小説家

『二十歳の炎』がすごい=中国新聞・文化面で紹介

 中国新聞の文化部で、「広島県大崎上島出身の穂高さん「二十歳の炎」と題して、作品を取り上げてくれた。「広島の幕末史 藩士生き生き」と表記されている。

 戊辰戦争で若くして命を落とし、東日本大震災の被災地に現在も眠る旧広島藩士を主人公にした歴史小説「二十歳の炎」が刊行された。~中略~。主人公は高間省三で、藩の学問所の助教を努めた人物だ。倒幕の内乱では、農家の志願兵らで結成した「神機隊」の砲隊長に就き、新政府軍の一翼として、激戦地の東北へ。現在の福島県浜通り地方で、有利な戦いを繰り広げながら、浪江の戦いで銃弾を浴びて絶命した。
 ~中略~。
 小説では、若き省三の姿がリアルに浮かぶ。正論をぶちつけ、戦い方も強気。同じ神機隊員が後年まとめた、藩の記録「藝藩志」が礎になったという。
 こうした文献調査から、広島藩が瀬戸内海の要港・御手洗(現呉市)で長州や薩摩、土佐の志士と密議を交わし、大政奉還に絡むなど、時代の変革に深く食い込んでいた実態をあぶりだしていた。

 全体をまとめたうえ、私が広島や福島第一原発で帰還困難区域の取材してきた過程を紹介している。

 記名記事なので、文化部の林淳一郎さんと電話で語り合った。「二十歳の炎」のなかで、第15章「子供を大事にしてやれ」で取り上げた『戊辰戦争余話』(大熊町史)にふれられていた。

 若い母親が、煮え立った鍋で子供を火傷させてしまった。官軍が来るぞ、山に逃げるぞ、といわれても、若い母親は、泣き叫ぶ子を連れていけば、敵に居場所がわかってしまうと言い、逃げなかった。「官軍は鬼だ。若い女に何するか、解らないべ」と父親が執ように誘うが、彼女は断った。

 翌日、大砲が聞こえた。官軍がやってきた。そして、兵士たちが裏手の井戸で水を飲んでいた。若い母親は仏殿にむかって拝んでいた。兵士の1人がこちらに気づいた。
「おんな、なぜ逃げない」
「この子が火傷したから」
「おまえ偉いな、子どもを看るために残ったのか」
 兵士は仏壇を見て、一向宗か、おれもそうだ、久しぶりだ、拝ましてくれ、と汚れた手を合わせた。
「もう兵隊は行った、心配するな。子供を大事にしてやれ。戦争が終わったら、おれも安芸の国に帰る。では、達者でな」
 と立ち去っていった。
 母親は涙が出て止まらなかった。

 現地で拾った逸話だが、他にはなかったですか、と林淳一郎記者に聞かれた。
 取材をはじめた時から、福島県の人たちは、
「えっ、浜通りでも戦争があったんですか」
 と驚かれたほど、現地の人すら、会津戦争だけだと思っているようです、と説明した。
 でも、『戊辰戦争余話』(大熊町史)のような、エピソードが掘り起こせば、まだあるでしょう。維新150年ですから。

『子供のころ、路傍の石に小便していたら、バカ者、とお爺ちゃんに怒られた。相馬藩と仙台藩の戦死したお侍さんが眠っているんだ。官軍は墓を造れたが、わしらの先祖は路傍の石だったんだぞ』
 老人がそんな記憶をよみがえらせてくれました。紙面の関係で、それは「二十歳の炎」には載せませんでしたけれど、と説明した。

 福島の人たちは、官軍の兵士の墓に、いまだ花を添えてくれたり、3.11で倒壊してひび割れた墓を修理してくれたりしている。これには頭が下がる思いだった、と林記者には語った。

「二十歳の炎は一気に読みました。後半になると、高間省三は死ぬとわかって読んでいるだけに、ページが少なくなっていくのがもったいなかったです」と林さんは話されていた。読み終えて、奥さんにも勧められたという。

 地元・広島の記者すらも、幕末広島藩史について、ここまで広島の活躍の認識はなかったようだ。「二十歳の炎」は既成の歴史作品にとらわれず、広島藩からの史料・資料で書き上げた。それだけに、小説とはいえ次から次へと「新発見」が展開されるので、「これはすごい」と反響が大きいのだろう。
 
 

