小説家

72回元気100エッセイ教室=名品の作り方

 創作した作品(エッセイ)には読んでくれる人が必要です。読む、読まないは読者の自由です。読み手側からすれば、身勝手な文章は、はた迷惑なものです。
 それだけに、作者はつねに読んでもらえるサービス精神を忘れてはいけません。読んでもらえる労を惜しまない。ごく自然に最後まで読ませてしまう。それが文章の腕前です。

 最後まで読んでもらえる作品を書く。そのためには、「読んでもらえる材料」集めからはじめることです。 難しく考えないで、鮮度の良い、興味を引く、目新しいものを念頭に置いてください。
 大上段に構えず、身近な素朴な材料でも、しっかり観察すれば、切り口の良い料理(作品)が作れます。素朴な食材からも、高級料理が作れるのと同じ。素朴な材料からも、名品が生まれます。

 読者が最も興味をもつのは、事件や出来事よりも、「人間」です。作中の主人公「私」をしっかり描けば、名品と評価されます。しかし、最も見えないのが、作者自身です。
 私の「きわだった特徴、愛すべき癖、そして、いくつかの欠点」が描ければ、それは名品です。


名品を書くための8つのチェック


①視点は「私」に統一する

   ・主人公はどこまでも私ある。書きやすい他人(ひとごと)は書くな、それが鉄則です。
   ・私の欠点、恥部、コンプレックスを書こう。きれいごとは書かない。

②構成(ストーリー)を組み立てる

  ・野球の投球で考える。ストレートにカーブ(ひねり、ジグザグ)も入れてみる。読者(バッター)に、球筋を見破られない。

③「私」を鮮明に描くことは、最も難しいけれど、読者はそれを読みたい。
 
  ・私のきわだった特徴、愛すべき癖、そして、いくつかの欠点を書く

④場面の設定(三一致の法則)

  ・短い時間、狭い空間のなかで、ストーリーを展開すれば、凝縮力が強まる。逆は、散漫な作品になる

⑤表現は五感を使う。
 
  ・文章音痴と、味覚音痴はよく似ている

⑥情景、人物の行動、心理描写の三本柱で書く

   ・説明文で書かない。説明はとかくへ理屈になる。

⑦ 簡素にして明瞭な文章で書く
 
   ・一度読んだだけでは解らない、そんな文章などは論外である

⑧ 表現に凝らない方が作品に味が出る。
 
   ・悪文と美文は親戚どうし

⑨最後に、テーマを統一する。そして、書きなおしてみる。

   

第8回歴史散策=文学仲間たちと両国界隈(かいわい)へ

「今回は遅刻しなかったわね。穂高さんは」と山名さん(歴史小説作家)さんにいきなり、言われた。もし遅れたら、置いていくつもりだったのよ、と彼女はつけ加えていた。小、中、高校の教員歴があるだけに、時間の躾(しつけ)? には厳しい。
 この年齢にして、もはや遅刻魔の私の修正は治らないだろうな。

 8月7日12時半に、浅草橋に集合だった。改札口には文学仲間の全員がそろっていた。むろん、私の到着がビリである。
 
 「歴史散策」は8回目となった。山名さんのほかに、井出さん(日本ペンクラブ事務局次長)、吉澤さん(同事務局長)、新津さん(ミステリー作家)、相澤さん(作家)、清原さん(文芸評論家)、そして私を含めた7人である。

 外気温は連日の35度前後である。
 真昼間の長時間の街歩きとなると、話題はとかく熱中症対策になりがちだ。「暑い、暑い」と言ったところで、涼しくなるわけがない。水分補給は必要だが、飲むほどに汗が流れ出てくる。日陰は少ないし、街角の自販機をつい横目で見てしまう。

 柳橋は、時代小説には欠かせない場所だ。粋な姐さんの柳橋芸者が現れる。過去に読んだ、池波正太郎、海音寺潮五郎、山本周五郎など多々の作品が断片的に思い浮かぶ。その情感を味わってみる。
 小説では、夕暮れの情感を誘う小料理屋の描写も多い。それらしき割烹、小料理屋の店頭をのぞく。いずれも料理の値段は高そうだな、と現実に戻ってしまう。

 神田川と隅田川の合流点には、複数の屋形船が浮かぶ。屋形船の櫓の音がぎー、ぎーと川面に流れる、こんな夏の夕涼みの情緒は、江戸時代の小説に数多く描写されている。
 平成23年の真夏の昼間となると、どの船上にも船頭の姿はなく、ただ係留しているだけだった。

