小説家

第55回・元気に100エッセイ教室=書き出しは作品のいのち

 書き出しは作品の顔である。名作の書き出しは、読者に強く印象で焼き付き、いつまでも残っているものだ。中学・高校の学生時代に習った、……平家物語、徒然草、雪国、伊豆の踊子、草枕など、作品の内容は記憶になくても、書出しはいつまでも口ずさむことができる。

 作者と読者との初対面の場である。初の顔合わせの1行で、作品の第一印象がほぼ決まる。その善し悪しが作品の先入観にもなる。作品のいのちともいえる。

 上手な書き出しの最大の条件とは、最初の1行で次の1行が読みたくなる。これにつきる。逆に、2行、3行も読んで興味がわかなければ、もう完ぺきに放棄されてしまう。読者は義理で読まないから。


魅力的な書き出し法とはなにか

① 情景文(映像的)、あるいは心理描写などで書く。

② 説明文(ビジネス的)はやめる。読者がレポートを読まされる心境になる。

③ 前置きはやめる。エッセイ作品は最初から方向性を示す必要などない。

④ 結論から書かない。作品の底が割れてしまう(読まなくても、結末やストーリーが見えてしまう)。

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文学仲間たちと浅草歴史散策、そして居酒屋  

 1月10日、浅草・雷門のまえで、作家、文学者たち7人が集まった。ごく自然にできあがった、ネーミングのない文学グループである。それぞれが日本ペンクラブ・広報委員会、会報委員会の有志である。
 歴史散策、そして日没後は居酒屋で文学を語り合うという仲間となった。

 2011年の真夏、それも最も暑い盛りの8月、昭和の街・葛飾立石の散策がスタートだった。それで意気投合し、次なるは小江戸といわれる川越の歴史散策となった。それにつづく3回目である。

 清原さん(同会報委員長、文芸評論家、歴史家)から、浅草の歴史関連資料が各人に速達でとどいた。清原著『歴史と文学の回路・上野・浅草界隈』『粋といなせが残る下町・浅草』の2点である。

 こんかい歴史散策の日程は正月明けに決めたために、日取りにゆとりがなく、急だった。成人式を含む3連休で、郵便が滞るし、各人の手元に届かないことも憂慮し、清原さんが速達で配慮してくれたものだ。


 集合した雷門で、清原さんからはコースガイドの地図が配布された。一瞥すると、仲見世、浅草寺、花川戸へとつづくルートが一本の線で記されていた。

 浅草の界隈は、松尾芭蕉など江戸時代の文人に限らず、昭和までの著名な人たちの文学碑があるようだ。そのうえ、芝居、映画などの発祥地だけに、それらの碑もある、と口頭で説明された。
 一段と興味が増してきた。

 きょうは「神谷バー」はお休みだよ、と他方で、それら事前情報が伝えられた。多少の期待外れがあったようだ。

 雷門から入って、浅草寺(せんそうじ)仲見世は、大みそか、元旦の初詣、それらの大混乱もすでに一段落し、平常のにぎわいに戻っていた。

 宝蔵門の手間の右手から、脇道に入った。下町の町並みの風情が残っていた。東京スカイツリーも、軒先をはみ出し、大きく高く聳える。

 最初の目的地、弁天山はこんもりした丘で、鐘楼がある。芭蕉の「花の雲鐘は上野か浅草か」で知られている、「時の鐘」があった。と同時に、芭蕉のほかにも、文学碑があった。


こんどは浅草寺の本堂に向かった。それぞれが参拝する。

 この境内には、「半七塚」がある。ほかにも、映画関係者とか、歌舞伎関係者とかの碑がある。文学に関係する人たちにだけに、誰もが石碑の文面をていねいに読み取っていた。

 この先、隅田川の方角に向かう。途中、モダンな学校の校舎があった。一見して、中学に思えた。近在の人に問えば、「浅草小学校」だという。児童たちはスクールバスで、遠くから通学していると話す。
 おおかた大都会の過疎化で、区域外の児童の受け入れがなければ、運営ができないのだろう。そんな思慮を残してなおも進んだ。

 履物問屋街の碑があった。一瞥しただけであった。さらなる先に、「姥が池」があった。立札の説明によると、むかしは隅田川に通じていた池だと記す。
 名前の由来については、その昔、老婆と娘が旅人を連れ込んで、石で殴り殺す。悪事の果てに、娘が死に、老婆が池に身を投げた。そこから名前が付けられたと明記されていた。


