小説家

「穂高健一の文芸技法・小説の書き方」① 小説は最後まで読んでもらえば、実力がある

 わたしが小説を書きはじめた30歳のとき、小説技法がわからず、迷いのなかにいたものです。直木賞作家の伊藤桂一氏の小説講座に出合うことができた。それがわたしの人生すらも変えてくれました。

 当時、講談社が芥川賞・直木賞作家を養成しようという趣旨で、フェーマススクール「小説講座」が誕生した。純文学は伊藤桂一氏、エンターは山村正夫(やまむら まさお・ミステリー作家)氏だった。
 受講生は予備審査があり、世に出たい一心のひとたちばかりが集まっていました。

 山村教室からはミステリー作家として宮部みゆきさん、篠田節子さん、新津きよみさんなど著名なプロ作家が続出した。
 かたや、純文学は道が遠く、伊藤教室からは、いちどは文学賞を受賞するが、プロの道まで進めない人ばかり。少なくとも、書店で買ってもらえる作家までたどり着けなかった。
 フェーマススクールは、絵画部門の赤字から数年で閉鎖されてしまいました。

 その後、数十年経った現在も、伊藤教室は「グループ桂」という同人誌をつづけてきています。山村教室もかたちを変えて続けられているといいます。
 当時20~40代のエネルギッシュな人たちばかりだったから、文学の火を消したくないと継続できているのでしょう。


写真:宮古島

 わたしは現在、読売カルチャー金町、目黒学園カルチャースクールで、ともに「文学賞をめざす小説講座」を開いています。ときどき、講師だった伊藤桂一氏のことばを想いだします。

「講師は自分の創作の仕事がありながら、受講生・数十枚の作品を目を凝らして読まされることになり、少々の読み取り料をもらっても、たいそう負担になる。小説が好き、人の面倒を見るのが好き、読むことを苦にしない、という性格でなければ、つとまらない」
 と著作のなかで書き記しています。まさに、作家を育てたいという熱意がないとできない。

 わたしは時おり、このように語っています。
「純文学作家として、プロの道に進めたのは、伊藤教室・伊藤桂一先生のおかげです。先生への恩返しのつもりで、小説を書きたいという後輩に、作家になる道の手助けをしています。だから、指導のために、手を抜きません」
 受講生が最高だと思った提出作品に、朱が入れると、失望して去っていく人が多い。

「穂高教室は、入ってきた人数だけ、止めていきますね」と、受講生にからかわれたりする。それは、小説で世に出るには、狭い関門を潜らないと出ていけない。文学賞を取らないと、世のなかの人は買ってまで読んでもらえない。
 世のなかで、最も賄賂が効かない世界ではなかろうか。

 良いところは褒めてあげて、そこを伸ばす。悪いとろこでなく、改善点として、このように変えてみたら、と示してあげる。

 受講生を引き留めるための、おべんちゃら(ほめ殺し)は使わない。それに徹している。



            写真:山口線   
 
 私の指導のなかには、純文学へのこだわりがあり、カルチャーの小説講座は、文章作法がうるさいと思う。

 主語+述語、その関わりが悪い。助詞の使い方は、ここでは「は」でなく、「が」です、といった点までも、チェックしたりもする。

 皆さんが文学賞に投稿しても、基本的な文章、小説技法ができていないと、「世に出る資格はまだない」と、いとも簡単に捨てられてしまいます。
 皆さんが応募作品100枚~400枚の原稿を書いても、大半は最初の1、2枚しか読んでもらえないのですよ。悲しくなるでしょう。

 なぜならば、文学賞は一人、優秀賞、佳作など入れても、3人ていどです。仮に1000作品の応募があっても、997作品を棄ててしまえばよいのです。

 1000作品でも、下読みはせいぜい3人ていどです。(大半が微細な予算)。下読みには一人あたり段ボール箱で、300人分ていどの作品が送られてくる。「最後まで読める」その作品を抽出すればよいのです。
 つまり、振り落す作業です。

 下読みはほとんど1週間くらいしか期間はありません。全員のリストにABCのランク付ける。Aランクの作品だけ編集部にもどす。あとは、ゴミ箱行きである。

 下読みから挙がってきた作品の50~100枚が一次通過作品になる。残り900作品はどこか焼却炉に消えている。それが厳しい現実です。
 わたしの知人の小説の下読みは、多少の差はあれども、そんな体験談を語って聞かせてくれます。

 一次予選通過は編集部が手分けして読んで、2次予選を決める。そして、こんどは編集部全員で読んで、候補作を確定する。
 
 わたしは指導する場合、伊藤桂一氏がつねに『最後まで読んでもらえる小説を書きなさい』ということばを座右の指導の言葉としています。

 小説は一人よがりでは読んでもらえない。どんなに執筆に月日や歳月をかけても、小説作法の基本ができていないと、最初の書き出しで、終わりです。
 これでは淋しいし、悲しい。

 そこで、このHPでも、カルチャーで受講生に指導しているレジュメ(教材)などをつかい、「穂高健一の文芸技法・小説の書き方」として連載しよう、と考えました。

 今回は、小説の応募作品はどのように扱われるか、と知るかぎりの内情を示しました。


※ 部分引用・全部引用の場合、「穂高健一の文芸技法・小説の書き方」と明記していただければ、非商業誌、商業誌の転載もOKです。

 小説を書くひと、読むひとが増えれば、それが文化の発展につながりますから。 
    

小説講座のアフター・フォローで、 真半分に割れた「エンディング」

 読売カルチャーセンター金町で「文学賞をめざす・小説教室」の講師をしている。第4週木曜日の夜6時50分から2時間である。

 なぜ、夜の講座なのか。それは会社帰りのサラリーマン、OLが仕事帰りに、小説が学べるように、という配慮だ。

 片や、目黒学園カルチャースクールでは、第2週午後3時~5時までだ。こちらは平日だから、薬剤師とか、自由業とか、お寺の奥さんとか、日祭日が出勤で平日休みがとれる勤め人である。


 教室内の講座の進め方は、ほとんど同じである。提出作品は文章添削と、作品全体の講評を400字詰め原稿用紙1枚に書いて、各自に手渡している。時折り、私が「小説の書き方」のレジュメ(教材)を配布することがある。


「文学賞は結末が勝負です。最後まで読ませる技量を身につけることです。そして、結末(エンディング)はテーマとぴたり一致させる。これが最良です」
 講師の私は、小説講座の指導で、最も重視しているのが、エンディングである。


     備後福山城       
 
 
 読売カルチャー金町の場合は、講座が終わるのが夜9時である。勤め人の方は、職場から教室に直行して来ているので、だれもが空腹である。

 小説講座がおわると、高層ビル内のファミレスで、軽食を取り、ビールやドリンクバーで、のどを潤し、諸々語りあう。
 講師の立場から、「プロの小説家をめざすには」と動機づけの場にもしている。


 質問が出れば、私の体験談も語る。また、私の著作の解説、あるいは創作の舞台裏も語る。

 私は純文学でスタートした作家である。最近は歴史作家といわれることが多い。歴史ものの単行本が出版が続いているからだろう。それとともに、歴史講演の依頼があるから、なおさらだと思う。