幕末歴史小説・『二十歳の炎』の反響がすごい=薩長同盟は存在せず

 6月20に発売された、発幕末歴史小説『二十歳の炎』(穂高健一書著・1600+税)が、出版された。同書の帯にはサブタイトルで『芸州藩を知らずして幕末史を語るべからず』とつけた。
「幕末はなんでも薩長」と信じ込んでいた人には、カルチャーショックだったようだ。読んだ人が、ほとんど驚いている。

 「二十歳の炎」は広島藩の視点から幕末を書いた、初めての小説である。(私の知るかぎり)。これまでは、薩長土の視点しか書かれなかった。広島藩が関わったところが、幕末史の空洞だった。
 後世の歴史作家たちが、好き勝手に想像で埋めてきた。

 私は4年半の歳月をかけて、原爆でなくなったと言われていた、広島藩の史実を掘り起こし、より事実に近いところで書いた。「長州なんて、倒幕に役立つ藩ではなかった」とずばり切りこんでいる。

 長州藩は「禁門の変」で京都の町を焼き、朝廷に銃をむけて朝敵となった。その後、京都に入れば、新撰組、会津・桑名の兵士に殺された。長州藩は大政奉還はカヤの外だった。小御所会議の王政復古の大号令で、明治新政府ができた。
 ここで倒幕が成立した。
 朝敵の長州はここまで、いっさい関わっていない。それは自明の理である。


 第二次長州征伐で、幕府軍が長州(藩)に侵略してきた。それをせき止めたのが精一杯である。長州藩は侵略者をただ自藩から追い払っただけである。
「萩藩、下関藩、岩国藩など各藩士の行動はバラバラである。それを一本化して、京都や江戸に戦いを挑んで、德川政権を倒幕できる勢いも、能力もなかった。願いはただ朝敵を外してほしい、という一本でしかなかった」(下関市の龍馬研究者・著名な学芸員)。

 この言葉を聞いた時、山口県の研究者がここまで言い切るのか、とおどろいたものだ。しかし、調べるうちに、それは歴史的事実で、「長州は倒幕になんら寄与していない。後世の作り物だ」と明確になってきた。

 広島はどうなのか。頼山陽は、広島が生み出した日本最大級の思想家である。かれの尊皇思想は日本じゅうに広まり、頼山陽著「日本外史」(にほんがいし)は、維新志士たちの必読書となった。広島発が、倒幕の思想的な重要な背景となったのだ。

 浅野藩主も、家老も、執政も、優秀な心材はみな広島・学問所の出身で、頼山陽の後輩である。皇国思想を学んでいる。「朝廷と幕府と二か所から政策が出てくる国は、いずれ滅びてしまう。徳川家が政権を取っていると、日本は植民地になる、倒幕を目指すべきだ。それが民の為だ。ここで、広島が動かなければ、日本の国はつぶれる」と強い決意と使命感で、藩論が倒幕で統一されたのだ。

 当時はまだまだ德川が怖くて、島津公は公武合体、山口容堂は徳川家を守る、松平春嶽も徳川家擁護。毛利公など「そうせい公」で政権略奪には無関心だった。
 全国を見渡しても、最終的に、藩論統一(藩主みずから倒幕を目指す)を決めたのは広島藩だけである。
 

 名まえを出して悪いけれど、司馬遼太郎の推量などは、執筆中に原爆で広島藩の資料がなかったにしろ、とてつもなくトンチンカンである。
 にせものの船中八策だの、あり得ない薩長同盟だの、龍馬と後藤象二郎が大政奉還を発案したと、主要なところは虚偽で塗りつぶされている。

 慶応2年1月、木戸準一郎が京都・小松藩家老邸で、わずか一度の会合(予備折衝)をおこなった。それ手紙にしたためて、龍馬に送り付けて裏書させた。それは備忘録のメモにすぎない。決して薩長同盟の調印書ではない。藩主レベルの締結にはとても及ばず、効力はない存在だ。

 それなのに、「薩長同盟による倒幕」まで作品を仕立て上げて、独り歩きさせてきた。なにしろ、長州藩は倒幕まで京都に入れなかったのに、なぜ長州藩がかかわったと、でたらめを書けるのか。作家の良心を疑う。
 司馬ファンはそれを歴史の正しい認識だと信じ込んできたのだから、罪づくりだ。