一読ではわかりにくい寺名の、待乳山聖天(まつちやましょうてん)の境内に入った。ここは浅草七福神の一つで、毘沙門天を祀る。
 夫婦和合や金運のご利益あるという。

 新津さん(女性推理作家)が浅草神社で引いた、おみくじが『大吉』だった。この寺では『凶』だったとがっかりしていた。女性は占いが好きで、一喜一憂するものらしい。

 同寺には築地塀(ついぢべい)があった。全長25間(45.5メートル)で、広重の錦絵にも絵ががれている。

 さらに山谷堀(さんやぼり)公園に向かった。隅田川から吉原に通じる水路が公園の中にあった。他方で、近くの隅田公園内の「平成中村座」が目立つ。
 井出さん(事務局次長)が概略を説明してくれた。

 歌舞伎役者の18代目の中村勘三郎(初演時は五代目中村勘九郎)が中心となり、2000年11月に 仮設劇場を設営してもの。
「平成中村座」の外観は、江戸時代の芝居小屋である中村座を模している。中村屋の紋である「角切銀杏」が描かれている。ここでは、毎年公演があると説明する。

道々は古刹や碑のみならず゜、身近な話題も出でくる。

 山名さん(会報委員、歴史女流作家)が、年初から埼玉新聞で歴史小説を連載する、という。喜ばしい話題だ。すでに、同紙で予告掲載されていると話す。
 戦国時代に、明智光秀と戦った女性(埼玉出身)が主人公である。

「毎回、400字詰め原稿用紙・3枚半なの。連載回数は決まっていないけど……。130枚くらいにしたい」と見通しを語る。それは連載後の単行本を視野に入れた、ボリュームだと説明していた。

 新津さんは、かつて「信濃毎日新聞」にミステリー小説を連載していた。毎回2.5枚だったと話す。新津さんはすべて挿絵がイラストだったと語る。
「ストーリーを早め、イラストライターに早く渡さないといけないから、大変だった」と打ち明けていた。
 
 山名さんは写真で行くという。戦国時代だけに、古戦場跡などが掲載されるのだろう。
 
 私はミステリー小説『海は燃える』(現在・第12回の入稿ずみ)で、一貫して写真で押し通している。
「犯人の密室のやり取りなどは、写真で表現できず、苦労していますよ」と披露した。

 このように、3人で連載小説の創作に対する苦労話の一端を語り合った。

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第54回・元気に100エッセイ教室=人物は描写文で書こう

 この講座は54回を迎えた。今回に限って、教室でのレクチャーの範囲を飛び出してみたい。

 昭和54(1979)年の大きな出来事といえば、米国・スリーマイル島の原発事故だろう。炉心溶解(メルトダウン)で、燃料が溶融し、約20トンが原子炉圧力容器の底に溜まった。レベル5だった。

 それでも、当時の日本では「核の平和利用」という政治家たち、実業界の人たちのことばが信じられていた。メディアもそれに乗っていた。そんな背景から、国民全体としては、スリーマイル島の事故はさほど深刻に受け止められていなかった。

 チェルノブイリ原発事故、さらには東日本大震災によるフクシマ原発事故(レベル7)へと及んだ。いまや核兵器並みに、周辺がセシウムなど放射能で汚染されている。首都・東京も例外でないという。

 人間は核をコントロールできる、という科学者たちの驕(おご)りが原因である。それに輪をかけて、核廃棄物すら処理できない、不完全な原子力発電所の廻りで、「平和利用」という甘い欺瞞の言葉で、お金の汁を吸ってきた、金欲人間たちがいた。それも二十世紀半ば以降から。

 フクシマ原発事故はエネルギー政策の道草ではなかった。容赦なく放射能をまき散らした。否、いまなお撒きつづけている。

 これは核の金に群がる強欲人間が、人間を残酷に裏切った結果なのだ。利益誘導者たちはなんら贖罪(自分の犯した罪や過失を償うこと)をしない。
「元の自然に還れない。ここに痛ましさと恐怖がある。あなたには科される罪がある」と名指しされると、違法ではなかったと、きっと逃げるのだろう。それこそ、人間が決めた法の枠を利用する、人間の醜悪な面だともいえる。

