小説家

『良書・紹介』 「漱石センセと私」=出久根達郎

 出久根達郎著「漱石センセと私」(潮出版社:本体1500円)が6月20に出版された。このタイトルの『私』とはだれか。先入観からいえば、妻なのかな? と思いきや違っていた。

 四国・松山にすむ「より江」なる尋常小学校一年生の少女が登場してくる。離れの2階に独身時代の夏目漱石、1階に正岡子規が下宿していた。夏目センセと呼び、子規におだてられて俳句を詠む。より江はこうした羨むべき文学環境の下で育った。
 
 主人公は幼いより江「私」である。文豪の夏目漱石にたいする淡いラブ・ロマンスかな、と思いきや、センセが鏡子なる女性と早ばやと見合い結婚をしてしまう。この予想もちがっていた。
 見合いの場のエピソードは、漱石像の一端を物語り、ユーモラスに描かれている。 


 夏目漱石が松山から熊本の五高へ転任になった。松山の少女は夏休みに入ると、祖父につれられて熊本にでむく。漱石の家に訪ね、新婚の鏡子夫人と対面する。
 一般に、漱石の妻は自殺を図ったり、精神が不安定だったり、悪妻だと決めつけられている。しかし、作者は温かい目で、より江「私」からみた鏡子夫人を優しい良き女性として丹念に描いている。つまり、鏡子夫人は悪妻という通説をくつがえしている。
 それが作者・出久根さんの狙いであり、作品の趣旨だろう。


 より江の恋のスタートは、このときの熊本からだった。
 熊本の旅館で、祖父が急病になった。少女はそのからみで、一高卒で帝国大学医学部に在学する「ドクトル猪之吉」なる久保猪之吉(いのきち)と知り合う。ふたりは人力車で熊本城見学をする。ごく自然に、西南戦争、明治熊本地震(明治22年7月29日)などの語りが出てくる。


 ふたりの間で、松山と東京という遠距離交際がはじまり、やがて恋愛結婚へと成就する。お見合いが中心に座る時代に、なぜ長期に文通が続いたのか。それには理由があった。

 猪之吉がかつて学んだ一高の国語恩師・落合直文が、国語辞典の編さんに取り組んでいた。それに協力する帝大生の猪之吉が、松山のよし江に、「日常生活のなかで、変わった言葉、妙な言葉、どういう意味だろう」と疑問に思ったことばの拾い集める役をたのむ。それに対する返信が都度もどってくる。

 国語辞典の完成まで、ふたりの長い交際の源になる。なるほど、とおもう。と同時に、国語辞典をつくるプロセスが興味ぶかく読める。


『吾輩は猫である』のなかで、より江が雪江で登場するらしい。「もっとも顔は名前ほどではない」とセンセはあんまりであると記す。「ちょっと表に出て一二町あるけば、かならず逢える人相である」と作中で展開しているようだ。
 小説家の妻とか、友人とかはモデルにされると、コケにされるから、要注意かもしれない。


 より江は猪之吉への想いから、やがて東京への進学をめざす。
 夏目センセの奥さま(鏡子夫人)はそれを知ると、二十社の「合格祈願」の朱印が捺された集印帳を送ってくれた。松山からは特産の竹細工を贈る。この交流のプロセスからも、鏡子夫人の日常生活や身辺が克明に描かれていく。


 国語辞典が完成し、より江と久保猪之吉が3年ぶりで再開する。そして、求婚、結婚、初夜、出産と物語が展開されていく。医者の妻として良き人物に成長する、さわやかな内容である。
 この間に、かつて母親の求婚者だった男性を探すシーンが出てくる。その手掛かりは松山の伊予絣(がすり)である。意外な結果だった。こうしたストーリーの味付けも、作品に求心力をもたらしている。

 出久根さんは随所で、漱石作品を深く解説している。と同時に、数多くのエピソードも作中で展開する。二つばかり紹介すると、

 熊本の丁髷(ちょんまげ)を結った古本屋が、懇意なる夏目漱石の書物の好みを教えない。それは権力者が思想調査をしているから、情報提供になってしまうからだという。

 栗の木も素朴だが面白い。枕木になる、堅くて腐らないから舟の艪(ろ)の材料になる、栗飯ご飯はイガから炊き上がるまで手間がかかる、10人家族だと大変だ。現代では消えかけた知識が習得できる。

 エピローグでは当時の文壇事情を解説しているので、幅広い知識が得られる。


『目次』を紹介しておくと、下記の通りである。

 第1章 いっぷり

 第2章 大人

 第3章 ヨとヲ

 第4章 求婚

 第5章 いとしのより江ンジェル

 エピローグ

 

【良書・紹介】 2018年徳間文庫大賞 『二年半待て』=新津 きよみ

 新津きよみ著『二年半待て』(徳間文庫・680円+税)は、女性の目線で、社会人として年齢的に多種多様な問題と向かい合っていく小説である。

 現代人が身近に感じる就職問題、恋人関係、社会の矛盾と病巣、家庭内の複雑な問題などを素材にしている。
『2018年徳間文庫大賞』の受賞の名に、十二分に応える価値ある現代小説である。