 倒幕の主体は薩芸(さつげい)の連帯だった。薩摩の軍事力は広島の御手洗(大崎下島)における密貿易(イギリス、フランス、オランダ)で、軍艦17隻も外国から買っている。幕府すら9隻だった。「二十歳の炎」では広島藩側の資料から、薩摩が何を輸出して、軍艦や最新鋭の鉄砲が買えたのか、と密貿易の実態を展開している。
 薩摩と広島が政治・経済で、いかに濃厚なつながりだったか。それが倒幕の核になった、と同書で明瞭に展開している。
 薩芸倒幕が、こいに薩長倒幕にすり替えられてしまったのだ。それはなぜか。作家たちは広島藩を知らずして、明治時代の薩長閥の政治家たち=幕末と歴史を見ているからだ。

 大藩・広島は頼山陽、その後輩など、有能な家臣が多くいた。広島・辻将曹(つじしょうそう)が主導し、長州をダシに使って取りまとめた「薩長芸軍事同盟」がある。勘違いしてはいけないのが、それと薩長同盟とは無関係の存在である。

 薩芸(さつげい:薩摩藩と広島藩)が倒幕を推し進めた。慶応3年12月「小御所会議では長州の朝敵を外させる。そのときには京都御所の警備に就かせる。それまで、西宮と尾道に待機せよ」と広島藩は、長州藩2500人の兵を率いる長州藩・家老たちに命じたのだ。

 かれらはその通りにする。これまで幕府と長州の橋渡しをしてきた広島に対して、長州は命令通り、言うなりで従う藩だった。少なくとも、主体ではなかった。

「二十歳の炎」は、このように広島側から数々の史料を掘り出し、「藝藩志」を中心にして幕末史を証拠で構築している本である。

 戊辰戦争といえば、会津戦争だと思っている。それも一つの戦い。だが、福島・浜通りで、平将門の血を引く相馬藩と、東北の雄・仙台伊達藩とが熾烈な戦いを行っている。この「浜通りの戦い」は、全国、ほとんどの人が知らない。
 奥羽越31藩をまとめあげた仙台藩を叩かずして、奥州戦争の決着はなかった。いわき城から仙台青葉城まで長い距離で、なおかつ連日の激戦つづき、官軍を含めた双方の死者は凄まじいものだった。しかし、なぜか歴史から消されている。

 この浜通りの戦いを正面から取り上げた小説は、これまで殆どなかった。どんな激戦だったのか、「二十歳の炎」を読めば、リアルにわかる。

 広島藩の砲隊長・髙間省三は、福島・浪江で死す。満二十歳だった。川合三十郎・橋本素助編「藝藩志」には戦いがくわしく載っている。編纂した川合と橋本は、髙間省三とともに「神機隊」の隊長として参戦している。実体験者の記述だから、一級史料だった。

 会津戦争は、世羅修三の殺害からと一般的に言われているが、これも正確ではなかった。「藝藩志」では、世羅殺害から42日前に、京都・朝廷から、芸藩に「会津追討」「の錦の旗が芸州・神機隊に渡されている、と明記している。会津戦争の歴史書も小説も、広島藩が皆無の取り扱いだっただけに、「二十歳の炎」から新たな戊辰戦争が発見できるはずだ。

 第二次長州征伐~戊辰戦争。この2年間を広島側から知れば、薩長、薩長土肥で討幕を成し遂げたというのは真実でない、と理解できる。戊辰戦争も、相馬・仙台藩らのし烈戦いをなくして、兵糧攻めに徹した会津落城などは語れない。(仙台が落ちるまで待つ。官軍は兵糧攻めに徹し、無益な血を流さず、夜間の会津城の出入りなど自由だった)。

 広島藩がわかれば、これら幕末史の空白と矛盾を埋めてくれる。


 歴史小説作家「ととり礼二」さんが手紙で次のようにコメントしてくれた。

 楽しみにしていましたから、さっそく拝読しました。
「あまりにも片寄った薩長土肥の誇張の陰に隠れ、それまで尽力してきた藩、あるいは人物のことがないがしろにされている日本の歴史」。穂高さんが申されるように、「隠されている真実を掘り起こすことが大切です』。同著はそれをまさに実践されたものにほかなりません。
 綿密な調査と史料の読み込みが十分に行われたうえで、時代背景も巧く描かれています。
 それよりもなによりも、行間から髙間省三の生きざま、息遣いが直接伝わってくるようで、主人公へ思い入れができる。それが最大の強みと思いました。
 綾との恋模様が淡く表現され、作品に花を添えているのも見逃せません。「藝藩志」やその他の資料を読破されたのは、さぞや大変だったであっただろうと、ご推察します。こんな素晴らしい作品が生まれて万々歳です。