 エッセイとは「人間」を書くことである

 人間の行動や言動は性格と心理によって決まってくる。それに業とか、慾とかとを付加すれば、良きにつけ悪しきにつけ、ごく自然に人物が姿が浮き上がってくる。

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文学者たちと紅葉の小江戸・川越「喜多院」を訪ねる                 

 11月30日、作家、文学者たち7人が川越の喜多院に訪ねることになった。北からの紅葉がすでに首都圏にも到達していた。同院の奥庭は、江戸城の紅葉山を模すだけに、赤色、黄色の彩り豊かな情景が楽しめた。

 顔ぶれは猛暑の8月に『昭和の街』立石で、下町情緒と居酒屋を楽しんだ、日本ペンクラブの広報、会報委員会の有志である。その折、次なる計画がごく自然にできあがり、「紅葉の川越の歴史散策+飲み会」になっていたものだ。


 清原さん(同会報委員長、文芸評論家、歴史家)から、事前に教材『野外講座・川越』が配布されていた。
 歴史小説家の山名さん(同会報委員)は江戸時代の将軍、武家、庶民生活まで詳しい。吉澤さん(同事務局長)は川越の喜多院の裏手で育っているから、同院の隅々まで知り尽くす。
相澤さん(広報委員長)は、喜多院で「ボクはここで厄払いした」と思いだすくらいだから、川越に縁がある。

 新津きよみさん(推理小説作家)は埼玉県在住だから、何度か、川越に来たことがあるようだ。

 井出さん(事務局次長)と私(穂高健一・広報委員)は、ある意味で豪華なガイド付きの川越歴史散策だった。

 同日の午前ちゅうは東武東上線が踏切事故で全面運休だった。川越まで埼京線か、西武線か、どちらかに変更すべきか、と判断に迷っていた。12時20分に復旧したことから、それぞれが川越駅、本川越駅から、2時には銀杏の黄葉がもえる喜多院に集合してきた。


 吉澤さんが「私はこのすぐ裏で育った。この寺が遊び場だった」と話す。東京大空襲で、東京の邸宅(吉澤家は映画配給会社)が焼け、映画弁士の口利きで、この地に引っ越ししてきたという。小学生の集団を見て、わが母校だと懐かしがっていた。

 喜多院は平安時代に慈覚大師円仁によって創建された。やがて関東天台の中心となった。
「この院の興隆と川越の発展は、ひとえに天海(てんかい)僧正と徳川家康接見から信頼関係から始まったといえる」と清原さんが多宝塔の側から、すぐさま解説をはじめた。だれもが興味深く耳を傾けた。


 本堂の内陣の先には、徳川3代将軍・家光が生まれた部屋があった。この由来について、山名さんが語ってくれた。

 1638(寛永15)年の川越大火で、同院はすべて焼失した。(一部、山門を残すのみ)。家光の命で、堀田正盛が復興にかかり、江戸城の紅葉山の別殿を移して、それらを客殿、書院にあてた。このときに、家光誕生の間、春日局の間も、同院に移された。
 「15代将軍のなかで、正室の子は家光だけよ」と山名さんが教えてくれた。

 一連の復興で、東照宮なども造られた。だが、明治時代の廃仏毀釈から、現在は別管理になっている。

 室内は撮影禁止だが、紅葉が盛りの奥庭にかぎり、撮影は自由だった。
「前夜のTVで、この庭がライトアップで中継されていたわよ」
 新津さんが話す。紅葉の名庭は素晴らしい。

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吉岡忍さんが明治学院大学で講演『3.11を考える』、そして懇親

 「ペンの日」懇談会(11月26日、東京會舘)で、佐藤アヤ子さん(明治学院大学の国際平和研究所教授)と吉岡忍さん(日本ペンクラブ専務理事)のふたりlが語り合っていた。同月29日、吉岡忍さんが同大学で『~3.11を考える~』に90分間の講演をする、という話題の最中だった。
 そこに、私が入り込んで挨拶した。
 

 佐藤さんから「聴講にいらっしゃいませんか」と誘われた。
「どんな内容ですか」
「平和学講座(秋学期)の授業です。国際平和研究所が受け持つものです」
 佐藤さんがコーディネーターとして、自他の大学から平和学研究者、外国大使館の大使・公使、作家などを講師として招き、「3月11日を考える」というもの。14回のシリーズの一つとして、吉岡さんが90分間の講演するという。吉岡さんは3.11が発生した4日後から、東北の被災地に入っている。