 人間は、幸福なひとだとか、不幸せな人生だとか、一つ概念で括(くく)れない。各章立てでは、女性の機微を絶妙に描く。全編を通して、これが女の一生なのか、としみじみ感じさせられる構成になっている。


  読後の感想からいえば、現代の社会人が感じている問題にたいして、作者は一つひとつていねいに深く掘り下げている。男性の目線からも、女性の心理とはこんなにも複雑で、厄介なものか、と思わせる場面が随所に出てくる。
 男女を問わず、大学生から中高年層まで、人間の生き方を考えさせられる作品である。


 就職活動が「就活」と呼ばれて久しい。それが第一話である。第二話の「婚活」、第三話の「恋活」はわかりやすいことばだ。

 第四話の「妊活(にんかつ)」となると、知らなかったな、と思わせる。
 保育園の入園問題から、出産日を決める。数日の違いがゼロ歳児を受け入れるか否かの重要な分岐点となってくる。だから、帝王切開で出産する、あるいは妊娠日を決めるために、セックスの日取りが決まってくる。

 ここらは現実か、作者の想像か、そこはわからないけれど、現代社会の抱えている保育園問題の構造からすれば、十二分にありえる事例認識だとおもえた。


 第五話は「保活(ほかつ)」、そして第六話は「離活(りかつ)」、結婚時において、離婚同意書に署名しておく。その内容も、新郎を甲とし、新婦を丙とする契約書だ。公正証書にでもしておいたのか。ストーリーはその証書にもとづいた離婚式からスタートする。

 29年間の夫婦生活、子育てが終わったからと言って、割り切れないのが人間である。作者はここらの人間の心理を深く掘り下げていく。なるほどな、と納得させられる。


「卒婚」なる言葉も登場してくる。「あえて離婚はせず、結婚を卒業し、大人の関係を築く。男女の役割にとらわれず、互いに干渉せず、自由を認め合う」。となると、『卒婚=自由不倫』かな、と思いを馳せてしまう。こうした思慮も楽しめる小説だ。


 第六話は「離活(りかつ)」、そして第七話は「終活(しゅうかつ)」である。ラストストーリーだけに、人生とは何か、とより深く考えさせられる。人間は老いても、女も男も、恋にこころをとらわれる。90歳になっても、初恋の人を想う。人生はロマンだな、と読後の余韻に結び付いている。


 女性ミステリー作家の第一人者として、作中に「ひねり」もあるけれど、読むうえで推理はさして重要ではない。この作品の狙い・テーマは、ひとことで言えば、『女の生きる道』の現・近未来の姿だろう。
 早晩、そんな社会が来る、と予知させる人間小説である。

【良書・紹介】頑固者が面白い・『小言又兵衛・天下無敵』=飯島一次

 飯島一次著「小言又兵衛・天下無敵」(二見時代小説文庫・648+税)、サブタイトルは、血戦護持院ヶ原(けっせん・ごじいんがはら)である。

 小説は人物が書けていると、面白い。作品に深みと味がある。
 旗本の隠居・小言又兵衛(こごとまたべえ)は、良く書けている。家禄がわずか300俵の旗本だが、8代将軍・德川吉宗に対しても、畏怖せず、「曲った畝(うね)を直さねばなりませぬ」と苦言をいう。武士道にうるさい。その小言がもし間違っていたら、腹を切ります、と吉宗に言いきる。
 時代小説ならばこそ、読者はこうした痛快な人物と向かいあえる妙がある。


 小言又兵衛は当然ながら出世街道から外れたうえ、江戸・本所で隠居へと追いやられる。雇った女中にたいしても、小言が止まらない。女手不足の時代である。
 だれもいつかなければ、困るのだが、それでも小言はやまない。唯一の小者「三助」はいつもへらへらしているし、泣きべそ、弱音は吐く。この人物の存在感がたっぷりだ。


 小言又兵衛は銭湯に行けば、誰かまわず、怒り、叱りつける。となると、銭湯にお客が寄り付かなくなる。当人はわれ関せずだ。この銭湯がよい伏線になっている。

 三助に誘われて、武士が表向き観てはならぬ芝居を観に行く。「鍵屋の辻の決闘」など、町人が夢中になる芝居にこそ、武士道がある、と知ったのだ。
 ただ、江戸中期は、武士といえども、人を斬ることはまずない。(現在の警官が何万人もいても、銃でひとを撃ったことがないのと同じである)。
 小言又兵衛も剣で人間を殺したことがない。ここらも、ストーリーの味になっている。


 作者の飯島さんの素顔は、ふだんから「寄席」に通う。そして、人間の機微とか、人情とか、熱心に研究されている。達者な筆さばきで、登場人物の会話などが落語なみにテンポ良く、切れがいい。


 駿河阿部藩・2万石から、美人の姉と武術のない弟、ふたりが父の仇討ちに江戸にやってくる。芝居町で、博徒やごろつきに襲われている。それを助けたのが小言又兵衛である。
 と同時に、ここから仇討のストーリーが動きはじめる。

 亡き父親はかつて背中を斬られている。相手は同僚だった。金を持ち逃げしている。藩はメンツがあるから、それを内密にしている。
 当時の江戸は100万都市だった。一人の仇を探しだすのは、雲をつかむような話だ。実にミステリアスだ。わずかなヒントから、医者の良庵が謎を解いていく。これら一つひとつに説得力がある。

