≪大久保利通とその時代≫展で、初めて見た物 (下)=郡山利行
(2) 利通暗殺資料
1878(明治11)年5月14日朝、大久保利通は、赤坂仮御所に向かう途中、清水谷(現在千代田区紀尾井町)で、石川県士族島田一郎らの襲撃を受け、暗殺された。
暗殺時に所持していたため血痕が付いた書簡
明治11年5月13日付 楠本正隆書簡
起業公債発行についての内容。 楠本正隆は大村藩士出身で、この書簡の当時は、東京府知事。
大久保利通が、馬車に乗る時には置いていたという、護身用の拳銃。
アメリカ、レミントン社製のデリンジャー上下2連先折式。襲撃を受けた時、使われたという記録はない。
松方正義・鮫島尚信宛中井弘書簡
日付はないが、大久保暗殺の直後である。
元薩摩藩士の工部省大書記官中井弘が、当時フランスに滞在・出張中だった同郷の、松方正義(大蔵大輔)・鮫島尚信(特命全権大使)に、凶変を知らせたものである。
「大翁ノ死ハ実ニ皇国ノ安危ニ関シタル一大事件ナリシ翁ノ死体ハ翁ノ居間ニ臥サシメ伊東方成等刀創ノ破裂ヲ補針シ白木綿ヲ以テ捲キ居レリ翁ノ頭上三ケ所ノ刀痕ハ深サ六寸右ノ腕ノ根ト首トノ間ニ大ナル刀痕突キタル者アリ又右ノ足ノ膝下ヲ半分程又背ノアバラノ脇ニ一大刀痕アリ左右ノ手ハ尽ク刀痕アリ是ハ翁ガ支エタル時ノ刀創トイハサル然トモ顔色平時ニ変ラズ僕一見以テ悲惨ノ情胸ニ満チタリ西郷大山等モ内閣連モ追々来リ集リ又後事ヲ議スルノ外ナカリシ伊藤ハ殊外涙ヲ流シ翁ノ非命ヲ嘆息セリ」
などと、実見した遺体の状況や、集まった人々のようすを伝える。
(3) 写真・肖像画
維新当時の大久保利通写真
1868(明治元)年頃の撮影とされる。
唯一残された、和服姿の写真。
パリの大久保利通写真
1873(明治6)年撮影
オリジナルのプリントを複写拡大したもの。
大蔵省印刷局
1873(明治6)年にパリで撮影された大礼服姿の写真をもとに、勲一等旭日大綬章を描き加えて完成されたもの。原画のコンテ画も現存する。
孫の利謙(としあき)によれば、大久保家ではこの肖像画は「お写真様」と呼ばれ、子ども達は毎朝お辞儀をさせられたという。
【編集後記】
≪大久保利通とその時代≫展で、初めて実物の日記を見た。書いてある内容ではなく、筆記する場面に合わせたような、大小さまざまな形の、恐らく手作りと思われる日記帳そのものに、感嘆した。
そして、激動の時代の流れの中で、己のこと身の回りのことを、克明に筆記している姿を思い浮かべると、大久保利通が描いて実現しようとした日本の姿について、改めて自分なりに学んでみようかと、考えさせられた。
1878(明治11)年5月14日の朝、想像を絶する刀痕で命を絶たれた大久保利通の状況資料は、完全に初めて接したので、衝撃ですらある。
どうしてこんなむごい殺し方をしたのかと思う。
大久保利通の代表的な3枚の、写真・肖像画を並べてみると、厳しい人生を駆け抜けた人であることが、一目瞭然である。
キヨソネ画の肖像が、西郷隆盛のそれと同様に、広く知られることを望む。