A045-かつしかPPクラブ

≪東日本大震災≫ 10年間の思い  ① 郡山利行

【 1.はじめに 】

 2011(平成23)年3月11日、東日本大震災(以下、大震災または震災)の発生から、10年の歳月が流れました。筆者にとって大震災とは何だったのだろうと考え、この10年間を振り返ってみました。


 大震災発生の日の情報は、テレビ映像からの衝撃で始まりました。

 大震災発生の日の午後2時46分、筆者は、葛飾区立石6丁目にある区立のシニア活動支援センターで、高齢者を対象とした『回想法』のボランティア活動をしていました。
 地震の揺れが続いている時に、『窓ガラスから離れて、部屋の壁のほうに移動して!』と、回想法に参加されていた方々に叫んだのを、昨日のように思い出します。
 付近の街の状況は、特に異常が見られませんでしたが、すぐ近くの京成線は、高架でもありましたので、恐らく当分運行できないことが予測できました。また道路にも異常はなかったようですが、バスの運行の状況まではわかりませんでしたので、高齢者の方々には、『安全を確認しながら、ゆっくり歩いて帰宅してくださいね』と、見送りました。

 筆者は、区の中央を流れている中川の右岸道路を、自転車で帰宅しましたが、河川災害は生じていませんでした。

 その後は、聴取していたラジオ番組の被災地支援イベントや、筆者が居住している地元町会の、支援行事への参加がありました。
 また、かつしかPPクラブでの活動を経て、福島県飯舘村の菅野村長への取材と、津波被災地の2年半後の状況取材を実行しました。そして、これらの行動で感じた体験は、風化させないために、この10年を1冊に記録しました。

≪写真説明≫  『巨大津波襲来』宮城県名取市 2011年3月11日
  第52回2011年報道写真展記念写真集より
   【3.11 津波襲来の瞬間】特別賞(新聞協会賞) の1枚です。

【 2.TBSラジオ番組『大沢悠里のゆうゆうワイド』 】 

 番組途中で呼びかけられた、乾電池電源式小型ラジオを、被災地の避難所に届けるキャンペーンに、呼応しました。

 2011年3月18日午前11時、筆者は、東京都港区赤坂にあるTBS本社前広場の、特設会場に駆け付けました。持参した物は、イヤホン式小型ラジオ、非常用ライト付きラジオ(単2乾電池4個)、強力ライト(単1乾電池4個)、中型電卓、ポケット型電卓でした。すでに150~200台の様々なラジオが、多くの人達から届けられていました。


【 3.地元中之橋町会の震災避難者支援活動への参加 

 福島県からの避難者が、葛飾区水元学び交流館に入館しました。その直後に、2011年3月20日、避難者が希望する品目メモが、水元地区の民生員連絡網に、FAXで送られて来ました。

 その翌日、筆者は次の物品を届けました。
 ハンガー、歯ブラシ、ひげ剃り、爪切り、洗濯ばさみ、ひも、便せん、鉛筆、消しゴム、コピー用紙、米、食用油、しょう油、食料品若干など。

 
 同年4月9日(土)には、筆者居住の葛飾区水元中之橋町会が、上記水元学び交流館で避難生活中の、16世帯約50名の、昼食炊き出し活動を行いました。当日は、区と町会連合会の役員の見舞い挨拶もありました。筆者は地元町会長から、記録写真撮影を依頼されました。


 4.東電福島原発事故からの避難 鈴木會子(あいこ)さん 】

 福島県双葉郡楢葉(ならは)町は、福島第二原発の西側に位置します。その町から葛飾区四つ木地区に避難してきた鈴木さんは、2012年から「かつしかPPクラブ」に入会して、同年2月から2013年5月まで、6回の課題作品を作成しました。パソコンは使わず、手書き手作りの冊子は、鈴木さんの人柄そのもののような、きりりとした取材記事でした。

 2013年2月19日、立石居酒屋≪あおば≫にて。右から二人目が鈴木さんです。


 2013年5月19日、『ここに、この人 ありがとう』の冊子で、鈴木さんは四つ木地区でお世話になった人達への、お礼の気持ちを記事にしました。
 この年の夏に、鈴木さんは、楢葉町に近づいた、福島県いわき市へ移住しました。短い期間の出会いでした。クラブ員として、思い出深い方です。

 
【 5.飯舘村全村避難 菅野典雄村長への穂高先生取材に同行 】

 東京電力福島第一原子力発電所の、津波による災害直後、低気圧による南東からの風は、原発災害発生現場から北西に30~50kmも離れた飯舘村に、放射能を運んで飛散させました。この時には村人達は、『うちの村は原発とは全く無関係、だから絶対安全だ』と、信じ切っていました。

 ところが、2011年4月10日の夕方、菅野村長は、内閣の福山官房副長官から電話で、飯舘村は【計画的避難区域】に設定されたと聞かされました。これは、1ヶ月以内に全住民が、村から避難することという通告でした。村役場の移転は、同年7月から2016年6月までの、5年間でした。飯舘村の、輝かしい小規模農村作りの、努力と成果が、全て消えました。

 2013年7月4日(木)午後4時から、福島市飯野町に移転していた、飯舘村役場飯野出張所での取材でした。
菅野村長は、「放射能による災害と、地震・津波による災害には、大きな違いが二つあります」と、語り始めました。
 「一つ目は、地震・津波での災害は、家族を亡くした、家が流失した、家が壊れたなど、目に見える物理的災害です。重い軽いという表現ならば、放射能の精神的災害より何十倍も重いです。でも、何年か経れば、必ずゼロからのスタートができる時がきます。しかし私達は、どれ位のマイナスの規模かわかりませんけれども、ゼロに向かって、おそらく世代を超えて何年もかかって、不安と戦いながら、そしてまた汚された土地での生活苦とも戦いながら、生きていかなければなりません。そのことが、放射能による災害が、他の物理的災害と全く違うことです」

「二つ目は、地震・津波などによる災害は、家族も地域も自治体も、復興への力が結束して、『力を合わせて頑張ろう』となります。
 ところが放射能では、それと全く逆で、心の分断の連続となってしまうことです。家族の中でも、年寄りと小さい子供を持った若い人達と、考え方がぜんぜん違います。
 夫と妻とも違ってきて、かなりの数の離婚にまでなっています。同じ自治体の中で、放射線量が高い所と低い所で、避難先から帰る時期が違い、賠償金の額まで違ってくるので、大きな問題になります。また、避難生活は賠償金で行われていますので、労働への意欲がどんどんなくなりつつあります。農村で育った人達が、突然都市部で生活を始め、都会での便利さに急速に慣れてきたので、身も心も病んできているのが現実です」


 菅野村長が語った多くの事がらの中で、東日本大震災での、原発放射能とそれ以外の災害とでは、村の人々がこうむった精神的被害の決定的な違いという対比が、強く心に残りました。    そのほか避難先を決めた時の事、村内各地区での意見交換会の様子、村の将来に向けての事などを、約束の1時間の中で、熱く語りました。
 穂高先生は、質問とメモ筆記に集中されていましたので、菅野村長は筆者に向かって語り続けられました。その目には、穏やかさの中の力強さを感じました。
【つづく】

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