小説家

岡山城で、あの武将に巡り合う

 広島には1時間余りの日帰りの用があった。交通費はかかることだし、東京にトンボ帰りにしても勿体ないし、岡山に立ち寄り、後楽園と岡山城に行ってみようと決めた。ある意味で単なる気まぐれだった。
過去に一度、岡山城には足を運んだはず。だが、どんな城だったか、記憶のなかには残っていなかった。


 東京を発つ前日の、深川歴史散策の折り、PEN仲間の山名美和子さん(歴史作家)に、岡山城に立ち寄る話題をむけてみた。
「旭川の方からみた岡山城は素敵よ。日本の城のなかで最も好きな一つね」
 そう賛美してから、
「正面から見た岡山城は、どでーんとして、面白くないけど」
 とつけ加えていた。
 正面よりも裏側が美しい。社寺仏閣にしても、そうざらにある話ではない。

 4月20日の午後は曇天で、ときに小雨が降っていた。後楽園を見学してから、同園の南門を通り、旭川に架かった橋を渡りはじめた。そこから見た4重6階の天守閣はまさしく美城だった。ほれぼれしながら、カメラのシャッターを切った。
 カルチャーなどのPHOTO教室では、
「風景写真は絵葉書的で面白くないし、他人に見せても感動しない。人物は必ず入れなさい」
と指導している。
 その手前もあるし、鉄橋には通行人などいないし、程ほどに数枚撮って止めた。城址に入ると、ジャージーを着た、京都の女子高生たちが散策していた。彼女たちを取り込むかなと思うが、タイミングが合わない。


 岡山城の概要の案内板を読んだ。宇喜多秀家が城郭を建造した、と明記されていた。
「えっ、あの宇喜多秀家(うきた ひでいえ)だ」
 私は大声で叫びたくなった。それは小説の習作時代に、取り上げた人物だったからだ。


 私は28歳から腎臓結核の長い闘病生活に入った。読書三昧だったが、そればかりでは面白くないので、2年後の30歳のとき、小説を書いてみよう、と決めた。

 数年後に社会復帰は果たしたが、すぐさま膀胱腫瘍とか、病いの連続だった。人生は悪いことばかりでなく、他方では直木賞作家の伊藤桂一氏と巡り合い、長く指導を得ることになった。

 私は純文学の小説にこだわっていた。ハードルは高いし、文学賞ははるか彼方に思えた。小説で食べられなくてもよかった。死ぬまでに一冊でも良い、後世に残る作品を書きたかったからだ。

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第58回・元気100エッセイ教室=文章のリズムと流れ

 リズム感。それは音楽において最もたいせつな要素です。と同時に、奏者や歌手のいのちです。
 体操選手でも、リズム感のある人と、そうでない人の差は出ます。一般人の生活そのものにも、リズムがあり、大切な要素となっています。


 文章においても、リズムはとても大切です。文のリズムが良いと、作品に味が出てきます。読み手の頭のなかに、心地よく言葉が入ってきます。次つぎ、流れを追いたくなります。
 反面、文章のリズムが悪く、起伏がなく、単調な流れになると、読み手は飽(あ)きてしまいます。

 それは何も、エッセイだけではありません。
 長編小説でも、オーケストラのように人物を巧妙に配置し、ひとりずつ動かす、それぞれにリズムを持たせる必要があります。あるときには静かにせせらぎを流れる音のように恋を語り、時にはドラムを連打する激しい逆境の人生が必要です。
 平坦なありきたりの甘いリズムばかりだと、数百枚の小説などはまず読み切れないものです。

 エッセイも同様です。短文のなかに、きめ細やかな描写がある。それでいて、スピードのあるリズムなども要求されます。ただ単調にストーリーを運んでも、内容がよくても、印象が薄い作品になります。

 花を摘むのんびりした人びと、むこうには成田空港へのスカイライナーが走り抜けていく。一つキャンバスのなかに、別々のリズムが共存しています。
 これを一つの情景文として、エッセイ作品で描く場合には、2つのリズムが必要になります。
 
 文章にリズムをつけるには、どのようにすればよいのでしょうか。そんな疑問に応えてみます。


ポイント① 【上手に文章リズムをつける方法】 

A 長い文章(ロング・センテンス)の後は、あえて短い文章にする。短い文章が続くと、こんどはやや長い文章にしていく。これがリズムの基本です。
 きっちり正確にやりすぎると、却ってリズム感を失くします。