 私とすれば、3.11がこの先の執筆活動のメインテーマだけに、即座に身を乗り出した。

 明治学院大学(港区・白金台)の訪問は初めてである。吉岡忍さんは待合室で、学園闘争時代、この大学には何度か足を向けたと語っていた。教室に立てこもる男女が別々のフロアで寝泊まりしていた。他大学は男女が雑魚寝だったと、懐かしげに語っていた。

 同月29日午後2時45分から、吉岡さんの講座が始まった。講師の吉岡さんは知名度が高く、世相に対してシャープな切り口だけに、大教室いっぱい約300人の学生が集まった。ボランティア活動で現地に入った学生も多く、より関心度が高かったようだ。
 
 
 吉岡さんはまず鴨長明「方丈記」の無常感から入った。古来から、日本人と災害は切り離せいないと言い、3.11の被災地で目撃した悲惨な状況、瓦礫の凄まじさなどを生々しく語りはじめた。
「これまで、外国の被災地を数多く見てきました。3.11の被災地に入り、瓦礫を見たとき、外国と比べて、日本人はなんて物持ちだろう、と思いました」
 箪笥から衣服が飛び出す。それが水にふやけて3倍になる。それにしても、膨大な物量の瓦礫だったという。そのなかに遺体がうつぶせになっていたし話す。

 2万人が一度に死ぬのは、戦争以来にはあり得なかった。
「助かった人の話もたくさん聞きました。津波で流される屋根に乗った人が、写真を撮っていた。生死の境にいて、思いのほか冷静なんです。3月の冷風の風よけに、流れている発泡スチロールを採り、かぶつていたが、気を失った。意識を取り戻した時、収容されていたそうです」


 60代女性が流される家のベランダにいた。部屋に戻り、衣装ケースから服を出して着替えをはじめた。いつもの習慣で、窓にカーテンを閉めた。

「津波のさなかですよ。誰も流される家の中を見ていない。パニックにならず冷静に着替えているんです。この方は家が突堤にぶつかり、そこで降りて助かった。こういう冷静さもあるんです」

 三陸には小さな半島や小さな浜の集落が数多くある。漁師たちは漁船、漁網、カキやホタテの養殖いかだも津波でなくしてしまった。日本人の食生活は、さんま、カキなど水産業の季節にも大きく関わっている。こうした文化の基盤も失った。

                    佐藤アヤ子さん(明治学院大学・国際平和研究所教授)


 漁師たちは家族、友達を亡くし、生活基盤を失った。失ったものは大き過ぎた。若者たちは「もう一度やろう」という気にならない。ところが、20~60才代の女性10人ほどが浜に出てきて、カキの養殖に必要な、ホタテ貝の穴をあけ(カキの種付用)作業を始めた。茫然自失男たちはそれを見て、やる気を出したと聞きました、と話す。
「女性の力はすごい」
 吉岡さんは強調した。
 
「被災者は、とかく災害弱者と見られがちです。弱者ではない。生産手段をなくした漁師は、いまを生き延びるために、天然のワカメを採りはじめました。それを塩漬けにして、細々ですが、出荷しています。強く生きようとしている。弱者じゃない」

 漁師たちは一国一城の主である。漁具、漁網は高価なもので、所有者が決まっている。津波で散らばった漁具を集めてくる。津波で残った船を使い、沖に漂う『浮き』(一つ3万4万円する)を集めてくる。「数年間は、『自分のものだと主張しないようにしよう。共有物にして使おう』と決めたのです」
 被災地が共同体として連携と、人間のつながりで復興しようとする。

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被災地からの声「私たちを忘れないでほしい」=「ペンの日」懇親会

 日本ペンクラブ(PEN)は1935年11月26日に創立された。初代会長は島崎藤村である。毎年、創立記念日「ペンの日」を開催している。11月28日、東京会館、ローズ・ルーム(9階)で行われた。

 設立した当時、日本は満州事変後に国際連盟を脱退し、国際的に孤立に向かう、暗い世相の時だった。戦争国家へと突き進んでいった。作家たちへのきびしい言論弾圧にも耐え、生き永らえてきた団体である

