして星座である。
 2010年7月に私は、会社を定年で退職した。前から解っていたことだったが、自分を必要としている場所が無くなってしまう、その寂しさでいっぱいになっていた。

 そんな時、葛飾区の子育てボランティアの制度を知り登録した。

 同区が最初に紹介してきたのが、はるき君だった。保育所では7時までしか預かってくれない。おかあさんがその時間まで迎えに行けない時だけ、私が代理で迎えに行った。そして、わが家で預っていた。
 1ケ月3回だったが、それでも必要とされていることがうれしくて、仕事がなくなった私にとって、趣味とは違う緊張感があった。
 一番良かったのは、ボランティアをすることによって、会社生活の枠の中から、新しい生活にスムーズに移行させてくれたことだった。
 まったく地域と係らないで生きてきた私が、地域に溶け込む、第一歩になっていった。はるき君をサポートする立場なのに、実は私がサポートしてもらっていたという思いがある。

 彼は時どき私に質問をする。ウルトラマンは何人いるのか。ポテトチップはどうしてできたのか。夏の雲な何なのか。
「ものしり博士」とあだながついて当然だ、とおもわせるくらい、いろんな事を話してくれる。

 先日、彼の質問の意味がわからなくて、私がパソコンで調べていた。その姿を見ていた彼がパソコンがやりたかったらしい。
 数日後のある日、保育所からわが家の着くと、
「おかあさん遅く迎えにくればいいな」
 と言いながら、パソコンのまえで、あれこれ夢中で検索していた。もちろん、電源の入れ方から私が教えたのだが、脅威的な速さで覚えてしまった。

「僕はいでちゃんが一番好きだけど、いでちゃんは何が一番好きなの」
 とはるき君から質問されて、とっさに
「はるきが一番すきだよ」
 と答えたものの、はるきの言葉が頭から離れなかった。
 いったい私は何が好きなのだろうか。何をしている時が一番好きなのだろうか。何がしたいのだろうかと自問自答していた。

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百年復元・新装東京駅の散歩=郡山利行


 東京駅の「丸の内北口」ドームの下で、丸の内のOLたちがすこし興奮気味に、ドームのデザインや彫り物を眺めていました。

                                           10月4日 


 新装の東京駅です。

 丸の内中央口前は車の洪水と人の波です。

                                          10月17日 


 丸の内・北口はすてきな駅舎ドームです。

 乗降客と観光客がドームを眺めています。

 
 
                                           10月4日 


 東京駅の真ん前にある、新丸ビルからも美しいスポットです。

 2階から1階に降りるエスカレーターから見た情景です。

       
                                        10月17日 


 新丸ビルの7階『丸の内ハウス』のテラスでは、中高年のご婦人方がランチタイムを楽しんでいました。


                                        10月17日 

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葛飾区制施行80周年記念式典=斉藤永江


 葛飾に力あり 葛飾区制施行80周年記念式典
     
 平成24年10月1日、かつしかシンフォニーヒルズで、葛飾区制施行80周年を祝う記念式典がとり行われた。主催は、葛飾区及び同区議会である。
 同区は、昭和7年10月に南葛飾郡の5町2村が東京市に編入され、それらを合併して葛飾区が誕生した。
 当時の人口は、約8万5千人で、現在の約44万人に比べると、5分の1からのスタートであった。

 2階のギャラリーでは、同区の歴史を振り返るパネル展が開催された。80年前と現在の写真が展示され、訪れた人は、興味深く、見入っていた。
 13:30から開始された式典は、国歌、区歌斉唱で始まった。
 その後、同区長、青木克徳氏から挨拶があった。「戦中、戦後、復興、バブル崩壊、3・11震災と、数々の試練を乗り越えて、今の葛飾の繁栄があります。スカイツリー効果もあり、人と人とのつながりを大切にする下町が見直され、その評価が高まっています。高齢化問題、子育て、街づくりと、課題はたくさんありますが、今後の更なる発展のために、皆さまのご支援とご協力を賜りたいと思います」と、力強く語った。

