A045-かつしかPPクラブ

日本の着物の歴史 = 浦沢 誠

  はたちのつどいの参加者の女性は「振りそで」姿、男性は「背広」姿が圧倒的に多かった。
  日本の衣服の歴史を調べると、701年に制定された「大宝律令」と718年に制定された「養老律令」には、礼服(らいふく)、朝服(ちょうふく)、制服(せいふく)が定められていた。


  それぞれの形式・色彩は、地位や役職により違いがあった。時代は移り平安時代後期になると「伴大納言絵詞」には庶民の姿が描かれている。

 男の多くは水干姿で、袴(はかま)は膝下(ひざした)までの丈である。女性は広袖(ひろそで)や小袖(こそで)の着流しで、腰布を巻いた姿もみられた。その後、鎌倉時代になると直垂(ひたたれ)が武家の礼服となった。女性の衣服は、小袖の上に腰巻き、湯巻きをまとう形になった。
 
 小袖の上に丈の長い小袖を引っかけて着る打掛(うちかけ)もできた。


  江戸時代前期になると、肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)とを組み合わせた裃(かみしも)が用いられた。
  庶民の文化として小袖が大流行した。歌舞伎などの芝居が流行し、錦絵や浮世絵で役者の服飾が紹介されると、庶民の装いは更に絢爛豪華なものとなった。また帯や組みひもが発達し、帯を後ろで結ぶようになった。

  鎖国政策により国外から絹を輸入しなくなった、江戸時代後期に入り天明の大飢饉も発生し、1785年に幕府は庶民が絹製品の着用することを禁止した。庶民は木綿製もしくは麻などの
衣服を着用した。


  幕末には、1864年に禁門の変が起こり幕府軍は軍服を西洋式にすることに決め、小伝馬町の守田治兵衛が2000人分の軍服を作り上げた。日本における洋服の大量生産の始まりだった。


服飾史学者の小池三枝によれば、着物は元来「着る物」という意味であり、単に衣服を意味する語であった。
しかし幕末に洋服が移入して以降「西洋服」・「洋服」と区別して「従来の日本の衣服」を「日本服」・「和服」と呼ぶようになり、さらに「着物」の語にも置き換えられた。

 時代が進み、日常生活で頻繁に洋服が用いられるようになると、「着物」から「着る物」という本来の意味は薄れていき「和服」の意味が濃くなっていった。

現代での「着物」という語は、「和服」を意味し、狭義には一定の形式の和服(着物と羽織という場合の着物、すなわち長着)を指す言葉に移りつつある。とある。


  女性用の正装の和服は、結婚式・叙勲などの儀式・茶会など格の高い席やおめでたい儀式で着用される。また格式の高い着物には絵羽(えば)模様柄付けがなされている。

そのほかおめでたい場所に着る模様には、縁起の良いもの、七宝・橘・鳳凰・鶴・亀などの「吉祥模様」や、檜扇・宝船・貝桶・御殿・薬玉等を表した「古典模様」が使われていることが多い。

  着物の種類としては、黒留袖・色留袖・振袖・訪問着・喪服・付け下げ・袴等があり、普段着には、小紋(こもん)・……紬(つむぎ)・浴衣(ゆかた)などがある。

                                              
写真 : 葛飾区主催の式典 『はたちのつどい』 の新成人たち

      2015(平成27年)1月12日(月・祝)

 【了】

 

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