 読者にも、やがて仇の人物像が見えてくる。悪い町方と手を組んでいる。ここらがわかると、解決しそうだが、推理小説のように、読者の先入観、予測を次つぎと裏切ってくれる。うまいストーリー運びだ。参った。読者はなんどもつぶやくだろう。

 
 次つぎに登場してくる人物は、癖が強く、愉快、痛快、意外性はたっぷり。ラストシーンの護寺院が原で仇をうつまで、目が離せない小説である。

 これ以上はネタバレになるから、書けないけれど、時代小説として善人、悪人が明瞭だけれど、いずれも個性豊かに描かれている。

 
 
 

西日本豪雨で、広島県・坂町の「芸州広島藩の幕末史」講演会が延期

 平成30(2018)年7月16日(海の日)に、坂郷土史会25周年記念講演会として、講師・穂高健一【広島藩の幕末史と神機隊】が予定されていました。
 主催:坂郷土史会、共催は同町教育委員。講演:広島テレビ、中国放送、広島ホームテレビ、中国新聞、幕末芸州広島藩研究会である。
 同町を挙げて、つよい意気込みの下で、150人の入場整理券が6月末の段かいにはすでに配布されていた。


 ことし七夕の日に、猛烈な豪雨が西日本を襲った。広島県下は甚大な被害をだした。同県だけでも、死者・行方不明は53人余り。全国の被害者は死者128人、行方不明者79人であり、平成時代にで最大の自然災害となった。(7月9日10時現在)
 とくに、広島県が甚大である。


 TV報道の西日本豪雨の災害報道で、広島県・坂町が各局のともトップで報じられはじめた。同町内に流れる河川の氾濫、山崩れなどで、坂町に被害者が出ている、という。
 しかし、まだ災害は進行形であり、ぼう大な豪雨の数値がうなぎ登りだ。どこの河川も深夜の真っ暗闇で、水位の状況の掌握が出ていなかった。
 

 私は固唾(かたず)をのんでいた。私はかつて3・11東日本大震災で、岩手、宮城、福島に、二十数回の取材した経験がある。作品は『3・11小説 海は憎まず』で発表しています。


 この経験より、災害被害者たちの苦境、現地の混乱のイメージできる。町の方々はいま、生死を分けた苦闘中である。
 おおかた情報の混乱、情報不足によるつのる危機感、家屋喪失の絶望感、死傷者を出した気持の動転、将来への失意などが、わたしには目に見えるようにわかる。


《災害報道の教訓》

 災害を知れば、だれもが身内・知人の安否を知りたいものだ。ただ、遠隔地・東京などからケータイ、スマホによる電話、パソコン通信が一斉に発信されると、有限の電波回線が浪費されてしまう。
 これは最大の迷惑であら、現地の通信を不能にされて、緊急対応ができない、罪悪である。


 いま、現地の災害救助関係者(消防、警察、自衛隊)が、倒壊した家屋内に取り残されたたちに、「おい、無事か。応えてくれ。妻と子は無事か。連絡してくれ」と懸命にケータイで呼びかけている最中だ。

 東京・大阪など遠隔地から、被災地に飛んでいける場所でもないのに、「皆大丈夫かい」というのんびりした電波消費などは論外である。
現地が知りたくても、電話を掛けない
 これが3・11大震災から日本人が学んだ教訓である。電話を掛けない、被災地への最大限の現地協力になる。

 むろん、私は坂町の講演の行方も気になるが、TV情報だけに押しとどめていた。


            *


 7月7日の深夜21時52分。講演会主催者の事務局から、SNSで『ニュースでご存知かと思いますが、坂町が甚大な被害が発生しています。講演会の会場〈SUNSTARホール〉(坂町立町交流センター)が避難場所になっています』と一報が届いた。

 続けて、『避難場所の同会場は、氾濫した濁流が流れ込んでいます。まだ、豪雨が継続しています』と補足情報が寄せられた。

 これは即返答しないと、坂町郷土史会の方は、私に連絡が届いたか否かの不安が生じる。その精神的な摩耗を避けるために、SNSで「大きな災害のなかで、講演会の気づかい大変なことだったと思います。講演会は臨機応変で臨まれて、皆さまは災害救助、復旧活動に取り組んでください」と発信した。


 同日22時13分には、TVで死者が確認できたので、「被災者の1日も早い回復と、お亡くなりになられた方には、哀悼申し上げます」SNSを入れた。

 同7日深夜22時52分に、坂町郷土史会きから『お見舞いありがとうございます。講演会は一段落したら、ご連絡します』


 翌8日夕方17時53分に、『さきほど、郷土史会の会長から、開催は困難なので、延期となりました』。
 それを受けた私は、大災害のなかで、町の関係者が「講演会」の行方を心配してくれていたたと熱い感慨をおぼえた。

 7月8日(8日)22時02分、私からは「講演の延長の件、了承しました。被災者の方々に心痛し、1日も早い回復を願っています」
 
 7月9日(月)の真夜中の0時17分、『お見舞いありがとうございます。災害復旧の目処がどのくらいかわかりません。時期は、また相談させてください』

 こうしたリアルタイムなやり取りで、講演会は7月16日は中止し、順延になりました。同講演会は、災害復旧の目処が立った時に検討されます。きまりましたら、ご連絡いたします。