 受講生にも直接・間接に影響を与えているようだ。小説講座で、歴史小説を書きたい、というひとがふえてきた。

 恋愛小説はせいぜい40歳代まで。その先は感性が鈍る。歴史小説、時代小説も書けるようにしておくと、息の長い作家生活ができる、と薦めている。

                  *


 静岡県出身で、IT会社の若き役員Yさんは、伊豆の歴史小説、とりわけ江川太郎左衛門を書きたい、とつねに語っている。それだけに、幕末の小説には関心が高い。

 私が最近出版した【安政維新】(阿部正弘の死後)について、Yさんがその話題を持ちだし、
「エピローグで、えっ、こんなおわり方があるの? と意表を突かれました」
 と話題をつくった。


「期待外れだったの」

「まあ、そうです。穂高先生は、小説は死んだところで終わらせるな、というのが教えの一つですよね。阿部正弘が享年39歳では死ぬと、当然わかっていましたから、その先は先生がどう処理するのかな、と楽しみにしていました。しかし、エピローグとなり、その後の歴史の流れにまったく触れていなかった。それが意外です」

「Yさんは、どんなふうに考えたの?」と質問してみた。


「阿部正弘が死んだあと、安政の大獄が起きますよね,そこから尊王攘夷論の旋風が日本中に吹き荒れます。あっという間に、260年続いた徳川政権が瓦解(がかい)したわけです。だから、阿部正弘の開国・通商が、どう瓦解に影響したのか。穂高先生はそこらまで筆を延ばすと思いました」
 Yさんはそのように応えた

「実は、Yさんとおなじ意見が、日本ペンクラブの著名作家からあったよ。なぜ穂高健一は、薩長史観を問い正すところまで書かないのか。それを期待して「安政維新」を読んでいた。失望したよ、と強烈な意見だった」とおしえた。


「ぼくは、薩長史観の批判・攻撃でなくても、阿部正弘がペリー来航後に雄藩から意見を聞いたから、その後は外様大名の発言が大きくなった。それが強いて、徳川家の命取になった、という注釈ぐらいはあってもよかったと思います」と、Yさんはつけ加えた。


 わきから、聞き入るS君が口をはさんだ。かれは明治時代を背景にした作品を書いている。

「あのラストシーンがよかった。十三代家定将軍が、えっ、天下の命を失ったと茫然(ぼうぜん)とする。そこがとてもよかった」

                 * 

「小説とは人間を書くもの。これはジャンルを問わない。たとえ、歴史小説といえども、阿部正弘の人間が描き切れていればいい。だから、エピローグは、死後の歴史などとらわれなかった。私には、当初から、この終わり方しか考えていなかった」
 私(穂高)は、そのように説明した。


 ことし(2020)1月8日の広島県・竹原市の講演会「幕末 芸州広島藩の活躍」のおわったあと、聴講者の数人とお茶を飲んでいた。土岡さんがボールペンで、掌に『残心』と書いた。

「安政維新を読み終わったとき、ラストで未消化な気持ちになりました。ところが数日後になると、エピローグの読後感がもっとも心に残っていました。つまり、『残心』です」
 

 昨年10月の発行後、まっさきに感想をくれたひとが、広島市・平見さんである。
「よかったです。エピローグは三度も読みましたよ」といきなり、そこに及んだ。
 

 このように、「安政維新」(阿部正弘の生涯)のエピローグは、評価が真半分に割れている。
 歴史書に近いところで読まれた読者は、エピローグに不満を感じたらしい。
 阿部正弘の性格・人柄など感じ入ったひとは、エピローグに読後感の良さと余韻をもったようだ。


  さまざまな読み方がある。それが小説だろう。

  文学賞は、「実力+運」だよ。選者好みに合う、それが作品の運だから、と説明することもある。

《講演会・案内》「幕末 芸州広島藩の活躍」広島県・竹原市

 穂高健一の講演会が、1月8日に広島県・竹原市で開催されます。題名は「幕末 芸州広島藩の活躍」で、サブタイトルは「~頼山陽から神機隊まで~」です

 開催日 令和2年1月8日(水)

 時間  13:00 ~ 15:00

 会場  グリーンスカイホテル竹原
      竹原市中央4-2-18

 定員  100人(先着順)

 会費  500円

 問合せ先 : 芸州広島藩研究会 広報室 山澤さん 090-6416-9518


 講演の趣旨


 ① 竹原の商人・頼春水(らいしゅんすい)は、広島藩・浅野家の学問所の創設者のひとりです。江戸詰のころ、ときの老中首座・松平定信の「寛政異学の禁」に、大きく関わりました。
 息子の頼山陽は広島で育ちました。武士の身分に取り立てられており、山陽が脱藩を企て上洛すると、叔父の頼杏坪(きょうへい)によって京都で発見され、広島へ連れ戻されました。廃嫡のうえ自宅へ幽閉されます。このときに『日本外史』を執筆しました。
 武家の栄枯盛衰を名文で書きあげた歴史書で、幕末の尊皇攘夷運動に影響を与えました。江戸時代・明治時代を通して、日本史上の最大のベストセラーとなりました。
  
 竹原が生み出した頼春水・頼杏坪(『芸藩通志』などの藩史編さん)・頼山陽の息子の頼三樹三郎(安政の大獄で、吉田松陰らとともに刑死)などを語ります。

 広島藩が幕末の倒幕におおきく関わりましたが、その一つには頼山陽の皇国思想があったからである、と講演で語ります。


 ② これまで広島藩の幕末の活躍が、世のなかに、ほとんど知られていませんでした。それは明治政府が浅野家史「芸藩志」を封印したからです。世に出たのが昭和53年にわずか300冊です。
 このころ坂本龍馬を題材にした司馬遼太郎著「竜馬がゆく」が昭和41年に出版されておりました。当然ながら、広島藩の存在は司馬氏もまったくわからず、龍馬を英雄に仕立てる司馬史観で書きあげています。

 実際は薩芸倒幕です。しかし、司馬史観によって薩長倒幕にすり替わってしまいました。

 江戸時代を通して、広島藩は薩摩とは御手洗交易を介し、経済的に強いつながりがありました。特に、アメリカ南北戦争のあと、フロリダから繰綿の輸出がとまり、薩芸貿易によって、薩摩が多大な利益を上げました。
 
 これが徳川幕府を倒す、大きな原動力になりました。


③ RCC中国放送の中四国ライブネット「芸州・広島藩から見た明治維新!」が、(1か月半前)、昨年(2019年)11月17日(日)18:00~20:00生番組で放送されました。
 司会:一文字弥太郎さん、岡佳奈さんです。

 この2時間の生番組のなかで、幕末史では第一人者の原口泉さん(篤姫。西郷ドンの大河ドラマの時代考証)が、従来の薩長同盟の定説をくつがえす、爆弾発表をしました。そのうえで、薩芸交易と広島藩の存在がなければ、徳川幕府の倒幕はなかったと、はっきり言いきりました。