「薬研掘り」。響きがとても良い。
 吉沢さんと新津さんが名物の唐辛子を買う。店頭の女将さんがていねいに量り売りをしていた。「七味」と「一味」と、どう味が違うのだろうか。
 鍋料理とか、うどんとかに振りかける、という認識ていどの認識だ。味覚として、唐辛子の味にこだわったことがない。唐辛子の風味まで感じ取れないと、本ものの食通とは言えないのだろう。

 両国散策コースは、わりに社寺仏閣が少ない。両国橋にさしかかる。東京スカイツリーが、隅田川の対岸に屹立する。ここらがいまや東京の名所になっている。
 眼下の川面には観光の水上バスが行きかう。タグボートがヘドロを積んだ台船を弾く。橋を渡り終えると、話題は「両国国技館」になった。

 幼いころ遊びが限られていた世代だ。そのころは学校の砂場で相撲をとる。夕刻には、ラジオの大相撲にじっと耳を傾けていた。それぞれが想い出の一コマとして相撲人気時代のエピソードを語る。決まって栃錦、千代の富士など往年の名力士の名まえが出てくる。

 勝海舟の出生の碑とか、芥川龍之介の文学碑とかがある。芥川は両国高校から東大に進んでいる。生れもこの近くだろう。
 忠臣蔵で名高い、吉良邸があった。邸内には、「吉良の首洗いの井戸」と表記がなされていた。
「この井戸怖い」と新津さんがそれでも覗き込んでいた。ミステリー作家らしい好奇心だ。

 回向院に入った。歴史小説家・山名さんが説明してくれる。1657(明暦3)年に開かれた浄土宗の寺院。「振袖火事」の名で知られる明暦の大火災では、江戸市街地の6割以上が焼土となった。10万人以上の尊い人命が奪われたという。
 ネズミ小僧次郎吉の墓がある。黒装束姿のネズミ小僧は闇夜に大名屋敷から千両箱を盗み、貧しい長屋に小判をそっと置いて立ち去ったと語られている。

 江戸が東京となった現在でも、義賊のネズミ小僧はヒーローである。境内のネズミ小僧の墓石を削り、「お守り」に持つとご利益があるようだ。受験生が「合格祈願」で墓石を削り、受験会場に持ち込む、という。

 吉澤さんが、墓前に用意された小刀(?)で、墓石を削り、有難がっていた。どんなご利益を期待しているのだろうか。聞くだけ野暮だ。

 大相撲博物館の前は素通りし、「江戸東京博物館」に入った。歴史が得意のメンバーだから、みな何度か足を運んでいる。いまはひたすら暑さから、逃げ込んだ感じだった。

 館内ではたっぷり2時間ある。(飲み屋が開店となる5時から逆算して)。特別展、常設展はじっくり見ることができた。
 常設展の撮影はOKだが、フラッシュは禁止。復元された町並みの模型は見るほどに楽しい。気持ちが入り込み、時代小説作家の、藤沢修平、伊藤桂一などが描いた、江戸の情景の場面と重ね合わせる。

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日本ペンクラブの9月度例会=今年は日本に喜びが2つ、危険が2つ

 2か月に一度の日本ペンクラブの総会が、東京會館で開催された。

 浅田次郎会長は、今年は2つのビッグニュースがあった、とあいさつで語った。
一つは富士山の世界文化遺産に登録だった。浅田さんは幼いころ銭湯通う日々で、大浴槽の壁面には富士山のペンキ絵が描かれていた。気持ちを温めてくれたし、そこからも富士山への愛着が育った。

 国際ペン東京大会で、国際委員のメンバーが東京から京都に向かう車中で、「富士山に近づくと、みんなが窓際に集まった。往路は雨だったが、復路では富士山がくっきり見えた。外国人にいかに人気かわかりました」と話す。

 今年は、もう一つ喜ばしい話題として、東京オリンピックの決定がある。
「先のオリンピックは私が中学生でした。その頃、オリンピックは何度も日本にくるものだと思っていた。いや、長かったですね。皆さんも、こんどは何歳の時かな、と計算されるでしょう。そのときは、私は68歳です」
 みずからの年齢を明かしていた。
 
 その一方で、原発は大丈夫か、と不安な問題を語る。福島原発事故では20万人がまだふるさとを離れてプレハブに住む。ここらの解決がおなざりにならないだろうか、と不安を覚える、と話す。
 東京に一極集中の傾向がさらに強まるのではないか。
 これらは気になるところだ、と功罪の両面を見据えていた。