 PENが設立する2年前、1933年3月3日に昭和三陸地震が起きている。地震は震度5だったが、津波の高さは最大で28.7m(現・大船渡市)にも達し、大勢の犠牲者を出している。


 2011年は「3.11」という途轍もない巨大な地震が東日本を襲った。地震、津波、さらに原発事故というトリプルの大被害となった。大都市・東京すらも、帰宅難民が出るほどで、都市機能が一時停止した。 日本人はそれら映像を目にし、大自然の猛威と恐怖に打ちのめされた。と同時に、日本は再生できるのか、どうなるのか、いっときは途方に暮れたものだ。

 いまは災害復興の兆しはあるけれど、傷跡は深く残っている。作家たちは被災地に入り、文学として何をなすべきか、とそれぞれ向かい合っている。
「ペンの日」の挨拶でも、3.11が取り上げられた。

浅田次郎会長の挨拶
「3.11は大変な事故、事件でした。ほかの作家の方に比べると、私は地震、津波、放射能について原稿を寄せていない。私としては、今までの仕事を全うすることが大切。自分がやってきたこと、自分の蓄積してきたものを変えたり疎かにしたりしない。それがいま一番必要な力ではないか、と考えて過ごしてきました」


来賓祝辞、日本文芸家協会の篠会長

 同協会とPENの会員とが重なっている作家が多く、兄弟のような役割と存在である、と前置きしてから、
「わが協会はへっぴり腰ですが、PENは海外との文化交流、言論の自由に対する諸活動が活発です。堀さんが国際ペンの専務理事になり、この重苦しい時代に、海外との文化交流がいっそう伸びやかに進展されることでしょう。

PENは災害と環境の問題にも取り組んできたし、浅田会長になって、『脱原発を考えるペンクラブの集い』が300人を超える盛会だったそうです。うらやましく伺いました」と述べた。
 
 ことし公益法人になった同協会は、相互扶助のみならず、文化活動をより推進していくことになった。7月からは毎月、文春ビル5階の会議室で文芸サロンを開催している。

 11月度は50人の満員のなか、俳人の鷹羽狩行さんと篠会長と対談で、『俳人・歌人はいま……東日本大震災と「ことばのちから」について』と題した熱ぽく語ったと紹介した。

「関東大震災のときは、(短詩形は)素朴なリアリズムが持っていたし、言葉を煎じきっていた。これは強いですね。現代の俳人・歌人はどうあるべきか。より一層、レトリックに磨きをかけ、個人の着想としての、うずき、儚さ、空しさ、痛み、そういうものをどう表現するかです」

 このトークショウの場で、松本の宮坂静生さん(俳人)が、仙台の会員の俳句を紹介した。篠会長は傑作だと思ったと言い、それを朗読した。
『春夕焼 海を憎むと誰(た)も言はず』 専門家の句ではないが、見事だな、と思ったという。

 PEN・企画事業委員会のカメラマンの杉山晃造さんと 山本幸一さんは、3.11の直後に、災害現場に飛んでいる。被災地の写真が同会場に展示されていた。

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第53回・元気に100エッセイ教室=紀行エッセイの書き方

 江戸時代は日本橋から京都まで、「東海道五十三次」を徒歩で行く。一日中歩いて、まず品川宿に着く。旅籠で宿泊し、翌日も次なる宿場町・川崎にむかって足を運ぶ。53日間がすべて晴れている、それはあり得ない。風雪を考えると、旅人は大変な苦労をしたと思える。


 毎月1回の作品提出のエッセイ教室が53回を迎えた。(8月と12月は休み)。5年以上も、「次は何を書くかな」と頭はつねに休む間もなく、考え続ける。

 講師の私からは、「病気、孫、自慢話し」は書かないでください。そんな条件付きだから、書く材料・素材が枯渇した気持ちにも陥ったことだろう。

「楽にすらすら書かない。隠したいこと、伏せてきたこと、恥部を描くように。苦しんで書く」という付帯条件もある。となると、妻子や友人に作品をみられたら? とプレッシャーが生じてくる。

 書きあがった初稿は、数日寝かせ、大きな声を出して読み、圧縮と省略を図り、無駄な文言を削るように。そうなると、作品の仕上がりにも時間がかかる。

 徒歩で行く「東海道五十三次」と、5年間エッセイの筆を執る。どっちが楽か、苦しいか。ともに体験者でなければ、回答が出ないだろう。

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被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(下)