B パラグラフ(複数のセンテンス・各段落ごと)の分量には、たえず変化をつけていくと、作品全体にリズムがついていきます。

 これら2つを常に意識して創作活動していると、個性的な文体と独特のリズム感が生まれてきます。作者名を伏せていても、リズムと文体から、誰の作品か判ってくるものです。

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文学仲間たちと『深川歴史散策』、そして門仲・居酒屋で語る 

4月18日は快晴で、気持ちの良い深川歴史散策の日和となった。集合は清澄白河駅(江東区)だった。日本ペンクラブ・広報委員会、会報委員会の有志で、今回が4回目となり、メンバーは固定している。


 清原康正さん(会報委員長・文芸評論家)、相澤与剛さん(広報委員長・ジャーナリスト)、新津きよみさん(推理小説作家)、山名美和子さん(歴史小説作家)、井出勉さん(PEN・事務局次長)、そして夜の部だけとなった吉澤一成さん(PEN・事務局長)、それに私の7人である。


 第1回は11年8月9日の猛暑の葛飾立石だった。東京下町の昭和が残る町を見てまわった。2回目は江戸幕府との縁が深かった小江戸の川越。3回目は文人たちの碑が多い浅草だった。

 今回のルートは清原さん、相澤さんの2人によるものだ。まずは荒井白石の墓がある報恩寺に向かった。愉快なお土産物などもあった。


 数日前には、山名さんから郵送で、彼女が執筆した「江戸への旅」(名城をゆく・第9号)(小学館)が自宅に届いていた。
 本所深川界隈『藤沢周平を歩く』に記載された、「蔵前・門仲で下町人情に出会う」とか、「深川の水と闇にたゆたう情念」とか、「両国橋を渡り、柳橋から舟遊び」などが、今回の歴史散策に関連した、興味ある内容だった。


 山名さんは現在、埼玉新聞に「甲斐姫翔る」を連載している。いま秀吉の小田原城攻めで、40数回に及ぶ。この先、埼玉県内で激戦が繰り広げられるので、一段と熱気がある執筆となろう。前々から、彼女が最も書きたかったところだと語っていたから。


 新井白石の墓を目ざす途中で、「出世不動があるぞ。縁起がよさそうだ」と予定外の寺を見つけ、足を運んだ。「作家となった今、出世でもないしな」という軽口も出てくる。
 しだれ桜がとても雰囲気の良い、小さな境内だった。

 報恩寺に足を運びいれた。肝心の荒井白石の墓は囲いがあって中に入れない。(見ることは出る)。白石は晩年に執筆した名著が多く、それらは高く評価されている。

 幕藩体制のなかで偉業をなしたか。見方はそれぞれに違ってくる。徳川将軍の第6代家宣、第7代家継と2代にわたり、一介の旗本の白石が幕政を牛耳ったのだ。良い施策もあるが、独善的な考え方で、「将軍の命令だ」と強引さで貫いた。
 それら白石の推し進めた政策が、あとに続いた吉宗にはことごとく否定されてしまうのだ。

「江戸時代にはいろいろな大改革が行われたが、見方を変えれば、庶民いじめだからね」と井出さんがいえば、相澤さんも賛成する。「田沼意次も決して悪い人物ではなかった」と山名さんも話す。
 歴史作家たちだけに、教科書的な価値観から脱却し、それぞれの意見を繰りだす。


「深川江戸資料館」に向かった。この間に、下町の店などをのぞく。道々、新津さんから「(私の友人の)22日・ギターコンサートの招きをキャンセルして悪いわね」と詫びられた。彼女は著名ミステリー作家だけに、作品がTVドラマ化されることが多い。今回はじめて映画になり、監督や俳優と顔合わせが急きょ22日になったのだという。「映画優先は当然ですよ。ギターはまたの機会も作れますから」と応じた。


 同資料館に入る前、清原さんが「きのうは徹夜し、朝食も取らずに来た」といい、喫茶に入った。私も空腹を覚えていたので、ふたりして太鼓焼とたこ焼きを食べ、小談してから、館内に入った。


 ひとたび足を踏み入れると、そこは江戸時代の庶民の街なかである。火の見やぐら、船宿、籠めや、八百屋、長屋、井戸や便所などが、まさに実物大で再現されている。
 さらには、鶏の鳴き声、ネコの鳴き声、アサリ売りの声、時を知らせる鐘の音がひびく。江戸の雰囲気がわが身を包んでくれる。タイムスリップさせてくれる。
 