 吉岡忍専務理事が9月度理事会の報告を行った。

 安倍政権が推し進めている「特定秘密保護法」と、「憲法改正の方向にある」をどう扱うか、という重要な問題が話し合われた。
 特定秘密保護法(秋の臨時国会に提出予定)は、国の機密を漏らした公務員を罰するもの。最高10年の懲役刑を科す内容となっている。公務員を委縮させる恐れが十二分に予測できる。
 さらには、法の解釈と運用によって、同法が悪用される危険性が高く、取材の自由、報道の自由を奪う。日本ペンクラブとしては反対する。 

 憲法の改定も、言論・表現の自由を奪いかねない。ここらはしっかり話し合う必要がある。
『文学と憲法』と出して、フォーラムが10月10日には予定されていると発表した。

 国際ペン2013年がアイスランド共和国の首都・レイキャヴィークで、9月9日から開催された。同大会に参加した、佐藤アヤ子さんが、その報告を行った。同大会が開催される首都レイキャヴィークにつくと、360度見渡せる氷原だった、と話す。
「地球の果てにきた雰囲気でした」
 人口が30万人の国で、そのほとんどがレイキャヴィークに住む、とつけ加えた。

 同大会では堀武昭さんがペン事務局長として再選された。(賛成67、棄権7、反対ゼロ)。任期は3年である。日本人初の事務局長だし、再選されて喜ばしい。

 人権問題に関する議題が多かった。他に目立ったのは、「少数言語の保護」と「表現の自由」におけるエジプトやトルコ(クルド)などの問題だった。

 国際ペンに、新しくミャンマーとインド(これまでは加盟しているが、もう一つ)が加わった。

 来年の開催国で紛糾したが、キルギス共和国の首都ビシュケク(旧名フルンゼ)に決まった。同国は誘致活動が活発で、大統領の特使の大臣も来ていたという。

 佐藤さんは、会場で唐突に指名されましてと言うが、明瞭な語りで報告を行った。さすが大学教授である。

世界における日本文化=近藤誠一(元文化庁長官)(下)

 日本P・E・Nの九月度例会における、・ミニ講演は元文化庁長官の近藤誠一さん(PEN会員・1946年生まれ)で、タイトルは『世界における日本文化』である。


 近藤さんは日本文化の3点を強調した。

①自然観
②曖昧さ(白黒をはっきりさせない)
③眼に見えないものに価値を見出す。

 近藤さんは2番目の『曖昧さ』について語った。

 日本の文化では白でも黒でもない、曖昧さが『間』の表現になっている。余白は単なる書き残しではない。空白に意味がある。その曖昧さには包容力がある。
 悪人にも良い点がある(蜘蛛の糸・芥川龍之介)。善人にも悪い点がある(義経勧進帳)、という考え方である。

 日本で世論調査を行えば、おおかた中間的な意見か、真ん中が大多数になる。しかし、欧米は右か、左である。日本は約2000年間にわたり異民族に支配されたことがない。それらが背景となり、「白でもない、黒でもない」その中間が存在する。

『日本人は眼に見えないものに価値を見出す』
 その点では、相手の心がわかる、という点を強調した。

 夫婦の間をたとえに出す。外国人の夫婦は毎日、「愛している」とたがいに確認する。言い忘れると、相手は嫌いになったのだと決めつける。
 日本人は「好きなの、嫌いなの」と言葉で求めれば、それは野暮だと捉える。日々の生活をみていれば、愛のことばは必要がないし、言葉による確認がなくても、苛立つこともない。
 とかく欧米人にはこれがわからないらしい。

「富士山は人間が作ったものではありません。でも、世界文化遺産に登録されました。自然遺産でなかった。ここに日本文化の特徴があります」
 近藤さんは、文化遺産を強調した。
 世界自然遺産の場合は、地理学的、生態学的に、その自然を残す必要があると認められたものだ。

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世界における日本文化=近藤誠一(元文化庁長官)(上)

 日本ペンクラブ9月例会が、東京會館(千代田区)で開催された。ミニ講演は、元文化庁長官の近藤誠一さん(PEN会員・1946年生まれ)で、タイトルは『世界における日本文化』である。近藤さんは外務省、ユネスコ大使、文化庁長官を3年間ほど歴任している。経歴からしても、文化面な知識が深い会員である。
 欧米と対比しながら、日本の文化特性について語った。

