A045-かつしかPPクラブ

小菅探訪~塀の町の歴史の残影~ =小池和栄

【作者紹介】
 小池和榮さん:2010年「葛飾区民大学」の区民記者・養成講座を経て、「かつしかPPクラブ」の発起人の一人となりました。緻密な取材力と、葛飾の歴史の再発見など、特別ルポの記事を得意としています。
 最近は川柳にも興じています。

小菅探訪~塀の町の歴史の残影~PDF

小菅探訪~塀の町の歴史の残影~ 平成24年 3月1日

 荒川から見た小菅の東京拘置所である。一般人には無縁な場所であり、屋上にヘリポートを備え近代的な要塞のように見える。
 対岸の荒川河川敷では若者たちが、フットボールのフォーメーション練っていた。冬の日の午後の陽射しに足許の影が長い。

 Ⅰ.東京拘置所 ・・・・・・・・・・・・ 3

 Ⅱ.関東郡代屋敷跡・・・・・・・・・・・4

 Ⅲ.小菅(千住)御殿・・・・・・・・・・5

 Ⅳ.小菅銭座跡・・・・・・・・・・・・・6

 Ⅴ.明治維新と小菅縣・・・・・・・・・・7

 Ⅵ.名縣知事 川瀬秀治・・・・・・・・・8
 
 Ⅶ.わが国初の煉瓦工場・・・・・・・・・9

 Ⅷ.こすげろの・・・・・・・・・・・・・10

 人の周りを□で囲むと、囚(とら)えるとなる。
 檻に容れ自由を奪う形は象形文字としても頷ける。
 葛飾区の西端に位置し、荒川と綾瀬川に挟まれた「小菅」は、塀のある町として全国に知られる。
 今は東京郊外の静かな町である。しかし、それだけではない。
 川沿いのその一郭は、かつて時の流れの中で輝き、人々は己が人生を紡いだ歴史の町である。


Ⅰ.東京拘置所

 東京拘置所は法務省矯正局に属し、通称「東拘」とか所在地から「小菅」と呼ばれる。敷地は約222,000㎡(66,000坪)と、全国8拘置所(東京・立川・名古屋・京都・大阪・神戸・広島・福岡)の中でも、収容定員3000人は最大規模である。

(明治の面影を残す正門)

(工事が続く高層舎監)

 その歴史は古く、明治11年(1878)に遡る。前年に勃発した西南戦争の捕虜を収容する為、明治政府は煉瓦製造所を買収し、監獄を建設した。それから134年、小菅監獄→東京収治監→小菅刑務所と呼び方は変わった。
 そして昭和45年(1975)に、巣鴨の東京拘置所(現サンシャイン60の敷地)が廃止されてから、東京拘置所となった。
 
 かつての宰相や、大物政治家、オウム事件の首謀者、新聞を賑わした刑事被告人、死刑確定者が収監され、最近では大手製紙会社の御曹司も、一時期ここの住人となった。

 ダメ元で取材を申し入れてみた。電話のガイダンスに従い、操作を繰り返しやっと出た窓口は、ホームページに載っている事が全てだと素っ気ない。東京拘置所の改修工事は平成18年に始まり、今なお真最中である。ヘリポートを備えた高層舎監、その奥に14階建職員住宅が並ぶ。カメラを向けると門衛が飛んで来て制した。

 往時の赤煉瓦塀はほとんど壊され、正門脇に僅か面影を残すのみである。近くで「差入れ品」を販売する商店主は「同業は2店あるが、施設内に法務省の外郭団体が運営する店があり歯が立たない。行政仕分けの対象だった筈が、いつの間にかうやむやになってしまった」とこぼした。
 
 地元の不動産業者は「刑務所だった頃は、腕に技術を持つ受刑者が作った製品を格安で販売した。車検整備も安くやり、地元では好評だった。ただ、出す時は車内の灰皿に「吸殻」が残っていないか厳しくチェックされた」と、当時を振り返り語った。


Ⅱ.関東軍代屋敷跡

 江戸時代の葛飾・葛西一帯は、一部の寺社や旗本の領地を除き幕府の直轄地(天領)であった。幕府はその管理にあたり「代官」を置いた。その郡代代官屋敷が今の「東京拘置所」の場所である。
 水戸黄門でも代官は悪の権化のように扱われるが、事実、権力を笠に着た者が多かったようである。

 徳川家康の功臣本多忠勝は、「代官と徳利の首に縄は付き物」と言ったとか。関東郡代は家康の入府以来、功績のあった伊奈氏が代々あたった。伊奈氏は、歴代、質実で地味な人柄から将軍の信頼が厚く、殊に農政、利水土木に優れ、その手法は「伊奈流」と称せられた。

(代官屋敷跡・後方は塀内の官舎)
                 