【補足事項】

① 7月17日(火)18:30に開催される『幕末芸州広島藩研究会』は予定通り実施されます。

 場所は:port.inc(ポートインク)
   住所:広島市広島市中区本川町3丁目1ー5
   シーアイマンション2F 

 連絡先、同研究会・広報室 090-6416-9518

② 8月11日「山の日」・大崎上島。神峰山大会で、午後【広島藩の幕末の活躍について」が予定通り講演されます。

  問い合わせ先「NPOかみじまの風事務所」0846-67-5530

③ 平成7(1995)年度・第42回 地上文学賞受賞「千年杉」が、テーマとして山津波を取り扱っています。同作品は日本ペンクラブ・電子文藝館『小説』に全文掲載されています。

 千年杉は、選考委員が満場一致による受賞作です。23年経った今でも、穂高健一のなかでも、優れた作品のひとつと評価されています。


 

穂高健一著「神機隊物語」、「広島藩の志士」の出版記念会

 東京下町の葛飾・「立石の飲み会」は、作家仲間と葛飾有志とで、6-7年ほど続いています。
「飲み放題、食べ放題、好き勝手に喋り、あおば女将に代金を支払って帰る」。過去、フォーラムをしたり、昭和が残る立石を散策したり。

「こんかいは穂高さん、出版記念をやろうよ」と言い出しっぺ(発起人)は出久根達郎さん(日本文芸家協会・会長)だった。

「広島藩の志士」の帯は吉岡忍さん(日本ペンクラブ会長)だから、日程を調整すれば、6月15日(金)となった。いつも通り18:00~21:00、穂高健一著「神機隊物語」、「広島藩の志士」の出版記念会が開催となった。


「飲み放題・食べ放題(料理は女将まかせ)18時~21時は4000円/1人。2次会は意気投合した人で好き勝手にどうぞ。あおばに残れば、+1000円」
 世話人は浦沢誠さん(かつしかPPクラブ・会長)である。

 私は幾つもの文学賞の受賞歴がある、単行本も複数出版している。すべて晴れがましいことは断ってきた。「燃える山脈」の帯は谷垣禎一さんだった。超党派議員の「全国山の日評議会」の世話人代議士から「出版記念」をやりましょう、と言われたけれど、これも丁重にお断りした経緯がある。


「穂高健一の出版記念に名を借りた飲み会です。出欠席、参加時間など問いません。気楽に参加してください。「出版記念」は表むき。まちがっても、余計な気など使わないでください」

 この程度の案内を投函する。当日、何人来るか、およその予想は30-40以内だった。過去の常連からしても。

 当人の私はたんなる飲み会だった。出版記念だから、「広島藩の志士」西元社長、「神機隊物語」渡辺社長、縁を作ってくれた大日本印刷くらいは呼びかけようというもの。

 セレモニーなどゼロ計画だった。

 講談師の神田松鯉さんは、国立演芸場の「夜の部」が終って駆けつけてくれる。みんなプロで現役だ。忙しいのを割いてきてくれている。

「奥さんどうした?」
「息子が久しぶりにわが家にくるというので、シチュウを作っていますよ」
「呼べよ。穂高の出版記念だろう」
 吉岡忍ぶさんから、そんな声が飛ぶ。


 
「亭主よりも、わが子が大切よ。女は」
 かつしかPPクラブの秋山さんがそう言いつつつも、もう一人女性と連れ立って徒歩3分、2分かな、わが家まで呼びに行った。
「息子がきていたし、シチュウをつくられていました」
 二度目には妻を連れてきた。

 実際に、連れ出された妻は、プロ作家やベテラン・ジャーナリストたちから、質問攻めだ。出会いからはじまり、何で貧乏作家と離婚しなかったのですか? と遠慮ない。
 突っ込みは人気テレビ番組のコメンテーター歴のある、いや、いまもテレビ朝日にも出ている女性など、突っ込む角度が違う。

 祝いお酒を貰ったり、花束を貰ったり、みんな本気の出版記念だったんだな。最もおどろいたのが当人でした。

 南々社(広島)の西元社長が当該・写真を送って下さったので、自分で書くのも照れくさいけど、HPに写真を掲載しよう、という趣旨です。

穂高健一「広島藩の志士」が神奈川、新潟、宮崎日日、長崎の各新聞で紹介される

 歴史の真実は強い。
 歴史は概(がい)して、ときの政権の形、権力のあり方によって修正されたり、改ざんされたり、ねつ造されたり、抹殺されたりします。
 しかし、幕末からまだ150年です。ねつ造された歴史をただす真実の史料は、豊富に残っています。

 穂高健一著「広島藩の志士」が、「各地の本として」、このたび神奈川新聞、新潟日報、宮崎日日新聞、長崎新聞も4誌で紹介されました。
 と同時に、さっそく同地区の書店から、出版社の南々社(広島)に同書の注文依頼が寄せられています。