 次に、同区議会議長、梅沢五十六氏から挨拶があった。「昭和7年、葛飾区制施行の年に、初めての区議会選挙が施行され、36名が第1期議員として当選しました。その後、昭和18年の東京都制施行を経て、昭和22年に、23区は特別区になりました。最大期に52名まで増えた議員数は、定数の見直しにより、平成17年からは、現在の40名になっています。
 この間に、数々の重要事項の審議、決定を行ってきました。今後も区民の皆さまとの連携を密にとり、次の世代に受け渡せるように努力していきます」と、力強く語った。

 続いて、衆議院議員・平沢勝栄氏、同議員・早川久美子氏、参議院議員・山口なつお氏、同議員・田村智子氏の4名から、来賓の挨拶があった。

 式典には、地域活動や産業、健康、福祉、教育、文化・スポーツの発展に貢献した、約270団体の代表者が招かれ、区長から特別表彰を受けた。

 シニアピア・傾聴ボランティアの会「きかせて」の、常田恵美子さん(写真右)と、小澤恒美さん。施設や在宅を訪問して、お年寄りの話に耳を傾けている。

「発足は、平成15年10月で、来年で10年目を迎えます。会の中でも、節目の年に何かお祝いしたいねと考えていたところ、このような名誉あるお話をいただいて、大変嬉しく思います。これからも、お年寄りのために、施設や在宅を精力的に回る活動を続けていきたいです」と、笑顔で語った。

 小宮康孝氏(染色家)、山田洋次氏(映画監督・脚本家)、福田千恵氏(日本画家)、秋元治氏(漫画家)の4人が、名誉区民として選らばれ、舞台上にて顕彰式が行われた。

 山田洋次氏は、「今日は、僕にとって忘れることのできない嬉しい日になりました。生まれも育ちも満州なので、僕にはふるさとがありません。寅さんのふるさとを、どこにしようかと全国を歩いて、帝釈天のある柴又の参道にある家を生家と決めました。1968年のことでした。それから、28年にわたって撮影は続き、葛飾とのご縁も深くなっていきました。これからもお力になれればと思います」と、感慨深げに語った。

 秋元治氏は、「山田監督の『男はつらいよ』を見て、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の題名を決めました。『わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です』と聞いたとき、度肝を抜かれるほどの衝撃を受けました。そんなふうに、はっきりと地元名を書けたらいいなと思い、葛飾と亀有を入れることにしました。あれから、36年間続いています。山田監督のお陰です。担当者からは、題名が長すぎて、構成に困ると嫌がられました」と、会場の笑いを誘った。

 4氏には、それぞれ、表彰状と名誉区民記章、記念品が贈呈された。
 和やかな雰囲気の中、表彰式は終わり、第1部の式典が終了した。

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小休止=井出三知子

作者紹介:井出 三知子さん
      かつしか区民大学「区民記者養成講座」を経て「かつしかPPクラブ」で、取材活動を行う。
      他方で、朝日カルチャーセンター「フォトエッセイ入門」の受講生
      海外旅行と海中写真撮影を得意としています。 

                         小休止 PDF

   

小休止  井出三知子

「京成電車の青砥駅で乗ってね。一番前の車両に居るから」
 成田空港から海外旅行に出かける時は、いつも同じメールが入ってくる。彼女と一緒に海外旅行をするようになって何回目になったのだろう。
 学生時代は全く話をした事は無く、30年ぶりの同窓会で逢って親しくなった。早いものであれから15年もたっている。
 彼女は気功の先生をしていたので私は週1回、夜仕事の帰りに習いに行っていた。
 先生と生徒の関係が淡々と過ぎて2年がたった頃、
「私も海外旅行に行きたいな」
 と言ってきた。