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第57回・元気100エッセイ教室=エンディング(結末の書き方)

 多くの人には、名作映画のラストシーンのいくつかが心に焼きついているはずです。「太陽がいっぱい」「サウンド・オブ・ミュージック」「ジョニーは戦場へ行った」……、私には、『シェーン、カムバーック』と叫ぶ、少年の声が谷間にこだます場面がつよく残っています。

 エンディング(結末)は作品の最大の勝負どころです。武士の真剣勝負でいえば、最後に振り下ろした一刀で、相手を斜めにスパッと斬る。そのような切れ味の良さが求められます。

 エッセイは書き出しで、まず読み手を引き込みます。それに失敗したら、もう終わりで沈没です。読者を引き込んだ先は、内容勝負というよりも、結末勝負です。エッセイのエンディングは、名作映画のラストシーンと同様に大切なものです。


  ・結末が良いと、「良い作品を読んだ」という評価になります。
  ・結末が悪いと、最後まで「期待してきて裏切られた」心境になります。

 ストーリーがあるものには、終わり方の定石や定型がありません。映画でも、エッセイでも、作品ごとに内容が違うから当然です。ただ、エンディング効果を上げる、上手な方法はあります。


【良いエンディング(結末)の書き方】

① 多めに書いておいて、2、3割ほど手前ですぱっと切って棄ててしまう。余韻が生れます。(コツ)
② 随所に伏線を張っておいて、ラストで結びつけてくることです。
③ 「私」の期待や、希望など、心のなかを表現する。心理描写で終わらせてください。
④ 苦境を描いても、涙とか、悲しみとか、泣くとか、それら悲哀のことばは途中で使わない。
   極力引っ張ってきて、最後の最後で、切り札としてつかう。
⑤ 読者を泣かせることです。

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幕末史の空白と疑問(3)=尾張藩はなぜ徳川を敵にしたのか

 尾張16代藩主の徳川慶勝(よしかつ)は、尊皇攘夷の立場をとる大名だった。そんな背景から、孝明天皇からも厚い信頼が寄せられていた。
 慶勝は德川家そのものよりも、むしろ朝廷を尊ぶ、尊王思想だったという。

「尾張藩の初代藩主である義直の『王命に依って催さるる事』を秘伝の藩訓としてきた。つまり勤皇思想の家訓を受け継いでいたからです」
 徳川美術館(名古屋市東区)の原史彦主任学芸員がそう語ってくれた。

「禁門の変」で、朝廷に銃を放った長州に対して、孝明天皇は激怒した。長州藩追討の勅命を発したことから、天皇の信頼が厚い徳川慶勝が、第一次長州征伐の征長軍総督になった。(慶勝は当初固辞していたが、全権委任を取り付けて引き受けた)。

 慶勝は兵を進めながらも、平和交渉で外交に勝ち、終戦に持ち込めた。
 長州藩には禁門の変の責任を取らせて、三家老を切腹させた。
「血を流さず、戦費を費やさず」
 慶勝とすれば、最高の平和裏の終結だった。慶喜からは長州の措置が寛大すぎるとして、非難されて、糞みそに言われたことから、慶喜が大嫌いになった。

 第二次長州征伐のとき、慶勝は個人的な慶喜への遺恨から、もはや尾張藩主でないし、病気を理由に出陣もしなかった。

 大政奉還のあと、鳥羽伏見の戦いが起きた。徳川軍は頭から戦うつもりでなく京都への上洛の途中だった。西郷隆盛ら薩長土芸の軍隊に奇襲攻撃されたのだ。

 德川軍は体勢を立て直し、本気で戦う気ならば、まだ勝算があったはず。しかし、慶喜は会津藩主の松平容保を連れ、大阪城の門番の目をごまかし、こそこそと逃げ出すなど、およそ徳川将軍の振る舞いとは思えなかった。軍艦で江戸に逃げ帰ったのだ。

「徳川将軍も地に落ちた」
 それが長州の和平を糞みそに言った慶喜だっただけに、尊王派の思想だった慶勝は、徳川家そのものを完全に見限ったのだ。

 尾張家からは、德川15代将軍に誰一人なっていない、という潜在的な不信感とか、反発もあっただろう。

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幕末史の空白と疑問(2)=尾張藩はなぜ徳川を敵にしたのか

