どっこいしょ(葛飾の富士山と富士講)=宇佐見幸彦
はじめに
国際教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会が、平成25(2013)年6月22日に富士山とその25の構成資産を、世界文化遺産への登録を正式に決めた。
富士山は奈良時代末から平安時代にかけて、頻発した噴火を神の怒りと感じ祭祀を行って鎮めようとしたのが、富士山信仰の始まりである(国学院大学笹生衛教授・日本宗教史)。
火山活動が沈静化してから修験者(山伏)の修行の場となった。その後、富士山の偉大な自然のもと、当時様々な制約を受けていた人々に対して、身分や男女の別もない平等の思考が信仰に結びつき信仰登山は庶民に広がり、江戸時代には多くの富士講が出来た。講のメンバーは資金を積み立て順番に登山を行った(代参講)。
娯楽の少なかった江戸庶民にとっては、「信心半分、物見遊山半分」の言わば旅行サークルの体になり明治、大正、昭和の初期まで盛んに行われた。
登山者は白の登山装束に六角の杖を携え、“六根清浄”と声を掛けながら登った。六根とは「眼・耳・鼻・舌・身・意」で、これらを清めるための掛け声で、年配者が立ち上がったりするときに、つい発してしまう‘どっこいしょ’の語源と言われている。
また、登山に行かれない人のために富士山を模した「富士塚」が作られ、模擬登山が行なわれた。東京23区内でも約50か所が現存している。葛飾区内には南水元浅間神社跡(現富士神社)の飯塚富士、東金町葛西神社の金町富士、立石熊野神社の立石富士の3か所がある。
1. 南水元富士神社と富士講
東京・葛飾区南水元2丁目にある正慶元年(1332)に創建された富士神社は、毎年7月1日の富士浅間神社の山開きにあわせ例大祭が執り行われ、富士講の行事も行われる。
神社拝殿の背面の墳丘状の浅間山の上に、明治12(1879)年に富士講の人達により高さ4mほどの盛り土をしている。面積約650㎡、高さ約8.6mの富士塚である。普段は立ち入り禁止であるが山開きの当日は開放される。
葛飾区指定史跡(昭和56年2月22日指定)
山頂への道のりは、途中、灯篭や祠、石碑がある厳しい岩石を積んだ階段の登山道と外周をまわる山道とがある。
その塚の頂上には、浅間社の石祠と天狗の石像一躯が安置されている。
外周をまわる登山道の途中には、富士講の登山者を模した白い登山装束姿の石像が藪の中に佇んでいる。
平成17年建立の飯塚富士講の石碑には富士講の19名の名が刻まれているが、今では講仲間の数も減っている。
神社責任役員の嶋村茂さん(80歳)は、
「富士山の世界遺産登録の影響から、氏子だけでなく一般の人も例年より大勢来て、喜ばしいしい」
と話していた。
昭和の頃までは、講の仲間の家々をまわって祭文を唱えた後、飲食をする月次行事も、今では社務所で2~3か月に一度になっている。
毎年7月1日には「七富士参り」が行なわれ、講中に神社の氏子の人も加わり、現在も継続されている。
七富士とは、埼玉県草加市瀬崎、同八潮市大瀬、同三郷市戸ヶ崎、千葉県松戸市小山、東京都江戸川区篠崎、同葛飾区西水元浅間神社、同南水元(旧飯塚)浅間神社(現富士神社)を巡拝する。今ではもはや徒歩ではなく、バスを仕立てて朝出発し、夕刻に戻って来るという。
(問い合わせは、同神社社務所へ)
普通の神社は社殿の奥にご神体が祀られているが、当神社では御幣の先に登山道、頂上に浅間神社の石祠が鎮座している。
飯塚の富士講 葛飾区指定無形民俗文化財(平成7年2月22日指定)
2 葛西神社金町富士
葛飾区東金町6丁目の葛西神社は、祭囃子(葛西囃子)発祥の地として有名である。神田囃子、深川囃子などの流儀を生んでいる。社殿の右奥に 金町富士がある。
富士塚は明治19(1911)年の建造である。江戸川の改修で一時取り壊されたが、昭和35年(1964)に再建された。高さは2.5mと低いが、良く整備され参道の途中には三合目、四合目などと刻された岩もあり、何時でも登れる。
3 熊野神社立石富士
東京・葛飾区立石8丁目にある旧立石村の鎮守で区内でも古い神社の一つである。社伝によると、長保年間(999~1003)に陰陽師の阿部晴明によって熊野三社権現を勧請し創建された。
神紋は丸の中の五角形に八咫烏(ヤタガラス)が描かれている。この三本足の八咫烏はサッカー日本代表のシンボルでもる。
境内の敷地は五角形をしている。晴明の万物は「木、火、土、金、水」の五要素からなるという五行説からである。
境内の一画に立石富士がり、大正13(1924)年の築造で区内の富士塚では最も新しい。山道を登り途中右に折れると、そこが頂上で道のりは約5mほどで、高さは2mもない。
頂上には社と立派な石碑が立ち大きく”浅間神社”と刻まれている。
4 古い富士講
写真は、昭和16(1941)年の富士講の登山記念写真である。修験者のような講中の登山装束や戦時下(日中戦争・支那事変)で国民服の人の姿もある。左下の写真は、講中の人の子供たちの登山記念写真で凛々しく鉢巻を絞めている。
左端に父親に抱かれている子が編者で、いまから70年前の姿である。まったく登山をしたという記憶にはないが、写真には残る。
あとがき
この冊子のテーマとして「富士信仰と富士講」を取り上げたのは、この度、富士山とその構成資産がユネスコに登録されたからである。
水元の富士神社の富士塚と富士講が、葛飾区の指定史跡と無形民俗文化財に指定されている。さらには、葛飾区民大学「葛飾祭り学」講座を昨年6月に受講したこと。それに古いアルバムに残っていた父と編者の写真に出会ったことなどがあげられる。
そこで、葛飾の富士山(富士塚)を訪ねてみた。現在でも、富士講が継承されている様子が垣間見られた。
写真・文 : 宇佐見 幸彦