 思いがけない、その言葉に非常に驚いてしまった。彼女は結婚していて両親と一緒に住んでいた。気功が終わるとさっさと帰ってしまうので、お茶に誘うのも遠慮がちだったからだ。だから、泊まりがけの旅行は無理だと思っていた。
 私自身はいつも旅行から帰って来ると、彼女に楽しかった事、失敗した事、空港に降立った時に感じるその国独特の臭い、知らなかった事を知るわくわく感がたまらないから、やめられないなどと熱くしゃべっていた。

「旦那様を置いて大丈夫なの」
「これからは少しずつ自立してやりたいことやっていこうと思っている」
「大賛成、絶対にそうした方が良いと思うよ。」
「だけど行きたいは嫌よ、行こうでなくては」
 今まで「行きたい」「やりたい」などの「たい」にはずいぶんと振回されてきた。本気だろうと思って、私のできることは協力しようと、具体的な話を始めると、一向に話が進まなくなるのだ。そんな事が何回もあったので、経験上「たい」は「おはよう」「さようなら」の挨拶のようなもので、その場の話を円滑にするサービス精神の言葉に違いないと理解するようになっていた。
 また、無駄な労力は嫌だった。

 予想に反して、彼女からは「行くから」とすぐに答えが返ってきた。短期間で行ける近場のソウル3日間のツアーに参加することにした。

 羽田空港の待ち合わせ場所に着くと彼女の隣に男性がいた。だんな様だった。ていねいに挨拶をされた。
「よろしくお願いいたします。危ない所に行かないこと、移動はタクシーで、夜はなるべく早くホテルに……」
 途中から彼の言葉が耳に入らなくなっていた。
 私の頭の中では違う事を考えていたからだ。
「まったく、いい年の大人にそんなこと言うのか、過保護もほどほどでないと、ソウルに着いたら、めいっぱい私のペースで行動しょう。今回でこりて一緒に行かないと言ってもいいから」
 など半分いらつきながら、残りの半分は現地で彼女がどんな反応をするか、楽しみながら作戦を練っていた。
 顔ではまんめんの笑みを浮かべ、「承知しました。安全に楽しんできます」もう一人の私が言った。

 ソウルに着いて自由時間になったとたん、地下鉄の路線図、市内地図を渡し、
「共同作業で地図を見て、観光スポットを探しながら行きましょう。たどり着けなくても、それもまた旅、違う経験をしたと思えばいいから」
 最初は驚いた顔をしていたが、すぐに私の意図が解り
「自分の肌で感じなくてわね」
 と言って笑った。
 そして、朝から晩まで地図とにらめっこして歩きまわった。時には私を引っ張ってくれた。だんな様の前の姿とは想像できない位、たくましく頼りになる別人の友達がいた。最初の旅行で私達は一緒に旅行しても大丈夫だなと思えるようになっていた。

 それから年に2回の海外旅行が恒例になった。
 今年3月に、例年通り8月の予定を決めようとした時、
「8月の旅行が終わったら、しばらくは家を空けられなくなってしまった。ごめんね」
 早かれ遅かれこうなると想像していたので、彼女が何を言い出すかすぐに解った。
 90歳になるお母様がいて介護状態である。気分転換といっても1週間も10日も旦那様だけにまかせておける状態では無くなってしまったからだと思った。私の心は残念な気持ちで一杯だった。彼女との旅行は、今では欠かせない大切な時間になっていからだ。

 8月の最後の旅行は彼女の希望を優先してチロル地方(イタリア、オーストリア、ドイツにまたがる地域)にハイキング付のパック旅行を決めた。

 8月1日に10日間の日程で出発した。
 私は2000m級のトレッキングが3日もあるので不安だったが、また新たな経験ができるのかと思うと期待感で一杯だった。
 今回はオーストリア航空だった。私の席の担当のスチワードさんは背が高くてハンサムで見ているだけでわくわくしてしまう若者だった。
「お飲物は何にしますか」
「ジントニックで」
 あまりにもやさしい微笑みについ、「うすくしてね」と言い忘れてしまった。
気分良く食事が終わった頃から異変がおきた。酔ぱらい状態になってしまい、身の置き所のない状態がその後10時間にも及び、飛行機を降りる時まで続いた。もうすっかり自立した友人に、大笑いされ、こんこんとお説教されて今回の旅がはじまった。