「日本人の性格は、勤勉、清潔、自己抑制(他人への思いやり)です」
 近藤さんはまず3点を強調した。
 明治以降の近代化の流れに乗った日本は、戦後約70年間にわたり、科学面で欧米を真似てきた。ある時期は、「日本製品は安かろう、悪かろう」というレッテルが張られた。その後はクオリティー(品質)重視から、機能、デザインに重きをおいた製品化につとめた。
 そこには日本人の特性が生かされている。それは繊細、緻密、耐久力(とことん突き詰める)という、日本人の3つの特性である。

   ①自然観
   ②曖昧さ(白黒をはっきりさせない)
   ③眼に見えないものに価値を見出す。

 これが日本人の文化の特性だと、近藤さんは語る。それを中心に話を進めた。

 西洋人の技術開発の基本は『人間は偉い、自然の弊害を解決できる』という理念である。合理的、唯物な考えから、人間は自然を克服できる考え方である。
 しかし、日本人は自然を征服しようと考えない。『自然の偉大さ、怖さ、素晴らしい』を受け入れている。自然を征服しようとすれば、自然からしっぺ返しされる、とわかっている。自然との調和を考える。

 たとえば、世界遺産になった平泉の毛越寺(もうつうじ)の、日本庭園は自然のなかに庭造りを行い、庭木や石を配置している。『自然を味わう、自然の流れに沿う、自然の美しさを感じる』という自然にそくした姿勢の庭造りである。

 欧米は二元論である。右か左。イエスかノー。0か1か(デジタル)。そこには便利性とスピードがある。多様な民族が住めば、欲望と物が中心で奪い合いになる。
 ブッシュ大統領はかつて「同盟国か、さもなければ敵か」と関係国に二者択一を迫った。敵は悪だと言い、攻撃したことから、テロの連鎖を引き起こした。
 しかし、日本は相手の文化を重んじる。イランでも、ミャンマーでも、「人権は侵害しているが、良い点もある」という考えから、両国とも接してきた。そこには良いところを引き出してあげる姿勢がある。【つづく】

エッセイ教室70回記念誌(「元気に百歳」クラブ)=序文

 真夏の太陽が海面にかがやく。波静かな海には富士山に似た大崎上島が浮かぶ。竹原港から乗った中型フェリーが、私の故郷の島に向かっている。この島には橋が架かっていない。瀬戸内海では数少ない離島の一つだ。
 東京に出てきたころ、「島育ち」は田舎者の代名詞のようで、人前で語るのは嫌いだった。故郷が恥ずかしいとさえ思ったものだ。
 本州や四国との間で橋が架かると、離島ではなくなる。大崎上島はいま瀬戸内海で最も大きな離島になった。淡路島、小豆島も離島でなくなったからだ。
 船を使わなければ渡れず、近代化や文化が遅れた、過疎の島と形容できる。しかし、不便さが却って人気となり、メディアに何かと取り上げられている、と島民が教えてくれた。不便さが今後の期待につながっている。故郷は静かに変貌しているのだ。
 大崎上島には血筋の身内がいない。それでも私は故郷に足を運ぶ。若いときには、あれほど帰省すら嫌だったのに、と思う。
「故郷は心の財産だな。精神的な支えだ」
 上陸すれば、なおさらその想いが強まった。


 3・11東日本大震災から、2年半が経った。三陸の大津波の被災地は『海は憎まず』として発刊することができた。その後は、原発事故関連の取材で集中して福島に入り込んでいる。私の故郷に対する、見方、価値観がごく自然に変わってきた。
 双方を取材して、私なりに導いた定義がある。
『三陸は大津波による物理的な破壊、福島は精神的な破壊だった』
 福島・浜通りの住人は原発事故直後、恐怖ともに故郷から追い出された。そして流浪の民になった。
 原子炉の底から沈降した核燃料がメルトアウトしている可能性がある。地下水に触れているかも、と住民はそれを恐れる。数年先、数十年先に、高濃度の放射線に襲われるかもしれない。それすら現状では予測できない。住民はもはや故郷に帰りたくても、帰れない、流浪の民となってしまったのだ。


 年配者やお年寄りは故郷に帰って死にたい、と考える。若者は幼い子を放射線のなかで育てられない、と見限る。親子でも連帯感が失われる。夫婦においても考え方の違い、温度差から、離婚が増えている。故郷を失くした人の心はしだいに廃っていく。
 これら福島の人たちと取材で接すると、故郷がいかに大切なものかと解る。と同時に、広島県の離島が、私の人生の根っ子なのだと再認識させられた。


