A045-かつしかPPクラブ

苦闘する飯舘村・菅野村長にインタビュー(上)=郡山利行

 福島県・飯舘村(いいたてむら)の菅野典雄村長は7月4日、午後4時から1時間の単独インタビューに応じてくれた。私は小説家・穂高健一氏に同行取材した。菅野村長は、3・11フクシマ原発事故から2年半たった現状と、これまでの過程を語ってくれた。

 避難先を決めた時のこと、津波災害と放射能災害の違い、飯舘村が置かれた苦境、ゼロへの戦いに対する批判や誹謗中傷にもくじけず、挫折せず、突き進む姿勢と精神を熱く語った。
「全村避難の苦境と痛みとが、きちんと理解してもらえていない」という辛さが私たち村民にあります。嘆くだけではどうにもなりません。私たちは毎日、現行の国の規則の中で、最大限どうやって動くか、ゼロの水準(村にもどれる、生活の足がかりを得る)に向かって、進んでいます。

 穂高健一氏は質問とメモ筆記に集中したので、菅野村長は私に向かって語り続けていた。直視する村長の目は、穏やかさの中にも、気迫が満ちあふれていた。 


『美しい村に放射能が降った』
 2011年8月に、菅野典雄村長が出版した本のタイトルである。サブタイトルは、『飯舘村長・決断と覚悟の120日』である。
 飯舘村は合併しない≪自主独立の村づくり≫を進め、小規模自治体の良さを生かした子育て支援や環境保全活動、定住支援などユニークな政策を展開してきた。とくに畜産業の黒毛和牛≪飯舘牛≫は、ブランド牛として高い評価を得ていた。

 過疎化・高齢化が進む、ごく普通の農業の村だった。飯舘村で生まれ育った菅野さんは、1996年に村長に初当選して以来ずっと同村を牽引してきた。2010年には『日本で最も美しい村』連合に加盟した。村づくりの更なる発展へと弾みになるはずだった。 

 2011(平成23)年3月11日に発生した東日本大震災の地震と津波で、東京電力福島第1原子力発電所(以降、第1原発)の原子炉と建屋が次々と爆発炎上した。核施設の未曾有の大惨事から、飯舘村の輝かしい小規模農村づくりの努力と成果がすべて消えてしまったのだ。


 第1原発災害直後、低気圧による南東の風が吹き、原発災害現場から北西に30kmから50kmも離れた飯舘村までも、放射能を運んでまき散らしたのだ。しかも、爆発した時点でも、村にはなんら通報がなく、それだけに『うちの村は原発とはまったく無関係だから、絶対に安全だ』と、村人たちは信じ切っていた。
 
 菅野村長は、2011(平成23)年4月10日の夕方、福山官房副長官から、飯舘村が「計画的避難区域」に設定されたと聞かされた。1ケ月以内に全住民は村から避難せよ、という通告である。

 この一大局面に対峙した菅野村長は、このとき4期目の半ばであった。任期満了で行われた昨年(2012年)10月の村長選挙では、無投票当選で5期目の就任となった。
 つまり、難局の飯舘村を菅野村長に託したのだ。同村のみならず、近隣の放射能被災市町村も含めて、リーダー格として、その活躍が期待されたのだ。

「東日本大震災の放射能による災害と、地震・津波による自然災害とでは、決定的な大きな違いが二つあります」
 そう前置きした菅野村長は、原発事故で被災した人々は精神的な被害をこうむった、と明瞭に言い切った。この精神的な被害が菅野村長を動かしており、すべての活動と言動の根本的な意識となっているようだ。                                          
                                          【つづく】


 「積算線量の推定値」(2012年3月11日まで)の図は、事故対策統合本部HPより

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