「くわしくは穂高先生に聞いてください」と結んでいます。

 薩芸交易、長州戦争、大政奉還、さらに戊辰戦争に自費で参戦した神機隊まで、広島藩の立場で語る講演会です。

【歴史エッセイ】③ オランダ風説書を知らずして、幕末歴史小説を書くべからず

 朝日カルチャーセンター千葉で、月に一度は「幕末・維新史」の講座をもっている。いまは、私の著作「安政維新」(阿部正弘の生涯)を教材にしている。むこう3か月にわたる連続講座の予定である。


 主として、歴史小説の作品を作るうえで、基礎になった資料とか、創意とか、創作(各章)の組み立て方とかを語り、同作品の認識をより深めてもらう趣旨である。

 一般に、私たちは書籍を読んでも、記憶の底に残るのが5-10%ていどくらいであり、全体が長々と残ることは、特殊な場合以外ほとんどない。
 その5%のなかみが、人物への感動、強いドラマ(出来事)、思想、ある印象深い場面、教示的なことばなどが、読後感の良さとともに残るのである。


 私の経験からいえば、著者から生の声で聞いた裏舞台は何年経っても、わりに残っているケースが多い。若いころでは、「小説はそんなふうにして創るのか」というものが断片的にしろ、長く記憶に残り、プロ作家になっても役立っている。

             *

 著作「安政維新」(阿部正弘の生涯)について、8年前から着想があり、取材をつづけていた。
 日本の歴史学者は信用ならず、ウソが多いと、直感的に思った。となると、海外の情報を駆使して書こうと考えた。

「一つずつ、歴史的なできごとは海外側から裏を取ろう、それは刑事が裏を取る捜査とおなじ手法」
 それはすべて事実かな、本当かな、と疑問を持つことだった。この意識で、とくに5-6年まえから海外資料の取り込みをはじめた。

 当初は語学の面とか、資料収集とかには難があった。手探りで、根気もいる。ただ、IT時代の進化があり、古い英字新聞でも、多言語(英・仏・オランダ・ロシア)の書籍でも、グーグルをつかえば、日本語への翻訳が瞬時にできる。これは便利だった。

 このコツをつかむと面白いほどすすむ。それがやりがいにもつながった。

「日本の歴史学者は、ここまで、よく平気で、ウソを教えられるな」
 そんなおどろきが年々高まってきた。日本側と欧米側と、認識が真反対だったりもした。
「ごまかされたり、隠されたりすると、人間は腹も立つ」
 そんな気持ちがしだいに強まった。


 明治政府以降は、薩長閥の御用学者の歴史ねつ造の塊で、不都合なことは国民に知らせていない。ときには事実の方が少ないのではないか、とすら思った。

             *

 今回は、德川幕府の首脳陣が、どれだけオランダ風説書から国際情勢を持っていたか。その実例を示した。主として「1852年・1853年の別段風説書」である。

「えっ、そこまで知っていたんですか。ぼくは知らないことだらけだ」
 朝日カルチャーの受講生は、一つひとつにおどろきの声をあげていた。

「当時の日本の国際情報の収集力はすごいよ」

 実際はぼう大な情報ですが、その一部をここに記してみます。 


浦賀港の渡船 (神奈川県)


『 別段風説書の抜粋 』


・ 最近の情報(1852年)では、アメリカ合衆国より軍艦を派遣し、交易をおこなうために、日本に渡来するということである。米国大統領親書を提出し、また漂流民を連れてくるようだ。
 この使節は、民間貿易のため日本の1-2の港の利用許可をもとめる。適当な石炭貯蔵の港を用意して、カルフォニアと中国の間を往来する蒸気船に役立つために、日本に願い出る。

・合衆国の軍監で、現在、中国附近に展開しているのは、次の通り。
 シュスケハンナ号(軍用蒸気船)、サラトガ号(コルベット)、フリモス号(コルベット)、プリモス号(コルベット)、バンダリア号(コルベット)を江戸に送れと命じられている。

・艦隊司令長官はオーリックであったが、ペリーという者に交代した由である。


・アメリカ東海岸より出港するのは次の通り。
 ミシシッピー号(蒸気外輪船・旗艦艦長・艦隊司令ペリーが乗船)プリストン号(蒸気船・指揮官はシドネイ・スミット中尉)、ペルリ号(輜重船・艦長ハイルハスキ)、サプライ号(輸送船・アルチュル中尉)である。

・ある情報では、陸軍、攻城武器も積んでいる。(現代の海兵隊か)。ただし、出帆は1852年4月、(嘉永5年3月)よりも、遅れるだろう。


「アメリカ艦隊が喜望峰を回ってアジアにやって来る。途中で、船舶機関故障が多々あり、浦賀にたどり着いたペリー艦隊は4隻です」
 私は補足説明をした。


・ オランダとイギリスは海底電設設備の計画が始まった。これはフランス・イギリスと開通したものとおなじ(英仏間の海底ケーブルはすでに別段風説書で日本に連絡済みである)


・ フランスはナポレオン三世が国政を掌握した。昨年定めた、国政改革は廃止した。これは国民大衆に助けられたものである。(民主革命)


・ トルコ国境で、オーストリア軍が介入してきた。全般的に治まっていたヨーロッパ諸国の平穏が破られようとしている。(クリミア戦争の予兆)


・ オーストリアに敵対してミラノ(イタリア)で市街戦があった。すぐに鎮圧された。


・ アメリカのエリクソンが蒸気機関に関した重要な発明をした。蒸気機関では、水を用いるが、水の代わりに空気を用いて、これを熱して運動力をえる工夫をした。通常の薪炭が五分の一になった。


「黒船が来て、蒸気船を初めて知ったと教える。こんな嘘が現代の日本の歴史教科書です。阿部正弘たち江戸の幕閣は、もはや蒸気機関の構造までも知っていたのです。なぜ、日本の学者は、日本人に真実を教えないのでしょう」
 私はこんな注釈も加えていた。

 ・アメリカで今年3月25日に、万博が開かれた。
「別段風説書には、万博の詳細が書かれています」


・ ドイツには多くの国郡があり、共和国にしたいという願望があるが、なかなか実行できない。ドイツ制をプロシアで新たに決定し、ドイツ国内で実施したところ、1-2カ国は異議なく認めた。この方式で、プロシアの国王がドイツ国王の任に当たる。

「プロイセンとの日普修好通商条約はやや遅れて結ばれます。(3年後の1861年)。この交渉過程で、外国奉行・堀利熙(としひろ)が、老中の安藤信正と言い争い、割腹自殺しています。堀利熙は阿部正弘に見いだされた有能な人材でした」


・ エジプトはアッバツ・パシャの支配するところであるが、まるでトルコの属地になったかのように見える。
「日本と関係ないようなエジプト、オーストラリアの巨大な金鉱発見、デンマーク海軍のこと、ハンガリーが戦争の危機など、別段風説書は他にも国別に細かく報じられています」


・ 南北アメリカをつないでいるパナマ地峡を切り崩す件で、関係国がロンドンで会議を開いた。この切通し(運河)は、大型船が通れるように、幅が広く、底深いものになる。


「徳川幕府は、こうしたパナマ運河をつかえば、西洋と日本が近くなる。もはや、世界自由貿易が、スエズ運河、パナマ運河で、地球規模になっていく、と認識していたのです。清国のようにアヘン戦争で負けてからでは、不利益な条約が結ばれてしまう。だから、開国と通商は、日本側から先手を取って、条約締結の交渉を持ちだしたのです」