「広島藩の志士」が、いまや広島市・同県内で順調な売り上げを示しています。
 この先さき、倒幕の主役だった広島藩、最強部隊の神機隊、広島護国神社の筆頭祭神・高間省三などが「広島で炎上」し、全国に燃え広がっていく良き兆候でしょう。

 


【一部・誌面より】

 倒幕運動に大きな役割を果たした広島藩の志士たちの活躍を描く歴史小説。広島藩・浅野家の日誌を編さんした「芸藩誌(げいはんし)」を忠実に再現した。
「芸藩志」はなぜか、長らく内容が封印されていた。著者は、広島藩が倒幕を指導したという内容が、明治政府の中心にいた長州藩に不都合だったため、封印されたのだと推測する。
 幕末史に一石を投じる一冊だ。

 出版不況で絶版となったが、復刊を望む声が高まり、今回新装版として刊行された。

(南々社=広島市東区山根町27の2・1728円)

和服ファションショー&幕末講演「篤姫と和宮」=神奈川・大和市

 4月22日(日)午前11時から大和市・座間神社で、和服ファッションショーの『プロジェクト幕末・第五回「篤姫と和宮」がおこなわれた。
 華やかな和服ショーは中学生から年配者まで、その家族をふくめて、参加者は約60人。主催は(財)天文郷芸術文化財団で、共催は(社)青少年育成支援大和の心である。

 私は同タイトル「篤姫と和宮」の90分間の講演をおこなった。参加者の大半が女性だけに、幕末史の知識がなくても、わかりやすく理解できるように語った。

           * 
   
 島津家の篤姫が13代家定将軍の御台所(正室)で入った。家定は病弱で、わずか1年9か月で亡くなった。子どもがいなかった篤姫は大奥にとどまった。

 14代家茂将軍の正室として、皇女・和宮が降嫁してきた。和宮は京都御所の仕来りを持ち込む、というのが結婚の条件のひとつだった。
 姑の篤姫は、江戸城の仕来りに拘泥する。
 一般家庭でも、嫁姑の関係はむずかしいのに、ふたりには待女が200人くらいずついた。大奥で、双方が反目し、軋轢(あつれき)が凄まじかったという。
 家茂将軍が大阪城で死去しても、和宮は德川家の人間として江戸城の大奥に住んでいた。
「大奥は一説には、1000人前後だと言われています。夫を亡くした嫁と姑がそこで共同生活です。どんな雰囲気だったのでしょうね」
 私にも想像できない社会です、と話した。

            *

 和宮は孝明天皇の妹で、明治天皇が甥である。14代家茂は征夷大将軍だから、内親王の和宮の方が身分が高い。
「ここが歴史の重要なポイントです。和宮が内親王で、つぎなる15代将軍慶喜においても、身分が上だったと認識していないと、歴史を読み違えてしまいます」

           *  

 徳川幕府が倒れて明治新政府になった。慶応4年1月3日に起きた鳥羽伏見の戦いから、戊辰戦争へと戦火が拡大していった。と同時に、「德川家」が大危機に陥った。それは「德川元将軍家」と「天皇家」との巨大な「家」と「家」の戦いでもあった。

 女性がひとたび嫁ぐと「家」を守ろうとする執念は凄まじい。篤姫と和宮は動乱の中で、德川家を守るために強く結びついた。
 ふたりは持てる人脈を使い、新政府に江戸攻撃の回避を訴えたのだ。

 

 新政府の総裁の有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)が、東征大総督に命じられた。
 明治天皇から錦旗と節刀を授けられた。そして、戦争の指揮権や、徳川家および諸藩の処分(生殺与奪)の裁量権などが与えられたのだ。
 
 有栖川宮親王は京都を出発した。東海道、東山道、北陸道へと江戸に向かった。親王にすれば、和宮はかつての許嫁だった。内親王で親王よりも身分が高い。まちがっても、江戸で内親王を殺傷できない。


 和宮は嫁入りした「德川家」の人間になりきっていた。大奥から従者を京にむけて、明治天皇などに徳川家の家名存続の嘆願書を送っていた。
 和宮は、進軍してくる元婚約者の有栖川宮熾仁親王にも、嘆願書が見てもらえるよう橋本実梁(さねやな)に頼んでいる。
 親王は、徳川家が「和宮を人質にとって戦う」という戦略に出ないかぎり、江戸城を攻撃しない姿勢だったと推量できる。


 篤姫が「薩摩隊長」へと、みずからの命にかけてもと、德川家存続をねがう長文の手紙を出す。一般には西郷への手紙とされているが、篤姫の手紙は最先端にいる島津家臣の隊長宛である。ここらは後世で西郷が美化されて事実とちがう。むろん、西郷が読んだ可能性は多分にあるけれど。

 西郷の立場どうか。篤姫がかつて島津家から正室になるとき、父・島津斉彬(なりあきら)につかえており、婚礼の準備をしている。西郷はつねに島津家の家臣の立場でいた。(それが明治政府から下野し、西南戦争までつづいた)。
 つまり、篤姫には頭があがらない立場だった。