第80回 元気100エッセイ教室 = 文章の料理法

 若い人と年配者の料理の好みが違います。味覚も違います。若い人はいつも違った作品を書くものです。

 年配者の作品はいつも類似的な内容になる傾向があります。

 若い人は常に好奇心を持ち、きょうの関心はあしたの興味と違います。だから、エッセイ作品も毎回、新しい素材ばかりとなります。一方で、年配者はまず、「こんどは何を書こうかな」と過去の体験・経験をのぞき見て書こうとします。
 
 文章の腕前がいくら優れていても、美味しいご馳走が作れても、毎食が同じような料理では飽きがきてしまいます。
「きょうはいいネタが入ったよ」
優れた料理人は素材選びに目がきくものです。

 作者は材料集めが大切です。作者が若いという精神で、身の回りに問題意識をもってアンテナを張れば、どこからか新しい素材が発見されます。鮮度がよければ、気取った文章表現でなく、生のまま食べたほうがおいしい。


【常に新鮮な素材を求めるエッセイは、作品と作者の魅力となります。書き出しを紹介します・実例です】

  ・若者らはカメラを向けると、すぐピースサインをする。殺された二十代の女性の報道写真がピースをしている。60代の私には違和感がある。

  ・放射能汚染水を垂れ流し、いつ大地震が関東に来るかもしれない。そんな東京にオリンピックを誘致したのだ。開催中に大地震・大津波が来たら、私は外国人にどうしてあげたらいいのか。きっと我さきに逃げだすと思う。

  ・パリのすし屋で、カンボジア人が鉢巻をしてカウンターでにぎり寿司を握っている。ネタの大半は中華料理の食材である。人種差別の気持ちはないが、食欲がなくなった。

  ・大阪の道頓堀「くいだおれ」の倉庫から、円山応挙の「水呑虎図」が見つかった。応挙は江戸時代中期の代表的な絵師だ。私はこのニュースを聞いたとき、写生重視の彼が見たこともない虎を、なぜ描いたのだろう…、と疑問に思った。

 次は何が出てくるのかな、と料理が楽しみになってくる。文章など凝らなくても、けっこう読ませる。(半年間のうち4回の提出作品・書き出しより)

山岳歴史小説の執筆依頼をうける。舞台は天保時代の安曇野(長野県)

 6月24日、務台代議士(同推進委員・事務局長)を衆議院議員会館に訪ねた。務台さんは超党派「山の日」制定議員連盟の事務局長である。
「いま『山の日』制定」の書籍の監修もおこった。(写真)

 この折、2年後の「山の日」(2016年8月11日)にむけた、山岳歴史小説の執筆を依頼された。たんに登山だけでなく、山とかかわりあう人間の群像です、と要望を受けた。背景は、長野県の山と山麓にからむ天保時代である。

「天保の改革」の失敗、「天保の飢饉』による、大勢の餓死者が出たきびしい時代だ。小説としては、そのまま書くと暗さと厳しさが前面に出すぎて、読み手が息苦しくなってしまう。歴史小説だから、極度のひょうきん者など入れて、明るく笑いをとる人物設定などは難しい。

 人間はきびしい中にも、明るさとか愛がある。そこらがポイントになるだろう。
 
 天保時代のころ、僧侶たちの山岳登山が盛んになってくる。槍ガ岳を登った播隆上人の小説だけになると、「山の日」が登山の祝日と誤解を招く。
 山とともに暮らす人々の群像を描く必要がある、と務台さんは語った。地元選出だけに、詳しいので、素材を提供してもらった。
 当時は信州から飛騨に抜けて日本海に出る、「塩の道」の生活山岳道路がつくられた。さらには安曇野には大規模な治水による農地開墾があったという。
 この3つを絡めた歴史小説でいきますと、私はお引き受けをした。

 先々月から、「二十歳の炎」が脱稿し、次なる取材のひとつ阿部正弘(福山藩主・開国の首席老中)の取材に入っていた。ひとつ前の水野忠邦の「天保の改革」時代だから、さして違和感がない。

 私には山岳小説の小説受賞作がいくつかあるので、登山は書ける。有名な播隆上人は過去に著名作家が書いている。それに影響されないように、当座は資料のみを読みこなせば大丈夫だろう。