「たとえば、フランスはワインの輸出国です。通商条約の交渉のテーブルに乗ると、日本側が酒類に輸入関税を35%かけてきた。清国は5%だ。日本の外国奉行はもし嫌だったら、日仏通商条約は結ばなくてもいい、という強気の態度です。フランスは約1か月間ほど粘ったけれど、とうとう妥協させられた。他の4カ国も、ことごとく輸入関税は20%にさせられた」

 外国の当時の資料を読み解くと、日本人はしたたかだ、欧米はことごとく不平等条約にさせられた、と怒りまくっています。
 それなのに、日本の歴史教科書では、日本側の不平等だと教えている。ここらの細部は「安政維新」(阿部正弘の生涯)に、くわしく描かれています、と補足した。

               *

「国力は人口構成がとても大切です。オランダ風説書は、それも伝えています」

・ アメリカ合衆国の人口(1850年現在)、白人1963万人、有色自由人42万8000人、奴隷320万4000人、総人数2326万2000人。

「広大なアメリカの人口は2326万です。日本の嘉永時代は3000万人を越えていました。日本がいかに過剰人口で、食糧難だったか。この数字からわかるでしょう」


 餓死ほど、人間につらいものはない。母親がわが子を亡くす、家族が餓死で全滅。路上には死骸の山。食糧不足から伝染病が流行する。これが当時の現実だった。

            *

【 ここから、穂高健一の説明です 】

 政治家・阿部正弘は、民の飢えに最も心痛めていた。それには食糧輸入で、飢餓列島から解放される、という施策を取った。
 水戸の徳川斉昭が過激な攘夷をふりまわしても、阿部正弘は日本人のいのちを救う、と一途に開国にすすんだ政治家だった。

 阿部正弘の信念は明確です。かれには私欲、自分の立場の損得などなく、備後福山藩のためでもなく、賄賂は一切もらわず、ともかく日本国民のために尽くす姿勢を貫いた。その面では稀有な天才的な政治家だった。
 だから、22歳で老中になり、享年39歳まで日本のいのちを任せることができた人物です。


「リンカーンにも、勝るとも、劣らない、政治家だった、と私は考えています」

 安政の5か国通商条約が結ばれたあと、幕末、明治時代、大正時代にはなんども天候不順の凶作が起きています。しかし、餓死者はいちども無かった。貿易で稼いだお金で、食品が購入できたからです。

「開国・通商から160年経った今も、横浜、神戸の国際貿易港が最大限に活用されて、日本を豊かにしています。植民地にならず、100年、200年先をみつめられる政治家がうまれたわが国は幸せです。私たち日本人の誇りです」


「鎖国にもどせ、という『尊王攘夷』が最高の素晴らしいイデオロギーだったと、ごまかされないでください。德川幕府を倒すには有効な戦略だったかもしれません。しかし、家族が飢えて死ぬ、死臭の世界にもどれ、という鎖国主義は、人間の命の尊厳さを欠いています」

 
 水戸藩がつくった尊王攘夷論が、長州藩によって過激攘夷論へと拡大しました。これは粗野な思想です。国民・庶民の安心できる平和な暮らしよりも、真反対の戦争の道へと進む道になったのです。
 いまの日本には戦争など必要はないのです。英雄なども必要としない。英雄史観で尊攘論を正論とすれば、危険思想に結びつきます。

 いまや、戦争を否定する、正しい歴史認識で教えてくれる学者が求められる時代になってきました。

 ペリー提督来航の前をさして知らずして、オランダ別段風説書の内容も知らず、尊王攘夷論で幕末歴史小説を書くような薄っぺらな作家は必要としない時代に入ってきたのです。
「それを自戒としています」
 私はそのように受講生に語った。

私の半生とはなにか。なぜ生かされて、小説家になっているのだろう

 いま、わたしの半生をさかのぼってみれば、物書き、登山、病気の三つが大きな比重を占めているし、それぞれが人生に大きく関わってきた。


 小説を書きはじめたきっかけとか、動機とか、よく訊かれる。
 闘病生活など語りたくないので、さらっと、『28歳で大病したので、寝ながらでも、なにか有意義なものがないかと考えました』と前置きし、それは前まえから願望だった中国古典を読みあさることでした、と話す。
 一年半ほど、その読書がつづきましたが、寝ながら厚い本をもって読むのはとても重くて、手が疲れてくるものです。
 そこで思いついたのが、『寝ながら思慮し、起きたときに執筆する』という小説家への道です。当時はとても高い憧れかな、と応えている。

 つけ加えれば、入退院をくり返した15年余でしたが、この間に、直木賞作家の伊藤桂一氏を師としてあおぐ幸運がありました。それがわたしの人生の岐路になりました。「戦地でも、上官の目を盗み、隠れて執筆していた」という伊藤先生の苦労に近づこう、それに近い努力をしよう、という道筋ができたのです。

 妻には、そのうち作家になるからと宣言し、炊事、洗濯、掃除、育児をすべて押しつけてきた。
「この世に生まれてきたからには、一作品は名作を残したい」
 わたしはとくに純文学に拘泥しましたから、10年、20年経っても、めざす文学賞のひとつもとれない。きびしい世界でした。

 わたしは実印をもたない男です。妻の親が一軒家を建築してくれたし、自動車の免許も持たないし、親の産み方が悪かったのか、病気ばかり。
 妻の内職で、子どもの養育費が賄えていた。

            *

 小説に没頭しながら、入退院の狭間の元気なときは、もっぱら登山でした。妻の嫌味のひとつも飛んでくる。そこで考えたのが、エッセイ作品の投稿だった。

 公募ガイドを折々に購入し、片っ端から応募した。次つぎに受賞した。エッセイの募集要項には、主催者がなにを求めているか、テーマが明瞭だから、わたしには書きやすかった。

 当時のわたしの文章技量は、小説で二次予選、最終予選にもいくレベルでしたから、応募者が1000人いても、3本のうち2本は賞に入るだろう、という自信があったのです。
「エッセイは事実を書く」
 そんな妄想が主催者にあるから、尤もらしく感動エッセイを書けば、最優秀賞でなくても入賞作品になった。
 つまり、選者の目をごまかすテクニックを身につけていた。授賞式には妻と同伴すると決め込んでいました。華やかなパーティー場で、妻までチヤホヤされるので、夫のメンツが立つ。

 しかし、小説の授賞式ではないし、わたしは複雑な気持ちでした。その精神的な苦痛から、解放されたくて山岳登山をくり返していたのです。

「……、やはり、小説の筆力はないのかな。これが最後」となんども折れかけました。挫折感のくり返しでもあった。25年かけて小説の文学賞にやっとたどり着いた。
 そこから受賞癖が付いたのか。毎年のごとく、小説の受賞、優秀賞、入賞と延べ8回もつづいた。


 いま思えば、伊藤桂一氏は『小説の職人』といわれて、数多くの選考委員だった。その教えは「結末が勝負」という極意でした。それがわたしの習作時代の多作で身についていたのでしょう。投稿作品が候補作になると、その作品は結末がぴたりテーマとなっているので、まちがいなく受賞するだろう、と自信を持っていました。