 田老地区にはすでに強大な防浪堤があった。ところが、60年代に新たな防波堤が角度を変えて着工された。1979年には新堤防ができた。この防波堤は、津波に向かって正面から受け止める、という考え方で作られたものだった。

 古い堤防が一つの時、堤の外側はワカメの干し場、漁業の作業場だった。角度が違う、新たな防波堤ができると、新旧はX型になり、そこには中間の空き地ができた。
 二つ堤防の組み合わせだから、町の人は二重に守られている、と考えた。中間地の空き地は出入りができることから、家が建ちはじめた。当時は、核家族時代の到来で、人口が増えないが、家が必要になってきたころだった。130、140軒ほどできた。

 3.11災害被害で、二つの堤防を持った田老地区は他の地域と歴然とした差があった。新旧の中間地点に建つ家が全壊し、死んだ人も多数。一番被害の多い地域となってしまった。

「新しい堤防の内側は、きれいさっぱ流されています。古い堤防の内側には瓦礫(がれき)が、ふつうの町の4倍から5倍ありました。一瞬、町全体(新旧の中間の町)が巨大なバスタブだと思いました」と話す。

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被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(中)

 日本ペンクラブのミニ講演で、吉岡さんの「被災地を歩いて」は、大地震および大津波の時代的な背景へと及んだ、

 1896年(明治29)年の「明治三陸地震」の大津波では、三陸海岸の多くの町や村が全滅した。それは日露戦争が終わった直後のことだった。

 1933(昭和8)年の「昭和三陸地震」は夜中に起きた。時代としては、日本が国際連盟を脱退した、一週間後の津波だった。世界の中で、日本が孤立化していく時代背景があった。


 「昭和三陸地震の大津波でも、(岩手県宮古市)田老地区はほぼ全滅でした、ほかの東北地区でも甚大な阻害が発生し、窮乏の対策という理由から、日本が中国への侵略を加速させていったのです」と吉岡さんは語る。

「明治と昭和の大津波で、二度も町がやられた。いくらなんでも、何とかしなければならない、と人は考える。田老は後ろに山が迫っている町です。住むには平地がない。そこで村長は大きな堤防を作ることを考えたのです」
 強大な「防浪堤(ぼうろうてい)」は長さ1.3キロ、高さは10メートルで、断面の形状は富士山に似る。下部が23メートルで、上部には3メートルの歩道ができる、巨大な堤防だった。

 資金的な面もあって、「防浪堤」の完成は戦後だった。と同時に、津波防災の町として、世界的にも有名になった。

「この防浪堤のアイデアは、どこから学んだのか。田老の人たちは、関東大震災後の、後藤新平による帝都改造計画から学んだのです」と話す。
 後藤は、東京の町を碁盤の目にすることを考えた。道路を縦割りにすれば、まっすぐ逃げられる。現在の昭和通り、明治通り、靖国通りはこの構想が元になってできたもの。
 ただ、東京の復興都市計画は、車も少ない時代であり、お金もなかったことから、頓挫した。

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被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(上)

 日本ペンクラブの月例会では毎回、ミニ講演会が行われている。11年9月例会では、吉岡忍・専務理事よる題目『被災地を歩いて』の講演と、企画委員会である杉山晃造さんの「三陸被災地の写真」が展示された。
 吉岡さんは、3.11の東日本大震災が発生した直後から現地に入り、岩手、宮城、福島など数十ヶ所の市町村を歩いてきた。と同時に、多くのメディアを通してさまざまなレポートをしてきた。


「発生から半年経った今、20分でしゃべるのは難しい」と前置きした吉岡さんは、被災地と文学との関連について話をされた。

 今回の震災では、約1万5千人が亡くなり、五千人余りが行方不明となった。その内訳がなかなか表に出ず、詳しい調査が進んでいない。
「漁師さんとか、漁業関係者とかで亡くなった方は意外と少ないのです。たぶん1割いるか否ないか。犠牲者はどういう人だろうか。港の後ろ側で、飲み屋、ホテル、住宅がある、町場(市街地)の人たちが犠牲になっています」
 大地震の発生が昼間だったことから、働いている人は一斉に逃げている。あるいはあまり犠牲者が出ていない。他方で、組織的でないところに居る人、高齢者に多くの犠牲者が出ている。

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