『白根大凧合戦』は激闘だ。白根は燃える(上)=写真で観戦
大凧は揚げるものではない。戦う、武器なのだ。80メートルの川幅の中ノ口川を挟み、にらみ合い、ライバル心むき出しで、合戦する。
「時には敵意すら抱くのでは」
現代ではそこまでも、憎し合うことはないです。
合戦が終われば、仲良くなります。
東岸は新発田藩領、西岸は村上藩領だった。
起源は江戸時代中期に及ぶ。諸説あるようだが、中ノ口川は人工掘削である。用水と上水を主とした、生活の川なのだ。
完成した時、新発田藩の殿様から凧を頂戴し、それを土手で上げていると、対岸の村上領の農家の畑に落ちて荒らしてしまった。
怒った村上領の農家が仕返しで、凧を揚げて、今度は西岸の田畑を荒らしたのだ。これが凧合戦の由来だと、一般的に言われている。
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24畳の大凧を上げて、双方が空中戦を行う。巨大な凧はすべて勢いで、舞い上がる。「どけ」「どけ」「どけ」と全力疾走する。
低空で飛ぶのは東方だ。西軍は高いところから猛禽類のように急降下で、襲いかかる。太い25mmのロープが絡み合う。そして、川面に墜落する。
ここで勝負は終わらない。第2ラウンドだ。綱引合戦で、相手方の麻ロープを奪い合うのだ。
一本が約200万円以上もする高価なものだ。4回勝負で、もし4回とも相手方にとられると、800万円の損失となるとる。
凧の裏側を見ると、巨大です。孟宗竹の骨組みと、和紙と、頑丈なロープとが使われています。
青春の爆発です。
オス凧(西側)とメス凧(東側)とが絡み合った瞬間です。ここから大勝負が始まります。
単なる綱引ではありません。
東と西の町の名誉を賭けた、大勝負なのです。
もし負けることがあれば、ヤケ酒ではすみません。
一年間の屈辱となるのです。
それそれが手に血豆ができるほど、真剣に引いています。
会場には来賓として、新潟県知事、新潟市長、南区長、地元警察署長など、さらには地元選出の女性国会議員もきています。
司会者は、ずらり並んだ、お偉方の名前のミスがないように真剣でした。
取材した5月6日は木曜だった。
「土日になれば、勤め人が休みで、大凧合戦に参加します。ですから、この空が凧で一杯になり、豪勢ですよ」
飯田同事務局長がそう語ってくれた。
川岸の道路は、幅が約10メートルくらい。24畳の大凧がスタート地点に向かうと、通行人らは凧の下を潜っていく。
凧を運ぶ人、通行人は、ともに迷惑がらない。
「どいて」とも言わない。まさに地元の生活に溶け込んだ、大凧合戦である。
背後に気づけば、また、大凧を引き揚げている。
10分に1回くらいは、大人たちがロケット弾のように駆けてくる。
双方のロープがどこで切れるか。すこしでもロープが長く残った方が勝ちだ。
1回勝てば1点。得点の総合点で、優勝が決まる。
この合戦の特徴は、単なる勝敗だけでない。
「1mでも相手側にロープが奪い取られると、もう最悪の屈辱です」
飯田合戦協会事務局長が、過去の体験から、その雪辱と口惜しさを語ってくれた。
「どんなふうにですか?」
「日本酒5本持っていき、大勢並んだ相手方の前で、(ときには土下座して)、詫びを入れて返してもらう。この屈辱感が心から居たたまれない。もう、やり切れない。だから、絶対に負けたくないんです」
この屈辱を味わいたくないから、闘魂が生まれるのだ、と飯田さんは語ってくれた。
優勝の美酒だけでは凧揚げ大会だけだと、こうも長く、300年間も続かなかったはずだ。
「次は仕返ししてやるぞ」
この復讐心が大凧合戦が江戸時代から、第二次世界大戦でも、延々と続いてきた根幹のようだ。
(屈辱こそ、執念が生まれる)
そこで思い出すのが、毛利藩だ。
西暦1600年に、関が原の戦いで敗れた毛利藩は、豊かな広島から、僻地の湿地帯の萩(山口県)に流された。
「関ヶ原の恨みは必ず果たす」
毛利家臣は毎年、正月になると、藩主の前で260年間もそう誓ってきた。
そして、その怨念と恨みが幕末の徳川討伐となったのだ。
白根凧揚げはそれに似た、屈辱と闘魂が300年間も続いてきた根源だと、理解することができた。
係留(けいりゅう)された川船が、大凧合戦の観戦の場になっている。
手前のボートは川面に墜落した大凧、綱引き合戦で勝敗が決まった凧などの回収を行う。
【つづく】
共同取材
かつしかPPクラブ
郡山利行・穂高健一