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京都を歩くなら1人がいい=斉藤永江

作者紹介:斉藤永江さん

 彼女は栄養士で、製菓衛生士です。チョコレート製作を始め、洋菓子作りと和菓子作りに携わっています。傾聴ボランティアとして、葛飾区内の施設、および在宅のお年寄りを訪問する活動をしています。

 葛飾区民記者の自主クラブ「かつしかPPクラブ」に所属し、積極的な活動をしています。さらに、朝日カルチャーセンター・新宿『フォトエッセイ入門』の受講生として、叙述文にも力を入れています。
  

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京都を歩くなら1人がいい  斉藤永江

 紅葉で人気のある東福寺を訪れた。

 休日ということもあり、多くの観光客でごった返していた。真っ赤に色づいた木々は、素晴らしく見事で、圧巻の景色であった。
「わ~、綺麗ですね」と、私は誰かれ関係なく話しかけ、たくさんの人と、その感動を共有して楽しんだ。まるで1人歩きではないかのように。

 進みたい方向に歩き、もう一度見たい場所があれば戻り、色鮮やかな紅葉の下では、気が済むまでそこにいた。数人のグループや、団体客が、規則正しく移動する雑踏の中で、1人自由に浮遊する私であった。

 存分に紅葉を楽しんだ私は、寺を後にして東福寺駅へと向かった。

 道端で、生麩田楽(なまふでんがく)と、麩まんじゅうを売っているお店があった。
 和菓子が大好きで、特に麩まんじゅうには、目がない私である。
 迷わず、「両方くださいな」と、その場で、2つをほお張った。
「美味しいですね。京都の生麩は、やっぱり違いますね」
 東京で食べるものとは、明らかに違う食感と味に、もう一つ食べたい気持ちを我慢してその場を後にした。

 私は、一人歩きが大好きである。東京でも、気に入った場所を、延々と散歩している。自分の行きたい所を歩き、好きな景色の前では、いつまでもたたずんでいる。
「みんなは、どうしているかな」私はそうつぶやいた。
 今回は、仲間8人での企画だった。しかし、家の都合で皆との合流が難しく、私だけ夕食時間からの参加になっていた。そのことを、むしろ好都合に思っていた。

 次に向かったのは、祇園である。
 清水寺からくだっていき、三年坂に入ると、生麩田楽と、麩まんじゅうを売っているお店があった。
「わ~、美味しそう」
 私は、さっき食べたことも忘れ、初めて見たかのように喜び、すぐに購入した。東福寺のお店のものとは違い、そこでは注文の後、温め直して出してくれた。生麩の柔らかでふくよかな味が、口の中いっぱいに広がり、格段の美味しさであった。

「美味しい。やっぱり、京都の生麩は違いますね」
 私はさっきと同じセリフを言った。

 口の中が甘くなったな~、と思いながら二年坂に向かって歩いていると、漬物屋さんが見えてきた。京都の漬物は有名だ。
 お店の中に入ると、試食のオンパレードで、たくさんの人が群がっている。その光景を見て、試食好きの私の闘争本能に火がついた。
「よし、全種類食べるぞ」
 図々しいかなとも思ったが、先にいた年配の女性軍団の、私を上回るパワーが、その気持ちを吹き飛ばしてくれた。
「みんなで食べれば怖くないわよね」
 京都の漬物は、名物の千枚漬けや、すぐき漬けなど、その美味しさは格別だ。私は、存分に漬物の味を楽しんだ。
 さすがに、たくさんの種類を食べたら口の中がしょっぱくなった。満足した私は、お店の外にでた。