 ともかく、篤姫と和宮は、嫁入りした『家』を本能的に守る必死の手紙をやみくもに幾たびも送っているのだ。


 慶応4(1878)年3月15に予定されていた江戸攻撃、開戦ぎりぎり2日前の3月13日、芝の薩摩屋敷で、参謀の西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟と話し合いがおこなわれた。
 歴史絵画だと西郷と勝のふたり。これはどこまでも絵師の想像であり、双方に複数の立会者が参列していたのだ。写真と違って、絵画はごまかされやすい。
 当然ながら、この会談は有栖川宮親王の指示・命令の下で実施された。
  
 
「和宮を人質にしていないか」と西郷が問う。
「德川家はそんな姑息なことをしない」と勝が応える。

 有栖川宮親王が、その報告を受けると、和宮内親王の処遇において今後とも身の安全が担保されたと判断したうえで、「江戸城攻撃は止めよ」と命じたのだ。

 
 歴史は勝者が作るといわれている。
「一般には、江戸城の開城は勝海舟と西郷隆盛の功績だといわれています。はっきり言って、参謀クラスには決裁権はありません。勝海舟にしろ、西郷隆盛にしろ、かれらが独断で決済できる立場ではない。それなのに、英雄仕立てにしたり、美談にしたりしてはいけません」
 ……徳川家および諸藩の処分(生殺与奪)の裁量権は有栖川宮親王に与えられていたのです。これは歴史的事実である。
「歴史はとかくこのように作り変えられるものです。これはいけません。篤姫と和宮。このふたりが女性特有の執念をもって嫁ぎ先の『家』を守ったことで、江戸を火の海から救い、江戸城を無血開城し、徳川家を70万石で存続させたのです。女性の力です」
 それを強調してから、
「女性は身分が低く、文章を書かなかった時代が近年まで続いていました。歴史を洗い直せば、記録に残されていないけれど、女性の力が大きく働いた、政治・経済・文化の重大局面があるはずです。数多くの真実が隠されているはずです」
 私は篤姫・和宮をそう締めくくった。

           *

 講演のあと昼食会だった。
 琴演奏家の酒井悦子さんが、同会場ですばらしい弦の音色を演じた。さらに、和服姿の学生歌手・中山歌帆子さんが壇上で、軽やかな美声を聞かせてくれた。

講演「知られざる幕末の芸州広島藩 神機隊の活躍」=広島市・船越公民館で

 広島市・船越公民館で、4月15日(日)午後1時半から、講演「知られざる幕末の芸州広島藩 神機隊の活躍」が開催された。参加者は160人で、会場は満員だった。
 主催は広島市・船越公民館、共催として海田市公民館、船越地区老人クラブ連合会、幕末芸州広島藩研究会である。

  午前中は10時から2時間の「海田の歴史ツアー」が開催された。町内の旧千葉家とか、高田藩の藩士が眠る明顕寺とかをまわった。協力は西国街道・海田市ガイドの会、船越誰故草保存会、㈱ミックスである。

午後の講演に先立って、「海田市ガイドの会」が、第二次長州戦争で敗走した高田藩と、帯陣していた海田市(現・海田町)との関連を映像で15分ほど流す。

 明治時代に活躍した最後の浮世絵師といわれる揚州周延(ようしゅうちかのぶ・本名は橋本直義)が高田藩士として参戦しており、海田市から厭戦気分の手紙を江戸に出している。それらを絡めた幕末史の紹介があった。

                 *

 私の講演は、主として「なぜ広島藩が幕末の歴史から消されたのか」という疑問から語った。広島県出身の私が、幕末の広島藩の活躍にたどり着くまで、およそ7-8年かかった。その過程、ふだん聞けないとおもう作家の取材方法と足取りを語った。

 広島城下の武家屋敷があった市内は、どこにいっても、浅野家の史料は原爆投下で無くなったという。学芸員すら幕末史を研究する意欲を持っていなかった。大学から小学校まで、だれも教えない幕末広島藩だった。領主が浅野家だったと、それらも郷土史で学んでいない。
 広島人の歴史家すら、戊辰戦争で活躍した「神機隊」の存在を知らないのが実態だった。

 私自身も、だれもがいう幕末広島の歴史が原爆で消えた、とおもい込んでいた。かたや、まだ幕末から150年だ。「必ずや広島県下には史料が残っている」と信じて、取材で歩きにあるいた。

 やはり、150年では歴史は消えていなかった。広島藩の浅野家の藩校だった「修道学園」にたどり着いた。幕末の広島関連史料がおどろくべき大量に保管されていたのだ。頼春水、頼山陽、阪谷朗廬、浅野家の歴代藩主たちの直筆、藩士たちが学んだ朱子学、四書など教材などが、資料室一杯にずらっと並ぶ。胸が高まり、感動した。
「原爆が投下される数か月前、学校疎開していたんですよ」
 私は幕末・広島藩に近づけたのだ。原爆で消えていなかったと、大きな勇気づけになった。幕末からまだ150年だ。それを信じてよかった。