            *

 この間に、わたしは山岳で3度、「これで死ぬのか」という滑落を経験しました。

 北穂高の山頂直下の大雪渓、新雪の奥日光・根無草山では捜索隊がだされたし、真冬の八ヶ岳・硫黄岳の噴火口では標高差190メートルの滑落だった。
「どんな遺体になるのかな」
 と死の恐怖とともに、わたし自身すらふしぎに思えるほど、反射的なピッケルワークが利いて奇跡的に助かったのです。


 文学賞を受賞してからは、純文学のみならば、雑誌のミステリー連載の注文も受けました。龍馬ブームのときには、「坂本龍馬と瀬戸内海」という雑誌連載のしごとが回ってきた。それが幕末歴史小説の執筆への入口となりました。

 いつしか数かずの史料・資料をあたっているうちに、官僚が作った日本史の教科書がいかに嘘が多いか、と腹立たしさを覚えました。

「明治政府がおこなった、幕末史のわい曲は国民のためにならない」

 薩長の下級藩士が伸し上がった明治政府は、自分たちをより大きくみせるために、前政権の徳川幕府をことのほか批判している。…… 徳川政権は愚劣な政治であり、討幕する必要があったと筋書きを作っている。これはきっとウソだ。そんな確信にたどり着きました。


                *

 国難(外患内憂)の徳川時代は、有能な人材を最も多く輩出したときです。身分が低くても、抜擢されたかれらは、優秀な語学力で海外文献を読みこなし、国難に立ち向かう外交官になっていきました。そして、かれらはアジアで唯一、植民地にもならず、貿易立国の素地をつくりあげたのです。

 これは日本人の誇りです。

 勇ましい為政者は、能力に関係なく「もう、戦争をやるしかない」と国民を動かせます。反面、戦争をせず、外交で解決する、というほうが数段に難儀で、知的能力を要求されます。
 平和を維持した徳川政権から学ぶ。そんな考えから、わたしは早くに阿部正弘に目をむけはじめました。しかし、阿部正弘の日記は明治に焼かれていましたから、8年間にわたる長い取材になりました。

 いまやIT時代ですから、外国資料・文献を引っ張ってきて、グーグルで自動翻訳することができます。
 外国側から徳川時代の日本をみると、なんと、わたしたちが教わってきた内容とはまったく違う事象に出合うことが多くなりました。どっちが嘘なのか。ペリー提督の遠征日記などは針小棒大、自画自賛ではないか。そんなところにまで、たどり着きました。

 学校教育では「安政の通商条約」は不平等条約だと教わっています。しかし、当時の5か国はいずこも、日本の外交官(岩瀬忠震・永井尚志など)はしたたかで、強気で、自分たちはとてつもなく不平等な条約を結ばされた、と不満をもっているのです。

 たとえば、日本人が英米仏露蘭に渡来すれば、どの港でも自由に使えるし、国内をいつでも通行できる。しかし、日本は横浜・長崎・函館の三つだけである。(のちに2港追加をする)。そのうえ外国人は10里の枠内から外に出られない。
(外国人は)商品の買付前に現地を見てまわれない。江戸にも、大坂にも行けない。まったく不平等な通商だと記しています。

 日本の輸入関税は20%であり、フランスなどはワイン輸出国であり、酒税35%の高輸入関税が課せられた、不平等な条約だと叫んでいます。(インドは2.5%、中国は5%)。

 個々には強弱はありますが、海外5か国の言い分のほうが正しいと思えます。ここに日本の歴史にねつ造を感じたのです。

            *

 徳川家は260年余間、海外と一度も戦争しなかった。薩摩がイギリスと薩英戦争、長州が欧米四か国と下関戦争をやった。
 この2藩の薩長が明治の主力の為政者になりました。征韓論、台湾出兵、日清戦争、日露戦争から太平洋戦争まで77年間にわたり、10年に一度は戦争をする国家にさせてしまった。

 この時代に生きた人たちは軍国主義の教育の下で、軍国少年として育ち、制服をきた軍人が格好よく英雄に映っていた。天皇を大元帥として頂点に掲げた戦争でした。徴兵制で、「祖国のために死す」が美化されて海外へと送り出されたのです。
 女性は男児を産むと、この子は戦争で若くして死ぬ、ときっと空しい気持ちに陥ったはずです。

 本来は戦争は外交の手段である。しかし、明治政府からは武力支配が目的になってしまった。つまり、戦争に勝つことが目的になったのです。
 その結果、日本人は戦争が好きだと思われてしまった。

              *

 日本人は本質的に戦争を嫌う民族です。江戸時代の長い鎖国の理由もそこにあったのです。太平洋戦争後は、ほとんどの日本人が戦争解決・英雄観で、日本の外交を論じることはなくなりました。
 ただ、正しい歴史認識はつねに持っておく必要があります。

 徳川時代に、アジア・アフリカで唯一植民地にならなかったのは、なぜか。戦争せず、優秀な人材をもって開国・通商への道をみずから拓いたからです。日本人が優秀だったからです。
 決して「黒船の砲艦外交に脅えた」わけではありません。こんな嘘はやめる、教科書を糺(ただ)す必要があります。

            *

 維新とは何か。『旧邦(きゅうほう)なりといえども、その命これ新たなり』(詩経)。つまり、260年の古い体質の徳川家でも、みずから内部浄化によって、新しい近代国家へとむかっています。これこそ安政維新です。
 小栗上野介たちは、外国からの融資のもとで、日本の近代化に突っ走っていきます。製鉄所、造船所をつくり、蒸気機関車まで発注しています。完成したのが明治時代だったのです。

 ただ、鳥羽伏見の戦いが起きます。それは薩長を中心とした下級武士たちの軍事クーデターです。それが成功し、かれらがトップに座る「明治軍事政権」になってしまったのです。
 日本という統一国家が生まれながらも、77年間は暗い戦争国家だった。この軍事革命にたいして「明治維新」をつかうのは不自然です。


 わたしは登山にしろ、病気にしろ、死の寸前で生き長らえてきた。おおかた日本史の教科書において、近代化は「安政維新」から始まる、という正しい表記する、そのために生かされているのかな、と思えてきました。

 

 ☆ 「元気に百歳」クラブ誌20号が最終号になりました。そこに寄稿した「安政維新」から抜粋しました。


【関連情報・「元気に百歳」クラブ
とはなにか】

 2000年に設立し、 首都圏とその周辺及び関西が活動の中心です。
 「パソコン教室」、「俳句の会」、「エッセイ教室」
、「日だまり」、「ゴルフ会」、「健康体操と歌の会」、「スケッチ会」の7種のサロンを中心に活動する。


  高齢化時代の中で社会と家族に負担をかけないで元気に生きられるよう、社会・友人・家族と良好なつながりを持ち、心身の健康を保つことをクラブの目標としています。
「元気であることが社会に対する最高のボランティア」そして、「自立(自律)と支え合い」が合言葉です。

穂高健一は「エッセイ教室」の担当講師です。

【書籍情報】

 元気が最高のボランティア『元気に百歳』第20号

 定価1200円+税

 制作・発行 夢考房
 〒257-0028
 神奈川県秦野市東田原200ー49
 ☎ 0463-82-7652 FAX 0463-83-7355

 

