葛飾・立石の消えた盛大な『縁日』を想う = 郡山利行
「喜多向観音」は、葛飾区東立石4-15番地にある。立石バス通り(奥戸街道)に面している。
喜び多く向かい給えとお参りすれば、必ず一つは叶うとの言い伝えがあると、由来看板に書いてある。
縁日は、昭和25年頃から始まった。開催日は、毎月7日、17日、27日の、月3回。昭和50年代めまで、約30年間盛大に行われ、その後急速に衰退して、今は開催されていない。
『立石大通り商店会』 左端○印が「喜多向観音」
同商店会の端から端まで、延長約440mにわたり、バス通りの片側に約200軒の出店がびっしりと並んだ。 店の並びは、通りの反対側に、1回づつ交互に変えられた。
「 当時、本田小前交差点にある交番の隣の空き地で、テキヤの親分が出店の番割りをしてましたよ 」
と、岡島さんは語った。
「 この縁日は、10日おきに、多くの店が出て、人出の多さも東京都内で有名でしたよ 」 とも話した。
地域の人、周辺の人達に約30年間、楽しみと憩いの場面を与え続けていた光景と、その熱意・情熱は、今ではもう容易に想像できない。
「喜多向観音」のほぼ上空から、渋江方向を見た立石バス通りである。
「 私がお嫁に来た1965(昭和40)年は、まだまだ縁日は真っ盛りだったわよ。 私の家で、夏場にかき氷を売ったら、店の中に30人も50人も入って並んで買ったのよ。 氷が間に合わなくて、シャーベットのような品物でも、売れちゃったの 」と、懐かしげに、声を弾ませて語ってくれたのは、秋山さん。
『立石大通り商店会』右側○印の家(セブンイレブンになる前)が、自宅の店だった。
揚げ物の増田屋3代目主人、中山さん。 『立石大通り商店会』左側○印の家であり、下写真の○印の家(かまぼこと書いてある)が、現在の増田屋である。
「 子供の頃はそれはもう、楽しみの縁日でした。 仲間たちと集まって、小銭を握りしめて、いろんな店をのぞきましたよ。 人がぎっしり一杯で、私は背が低くて、まわりが見えず、自宅から迷子になったこともありましたよ 」
と、語ってくれた。
写真集 葛飾区の昭和史(株)千秋社 昭和27年 立石バス大通り
この「喜多向観音」の縁日に関する記録資料や写真は、区の図書館でも現地商店街の数件で尋ねても、目にすることができなかった。 当時の人々は、日常の生活が全力疾走状態で、まわりの状況を写真や記録に残すことは、思考の外だったのだろうか。
それでも、約30年間、人々がここで熱い時を過ごしたことは、多くの人の心に残っている。
立石の「喜多向観音縁日」の歴史が、そのまま、ここ立石地区の、更には葛飾区全域の地場産業工場の、盛衰だったともいえる。