 ふしぎなもので、運が向くと、広島藩・浅野家の家史「芸藩志」が私の目の前に現れたのだ。明治政府が封印した広島藩の幕末史で、300人が編さんに関わったものだった。
 
「広島藩の幕末史は原爆で消えたのではなく、人為的、政治的に、歴史のねつ造があった」
 それが明確になってきた。
 芸藩志は東京の公立図書館の書架にもあった。著作権・50年が切れているので、コピーは自由にできた。
 それを熟読するうちに、芸州広島藩の浅野家が倒幕の魁(さきがけ)になった、と明白になった。
 薩長芸軍事同盟の時点から徳川政権の打倒、という倒幕へと進んだ。それにもかかわらず、明治時代になると、芸州広島はずしが作為的、ある意味で悪質な歴史のねつ造がおこなわれた、と私は確信をもった。
 

 講演では、「倒幕の主役は広島藩だった」と実証できましたと、取材からの経緯と広島藩の掘り起しを語った。皆、熱心に聞いてくれていた。そこで前半の区切りを入れた。

                *

後半は、160人にいきなり、こう訊いた。
「長崎に歌がたくさんありますよね、長崎の鐘、長崎は今日も雨だった、……。広島になぜ歌がないのですか」

 8月6日、8月9日、数日の違いで、ともに被爆で全市内が灰塵になりました。

 長崎にはいまだに幕末の歴史が一杯あります。オランダ坂、グラバー邸、長崎奉行所跡、出島跡、教会、丸山、長崎造船所など。歴史には情感・情緒、旅情があるのです。
 
 長崎は歴史が旅人を呼び込み、情愛・情景の歌を創りあげています。

 ところが、広島は明治政府による歴史抹殺で、歴史ロマンが消されてしまったのです。広島県民は江戸時代などまったく知らない。その結果として、長崎には歌があり、広島には歌がないのです。


「幕末からまだ150年です。遅きに期したことはありません。歴史の旅ロマンは、これからでも掘り起こせます。縮景園、広島城、護国神社、鉄砲町という町名の由来、頼山陽の生家、横川の大雁木、……、そこに立てば、幕末の知識があれば、その歴史がほうふつしてきます。いにしえが忍ばれる。こころに染み込む情感が感じられるのです」

 私たちの世代が、これから芸州広島藩の活躍を掘り起こし、それを子供たち、孫の世代へと伝えていく。
 広島にも胸を張って伝えられる歴史ロマンの歌も、詩も生まれてきます。

 わたしの著作「広島藩の志士」、「芸州広島藩 神機隊物語」が出版されたばかりです。広島のひとはこれまで幕末史に関心がなかった、無関係だと信じ込んでいただけに、歴史用語からしても、読むには苦労するでしょう。
 しかし、わが故郷の歴史です。読んで、感じて、そしてみんなで広島藩を話題にしてください、と述べた。

            *
 
「倒幕の主役は広島藩だった」
 それはウソ偽りではない。歴史的な事実である。
 広島県民はこれから江戸時代の芸州広島藩・浅野家の活躍を語れるのだと、参加者らは誇らしげな顔だった。


【関連情報】

 講演の写真提供:土本誠治さん

 写真・紫色の花が、「誰故草」です。
「神機隊物語」(第8章・雨中の上野戦争)で、神機隊隊長と揚州周延(橋本直義)との関連で、誰故草が登場してきます
  

「広島藩の志士」がベストセラーに、「広島郷土史」の教育の礎になるか

 広島県下の学校教育には、江戸時代をふくむ郷土史がない。広島、呉、竹原、大竹、瀬戸内の島嶼(とうしょ)部の小中学校において、生徒は「郷土史」を教わらない。

「歴史を知る。遠き過去を訪ねて、わたしが明日に働きかける行為である」
「郷土史とは、郷土愛と郷土の誇りを育てる土壌である」

 郷土史を教わらない義務教育は、異常な現象で、恥ずかしいかぎりである。


 1945年8月6日に悲惨な原爆投下があったにしろ、被災地は中心部から10キロていど。広島県下全体でみれば、江戸時代から明治時代の政治、経済、産業、文化、庶民生活などの史料・資料は広域に残存する。
 その気でさがせば、いくらでも歴史関連資料はあるはず。それをなぜ怠っているのか。広島県下で、なぜ郷土史を教えないのか、と私は疑問をもって育ってきた。

 

 しかし、広島県下でも福山地区はちがう。かつて備後の国である。水野家が備後福山を拓いた、と福山の小学校では、郷土史を教わる。

               *

 原爆後の被爆教育、平和の願い、その教育行政だけでは、広島の子どもは歴史視点から将来を見渡せる人材にならない。もっと真剣に、江戸時代からの広島の郷土愛を育てるべきだ。

「長崎には歌がいっぱいある。広島にはまともな歌はない。なぜか」
 長崎はこぞって歴史を大切にしているからだ。長崎は原爆の被災もある。だが、江戸時代からの出島、長崎奉行所、オランダ坂、グラバー邸、長崎造船所など諸々の歴史を庶民が愛着を持って大切にして語り継いでいる。そこには郷土の誇りもある。

「歴史は情感をつくる。その情感が詩になる。歌になる」
 長崎の鐘、長崎は今日も雨だった、長崎ブルース、~、


 広島は被災後の平和教育だけである。論旨的な核廃絶という平和だけでは片手落ちだ。これでは郷土への愛着や情愛が薄い。「広島は今日も雨だった、カープの試合が流れた」となると、歌にはならない。
 100年後の人材を育てる。それには、広島は歴史を100年、200年にさかのぼり、現代を捉える、そして未来を見通す教育をおこなう。
 そこから、生徒たちに広島が抒情、情感的に愛され、歌が生まれて、名曲となり、歌い継がれていく。