『安政維新』(阿部正弘の生涯) 素晴らしかった、感動しました。目からウロコです 内山廣人

 寄稿者の内山廣人(横浜市)の紹介します。私(穂高健一)が小説の習作時代に、講談社フェーマス・スクール「伊藤桂一小説講座」で、ともに学んだ方です。
 その後は「年賀はがきの友」ていどの音信でした。このたび、「安政維新」に感動しました、素晴らしかったです、というお手紙を頂戴しました。

【本文】

 本が到着して、読み始めたら面白しくて、一晩で読んでしまいました。
 導入部の女犯の寺へ踏み込むまでの展開と、その後の捌き、上臈の姉小路とのやり取りなどどきどき ワクワクしながら読みました。
 
 私の「阿部正弘」観は、優柔不断で外患に対して何も出来ずに、ついに心労が重なり、若くして亡くなったというものでしたので、目から鱗(うろこ)です。

 清々しい人物で、しかも優秀・理知的で、決断力と勇気があって、欧米列強の植民地政策から、独善的な水戸藩から、日本を守った英雄だったとは、勝った側が歴史を作るとは良くいったものです。
 
 考えてみれば、日本の存亡の時に14年間も老中首座を勤めたということは、他の人材では対応できないからであり、どれ程すごいことなのか、洗脳された身(内山氏)としては考えが及びませんでした。
 
 幕末の植民地化の危機の中で、為政者として、日本を守る為に、ずば抜けて優秀で骨のある官僚を抜擢し、絶妙なポジションに配置し、的を外さぬ適切な采配を振るい、日本を救いました。

 正弘が抜擢した官僚の活躍、特に外国代表たちとの駆け引きなど、胸のすく思いで読ませていただきました。
 本当に面白い本をありがとうございました。
 今2回目を読んでいますが、面白ろく、何度でも読めそうです。

「追伸」
 今回の物語のなかで、主人公となり得る魅力的な人物がたくさん登場していました。次作がとても楽しみです。
 

朝日カルチャー千葉・2020年1-3月期「幕末・維新」講座の受付開始

 朝日カルチャーセンター千葉では、ここ数年「幕末・維新」講座が続いています。今回の講座は「安政維新」(阿部正弘の生涯)が10月半ばに出版されましたので、作者から生の声で、深くわかりやすく説明していきます。

「同書の目次」からポイントを受講生と語りあいます。
 


 毎月第3週土曜日、午後1時~2時半までです。

1月期(1月18日) 阿部正弘が25歳で老中首座(総理大臣)になった。かれの魅力とは何か
 
 清国のアヘン戦争で、欧米列強は次に日本を狙った。国内は天明・天保の大飢饉で、食糧難の飢餓列島だった。この「外患内憂」の時代に、水野忠邦が「天保の改革」に大失敗する。
 将軍・家慶はもはや待ったなしで、家柄、経験、賄賂など関係なく、天才的な若き政治家・阿部正弘を大抜擢した。奇跡を生み出した阿部正弘の魅力とは何か。
 

2月期(2月15日) 日米交流の曙は、黒船来航の8年前で、双方の人道的な配慮からはじまった。それを教えないのは薩長史観で、歴史をごまかすためである

 弘化2(1845)年2月に、アメリカ捕鯨船のマンハッタン号が、日本人漂流民22人を連れて江戸湾にやってきた。10歳の釜石の孤児が乗っていた。若き宰相の阿部正弘は、「親が見捨てた孤児ならば、幕府が救う」と幕閣の大反対押し切り、浦賀で引き取った。


3月期(3月21日) 日本が植民地にならなかったのは安政の五か国条約である。その先、西欧4か国連合艦隊の下関戦争で不平等な通商条約になった

 長州藩が行った馬関海峡の無差別砲撃は、まさしく日本版のアヘン戦である。西洋の罠にはまった。日本はこの戦争から貿易面で半植民地になった。
文久3年5月10日の「攘夷実行日」は、「異国船打払い令」ではない。現代教育でも、その真実を教えず、徳川幕府を陥れている。

「申し込み先」
〒260-0013千葉県千葉市中央区中央1丁目11-1 · 043-227-0131

【補足・歴史散策】

 この講座のメンバーとは、3か月に一度は作家と歴史散策に行っています。前回は中山法華経寺(市川市)でした。次回は12月14日(土曜・雨は翌日)で、久里浜・浦賀です。どこまでもプライベートで無料ですし、散策後は割り勘で居酒屋です。

「安政維新」(阿部正弘の生涯) イアヤ〜、面白かった 杉 哲男

 私の長年の友人・杉哲男(すぎ てつお)さんから、読書の好評をいただきました。紹介します。そのまえに、かれの人物紹介をいたします。


 杉さんは鹿児島市出身です。かれは中学時代に、原口虎雄さん(戦後・日本史の第一人者・鹿児島大学教授)が中学校に招聘されて講演をされることもあり、日本史が大好きになったと話されています。

 虎雄さんの長男と小中高校まで同級生だった。次男は原口泉さん(NHK大河ドラマ・篤姫、西郷ドンなどの時代考証)で、原口一家と杉家は親しかったと言います。

 杉さんは九州大学、大手電気メーカー、いまはシニア大樂の理事です。かたや、九大OBコンサート会で活躍しています。

 杉さんと私は飲めば、幕末論が酒の肴です。祖父母が語る戦争は、太平洋戦争でなく、きまって薩英戦争だったといいます。「文久3年(1863年)、薩摩藩とイギリスの間で鹿児島でおこなわれた戦争)。

 杉さんから得た薩摩藩関連の知識は、私のエキスの一つになっています。と同時に、杉さんの歴史の目は肥えています。


写真・鹿児島市内の遠望  (ここで薩英戦争がおこなわれました)
             

【杉哲男氏のコメント】

 案内をいただき、早速、Netで手にいれました。ところが、相変わらず、いろいろと忙しく、先週まで「コンサート」の練習に明け暮れていました。ようやく、本日、しっかりと読ませていただきました。

 いきなり、大奥女御の姦淫な事件の描写から始まり、驚きました。歴史物を柔らかくスタートさせましたネ。
 読み進むにつれ、良く知っているつもりの、幕末の江戸幕府の内実が新しい発見の連続でした。

 日露&日英和親条約が想像を超えて経過での締結であり、その後の通商条約の締結にも、当時の阿部宰相を中心に優れた幕閣たちの交渉力が寄与したことなど『目からうろこ』です。

 幕末の「攘夷論」への歴史的な位置づけ&評価の見直しの必要性を真に感じると共に、不平等条約があの長州・下関戦争に起因していたこと、初めて知りました。

 イアヤ〜、面白かった。

 これまでも、幕末の為政者としての阿部正弘への評価は私なりに持っていましたが、この書を通じて改めて理解しました。ありがとうございました。
 また、一度、ゆっくり飲みましょう。

お勧めNHKの「歴史秘話ヒストリア」(2019年5月22日放映)

 読者の声が、「安政維新 阿部正弘の生涯」が著者のもとに届いています。読者の感想から、そうか、NHKの「歴史秘話ヒストリア~日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉~」を観てから、この本を読まれると良い。ペリー来航の真実がわかったうえで、一気に読めますから、それを紹介します。


