A045-かつしかPPクラブ

高齢者 語り継ぐ 戦争体験『心、人 として』=郡山利行

1924(大正13)年生まれ、88才。
 旧東京府向島区寺島町(現、墨田区向島)で生まれ育った。昭和14年、早稲田実業学校に入学。昭和19年同校卒業後、旧満州の関東軍に軍属として入隊。昭和20年8月11日ソ連軍の攻撃により右肘を負傷し、その後ソ連軍の野戦病院から中共軍の日本人管理施設での抑留生活を送り、昭和23年10月20日、長崎県の佐世保港に引き揚げ帰国した。

 昭和25年葛飾区の堀切に居を構え、現在はお花茶屋に在住。以下は、杉浦さんが語った、戦争体験の一部である。


【早稲田実業学校時代 (15才~19才)】
 
学友と市電(現、都電)の中で、授業で習った≪全体主義≫のことについて、大声で語り合っていたら早稲田大学のとある教授が『 君たち電車の中でそんな事、大きな声で話したらいけないよ』と、注意してくれたという。また、授業での≪貿易≫は、ほとんどの専門用語が外国語だったので、昭和16年の太平洋戦争開戦後も、卒業まで英語を学ぶことが出来た。


写真18年、5年生。富士山麓での軍事教練。 生徒と教官。 
『全員、帽子取れーっ! 笑えーっ!』 の号令が聞こえる

【旧満州 関東軍へ】

昭和19年1月 新京(現、長春)の関東軍司令部へ赴任 20才

 昭和19年10月、建国大学での講義受講が終了したので、司令部から、ソ連ウラジオストック西方約100kmにあるコンシュンの師団司令部に配属になった。そしてそこから更に北方約10kmにあるトンニンという所で、物資輸送中継地点の構築に携わった。
 そこは、ソ連のウラジオストック軍港の動向を監視する目的の作戦地で、重要拠点だった。

 そして、昭和20年8月9日、ソ連軍が太平洋戦線に参戦し、旧満州国に攻め入った。
この越境攻撃により、8月11日、杉浦さんは右肘に被弾負傷した。

 8月15日が終戦日だったが、所属部隊は、8月17日にソ連軍に降伏して武装解除され、そこから更に北方約50kmにあるソイフェンホーという場所で、機関銃で包囲された野営状態で収容された。

 そこでは、無傷の兵隊は逐次、ソ連国内へ連行されていった。杉浦さんは右肘負傷者のため連行されず、昭和20年10月頃まで、天幕張りの野戦病院に収容されていた。

 この野戦病院で、杉浦さんは生涯忘れることができない状況に直面した。

 病院の炊事場で大量に炊き上げているご飯の吹きこぼしを、ソ連兵が全部捨てていたのを見て、杉浦さんはソ連軍の女性軍医に、日本の負傷兵にスープとして飲ませてほしいと提案した。
 この提案は実行され、しばらくしたら傷病回復者が増えたので、次から食事は薄い粥食になった。 その効果は目覚ましかった。 そして、元気になった兵隊達は、いつの間にかソ連国内に移動させられていった。  
 この野戦病院の長と軍医は、軍での勤務評価が上がったと、後で聞いた。
 『 この提案をしたことが、人間として良かったことなのか、悪かったことなのか、今でも常に自分は疑問に思っている 』と語った杉浦さんは、沈痛な表情だった。


 昭和20年10月、収容されていた野戦病院が閉鎖される直前に、ソ連軍軍医の助言により、3人の仲間と病院を脱出して延吉(イエンチー)を目指した。 途中で満州開拓団避難者に合流し、中共軍に伴われてイエンチーの収容所に入った。
 この中共軍管理収容所での最初の冬は、防寒対策がほとんどなく、食糧も燃料も不足して、数多くの収容者が凍死・餓死・病死した。
『 地獄だった 』と、杉浦さんは語った。二度目の冬からはだいぶ改善されたという。


 杉浦さんは、終戦直前から引揚げ帰国までに会った、様々な人のことを語った。

『 関東軍は、上級士官ほど真っ先に逃げましたよ。≪逃げた≫という言葉以外に
言いようがないです。』

『 私が顔を知っている、部隊司令部のおとなしい主計将校が、馬で、鞍の両側に大きく膨らんだ麻袋(恐らく中身は紙幣だったでしょう)を下げて、≪どけーっ!蹴殺すぞ!≫と大声で怒鳴りながら、前線に向かっている兵隊達を蹴散らかすように、逆方向に走って行きましたよ。』

『 日本への引揚げ船の乗船手続き場面では、同じ日本人同士なのに、果てしない
略奪と暴力と欲望の行使がありましたよ。 そこにいる全員が極限状態にあるのに、
平然と実行していましたよ。 人間がヒトとして、本来持つべき理性を見失ったという
場面を、見ました。』


 杉浦さんは、次世代の人達への思いを、次のように語った。
『 自分は、プラスになる物、特に精神的なものは、自分以外の人と分け合うもの、そう考えて戦後の人生を送ってきた。 広い心をもって、自分独自の信念、好きなこと、出来ること、得意なことにこだわって欲しい。 そうすれば派生的に友人・仲間がいつの間にか多くできて、その繋がりが広がっていく。 その輪の中で人生を楽しんで欲しい。』

【あとがき】

 早稲田実業学校卒業後、国家の戦時体制に組み込まれざるを得なかった。杉浦秀雄さんは、軍属文官として日本陸軍に応募し、旧満州に渡った。 そこで見聞きし体験したことで記憶に刻まれたことは、戦闘員としての軍人のものとは異なっているような気がする。 強烈な具体的な事がらではなく、杉浦さん自身の心の中に、葛藤の場面として現在に至るまで、存在し続けていることを知った。
 杉浦氏は体験談の締めくくりの言葉が 『 自分の信念を持ちなさい 』だった。 この言葉の意義を大切にしていきたい。2,3回にわたって長時間お話をして戴いた。 感謝いたします。

≪取材協力≫ 葛飾区シニア活動支援センター 回想法グループ

  撮 影:郡山利行、平成25年3月8日、4月4日
  編 集:郡山利行、平成25年 5月19日

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