 このたび70回記念誌が発行できた。それぞれ創作の力量は高まり、完成度の高い作品や、生き方を味わえる良品が多い。実に、読み応えがある。
 エッセイは作者の体験・経験がベースになっている。だから、当事者の作者しか知り得なかった、貴重な証言であり、将来は研究資料、史料的な価値も予測される作品もある。滑稽なエピソードが、読み手としては楽しく愉快な作品もある。さらには夫婦、家族愛、人間愛から胸にジーンと響き、涙する作品もある。

 作者側から見れば、創作作品が冊子になっていると、いつでも読み返せる。人生を回帰できる。作品
そのものが「心の故郷」になっているのだ。
 この意義は大きいと思う。


 関連情報

 「元気に百歳」クラブ・エッセイ教室

【推薦図書】 出久根達郎著 「名言がいっぱい」

 人間の性格はそう変わるものではない。ものの考え方、見方は変わる。出久根達郎著『名言がいっぱい』(あなたを元気にする56の言葉)を読んで、そう思った。清流出版、定価1700円+税(9月4日発行)。帯には「心が疲れた……、そんなときに効く あの人のあの名言」と記す。
 それはやや控えめな表現で、出久根さんの内心は、「生き方も変わる、座右の言葉が見つかるよ」と言いたかったと思う。

「名言の背景がわからなければ、名言のありがたみも感動もない。発したものがどういう経歴のかたか知らなければ、通りいっぺんの言葉と聞き流してしまう」。体験から得た言葉は、尊い。そこから元気をもらう、と出久根さんは述べている。

 著者のアドバイスに従って、読者が良く知っている人物、経歴がわかっている、そういう人物から読めば、即座に心にひびく名言に出会う。

 私は幕末史に取り組んでいる今、勝海舟、坂本龍馬、岩崎弥太郎、川路聖謨あたりから、読んでみた。その実、日露修好条約を結んだ川路はあまり好きではなかった。私は下田にもなんどか取材に行った。川路の下田日記が手元にある。他の資料からしても、東海大地震直後のロシア提督との外交交渉は、中村為也(勘定組頭)の苦労に乗っかりすぎている。それで後世に川路の名が残った、と。

 しかし、私は同書から川路を見直した。
「奈良奉行」時代の川路は「おなら奉行」のあだ名をつけられていたとか。奈良では鹿を殺すと死刑であるが、暴れる鹿を取り押さえたが誤って死なせてしまった人に温情判決をしたとか。博打を厳重に取り締まり、与力同心への付け届けを禁じたとか。
 人間としては魅力あるな、という認識に変わったのだ。

 小説家では、夏目漱石、尾崎紅葉、吉川英治、山本周五郎、田山花袋、森鴎外……、と精読させてもらった。周五郎は数多くの文学賞を断る一方で、家計を考えず、ひたすら良い小説を書きつづけていた。タンスの中に夫人の着物が1枚もなかった。
 かれは小説「かあちゃん」のなかで、『貧乏人には貧乏人のつきあいがある。貧乏人同士は隣近所が親類だ。お互いが頼りあい助け合わなければ、貧乏人はやってゆけはしない』と展開する。それら文章が紹介されている。

 尾崎紅葉は親分肌の人で面倒見がよく、弟子たちの文章はていねいに添削し、おめがねに適えば、出版社に売り込んだ。弟子の泉鏡花は「小説作法だけでなく、世間常識、言葉遣い、食事のエチケット、金銭の扱い方、交際法など、人の世に生きるための知恵をすべて教えられた」と語っている。
 私は各講座で、作品の添削をしているので、ここらは肝に銘じるものがあった。
 
 同書から、先入観が変わったのが、二宮尊徳、小林一茶、沢村貞子(女優)、金栗四三(マラソン)などである。

「私はこの物語にずい分悩まされたのを覚えています」(美智子皇后)、「細道を歩む時は、端によけていれば、人は突き飛ばさない」(野口英世の母・シカ)、「長生きをするためには、まず第一に退屈しないこと」(物集高量・もずめたかかず)、目次の名言から入っていった。

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第71回・元気100エッセイ教室=作品の勝負は結末で決まる

 エッセイにしろ、小説にしろ、読者が作品を手にしてから、読んでもらえるか、ポイされてしまうか、それは書き出しで決まります。

 私の友人に、エッセイと小説の双方の「応募作品の下読み」を糧の一つにする作家がいました。かれの話では、100~200編の原稿が送られてきて、約10日間か半月でAからDのランクをつけて、依頼先に返す。C以下は(評価一覧表に記載のみで)、原稿は返さず、廃棄処分にすると話していました。