 慶長年間に今の、金町、松戸、小岩、市川、栗橋、に在った関所管理の功により、3代将軍家光から西葛西郡小菅村に約10万坪の土地を拝領した。伊奈氏はこの地を開墾し、陣屋を設け、将軍の鷹狩りの「御膳所」に供したというからそつがない。

 順風満帆の伊奈家であったが、寛政4年(1792)に、12代忠尊が家事不行き届き罪で職を解かれ、領地と下屋敷は没収され家は断絶した。しかし、翌年、幕府は伊奈家の先祖伝来の功績を惜しみ、再興を許した。

Ⅲ.小菅(千住)御殿 

 小菅御殿と言っても東京拘置所の揶揄ではない。小菅に在った別邸である。8代将軍徳川吉宗は、元文元年(1736)、伊奈氏の屋敷内に御殿の造営を命じ、葛西方面の鷹狩り止泊所とした。

(塀の中にある御殿屋敷跡の碑)

 紀州藩に生まれた吉宗は、身長が6尺(180㎝)、体重24貫(90kg)の美丈夫で狩猟
を好んだ。5代将軍の「生類憐みの令」以来、禁止されていた鷹狩りを復活し、元禄以来の遊惰を改め、士気の高揚を図った。小菅御殿の造営は、病弱なわが子家重(9代将軍)を「鷹狩り」で鍛える目的もあった。しかし、実際には将軍が小菅御殿に出向く時は、豪華な遊覧船「小菅丸」で隅田川を上ったという。

 当時の葛飾、葛西地域は野鳥類も多く、今も「白鳥」の地名が残る。農民は鶴を飼育させられ、水田は荒らされ、案山子まで禁止したというから迷惑な話である。
 寛保元年(1741)失火で全焼したが、まもなく再建され、一般には「小菅御殿」または「千住御殿」と呼ばれた。


Ⅳ.小菅銭座跡

 今でも都内には「金座」「銀座」の地名があるが、かつて小菅には「銭座」が在った。安政6年(1859)、幕府は小菅に鉄銭座を設けた。場所は、今の西小菅小学校のあたりだという。

(西小菅小学校正門)

(正門脇の銭座跡)

 ケチを「びた一文出さない」などと言うが、「びた」とは「鐚」と書き、鉄製の一文銭(寛永通宝)のことである。
 小菅で鋳造されたことから「小菅銭」とも呼ばれ、幕末の逼迫財政をカバーする役を担った。
 小菅銭は1枚造るのに1.5文掛ったので別名「出血銭」と呼ばれた。やがて格差がつき、幕府は「銅銭」1貫(1,000文)に対し「鉄銭」1貫500文を同等とせざるを得なかったという。

 文久3年(1863)の鋳造高は70万7,250貫に達し、江戸の両替商を通じて京都・大阪方面に廻送され広く出回った。
 前年の文久2年、幕府は銭座に先例のない鉄製の4文銭の大量生産を命じた。一般に「文久永宝」と呼ばれるもので、民間の評判はあまり良くなかった。しかし、近年になって希少価値を以って好事家の間で人気が高い。ここまで書くと、小菅の銭座は「鐚銭」の生産拠点のように思われるがそうでもない。
 幕府は密かに金・銀の分銅(インゴット)を鋳らせたとの噂がある。ペリーの来航以来世の中は騒然とし、加えて文久大地震の発生など、いつ江戸に暴動が起きかねない世相であった。当時の勘定奉行は、切れ者として知られ、いまだ埋蔵金伝説が付きまとう小栗上野介である。

(日本の貨幣カタログより)

 万一に備え、江戸市街から離れた小菅で金・銀の分銅を鋳造し、舟での移送を想定しても不思議ではない。後年、小菅の銭座の跡から大量の金・銀片が発見されたというが、遠い歴史のロマンである。


Ⅴ.明治維新と小菅縣

 明治元年(1868)、江戸は東京と改まり、幕府の旧代官支配地は武蔵野縣となった。3名の知縣事と呼ばれる新政府の役人が、エリアを分け治めた。翌明治2年、小菅縣、大宮縣、葛飾縣、品川縣、が新しく設けられた。
 
「維新」の響きは美しいが革命であり、旧弊の一新である。
 にわかに政権を握った新政府の不慣れと混乱は、今の民主党の比ではなかったものと推測される。 
 
 現在の葛飾区全域は、小菅縣に組み込まれた。
 小菅縣の行政管轄は、都内の足立区、荒川区、北区、板橋区、豊島区の一部も含み、埼玉県の北葛飾郡や、蒲生、越谷、千葉県の東葛飾郡及び、市川、行徳までも含んだ。
 これを更に15ブロックに分け所管町村は、355に及ぶ広大なものであった。何故、小菅縣が誕生したかは、関東郡代の代官所があったから、など諸説はあるが定かではない。