 尾張16代藩主の徳川慶勝(よしかつ)が、なぜ戊辰戦争で勤王側についたのか。その疑問から、名古屋市東区の「徳川美術館」に訪ねた。
 同館の原史彦主任学芸員が、芸州藩研究の私の立場と疑問を理解してくださり、飛び込み取材に応じてくれた。原さんは歴史学の立場から、慶勝を説明する。


 14代尾張藩主になった慶勝は、水戸斉昭らとともに尊王攘夷を主張し、安政の大獄では蟄居を命じられている。このとき尾張藩主を交代した。しかし、幕末の尾張の実質的な藩主だった。

 第一次長州征伐では、幕府は36藩15万の兵で長州へと進軍させた。徳川慶勝が幕府側の総督となった。
「慶勝は慎重な性格でした。戦争とは金と人を浪費するもの。戦いよりも和平を求めたのです。(幕府から全権委任を取り付けていたから)、大勢のひとの血を流させず、長州藩の家老3人の切腹で終わらせた。武力でねじ伏せるよりも、外交で勝つ。それが慶勝の取った最善の策でした」

 この経緯としては、慶勝が戦争を回避させるために、岩国(吉川)藩、下関(長府)藩の2藩が長州藩との仲立ちになるように、西郷を使いに出したのである。

 多くの書物は総督・慶勝を飾り物として、勝海舟が西郷が和平の知恵をつけて、西郷がみずから岩国、下関に出向いて解決したと記している。

「旗本の勝海舟と德川家の慶勝とは、あまりにも身分が違いすぎて、ふたりの間に接点はなかった」
 と原さんは語っている。

 名古屋に来て、尾張の視点から見ていると……、
 勝海舟が龍馬を介して、武力討伐思想の西郷に初めて会い、和平へと仕向けた、これはどうも作り物ぽく思えてくる。
 旗本の勝は常に低い身分の家の出だと意識して生きていた人物である。封建制度のきびしい上下関係からしても、勝海舟や西郷がふたりして36藩15万の幕府軍の戦いを終結させた、とするのはあまりにも無理がある。それはあり得ないのではないか。

 明治時代以降に、德川家の力を過小評価させようと、作為的に作られたものなのか。あるいは後世で、(西南戦争で死す)悲劇の主人公・西郷を英雄視する者が、第一次長州征伐で、德川家総督よりも参謀の藩士・西郷が采配をふるった、と創作したものか。それとも、勝海舟の西郷談に尾びれがついたものが、歴史上の大勢になってしまったのか。いずれかの可能性がある。

 現代人の多くは、山口県という視点から長州藩と他の2藩を混同し、同一視している。しかし、当時は国(藩)はまったく別もの。幕末の2藩と長州藩とはむしろ敵対する面が多々あった。
 高杉晋作などは下関・長府藩の藩士たちに命を狙われ、逃亡しつづけていたのだ。

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幕末史の空白と疑問(1)=尾張藩はなぜ徳川を敵にしたのか

 大政奉還は世界史でも珍しい、平和裏の政権交代だった。徳川15代将軍の慶喜が天皇に政権を返上した。それなのに、あえて2か月後には、薩長が武力で德川家を倒す策に出た。
 日本人の誰が考えても、戊辰戦争などやる必要がなかったのに。

 下級藩士だった西郷隆盛はとくに武力主義で、徳川家を戦いでつぶす、という軍事思想家だった。
鳥羽伏見の戦とはなにか。大阪から上洛中の徳川慶喜や松平容保(会津藩)の大勢の軍兵に、西郷たちが奇襲攻撃をかけたのだ。緒戦で勝った。そう評価するよりも、徳川軍には戦う気がなかったのだ。
 西郷は、生涯でこの勝利が最もうれしかったという。西郷の考えが、とんでもない、日本の悲劇を生むことになったのだ。

 戦国時代まで、国内の戦争は大名どうしの戦いで、下級武士はまったく儲からなかった。戊辰戦争は違った。会津藩が陥落した後、薩長土肥の下級武士たちが東北地方で、会津藩士は一人残らず青森の僻地に追いやり、思わぬ領地を手に入れたのだ。
「戦争は儲かる」
 その甘い汁を覚えたのだ。
 それら人物が明治政府の中核に座ってしまったのだ。
 まず西郷が最初に言い出したのが、韓国を植民地にすれば儲かるという征韓論だった。やがて日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、「勝った、勝った、外国の領土を奪った」という戦争国家に変わってしまった。