 ふと上を見上げると、八坂の塔が見えた。
 太陽の光が、五重の建物に降り注ぎ、まぶしく輝いていた。

 喉が乾いたな~、と思いながら歩いていると、「宇治茶をどうぞ」と、店先でお茶を振る舞っている店員の姿が見えた。なんというタイミングの良さであろうか。
「頂きま~す」
 迷わず手を出して、有難く試飲させてもらった。
 ああ、なんと美味しいお茶だろうか。香りたかい宇治茶の味わいに、喉も心もほっこりと潤った。おかわりしたいけど、お茶っ葉も買わずに2杯目はなぁ、とさすがの私も遠慮した。

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「かつしかPPクラブ」結成2年目の活動報告

 かつしか区民大学(主催:葛飾教育委員会)では毎年、「区民記者養成講座」を実施している。初年度卒業生たちが起ち上げた「かつしかPPクラブ(会長・浦沢誠)」は、2年目の卒業生をも受け入れて、16人で活動している。

 毎月の例会で、メンバーの活動報告、あるいはパソコン指導、記事の相互交流などを図っている。私は指導講師として、年に4回は課題を出した、作品の講評を行っている。

 5月には荒川放水路で、鷹の研究者・中里貴久さん(44)を招き、鷹を手にとまらせたうえで、飼育や生態について語ってもらった。それらが冊子にまとめられた。
 当日、参加できなかったメンバーは、独自に、区内の取材記事をまとめている。

 8月10日(金)午後6時30分から、同区東立石地区センターで、メンバーが一人ひとりの作品をパワーポイントで投影した画像をみながら、作品の講評に臨んだ。


秋山与吏子『誉たかき鷹』

 パソコンを使った初めての作品としては、楕円、吹き出しなど、PCの機能をうまく利用しています。記事の導入文において、鷹匠が天皇、将軍に仕えた高貴な職業と、定義づけた説明を行った、上手い入り方です。鷹と人物の写真は配置がよい構図です。
「アドバイス」
 記事のトップ写真は、花よりも人物のほうがよいでしょう。


岩瀬貞代『鷹は人間のパートナー』

 インタビュア・子ども、鷹研究者・中里さんの一問一答が、鷹の特性と特徴を巧みに引き出す、上手な組立です。写真の撮り方はローアングルが冴え、被写体の目線の捉え方が優れています。写真に吹き出しを入れ、鷹の生態をビジュアルに説明する、技量の高さがあります。
「アドバイス」
 レベルが高い作品ですが、テーマ外も入ると、盛り込みすぎになります。

宇佐美幸彦『皐月の寸景』

 地域行事を追う、記者の取材は精力的な、強い意欲が読み手に伝わってきます。わんぱく相撲大会。参加者の多さ、特に女子などは、記事から驚きが伝わってきます。水防訓練、避難者救助のレスキュー隊は、3.11で活躍した東京消防庁だけに、身近に感じさせる記事です。
「アドバイス」
 レスキューの消防士の顔を大きく、表情を取り込むと迫力と臨場感が出ます。


宇佐美幸彦『水無月の催事参加』

 12年5月の利根川水系で、発がん物質が発見された。そこで金町浄水場に取材し、「問題点・危機」を探る、着眼点の良い記事です。「おぞん発生機」の幾何学的な配置のノズルは、芸術的な輝きがある写真です。市販「東京水」との違いを伝え、がっかりさせられた、と記すなど、切り口がよい記事です。
「アドバイス」
 後ろ向きの人物は写真の中央からはずしてください。


