≪大久保利通とその時代≫展で、初めて見た物 (上)=郡山利行
千葉県佐倉市にある、国立歴史民俗博物館で、企画展示されていた、『大久保利通とその時代』展を、今年2015年12月3日に見た。
当博物館では、展示という形で、大久保利通関係資料を、全面的に公開する機会はなかった。
今年2015年に、大久保家から新たに貴重な資料が寄贈され、歴史的価値の高さを伝えるべく、初めて全体像が展示された。
私は、実物展示品の中で、大久保利通の日記帳と暗殺資料と、彼の写真・肖像画に、興味を抱いた。
企画展示の館内では、ストロボを発光しなければ、撮影可能だったので、文書写真はすべて、私の撮影である。
大久保利通の肖像写真と画像は、当企画ガイドブックの電子コピーであり、文書の内容解説は、同ガイドブックによる。
(1)日記
桜田門外の変について記した、大久保利通日記 1860(万延元)年3月条
「有村次左衛門一挙の節、比類なき有功は如前条次第二而」 云々と記されている。
次佐衛門の兄、有村雄助は、幕府の追及を恐れた薩摩藩の命令により、切腹したが、大久保はその死を嘆いた。
30歳、勘定方小頭
生麦事件について記した、大久保利通日記 1862(文久2)年、8月21日条
「夷人生麦村二而御行列先キ江騎馬二而乗懸、壱人切捨他者逃去候由、神奈川辺別而及騒動候」と、淡々と記している。大久保も、行列のなかにいた。
32歳、御小納戸頭取
天狗党の処刑について批判した、大久保利通日記 1865(元治2)年3月11日条
水戸藩天狗党が、幕府に降伏後、越前敦賀で、無慈悲にも処刑されたことについて、腐敗した権力の残忍さを強く批判するとともに、幕府滅亡の兆候を見て取っている。
35歳、御側役
四侯会議について記した、大久保利通日記 1867(慶応3)年5月17日条
上洛中の島津久光、山内容堂、松平春嶽、伊達宗城は、土佐藩邸で会議した。
幕府が長州征討 という失策を反省し、朝廷から長州藩に対する寛大な処置を下すというのが順序であるというのが、四侯の意見だったが、慶喜によってその目論見は打ち砕かれた。
37歳
琉球藩使節の上京嘆願について記した、大久保利通日記 1875(明治8)年10月25日条
明治政府は、この年の7月、琉球藩に、清国との冊封・朝貢関係を廃止することなどを命じた。
首里王府は、従来通りの日清両属を認めてもらうため、同年9月に使節を東京に派遣して、1年半も滞在して直接政府に訴えたが、拒否され続けた。
大久保は、使節に、文明開化の進展を示して、彼らを啓蒙しようとした。
45歳、地租改正事務局総裁
小松帯刀 日記帳
小松帯刀の「文久三己亥二月十九日ヨ御上京御供中日簿」 1863(文久3)年3月14日条
同年2月から3月、約700人を率いての島津久光の上洛に供奉した際の日記。 京都に到着した3月14日には、久光が近衛邸で、中川宮朝彦親王・関白鷹司輔煕・一橋慶喜らと対面したこと、小松帯刀も召し出されて、料理を下されたことなどが、記されている。
この時28歳で弁天波止場受持、この年の5月に御側役、10月に御改革御内用掛となり、藩政改革に取り組んだ。配下に、大久保利通がいた。
【つづく】