 AとBは評価理由のコメントをつける。

 
「最初の1-2枚を読んで、ダメなものはどんどん棄てていくんですよ。後でじっくり読みたい作品を別に置いておく。8割くらいは書出しで、ポイしておかないと、これはと思う作品をしっかり読んでコメントする時間が無くなりますからね」
 その友人だけでなく、評論家に聞いても、8割の作品は読むに堪えない、と話す。それらは文章が見劣りする、拙い(C)、基本の文法もわかっていない(D)。8割をはじき出す、アウトにするのは実にかんたんな作業だという。

 作品を最初から最後まで読ませれば、一応の合格点である。(A-B)。一次選考通過、二次選考通過していく。
 そして、編集者が候補作品を選ぶ。

 小説でいえば、どこの文学賞に応募しても、一次選考通過すら、まったく名前が出ないのは、小説を書く以前の状態で、文章を学ばずして、ストーリーで作品が生まれると勘違いしているからです。


 私は何かにつけて「書出し」にこだわり、文章の添削につとめるのは、友人や評論家の話が真実だろう、と考えるからです。
 夢と希望を持って、時間をかけて数か月も、1年以上もかけて作品を仕上げても、ものの3分でポイだと、あまりにも惨めだからです。

 最終候補作品に選ばれると、完成度の高い作品です。あとは選考委員会で、選者の好み、運なども左右します。それはそれとして、決定打はなんでしょうか。作品のエンディングです。

「これは読後感がいい。良い作品だな」
 そう感動させるのは、最後の数行。つまり、作品の評価は「結末」で決着するのです。

『結末に強くなる。結末の力量を高める。結末の落としどころを磨く』
 まず結末まで毎回書かずして、上達などのぞめません。

 作品を勢いよく書きだしても、途中で、あれこれ悩み、投げ出す。別の作品に手を出す。こういう作者はいずれ、書きたい想いばかりで、作品が創れなくなります。
 結末の訓練など覚束きません。あげくの果てには、結末を書く呼吸すらつかめず、失望や創作活動のとん挫で終えてしまいます。

 「書き出したら、何でもかんでも最後まで書く」
 これが身につけば、時どきの出来ばえに甲乙があっても、長い目で見て、確実に作品力が挙がってきます。


【結末のテクニック】

①初稿は多めに書いておいて、うしろの数行、数枚を切り棄てる。カットした先が読後感になる。

②結末は説明文でなく、描写文で終わらせる。映画のシーンのように。

③結末と書き出しと、いちど入れ替えてみる。すると、双方が良くなることがある。

④結末の推敲は念入りにする。誤字・脱字とか、難しく読めない漢字とかがあれば、読後感が悪くなってしまう。


【勝負できる結末】

 ①全体をしっかり受け止めている

 ②作者の言いたいテーマが凝縮している。

 ③導入部(リード文)と、結末がリンクし、題名とも関わっている。

 ここに力量が到達するには、どんな作品でも、途中で投げ出さないことです。そのうえで、結末は何度も書き直して、①~③に近づけることです。

歴史上の人物の描き方=早乙女貢著『世良斬殺』より

 実在した歴史上の人物を小説で描く、その場合はなにが大切か。どんな人間でも長短もあり、裏表もあり、良し悪しの両面が必ずある。それを大前提におくことだろう。作者の先入観、価値観だけで、人物を悪者だ、非道だと決めつけて書くと、歴史観のミスリードになってしまう。

 早乙女貢さんは満州生まれで、生れたふるさとを喪失した、と生前に語っていた。戊辰戦争で、会津落城(開城)で、藩士たちは斗南(青森)に流されて過酷な生活を強いられた。
 会津の悲劇をもっとも世に訴えた作家のひとりだろう。代表作が長編小説『会津士魂』(直木賞受賞作)である。


 私は「戊辰戦争・浜通りの戦い」を執筆することになった。ここ数年、歴史小説から遠ざかっていたので、多少なりとも勘を取り戻すために、江戸時代により近いところで生きていた世代、海音寺潮五郎、村上元三、山岡壮八などの作家の短編集に目を通していた。


 早乙女貢さんが亡くなった年、私は2時間に及ぶロングインタビューをしたことがある。(写真)「薬を飲んだことない、病院に行ったことがない」など元気な語調だったのに、数カ月で逝ってしまった。
 その後、鎌倉・早乙女邸で開かれる「ミニ講演会」も、何度か出向いていたし、会津の早乙女さんの墓参りもした。親しみがある作家だった。