 山岳道路関係は、信濃大町の飯島善三を子孫を訪ねて調べたことがある。(明治初年に、いまの黒部アルペンルートを開拓した)。その時の知識は残っている。

『水を制する者は国を制する』
 古代から江戸時代まで、各大名は治水には苦労している。新たな治水をするとなると、水の流れ、地形、地質あらゆる条件が付加する。
 題材としては面白そうだが、私は江戸時代の河川工学を学ぶところから始めなければならない。

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幕末歴史小説 穂高健一著『二十歳の炎』が全国で販売を開始しました

 芸州広島藩から書かれた幕末小説は、皆無だった。これまで幕末史は、小説家や歴史家が薩摩藩、長州藩、土佐藩の視点から書かれたものばかり。
 どんな著名な歴史作家でも、広島藩を組みしていない。なぜか。理由はかんたんだ。原爆でお城や武家屋敷などが総べて消滅してしまったからである。

 もう一つある。明治政府の政治家は薩摩出身、長州出身が主体で、広島が目立たないように、と芸州広島藩の浅野家が編纂した『藝藩志』を発禁処分にした。なぜ、発禁か。薩長の恥部を知っているからだ。それを暴露されると、不都合だからだ。

 二つの理由から、広島藩の史料はないのが定説だった。しかし、私は150年前はまだ史実が見つかる。その想いで、約4年半の歳月をかけて取材してきた。
 
 ここに穂高健一著『二十歳の炎』を発刊することができた。
   

            『二十歳の炎』 表紙

 出版社は日新報道で、定価は本体1600円+税。6月24日から全国書店やアマゾンなどネットで販売されている。

 第二次征長(幕長戦争)、大政奉還、鳥羽伏見の戦い、そして戊辰戦争・浜通りの戦い(相馬藩・仙台藩)へと2年間に絞りこんだ。登場人物はすべて実在である。

 史料がないのは芸州広島藩だけではなかった。戊辰戦争といえば、白虎隊の会津中心に考えてしまう。
 しかし、新政府にとって東北の雄・仙台藩が最大の敵だった。平将門の血を引く相馬藩と2藩が、福島・浜通りを北上してくる官軍と熾烈の戦いを行った。
 
 仙台藩を落とさずして、会津だけ攻めても、新政府の勝利とはならない。この単純な構図が、現代では作家にも歴史家にも理解されていない。ましてや、現地の住人も「ここで戊辰戦争があったのですか」と聞くくらいだ。

 明治政府のトップにすれば、仙台藩や相馬藩の戦いがこれまた目立っては不都合。これまた、歴史事実から消されてきた。

 
 会津城と比べると、浜通りの戦の研究者は少なく、実に薄い資料だった。
 
 それでも、楢葉町、富岡町、双葉町、浪江町、南相馬町、相馬市の各教育委員会の歴史専門員が協力してくださった。
 原発事故で、まだ立ち入り困難区域だった。役場職員だから、一次帰省で、市役所や公民科の資料室から該当資料を運び出してきてくれた。頭が下がる思いだった。 

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第79回・元気に100エッセイ教室= 文章は流れるように書く

 ビジネス文は結論から書く。そして、その理由を書きつづっていく。叙述文はむしろ逆である。一つの起点を定めると、そこから行動が発展し、流れるように書いていく。
 これが逆になると、作品がゆるみ(底が割れる)、読み手の緊張感が損なう。あるいは後追いで、読まされている感じになる。作品自体がつまらなくなり、読者は途中で投げ出してしまう。

 では、どうしたら良いのか。事例で、そのコツを会得してください。

【事例研究】

A 良くない例


・婚約を破棄した。かれは他の既婚女性と深い関係だった。私と付き合う以前からだと認めた。とても許せなかった。この事情を両親に話せば、そんな陰のある性格なら、結婚してから離婚するより、いまの方が良いだろう、と言われた。

  底(結論)が割れてしまっている。婚約はすでに破棄しているから、ハラバラドキドキ感がなくなる


・中禅寺湖の湖畔の紅葉がいま盛りだった。旅仲間の眼が赤く染まり、それぞれデジカメで撮っていた。それから、お土産物屋に立ち寄った。色づいたのは9月後半からですよ、と店員におしえられた。

 単なる説明にすぎなくなる


・どろどろの水田で転んでしまった。嫌だな、と身を見た。この5月には農家に体験で出かけたときのことだった。

  後付では、緊張感がそがれてしまう


B 現在進行形ばかり書いていくと、作品が平板になります。しかし、唐突に過去に入ると、読者は混乱してしまいます。
 ここから過去に入りますよ、と読者にしっかり知らしめてから、過去の描写にも入ることです。

