岡山城で、あの武将に巡り合う
広島には1時間余りの日帰りの用があった。交通費はかかることだし、東京にトンボ帰りにしても勿体ないし、岡山に立ち寄り、後楽園と岡山城に行ってみようと決めた。ある意味で単なる気まぐれだった。
過去に一度、岡山城には足を運んだはず。だが、どんな城だったか、記憶のなかには残っていなかった。
東京を発つ前日の、深川歴史散策の折り、PEN仲間の山名美和子さん(歴史作家)に、岡山城に立ち寄る話題をむけてみた。
「旭川の方からみた岡山城は素敵よ。日本の城のなかで最も好きな一つね」
そう賛美してから、
「正面から見た岡山城は、どでーんとして、面白くないけど」
とつけ加えていた。
正面よりも裏側が美しい。社寺仏閣にしても、そうざらにある話ではない。
4月20日の午後は曇天で、ときに小雨が降っていた。後楽園を見学してから、同園の南門を通り、旭川に架かった橋を渡りはじめた。そこから見た4重6階の天守閣はまさしく美城だった。ほれぼれしながら、カメラのシャッターを切った。
カルチャーなどのPHOTO教室では、
「風景写真は絵葉書的で面白くないし、他人に見せても感動しない。人物は必ず入れなさい」
と指導している。
その手前もあるし、鉄橋には通行人などいないし、程ほどに数枚撮って止めた。城址に入ると、ジャージーを着た、京都の女子高生たちが散策していた。彼女たちを取り込むかなと思うが、タイミングが合わない。
岡山城の概要の案内板を読んだ。宇喜多秀家が城郭を建造した、と明記されていた。
「えっ、あの宇喜多秀家(うきた ひでいえ)だ」
私は大声で叫びたくなった。それは小説の習作時代に、取り上げた人物だったからだ。
私は28歳から腎臓結核の長い闘病生活に入った。読書三昧だったが、そればかりでは面白くないので、2年後の30歳のとき、小説を書いてみよう、と決めた。
数年後に社会復帰は果たしたが、すぐさま膀胱腫瘍とか、病いの連続だった。人生は悪いことばかりでなく、他方では直木賞作家の伊藤桂一氏と巡り合い、長く指導を得ることになった。
私は純文学の小説にこだわっていた。ハードルは高いし、文学賞ははるか彼方に思えた。小説で食べられなくてもよかった。死ぬまでに一冊でも良い、後世に残る作品を書きたかったからだ。