浦沢誠『五月の風』
 「鷹の研究家」「金環日食」「東京スカイツリーオープン」と3つのメインテーマを据えた、12年は記念すべき年だと打ち出す記事です。
 「鷹の研究家」は鷹の飼育と特性が簡略に紹介されています。
  「金環日食」は堀切2丁目の住人の、観察模様を取り上げ、写真でビジュアルに伝えています。
 「東京スカイツリー」は技術的な、耐震構造に絞り込んだ読ませる記事です。
「アドバイス」
 記事トップの写真は、時系列にこだわらず、最も良いものを使ってください。


小池和栄『葛飾の学校』

 ~初等教育の夜明け~、と葛飾区内の小学校や教育資料館に取材した、内容の濃い、史実の掘り起こしの記事です。学術的な硬い内容が随所で展開されながらも、記者の補足コメントが入るので、全体に読みやすく流れに乗れます。現職の金町小学校の校長に取材しているので、記事全体に信ぴょう性が高まり、現場からの情報提供となっています。
「アドバイス」
 歴史的な流れは客観視されていますが、後半の教育論は主観が入りすぎています。


郡山利行『水元公園 菖蒲まつり』

 葛飾区長が「ショウブ、花ショウブ、アヤメ、カキツバタ」と即座に見分けられる、と冒頭で紹介する。意外性で、記事の導入を図っています。写真は技巧・テクニックに優れています。「女性カメラマン」は真剣さと身体の線が見事で、「一人ほくそ笑む女性」「男性のポーズ」など解析度が高く、美的な良さが醸し出されています。
「アドバイス」
 冊子の表紙はアオサギの生態よりも、花ショウブと人物のほうが良いでしょう。


郡山利行『水元地区 初夏の風景』

 表紙の茅の輪の神事は、完成度の高い写真です。
 あしなが蜂の生態を狙った接写は、観る側に迫力を与えています。トカゲ。準絶滅危惧種だけに、接写には学術的な紹介要素があります。アオサギのザニガニ漁。根気よく、狙いを定めた写真で、弱肉強食の世界を感じさせます。
「あどばいす」
 茅の輪くぐり方は写真でなく、各地の神社で展開していますから、さらっと本文ですませましょう。


腰原良吉『かつしかの鷹狩り』

 冊子の表紙に、「鷹狩のブロンズ像」を置いて、葛飾と鷹狩の結びつきの深さが呼び込んでいます。徳川家は鷹狩の関心度が高かった。記者が資料と史料を読み込み、葛飾の地域ごとに紹介しているので、全体を通して厚みがあります。徳川将軍の御膳所の5カ所の寺院にも取材し、大絵馬では住職からの取材で、真贋に攻め込んでいる。
「アドバイス」
 曳舟川の由来は文字が小さくて判読できないので、点描写真とし、まわりの風景を取り込んだが良いでしょう。

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元麻布ヒルズに招かれて=斉藤永江

作者紹介:斉藤永江さん

 彼女は栄養士で、製菓衛生士です。チョコレート製作を始め、洋菓子作りと和菓子作りに携わっています。傾聴ボランティアとして、葛飾区内の施設、および在宅のお年寄りを訪問する活動をしています。

 葛飾区民記者の自主クラブ「かつしかPPクラブ」に所属し、積極的な活動をしています。さらに、朝日カルチャーセンター・新宿『フォトエッセイ入門』の受講生です。

 記事(区民記者)は現地を取材し、より客観的な書き方になります。エッセイは逆に、私が「私」の心のなかや出来事を取材し、主体的に書き綴っていくものです。
 ある意味で、双方は相反します。しかし、第三者に読ませるもの、それは共通しています。

 客観的に書く、主観的に書く。この二刀流ができれば、書き手として『わたし』を磨いてくれると、作者は語り、意欲的にチャレンジしています。
 

作者HP
  

元麻布ヒルズに招かれて  斉藤永江

 知人から、元麻布ヒルズで行われるホームパーティに誘われた。 麻布?ホームバーティ? なんと雅やかな響きであろうか。
 生まれてからずっと、下町地区に生息している私である。声を掛けられた時には、狂喜し、「行く、行く!」と即答した私であった。
  しかし、ほどなくして、「はて?超高級マンションと呼ばれるその場所に、いったい何を着て行ったらいいものか・・」と、考えあぐねてしまった。