Ⅵ.名縣知事 川瀬秀治

 明治2年、小菅縣知事に任命されたのは、弱冠31歳の川瀬秀治であった。江戸が東京になったとはいえ、進駐軍の行政官として、徳川家恩顧の地で、司法・行政・軍事、の全権を担った。
 川瀬は天保10年(1839)に、京都宮津藩士の子として生まれ、幼少より文武に優れ、宝蔵院流の槍の達人であったという。
 
 明治元年、河瀬氏は新政府の公儀人(公務員)として京都に出仕し、天皇の遷座に従い東京に移った。同年、太政官の弁事(総務書記官)に任ぜられた。知事として赴任するや直ちに小菅縣報恩法を立案、「法恩社」を結成した。この制度は有志による基金で、縣民が不慮の天災や疾病に際し、無利息で金品を貸与するものであった。
 
 民生事業の魁(さきがけ)ともいうべき制度を民部省は賞讃し、全国に勧奨通達を行なった。その後、欧米を真似た民間の保険相互会社が多く設立されたが、官制の報恩社に刺激されたものと思われる。また、教育面でも東京府より1年早く「小菅縣立仮学校」を開き、縣庁の役人や近隣の希望者を学ばせた。

(河瀬秀治が眠る目黒の祐天寺)

 在任は2年足らずであったが、その後、印旛、群馬、熊谷の各縣知事を歴任し、岐阜の長谷部、韮山の柏木とともに日本三名縣令(知事)と呼ばれた。その後、内務、大蔵、農商務省で累進し明治15年、(1882)実業界に転身、横浜正金銀行(現横浜銀行)取締役、富士製紙㈱社長として活躍した。昭和3年(1928)90歳でその生涯を閉じた。
                

Ⅶ.わが国初の煉瓦工場

 文明開化の訪れは、横浜、新橋、銀座などの洋風建築や道路に、膨大な量の煉瓦が使用されることになった。
 明治5年(1872)、小菅にわが国最初の洋式煉瓦製造所が建設された。原料の「荒木田土」は三河島の荒木田ヶ原に由来し、荒川や利根川水系の土が適した。

(小菅で製造された煉瓦)


(煉瓦を使った小菅の旧家の蔵)


 当時、わが国の煉瓦製造技術は未熟で建築用には適さず、指導する外国人技師の不満が強かった。彼らは外務省にまで強く申入れし、苦慮した政府は中国の上海からの輸入を真剣に考えた。
 
 そんな折、平松栄次郎が英国人技師ウオートルを招聘し、小菅の関東郡代屋敷跡約4000坪(13,220㎡)を利用して煉瓦製造を始めた。しかし、製品は思わしくなく明治6年、工場は実業家川崎八右衛門の手に渡った。川崎はウオートルの協力を得て、ホフマン式の「輪窯」を築き、一度に24万個の大量生産を実現した。
 
 明治11年(1878)、小菅煉瓦製造所は再び経営困難に陥り、警視庁監獄局が買収し官営となった。収治監は囚人に煉瓦を焼かせ、囚人の中で優秀な者を全国の刑務所に送り、技術指導にあたった。
 
 小菅産の煉瓦は、表面に直径約2㎝の「桜」の刻印が打たれていた。上の写真*の部分であるが、拓本でないと鮮明に見えない。
 桜は看守の胸ボタンのデザインを用いたという。 
 明治19年(1886)の月間生産量は115万個に達し、明治38年(1905)に再び民間業者組合の手に移り、関東大震災で窯が崩壊するまで製造が続けられた。


Ⅷ.こすげろの‥‥

 かつて小菅は、徳川幕府お膝元の天領管理で重要な役割を担った。立地的には奥州・水戸・佐倉街道のボトルネック機能を有し、一方で幕藩財政を支える通貨の鋳造など、歴史の舞台で光彩を放った。田畑を耕し生涯を終えた者、職人として黙々と銭を鋳た者、武士としてその職責を果した者など、人々は身分の掟に従い懸命に生き、家族を養った姿が思い浮かぶ。
 万葉集巻14の東歌[3564]に
  
   古須気呂乃  (こすげろの)
   宇良布久可是能(うらふくかぜの)
   安騰須酒香   (あどすすか)
   可奈之家児呂乎(かなしけこらを)
   於毛比須吾左牟(おもいすごさむ)

 の歌がある。武蔵と下総の合い葛飾郡に小菅あり」とある。
「こすげろ」とは「小菅」を指し、古くは海がこの辺りまで来ていて、これを詠んだ歌だという。

 澤潟久孝の万葉集注釋によると~小菅の浦を吹く風のように何をしていても愛しい子らを思い忘れることができない~の意味である。当時、東国の壮夫は防人として九州に遣わされ、その悲しみを詠んだ歌である。歌を今に置き換えると、拘置所に収監され、悶々と我が子を思う気持に通じるものがあり、物悲しい響きすら覚える。

(拘置所正門脇の親水公園。頭上を高速道路中央環状線が走る)

撮影年月日 平成24年1月13日
文と写真   小 池 和 榮
編集     滝アヤ

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