  写真:歴史秘話ヒストリア@NHKオンデマンド より

【読者感想】

(A)

「安政維新 阿部正弘の生涯」、読み始めると面白く、1日で読み切りました。読書スピードの遅い私としては、近頃珍しい早さでした。30年前でしょうか、山岡荘八の大作「徳川家康」を次々読んだ時代を思い出しました。

 勝者薩摩と長州が色濃く反映された日本の歴史教育を学校で学んだものとしては、今でも薩摩長州の人々への畏敬の念が、体にしみこんでいます。

 それに対し徳川幕府の優秀な人材が、幕末に活躍したことは知らないままでおりました。その意味でNHKの「歴史秘話ヒストリア」(2019年5月22日放映)は新鮮な驚きでした

 久しぶりの感動を知ってもらいたいと考え、生野町(兵庫県)を中心とする地域連携プロジェトを推進していただいている神戸大学院の先生とわが家古文書を整理研究しておられる茨城大学教授、アメリカに駐在する長男にご著書を贈呈することにしました。

【作者の補足・意見】
 ※ 読者は、NHKの「~日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉~」を観てから、興味ぶかく読まれたのでしょう。「安政維新 阿部正弘の生涯」は、通説を次つぎに資料からくつがえしていますから。

(B)

 全体的に面白い内容ではあったが、資料から得た史実と作者の推測が入り混じることはやむを得ないが、主観的に流れている感がある。これだったら、「小説」として断定的に描いたほうが、読者の納得を得られるのではないか。 
 もっと文章が洗練されていれば、それなりに説得力もでるかもしれない。田舎くさい文章だ。


【作者の補足・意見】

 ※ 私の歴史小説は史料・資料により近いところで書いています。

 ペリー提督と林大学頭の緊迫した場面などは、江戸時代であり、漢文調ですから、読者の指定するとおり、ずいぶん田舎くさい文に感じたことでしょう。と同時に、これまでの薩長史観とは違うし、作者の主観に感じたのでしょう。

 阿部正弘が、ペー提督に蹂躙されて、おろおろと日米和親条約を結ばされた。これが定説です。
 NHKの「歴史秘話ヒストリア~日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉~」、1時間番組は、160余年ぶりに、世に出回った林大学頭『墨夷応接禄』(ぼくい おうせつろく)を中心として制作されたヒストリアです。日本の応接掛が対等以上に外交交渉したと、ここらがよくわかります。

 これまで、「ペリー提督日本遠征記」の自慢話、あるいはペリーの負け惜しみを歴史的真実として教えてきた日本の歴史学者は、きっと林大学頭の克明な記録の『墨夷応接禄』を世に出したくなかったでしょうね。教科書の幕末史が根底から崩れますから。

 実際に、わたしたちの目に触れるのはわずか数年前です。
 
             *

 徳川政権が260年間も継続できたのは、「德川隠密組織と御庭番」が有機的に働いたからです。
 アメリカ艦隊が来て、地方の奉行所の与力・同心だけに任せ切るはずがない。現代でいえば、テロ事件が起きると、どんな地方でも、東京・警視庁の公安警察がすぐさま出動するのと同じです。

 老中首座・阿部正弘は備後福山藩の最大のブレーン関藤藤䕃(せきとう とういん)と、老中次席の牧野忠雅はこれも長岡藩の最も有能な川島鋭次郎(河井継之介の先輩)と、ふたりを老中密使として浦賀に送り込んでいます。これは事実です。

 どんなやり取りだったか。ここらは超極秘で資料は残らず。資料がないと歴史学者は書けない。しかし、浦賀の与力だけでペリー提督と初期対応など、常識で考えても、あり得ない。そこは小説家の想像力で埋める。
 それが作家の役目だと考えています。

『安政維新』(阿部正弘の生涯)④「江戸三大改革」は悪政だった。庶民の「嘉永文化」を伝えよう

 弘化2(1845)年2月22日、阿部正弘は満25歳で、老中首座になります。江戸時代を通じて最年少です。
 吉宗の実孫である松平定信(さだのぶ)すら、28歳でした。


 定信は本来ならば、徳川将軍だったのです。だが、徳川宗家(将軍家)に入るまえに、白河藩(福島)に養子に入っていたので、将軍にはなれなかった。しかし、血筋から早ばやと老中首座になった人物です。


 阿部正弘は、備後福山藩は10万石の譜代大名ですが、定信よりも、3年も若くして、12代家慶(いえよし)将軍から、老中首座に大抜擢されたのです。いかに有能だったか。かれは正室の子どもでなく、側室の子です。
 決して、縁故、血筋による抜擢とは言えません。


 当時、アジアではアヘン戦争が勃発(ぼっぱつ)し、その後において西欧諸国は日本を狙っている(外患・がいかん)。国内は天明・天保の大飢饉で、わが国は過剰人口で米穀(べいこく)不足から、餓死者の死臭がただよう列島でした(内憂・ないゆう)。

 外患内憂の国難の時代に対応できる人材はだれなのか。250年間にわたる德川政権の世襲とか、伝統とか、家柄とかに拘泥(こうでい)した人物を政治のトップをおけば、わが国は悲惨な状況に堕(お)ちいってしまう。
 まして、水野忠邦が「天保の改革」に大失敗した後釜です。家慶将軍は阿部正弘を抜擢したのです。


『安政維新』(阿部正弘の生涯)では、なぜ、阿部正弘が抜擢されたのか。その経緯から克明(こくめい)に描いています。

 それが第1章「女犯の怪しい寺」です。22歳の寺社奉行の正弘が、大奥女性と僧侶との姦淫(いんらん)な行為の現場を押さえて捕縛(ほばく)する。そして、大胆な決断力を展開しています。将軍も、大奥も、水野忠邦すらも、その後の正弘の裁決には驚いたのです。

「こんな意表をつく、大胆な判断はだれができようぞ」
 ここで、正弘のとてつもない政治力が示されます。
 正弘は終生、多くの意見にたいする聞く耳をもちますが、最後は己の判断を示す。その多くが、『ひとの意表をつく』ものだったのです。

              *   

 前政権の水野忠邦は、賄賂(わいろ)を積んで、佐賀藩から浜松藩に国替えし、さらに大阪商人から大金を借り入れて、それを踏み倒し、老中へと登りつめてきます。老中首座にたどり着いたのが45歳です。

 阿部正弘は25歳です。いくら賄賂を積んでも、現在の内閣総理大臣にはなれるものではない。庶民らには、それがわかったのです。
 正弘が清廉潔白で英知の人材だったから、家慶将軍に大抜擢された。阿部正弘が政治のトップに立ったとき、庶民は大喜びで、迎えたのです。
 

「阿部家には付け届けはするな。決まって、突き返されるから」と水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)の記録が現存しています。
 当時は盆暮れなどのつけ届けなど、役職を得る当然の風習として定着していました。しかし、福山藩の家臣は、それら金品はすべて突き返しに行ったそうです。
 お金には身ぎれいな政治家だった。正弘が享年39歳で死ぬまで、国難の政治のトップにいた最大の理由のひとつでしょう。