「現代の広島人は、幕末・維新に無力感を持っている。残念ながら、原爆前を知ろうとしない。現代と過去(歴史)との意志疎通ができていない」
 広島で、私はくり返し講演し、幕末研究会などで、そう語っている。一方で、「広島の小中学で、江戸時代をふくめた郷土史を学べる、教育の場をめざそう」と訴えてきた。

「教育は100年の計」だから、教育行政トップから教壇に立つ教職員までが、前向きに、積極的に、江戸時代・明治時代から戦前の歴史・知識を取りにいく。その努力が必要だ。

 それがないがしろにされると、生徒らには広島の政治、経済、文化、風土を教えられない。なにしろ、教員自身が郷土の歴史を知らないのだから、教えられるはずがない。

 そこで教職員が、「芸州広島藩」といわれた時代からの歴史に興味を持ってもらう。そのためには、作家の私が広島を舞台にした歴史小説を書くことだとおもった。より事実に近いところで。
「二十歳の炎」(芸州広島藩を知らずして、幕末史を語るなかれ)を世に出した。売れたのは広島でなく、おもいのほか、首都圏で好評だった。(薩長史観が東京(德川・江戸)では煙たがられていた面もある)。ただ、同書は5刷で、出版不況からクローズとなった。

 出版社が閉鎖すると、その本は暴落するのがふつうである。
 ところが、『二十歳の炎』は、絶版本として、いっとき3万円台(アマゾン・中古)にまで暴騰した。これでは同書を読みたい人が読めない。読めないことは、幕末・芸州広島藩が闇のなかに歴史から消えてしまう。

 私は手持ち在庫とか、カルチャーセンターに委託しカウンターで販売している「二十歳の炎」をかき集めた。そして、アマゾンの中古市場にながした。いっとき4-5000円台まで下がった。ところが、またしても8000円から数万円を行き来する。そこで、私は中古市場の冷却を諦めた。あらためて再版してくれる出版社をさがした。

 そして、今回の広島・南々社「広島藩の志士」(倒幕の主役は広島藩だった!)の出版となった。
 数多くの教職員が目にしてくれる。それには、文化の発信の場を提供してくれる書店の協力が大きい。感謝したい。

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プロ作家から、拙著「広島藩の志士」(3月12発売)のコメントがとどく

 私の親友ともいえるプロ作家たちから、ハガキや手紙で、「広島藩の志士」にたいするコメントが寄せられています。その一部を紹介します。

『まえがき、あとがきがついて、読者が内容を把握できるようにしているのが、良かったです。高間省三が何ものであるか。まず知ることが第一だと存じます。タイトルは改められてよかったです。たくさんの人に読まれることを願っています』
 出久根達郎さん(日本文藝家協会・会長)

『まずは、まえがきを拝読し、興味津々です。放送大学の講師をしており、新年度をまえにあたふたしております。一段落したら、ゆっくり拝読します』
 山名美和子さん(日本ペンクラブ・会報委員、女流歴史作家)

「広島藩の志士と改題されて、地名が入ったことで、歴史書のように、思えますね。私たち他県の者にも読み応えのある物語ですが、広島の人びとにこそ、読んでいただきたいです。微力ながら、(編集・校正)にご協力できたこと、うれしく思います」
 神山暁美さん (日本ペンクラブ・電子文芸館委員)

「広島藩の志士を頂き、幕末維新史の秘話、興味深く、読まさせていただいております」
  高橋千劔破(日本ペンクラブ常務理事、『歴史読本』元編集局長)
            
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 作家仲間のみならず、首都圏に在住の知人からも感想を頂いています。
 同書の「あとがき」には、「歴史に学ぶ」それには「歴史は真実でなければならない」と明記したうえで、しかしながら、慶応3年から4年にかけて幕末に大規模な焚書(たいせつな書類・日記を燃やしてしまう)がおこなわれている、と記す。

 松平春嶽、德川慶勝、山内容堂、島津忠義、木戸孝允の一部、岩倉具視、大久保利通、徳川慶喜、小栗上野介など、大物大名や家老、公卿たちの日記が悉(ことごと)くない。ある大名日記の端には焼け跡すら残されている。こうした焚書の実態を紹介しています。

 現在、国会の予算委員会では公文書偽造、ねつ造疑惑が論点になっているし、「平成の現代でも、いまだにそうだから」、明治時代の半ばに、薩長閥の政治家が自分たちに都合よく焚書をやったと疑いはない。同書の「あとがき」には説得力がある、と多くの方が納得されています。

 近い将来に、幕末・維新の焚書が、社会的・歴史的な問題になり、おおきな反響を起こせば、穂高健一が「幕末史・恥部の焚書」にたいして真っ先に「広島藩の志士」で、口火を切ったことになりますね。まさに、近代史革命です。
 この本をたいせつに保管しておきます、という声もありました。

 写真・中国新聞ことし(2018年)3月14日号の一面・下段に「広島藩の志士」の広告が、大きく掲載されました。

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