 ふだん着はおろか、お出掛け着でさえも、1000円、いやいや、数百円の洋服で済ませている私である。 それで充分だし、特に困ったこともない。 元々、おしゃれには興味がないのである。
 逆に、「この洋服、実は500円なの」
「え~、そうは見えない、買い物上手ね~」などと驚かせて、優越感に浸るという楽しみ方を持っていた。
 しかし、今回は、違う。そんな洒落も通らない気がしていた。日産のゴーン社長や、雅子妃の妹、礼子さまも住んでいると聞いたことがある。新宿や渋谷の大都会とはまた違い、洗練された香りが漂う街、芸能人や大金持ちが住む、自分とは掛け離れた土地に感じられた。
 前日から、着ていく洋服を考えていたが、なかなか、決まらない。それにも増して悩んだのが、アクセサリーの類いであった。私の持っているものと言ったら、全てがイミテーションである。この年になって、 本ものと呼べるものを何1つ持っていないことに気付き愕然とした。
 よく一張羅いという言い方をするが、私にはそれさえもなかったのだ。
 オシャレや美への意識が欠落している私である。洋服はおろか、アクセサリーにお金を掛けるのは勿体ないし、化粧品も全て100円均一で済ませているのが、自慢でもあった。
 結局、悩みに悩んだあげくに、光沢のある大好きなワインカラーのブラウスを選んだ。その明るさが安さをカバーしてくれるように思えた。アクセサリーは、真珠のネックレスとイヤリングを選んだ。もちろん、イミテーションである。ふと、お金持ちの人って、他人が身に付けている装飾品の、にせ物と本物の区別がつくのだろうか、という疑問が頭をよぎった。バレだらイヤだなぁ。
 着ていくものとアクセサリーは、決まった。残るは、靴と靴下である。超高級マンションのお宅にお邪魔するのに、まさか、運動靴じゃ行けないわよね、と自問した。100円均一の靴下ってどうなの?

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四度目の一時帰宅=鈴木會子

作者紹介:鈴木會子さん。

住所は福島県双葉郡楢葉町山田岡(フクシマ原発から約20キロの地点)です。
原発事故で、故郷を追われ、いまは東京・葛飾区で仮住まいしています。
『詩・一時帰宅』の寄稿などがあります。

写真:現在の仮住まいの都営住宅にて

四度目の一時帰宅 鈴木會子

   誰とも会えない
   人の住まない町
   止まったままの時間
   地割れした道路
   シートをかぶった家々
   屋根瓦が
   家の前うしろに
   散乱し
     3月11日のまんま
   自宅まわり
     背丈ほどに
   伸びた雑草
   畑も庭も
   植木の松が
     傘の様に、枝をのばし
   枯れた
     みかんの木
   自由に伸びた草花
   クリスマスローズが
     花ざかり
   こんな所が
     放射能が
       高いのか…
   夫は顆粒の
     草消しをまく
   屋敷まわり、庭と、
     二時間もかけて
   ここへ戻る
     時の為に…
  
                詩と写真 : 鈴木あい子

 飼い猫が茶の間から出られず、廊下を通り、おばあさんの部屋のガラス戸を、自ら開けて出て、生きていました。
 一か月後、2匹は助け出せました。6カ月後、もう一匹を助け出しました。
 
 この間に、猫たちが生きるために、苦しみ、障子を破った爪痕です。やがて、鍵のかかっていなかった硝子戸を、猫の手で開けたのです。



 あのときは何も連れ出せず、鳥たちがカゴのなかで悲惨な死骸となっていました。
 
 一時帰宅は防護服を着た、限られた時間です。ただ撮影するしか手はなかったです。

 葬ってあげる時間もありません

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