 つまり、私利私欲のための政治ではない。「無私」で、国難の日本を救うために、わが国が植民地にならないために、全知全能で走りつづけた、とだれもがわかっていた。だから、他には老中首座になり手がなかったのです。

 政治家として生命をかける。現代でもよく使われることばですが、それを現実に行ったのは阿部正弘であり、まさに稀有(けう)な存在でしょう。

                  *

 正弘は思想弾圧もせず、庶民のための政治を心がけていました。奢侈禁止令(しゃしきんしれい・派手な生活を禁じる)などの法令は出さず、諸民に自由を謳歌(おうか)させています。
 私は作品のなかで、それを「嘉永文化(かえい・ぶんか)」と表現しました。

    「日舞・さつき会」

 江戸時代のなかで、元禄(げんろく)文化よりも、もっと華やかな庶民文化が生まれており、その伝統が現在にも生きています。


 ところが、明治政権は阿部正弘政権の亜流であり、ことさら阿部正弘の政治評価を貶(けな)すことで、自分たちを高くみせています。だから、明治政府は歴史書、教科書に「嘉永文化」をのせていません。

 明治からの軍国主義は、『勝つまで欲しがりません』という政策です。江戸時代の享保(きょうほう)の改革、寛政(かんせい)の改革、天保(てんぽう)の改革は、三大改革として賛美しています。
 この改革の実態は「庶民いじめ」なのです。庶民に生活苦、がまんを強いた苛政(かせい・悪策)です。それをなぜ美化するのか、わかりますか。

 明治軍事政権は、『ぜいたくは敵』として、国民にがまんに我慢を強いています。がまんで消費を冷やせば、景気が後退します。国民を黙らせる必要がある。いちばん効果的なのは、歴史を利用することです。
 明治・大正・昭和の終戦まで、軍事政権はことさら教科書のなかで、「江戸時代の三大改革」と美化し、国民の目を欺いて、軍国主義に利用したのです。
 つまり、なにごとも、お上の政策のために我慢せよ、という趣旨です。

『不景気になれば、日本は海外戦争をしかけて、軍事景気で活気を取りもどす」
 これも戦争へのおおきな施策でした。日清戦争・日露戦争・シベリア出兵・第一次世界大戦・満州事変・日中戦争・太平洋戦争と、これを10年に一度やりつづけたのです。

 くりかえしますが、歴史は政治に利用されやすいのです。


 昭和、平成、令和となり、戦争を否定した今、庶民の視線から歴史を見直す必要が出てきました。それには、教科書の「江戸三大改革」は苛政(かせい)だった、庶民が困窮(こんきゅう)の極(きわ)みに陥ったと、真実をおしえる時期がきています。

 少なくとも、庶民の目線からみれば、改革でなく、改悪です。
  

              *

 私は歴史小説を政治家たちの歴史年表で書くのではなく、庶民の目線もふまえる必要がある、と考えています。
「安政維新」(阿部正弘の生涯)のなかで、第7章「嘉永文化」という章立てをしています。

 
 阿部は人材抜擢の天才です。それら有能な人材が外国文献から、西欧の資本主義の研究を行っています。
 イギリスなどは産業革命のあと、自由主義が国家の繁栄(はんえい)をきづいている。自由が国家繁栄の基である、という施策が、阿部正弘政権にはわかっていました。

 正弘は江戸町奉行の遠山景元(遠山の金さん)に、「庶民が生きがいを感じる施政をせよ」と指図します。新たな法律で、庶民生活を縛(しばら)ない、自由主義で行く、という方針でのぞんでいます。
 庶民からすれば、過酷(かこく)な取り調べの根幹となっていた「奢侈禁止令」の運用を緩和させたのです。

 水野政権時代「天保の改革」は、座敷の芸者など全面禁止でした。水商売の類の女性は女狩りで、集められて、競売で浅草・吉原に売られて売春婦の身になっていました。


「江戸三大改革」と称したものは、いずれも雨後の竹の子のごとく厳しい法令をだし、庶民をいじめています。
 阿部正弘は、「水野忠邦が作った法律で充分だ」と言い、はあえて新規な法令をほとんど出していません。

 庶民は敏感です。阿部人気、「遠山の金さん」人気から、元禄時代を上回る、民衆文化が一気にはじけたのです。

 金銀製の女の飾り物はご禁制(きんせい)でなくなります。水野時代にはわずか数件だった芸人小屋が、嘉永時代には700軒も開業する。
 草紙、春画、浮世絵、かわら版も巷(ちまた)にあふれる。江戸庶民が好む、すし屋、そば屋、てんぷら屋なども大繁盛です。
 三味線や太鼓は繁華街からながれる。人々が生気を取りもどしたのです。

 それが現代の「遠山金さん」人気に通じています。


 阿部政権になってあまりにも、取り締まりを緩めすぎたので、目に余ったのでしょう。幕閣から苦情が出ます。正弘はきっと渋々でしょう。

 嘉永元年に、お触書をひとつ出しました。『親族のため、あるいは生活に困窮する、よんどころな場合以外は、売女にまぎらわしき、猥(みだ)らな所業は決してしてはならぬ』というお達しです。
 まさに、故意にザル法をつくったとしか思えません。「わたし、家族のために働いているのよ」といえば、街中の座敷、料理屋に出入りできる芸者稼業になれるのですから。
 
 消費があらたな消費を生む。景気が良くなる。嘉永は庶民文化としての園芸が花開いた時代です。浮世絵に梅や松の盆栽が多く描かれています。
 さらに、朝顔が大流行になりました。まさに、嘉永文化は庶民の心に、花を愛でる余裕が生まれたのです。長屋住まいの庶民らは、物価は高いがそれなりに生活を享受(きょうじゅ)できて楽しんでいたのです。
 
 阿部正弘は、福山藩主の側室(妾)の子どもです。母親の高野具美子(くみこ)は、剃髪(ていはつ)して江戸下町の石原町(現・江東区)の、福山藩下屋敷の庵に、ひとり住んでいました。

 正弘は老中屋敷(現・大手町)から、月に1、2度は母のもとに通いつづけています。途中で浅草の「桜もち」(現在も有名)を買いもとめ、実母にとどけていました。正弘は江戸下町に出むき、庶民の生活を見聞する機会が多かったのです。つまり、庶民から政治を見つめる環境が正弘にあったのです。

 そこが明治以降の下級武士・足軽から成り上がった、偉そうぶった軍人政治家たちとはちがう点です。

 私たちはそろそろ薩長史観から脱皮し、徳川長期政権の良さをも取り入れる時代になってきました。阿部正弘は嘉永文化を育てた。庶民よりの政治をすれば、庶民は人生が楽しめるし、文化が熟してくるのです。
「遠山の金さん」はいまなお、庶民の味方だったと、明治以降の軍国時代にすら消えずに語り継がれてきました。
 それは嘉永文化の象徴でした。

 この6章は岡っ引き、下っ引きを主人公に、楽しく読めるようにしています。


【関連情報】 

「穂高健一ワールド」における、『『安政維新』(阿部正弘の生涯)①~⑤まで続きます。引用は開放いたします。⑤も近日中に掲載します。

 このシリーズは著作権に関係なく、ご自由にお使いください。全文の引用もOKです。

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