 早乙女貢『世良斬殺』を読みすすめると、言いようのない嫌悪感に襲われた。たとえ悪行に対する批判があったにしろ、地獄の底から現れた人物のように書いたらいけない。それはむしろ作者の偏狭性にすら思えてしまう。

 幾つか取り出してみると、
「世良修蔵は人柄も荒々しく、声も大きく、人相も険悪だった」(世良の写真を見てもそうは思えない)
「長州奇兵隊は狂犬の集まりのようなものだ」
「明治になって、天下を取った長州人の人材の大半が幕末に死んでしまって、残ったのはカスだけだった」
「大島の漁師あがり」(萩の藩校・明倫館に学び、江戸で儒者・安井息軒に学び・塾長代理をつとめる)
「島の荒風と、血のあらしの中で、世良修三という冷酷非常、残忍な性格が醸成されていった」
「世良修蔵の暴虐な行為」
「生り上り者の猛々しく、情の一片もない男であった」
「犬畜生」
 ここまで来ると、もはや文章を拾いたくなくなる。

「東北人は、雪の深い冬を耐えてきている。耐え忍ぶことを知っている」と対比させる。このバランス感覚の悪さはなんだろう。

 世良はなぜ会津の松平容保を憎み、許そうとしなかったのか。早乙女さんは、世良の生まれ故郷・周防大島に脚を運んで、郷土史家たちから話を聞いていない、と推量できる。歴史作家として最も大切な現地取材を放棄した作品だと思う。

 世良が総督府下参謀で、仙台に来たあと、仙台藩士たちが、「会津の松平容保公の武力攻撃はやめてほしい」とくり返し、嘆願した。しかし、世良はいっさい応じなかった。かれの言い方にも態度にも問題があり、仙台藩士らは勘にも触った。世良の悪評がいっきに広がったのだ。


 世良が抱いた松平容保にたいする憎しみは、そのすべては第二次長州征討にある。強引な宣戦布告で、周防大島が突如として、艦砲射撃の砲弾を無差別に撃ち込まれたうえ、幕府陸軍と松山藩に占領されたのだ。占領軍の兵卒は島民に強奪、略奪、婦女の強姦と、惨殺などをくり返す。

 長州藩は、この周防大島に軍勢をまったく置いていなかった。なおさら、占領軍は連日、無抵抗の島民の食料を奪い、抵抗するものは殺し、婦女子を裸にし侮蔑の限りを尽くした。近世日本史の中でも、あまり例がないほど人民を侮蔑し、恐怖に陥れたのだ。

 世良にすれば、「俺たちの島民は何を悪いことをしたというんだ。ふるさとを目茶目茶にされた」という強い恨みがあった。


 第1次長州征討では、幕府が要求した通り長州藩は3人を切腹し、首実検に応じた。これで禁門の変は解決したのだ。
 しかし、一ツ橋慶喜と松平容保は違った。幕府の威厳、意向を見せたくて、その後において、長州藩主・親子を後ろ手に縄にして(罪人として)江戸に連れてこい。なおかつ七卿都落ちの公家もつれてこい、と要求したのだ。

 そんな無理難題は長州が絶対に飲めるはずがないし、拒否をつづけた。さらには桂小五郎と高杉晋作を差し出せ、と要求したのだ。これも拒否する。これは狙い通り戦争への環境づくりだった。一ツ橋慶喜と松平容保は、要求をのまないならば、と帝から長州征伐の「勅許(ちょっきょ)を取って宣戦布告したのだ。(帝は半年間も出ししぶった)。
 大義のない戦いだといい、薩摩、広島、宇和島藩などは出兵拒否だった。

 長州藩は広島藩を通じて、10数回も「戦いを回避してくれ」と願い出ている。
 慶喜と容保のふたりは、権威が失墜してきた徳川家の威厳を取り戻すためだけの戦争だった。
 渋しぶ戦いにやってきた諸藩の兵卒の士気のなさに、如実に表れていた。
 幕閣は一方的に攻撃日を決めると、4か所から討ち入ったのだ。これが第2次長州征討だった。

 世良にしてみれば、「徳川慶喜と、松平容保が一方的に戦争を仕掛けてきて、罪もない島をめちゃくちゃにした。会津は絶対に許さない」と敵意と復讐心に満ちていたのだ。第2次長州征討から戊辰戦争まで、わずか1年半だ。

 現代的に言えば、原発事故でふるさと福島がめちゃくちゃにされた住民にとって、「東電は憎い」。1年半経ったから、まわりから「東電を許してあげください」、と言って許せるだろうか。

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夏のPEN例会で、「思想・表現の自由」の重要性を再認識する