・ 湖畔で紅葉を撮る私は、ふとこの夏の海辺を思い出した

・ 婚約を破棄した。刷り上がった結婚案内状を見つめる私の脳裏には、その経緯がよみがえってきた

・ 初体験の農作業の出来事はいまだに忘れられない。蛭に噛まれるかも、とおそるおそる田んぼに入った。用心し過ぎると、かえってバランスを崩してしまうものだ。想いきり転倒してしまった。


C エッセイは心理優先主義で書けば、文章の流れがよくなる。つまり、行動の前段階で、心理を書いておけば、読者が感情移入してきます。


『行動から書いていく(悪い例)』

  入院病棟の診察室で、母を担当する医師に会った。
「この先は自宅療養をしてください」
 医者は冷たい無機質な顔だった。
「新病棟に移させてくれませんか」
「もう予定患者数に達しています。無理です」
「ダメですか」
 私は途方に暮れた。

 このように行動から書いていくと、作品が味気なくなります。


『心理から書いていく(良い例)』
 
 病院の都合で母を退院させられたら、たまったものではない。私にはとてつもない負担になる。旧病棟は壊される。なぜ、竣工がちかい新病棟に移させてくれないのか。母を狭いマンションに引き取れば、妻とのいさかいも多くなるだろう。
「老母といっしょに出ていってよ」と言い出しかねない。
 この際は、病院の担当医と話し合ってみよう。ダメだと言われたら、もはや打つ手はない。翌朝、病院の待合室で、私は不安いっぱいで、呼ばれるのを待った。


 心理優先で書けば、読み手の心をしっかり誘い込み、次はどうなるのか、と求心力が強まります。

【事例研究】

 写真で例えれば、噴水を見ている中高年の情景を書くよりも、そのなかの一人(私)の心理や心象をまず書き込む。(いま悩む事柄など)。
 そして、何気ない態度で仲間と神奈川県立・相模原公園にきた、散策の景色を書く。そうすれば、読者もいっしょに歩いてくれます。

 皆さんも、独自にチャレンジしてみてください

第78回 元気100エッセイ教室=おしゃべりとエッセイ

 エッセイの源泉はすべて体験と経験である。
 人生の部分的な復元でもある。日常会話のおしゃべりもおなじ。自然発生的に、頭に浮かんだ事柄を口にすれば、おしゃべりである。
 おしゃべりは話す相手によって内容を微妙に取り換えられる。直前の事柄から遠い過去の出来事などに及ぶ。話しの組み立て方、話し方など、脈絡などはさして評価されない。曖昧な表現でも通じてしまう。

 多くのおしゃべりは、相手を見て、必要な事柄だけを口にすればよい。事実を伝えてから、「私」はどう考えたか、どう感じたか。相手の顔色とか反応とかを見ながら、感情のおもむくままに話しても、多くは成立する。
 相手がそれを嫌えば、適宜、話題を切り上げれば、すんでしまう。

 それをいざエッセイで書こうと身構えても、文章にはなかなかできない。
 素材があるのに書けない。芸術的、文学的なものは要求されていないにもかかわらず、過剰になりすぎ、途中でとん挫が多くなる。
 経験や体験が豊富な人でも、エッセイは量産できない。おしゃべりは冗漫さが許容されるが、活字では嫌われるからだ。事実に向かい合って簡素に書いてしまえば、メモとか、日記とか、作文とかになってしまう。エッセイはたんなる備忘録ではない。

「さらさらと書いた」
 多くの場合は嘘が多い。事実だとしても、口にしない方が賢明だ。文章の上手下手は別としても、エッセイの形式で書くとなると、文章を念入りに仕上げる、その工程は必然であるからだ。

『おしゃべりで話しを感動させても、文章にすると駄作になる』

 エッセイには創作力が必要である。
   ・テーマ(主題)
   ・構成(ストーリー)
   ・表現力の工夫。
 これが作品を読ませる力の三大要素だろう。

 作者はひとつくらい感動作品をまぐれでも書ける。だが、連続となると、書く経験と、文章力や表現力が必要だ。おしゃべりのくり返しは嫌われるが、エッセイ作品は時間をおいて、くり返し見直しすれば、磨かれてくる。それが筆力になる。