 江戸幕府は260年間にわたり海外と一度も戦わなかった。江戸時代の平和国家から、戊辰戦争は戦争国家に変わってしまった、大きな歴史のターニングポイントだった。
 明治政府とすれば、戊辰戦争の細部は教えてはならない恥部だった。悲しいかな、日本人は教科書で、その構図を教えられなかった。

 同政府は「神風が吹く、日本」と神話を造った。「教育勅語」すら、明治天皇はいっさい関与せず、薩長の政治家が勝手に作り、庶民を戦争に連れ出せるように、児童たちに丸暗記させるものだった。そして、徴兵制度で、「お国のため」という名目で、駆り出されていった。結果として、第二次世界大戦では、日本人だけでも数百万人の犠牲者を出してしまったのだ。
 日本軍が海外で殺した外国人兵士や庶民の数は教えられていない。

 現代でも、なぜ戊辰戦争が必要だったの、と聞いても、知識人を含めて、ほとんど、否すべてと言っていいほど日本人は答えられない。それは明治に作られた歴史教科書がさして変わっていないからだ。平成時代に生きる現代人も、そのこと自体を悲しむべきことなのに……。

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朝日カルチャー新宿で、穂高健一『フォト・エッセイ入門』開設=4月より

 朝日カルチャー・新宿で、穂高健一の「フォト・エッセイ入門」が4月から開設されます。

 デジカメ時代です。写真はどんどん撮るが、その先はさして使い勝手もない。何かしたいな、そういう思いの方々には最適な講座です。
 朝日カルチャーの協力のもとに、4月から開講します。


 「写真」および「エッセイ」興味と関心がある方は、新宿まで足を運んでください。
入門講座ですから、「デジカメを上手に撮りたい」「デジカメで撮ったものを作品として残したい」という方にはとてもお勧めです。


 撮る、書くことが好きになる、楽しい仲間づくりを目指しています


                               
【朝日カルチャーの講座内容から】

 ブログや広報誌、冊子などで、読者に共感を呼び起こすためには、文章や写真にひと工夫が必要です。書き方、撮り方だけでなく、伝えるとは何かを学びます。毎回丁寧に添削、講評します。

 第1回 写真の撮り方:人物をとりいれた撮影 「人間は人間に感動する」 
         作品提出についてのガイダンス
 第2回 エッセイの書き方:「短時間で、正確に、楽に書く」文章テクニックについて
        添削と講評 (作品を映像で見ながら、講評します)
 第3回 ブログ、冊子などで、「共感・感動させる」読み手を増やすテクニックについて 
      添削と講評 (作品を映像で見ながら、講評します)

●毎月1回、自由なテーマで作品を提出してください。第1回提出締め切りは4月27日(金)です。

●A4の用紙1枚に400字と写真2~3点をはりつけ。 合計3ページ(文章1200字、写真9点)
以内におさめてください。
 指定のメールアドレス(お申し込みの方は受講券をご参照ください)

【講座・開催日】
 4/14~6/9土曜 15:30-17:30  2012年 4/14, 5/12, 6/9

 申し込みは3か月ごとです。
 詳細は穂高健一『フォト・エッセイ入門』こちらをクリックしてください。

 

第56回・元気100エッセイ教室=感動エッセイを書こう

 講座の冒頭、30分間が私に与えられた、レクチャーの時間である。受講生17人には、事前にレジュメを送っている。だから、前置もなく、いきなり本題に入れる。

講義が始まる10分ほど前だった。ある受講生から、「先生、これ参考にどうぞ」と渡された。わが国の著名なエッセイストで『エッセイの書き方』に類する内容で、A4コピーが2枚だった。一読すると、小説家の私とはかなり違う。ある部分ではまったく逆だな、と思った。

 最近私が取材した・酒造メーカーを思い浮かべた。それに例えると、上澄の清酒を造るのが、エッセイスト。その教えは「エッセイは書くことを楽しむ」ものだ。美しい風景に巡り合ったら、その感動を文章にしてみる。美的に書く。そんな雰囲気の指導書に思えた。

 ところが、私の指導は下部にある濃い濁り酒を取り出すのと同じ。あえて己のドロドロしたところに、手を染めていく。そこから逃げてはダメだ。
「己の心を痛めても、隠しておきた恥部をさらけだす。それが感動を呼び起こします。楽に書いてはダメです。苦しんで書きなさい」
 私はつねに受講生に語りかけている。