 日本ペンクラブ七月例会が7月16日午後5時30分から、千代田区の東京會舘で開催された。
 浅田会長は冒頭の話題として、7月の35度が4日間もつづいた猛暑を取り上げた。昭和元年から同20年まで35度の日は1回しかなかった。さらに昭和時代はわずか数日で、それも連続35度は一度もなかった。平成時代に入ったいまの異常気象を語る。
 浅田さんはパソコン(ネット)をやらない。書斎にはそれらの知識を引き出せる本が積まれている口ぶりだった。

 毎回、例会では20分間のミニ講演がある。佐藤アヤ子さん(明治学院大学教授)がタイトル『国際会議に参加して』のスピーチを行った。日本の文学作品がもっと海外に翻訳出版される、そうした体制を作るべきだと強調していた。

 パーティーに入ると、野上暁さん(常務理事・写真右)と、6月21日の日本ペンクラブ「憲法九十六条改変に反対する」声明と記者会見の内容について語りあった。
「野上さんの説明はとても解りやすかったです。中学生、高校生でも理解できるように……」
 その会報記事(写真・文)を担当する私は、記者会見の場を取材していた。

「総選挙の低い投票率を考えると、全有権者の3分の1くらいで議員に当選している。その議員が3分の2で憲法改正を発議しても、国民の総意からすれば少ないくらい。それなのに、議員の半数で拳法が改定なんて、暴論ですよ。国民の総意をまったく反映していない」
 野上さんはそう強調されていた。

 憲法と法律の違いについて、吉岡忍さんの説明も解りやすかった、と2人して話す。

『憲法は国家権力がどういう範囲内で、行政、立法、司法をやってよいか、と政治の枠組みを定めた、為政者の行動を規定するもの。法律とは国民の行動を規定するもの』
 一般の法律のように、議員の半数で憲法が改定される、とハードルを下げてしまえば、衆参の半分以上の議席を取った与党がそれだけで、憲法改正の発議ができる。時どきの政府が自由に憲法を変えれば、社会の根幹を変えてしまう、と吉岡さんは記者会見で説明していた。

 このさき憲法を改正し、「公共の秩序の維持」、という甘い言葉で法律までもが変えられたら、まさに官憲の弾圧を招いた、戦前の治安維持法の暗黒の時代に逆戻りする。九条とともに、重要な問題である。それは野上さんと私の共通認識だった。

 日本ペンクラブの約1800人には、多種多様な考え方、見方、思想がある。思想信条の自由がある限り、それぞれが自身の意見を述べていくべきだろう。それが作家の役目の一つだと考える。

 夏場のパーティーは毎年、出席者が少なめである。およそ200人くらいだろう。国際弁護士の斎藤輝夫さん(ニューヨークにも事務所)から声をかけられた。
「ネットで日本ペンクラブを検索していたら、穂高さんのHPにヒットしました。多彩な活動で読み応えがありますね」と妙に感心された。
 斎藤さんはこのたび国際委員会に任命されたという。同委員長とはまだ面識がない、と話す。ミニ講演の佐藤アユ子さんが同委員長である。私はよく知る人だ。
「ご紹介しますよ」
 彼女のいる場所に案内した。二人は国際通だから、すぐに打ち解けていた。


 その場を離れると、吉岡忍さんが声をかけてきた。
「2、3日まえに、(穂高)着歴があったけど?」
「轡田さんが立石に来るから、ひと声かけてみようか、と思っただけですよ」
 すぐに返事をもらえる吉岡さんだけに、忙しさは読み取れたと話す。
「いまメチャメチャ忙しくて。電話をかける余裕すらなくてね。実はTVドキュメントとの審査委員長で、ずっと映像を見っぱなし。9月の立石の飲み会は10月にしてよ」
「9月末か、10月に設定しましょう」
 弁護士の斎藤さんも、講談師の神田松鯉さんも楽しみにしている。

「海は憎まず」の話題が吉岡さんから(帯を書いてくれた)出てきたので、私はいまフクシマ取材をしていると近況を話した。
 先日は飯舘村の村長に取材しましたよ、と補足した。
「ぼくもあの村長に会ったよ。飯舘はしっかり追いかけると、これまでにない作品が生まれるよ。日本人が誰も描かなかったものが……」
 時代の切り口が鋭い吉岡さんだ。フクシマ小説に対するいくつかのヒントを頂いた。


 ととり礼二さんに会ったので、先月は幕末因州藩の取材で鳥取市に出向きましたよ、と戊辰戦争の一部を語った。

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