第11回歴史文学散策=江戸城は武将たちの盛衰すらも消えた。春は盛り

 文学・作家仲間の「歴史散策」は第11回目となった。メンバーは7人(日本ペンクラブの広報委員会、会報委員会の有志)である。初回からおなじ仲間である。

 山名さん(歴史作家)、清原さん(文芸評論家)さんが解説役だ。2人はともに歴史関係の雑誌執筆の常連で、これまでも江戸城の歴史を書いている。同時に、公開講座などでも、歴史散策ツアーの講師として活躍する。

 吉澤さん(日本ペンクラブ事務局長)、井出さん(事務局次長)、新津さん(ミステリー作家)、相澤さん(作家兼ジャーナリスト)も、そして私を含めた5人は歴史好きである。

 こんかいは夜の呑み屋が決まっていない。これがいきなりの課題(話題)だった。



 地下鉄・大手町から5-6分で、「大手門」に着く。集合場所では、山名さんの自筆『名城をゆく・江戸城』が配布された。
 その冊子には弓矢を持った太田道灌像がトップを飾る。
 そして、江戸城の年表や特徴が明記されていた。


 江戸城の入園は無料だ。ありがたい。入園の参観札をもらう。(出口で返す)。

 ひとたび城内に入ると、喧騒とした大都会から、別世界に入る。

 相澤さんは、長年この近くの大手通信社(千代田区)に勤務していたのに、初めて江戸城に来た、と妙に感激していた。

 江戸城といえば、すぐに徳川家と結びついてしまうが、1603年、家康が江戸幕府を開く以前の、江戸城の歴史は一般にあまり知られていない。

 1457(長録1)年に、太田道灌によって築城されている。

 道灌は暗殺される。やがて、上杉氏、北条氏などの支配下になる。そして、1590(天正18)年になると、豊臣秀吉が小田原・北条氏を滅ぼし、家康が関八州をたまわり、江戸城を領する。

 ここらは山名さんが詳しく説明してくれる。


 三の丸尚蔵館から、同人番所の屋根瓦に、徳川の象徴・葵の御紋が残っていた。さらに進むと、「百人番所」で、本丸の最大の検問所だった。
 鉄砲百人組の与力・同心が交代で詰めていた。

 大名たちが登城する行列はここで終る。この先に供侍は入れなかった。

 現在はこの先、本丸、二の丸、三の丸(一部)が一般公開されている。

 身分制度の厳しかった江戸時代を想うと、隔世の感がある。


 大手中の門跡、富士見楼は現存する3楼の一つ。

 どこから見ても、おなじ形に見える。江戸初期には、ここが海辺だったという。

 現在では考えられない、海が真下にあったなんて。 

 その後、江戸城の周辺が、どのように造成されてきたか。それが7人の話題となった。

 松の廊下跡にきた。かつては畳敷きの大きな廊下だったらしい。

 ボランティアガイドが団体さんを相手に、「浅野内匠頭と吉良上野介の刃傷事件」を語っていた。

 吉良は名古屋に行けば、良い殿様だ。

 「忠臣蔵」が大好きなひとは、おおかた浅野に肩を持つ。それが歴史のおもしろさだろう。

 歴史の看板がなければ、「松の廊下」があったとは思えない。周囲はうっそうとした樹林帯だった。

 江戸城の石垣の大半は、伊豆の石切り場から運ばれてきた。

 これら資金、労力を投入した藩などの家紋が、城石に入っている。

 「丸に一」の島津家もあった。

 

 
 二の丸の雑木林は昭和天皇の意向で、武蔵野の面影が残されている。

 クスノキ、ケヤキ、クヌギ、コナラの森がある。そのなかに、シャクナゲが咲いていた。


 桜が満開だったので、女流作家の記念撮影です。

 人気の女性作家だけに、どこか輝いている。
 


 梅林坂、平川門、書陵部、それぞれの掲示板の前で、皆が食い入るように眺める。

 さすがプロ作家たちだ。一字一句も見逃さず、それを読み込んでから、話題にする。

 何ごとも関心度が高く、好奇心がなければ、執筆はできないから、当然だろう。

 江戸城にはなぜ天守閣がないのか。多くの人には疑問だろう。

「天守台は3度、5層の天守閣が建設されたの。面積は大阪城の2倍以上だった。でも、1657年の大火で、全焼してしまった。加賀前田家がいまの天守台まで築いた」と山名さんは話す。

 保科正之(ほしなまさゆき、家光の弟・会津初代藩主)が、もはや平和の世のなかになったことだし、天守閣の再建費用よりも、焼失した庶民の復興につとめるべきだ、と進言した。