 やはり、私は小説家の指導するエッセイ講座だなと思った。と同時に、高いレベルを要求するから、受講生は応じるのは大変ろうな、と妙に同情してしまった。しかし、指導方針は変えるつもりはない。
 受講生どうしが作品を誉めあいごっこ、美辞麗句を並べあうサロン化する気など毛頭ない。今後も、苦しんで書きない、それが連続していくだろう。


 文章技巧の上手・下手を超越した、「感動するエッセイ」にチャレンジしましょう。それが今回のレクチャーだった。
 誰もが生きてきた道をふり返れば、必ず他人を感動させる素材をもっています。提出作品の数回に1回は、それを引き出してみましょう。

①エッセイは「他人に読ませる」もの=作者の独りよがりにならない。
②「心の動きをとらえる」もの。=「私」の心理を追う書き方にする。
③「生き方の断面を書く」もの=私の生き方の『へその緒』を感じさせる。

 執筆姿勢として、「心的に苦しまずに、書きやすい素材を取りあげた」場合は、出来事の紹介、単なるエピソードという平板な作品になります。読者は、作中人物の心理を追うほどでもなく、低い評価になります。

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著名作家たち「この町は好い。立石はこのまま残すべきだ」と語る

 1月31日の午後3時に、京成立石駅の改札口に、日本ペンクラブの有志5人が集まった。
 顔ぶれは、吉岡忍さん(ノンフィクション作家・日本ペンクラブ専務理事)、出久根達郎さん(直木賞作家)、轡田 隆史さんくつわだ たかふみ、元朝日新聞・論説委員)、それに吉澤一成さん(同クラブ・事務局長)である。
 吉澤さんは一度、立石には来ているが、他の3人は初めてである。

 ことの経緯は昨年の秋にさかのぼる。ある大学の構内で、私と吉岡さんとふたりして小一時間ほど話す場があった。私は、吉岡さんの3.11の取材体験などを聞いていた。話が転じて、
「葛飾・立石は昭和の街で、好い街ですよ。最近、ネット社会で、口コミで広がり、安く、おいしく飲める、と評判ですから、一度来ませんか」
 と持ちかけた。

 それがより具体的になったのは、12月のP.E.N.忘年会だった。
 私が、出久根さんが受持つ「読売新聞・人生相談」について語り合っていた。吉岡さんが側にきて、「穂高さんから、立石で飲もうといわれているんだよね」
 と話を切り出した。
「立石は良い。とてもいい街ですよ」
 出久根さんが称賛した。
「じゃあ、出久根さんも、一緒に行きましょう」
「立石には、仲の良い古本屋の親父(岡島書店)がいる。かれも誘おう」
 そんな話から、
「日本酒が大好きな轡田さんも。サントリー広報部長だった吉澤さんも」
 と即座にまとまった。

 正月早々には日程調整が進み、覚えやすい1/31と決まったのである。
 
 私を含めたP.E.N.5人が集まった。それに古本屋の岡島さんで、「名刺とケータイがないのがウリです」と笑わせていた。

 立石仲見世を中心とした商店街見て回った。人気の店「うちだ」「鳥房」ともに連休だった。中川七曲りの本奥戸橋にも足を運び、東京スカイツリーを見た。そして、「のんべ横丁」にも案内した。

 岡島さんと私が町の特徴を説明した。

 葛飾・立石は終戦直後は赤線地帯(売春)から、夜の町が発達してきた。他方で産業としては、中川を利用した染物(繊維)、ブリキの玩具(輸出も含めて)、旋盤など利用したパーツ品の町工場、さらには伝統工芸・伝統産業品(和雑貨・小物)などが発達していた。

 これらの職人、工員たちが夜勤明けから一杯飲んで帰宅する。だから、立石は昼間から飲み屋が開いている、という説明もつけ加えた。

 商業的には、荒川放水路から、奥戸街道を通って千葉に荷物を運ぶ。これは古くから開けており、四つ木から奥戸橋まで、延々と道の両側に商店が栄えてきた。(推定・5キロ)。四つ木にも、立石にも、複数の映画館が娯楽の中心としてあった。
 立石仲見世は葛飾で最も早くアーケード街になった。

 昭和の後半から、衰退期に入った。いま現在、四つ木などは7、8割がシャッターを下ろす。立石も凋落傾向にあった。ところがここ数年、インターネット普及で、『昭和の町・立石』が急速に人気となり、風前の灯であった、飲み屋街が息を吹き返し、町全体が力を持ってきた。

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