 それが受け入れられたから、江戸城には天守閣がない。

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【書籍紹介】明治~昭和のおもしろ記事・発掘エッセイ=出久根達郎

 豊富な雑学は、知識とみなすか、教養とみなすか、物知りとみなすか。すくなくとも、雑学は人間生活の潤滑油になることは確かだ。では、雑学はどこから得られるか。品質を問わなければ、テレビ、新聞、雑誌、人の話など、アンテナを張っておけば、いくらでも得ることができる。

『人間を学ぶには、雑誌が一番である』
 直木賞作家の出久根達郎さんが、最近の著書『雑誌倶楽部』(実業之日本社・1600円+税)で述べている。同書には明治から昭和の雑誌から、面白い記事が盛りだくさんだ。
 覚えても何にも役立たない。だから、この世には「雑」が必要だ、と出久根さんは強調している。

『雑誌は面白いか否かだ。パラパラと適当にめくって、目に止まった題名から読んでみる』
 それはまさに『雑誌倶楽部』そのものを言い表している。庶民の暮らし、偉人の素顔、艶笑な話、珍事件など、38冊の雑誌の1月号から12月号まで、月ごとに紹介されている。
 ユーモラスだったり、エッチな内容だったり、おどろきの事実だったり、よくぞここまで「発掘」できるものだと驚かされてしまう。
 さすが古書店の目利きだ。半世紀にわたり、あらゆる雑誌、書籍、冊子を見てきて、値段をつけてきた出久根さんの眼力だから、なせる技だろう。

 パラパラめくっていると、山手樹一郎の活字が目に止まった。中学生時代の私(穂高)は、貸本屋通いで、小遣いのほとんどをつぎ込んでいた。大衆小説を片っ端から読み漁っていた。そのなかで、山手が最も好きな時代小説作家だった。理由は簡単で、思春期の少年にとって、ちらっと色っぽい描写が必ず一度は出てくるから、それがたまらない昂揚感になるからだ。

『大衆文藝』(昭和24年3月)に載った、山手作品が紹介されている。
「一度家の若い女中に、いきなり唐紙をあけられたことがある。……」
 男女のいとなみが見られた瞬間が展開される。実にうまい描写だな、と感心させられる。
 いとなみ。こんな安易なことばでなく、山手は絶妙なことばで展開しているのだ。そのうえ、短編小説でありながら、小田原戦争のさなか、斬首寸前の主人公へと及ぶ。ぎりぎりで助かる英知は実に巧妙で、見事だ。作家として、よくぞ、ここまでリアルに書けるものだと感心させられた。それを紹介する、出久根さんもすごい作家だ。

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共通一次試験「国語」、作者が解けず腹が立った=黒井千次(作家)

 『青い工場』は現代国語の試験問題に、よく取り上げられるんですよ。大学入試・共通一次の現代国語の設問でも、その作品が取り上げられました。私は(新聞に出た)入試問題を解いてみたんです。
 『これを書いた時の作者の気持で、一番正しいと思うものを選べ』
 黒井さんは、おかしな設問だな、という気持ちで向い合った。手を離れた作品だし、あまり覚えていない。マークシートだから、おおかた解答3-4から選択する方式だろう。

「一つひとつ答えを読んでみたけれど、どれも、私の気持ちに合致していない。まじめに解答を考えているうちに、私はだんだん腹が立ちましたよ」
 挙句の果てには、答えは違っていた。
「私の作品なのに、私が答えを出せない」
 そう笑いながら話すのは、黒井千次さんだ。

 日本文藝家協会が主催による「文芸トークサロン」が、文藝春秋ビル新館5階で、午後6時から2時間、月一度のペースで開催されている。参加者はいつも20人程度で、大半が熱心な文学愛好者だ。作家の本音がボロボロ出てくるから面白い。

 私は同協会の会員であり、時間が許すかぎりトークサロンに出向いている。
 
 こんかいは24回で、4月18日(金)、トークは著名作家の黒井千次さん(2002年−2007年 同協会理事長)で、題目は『小説家として生きて』だった。
 

 小説は体験+虚構によって成立する。どんな体験だったか。それを知ってもらう必要がある、と前置された黒井さんは、人生の前半で、小説家を目指したころに話を集中させていた。

 1945年の春に、小学校卒業式があり、全員が集まったところで空襲警報が鳴りひびいた。卒業証書を貰わず、逃げた。府立中学の入学試験は、大勢が集まると危険だと言い、書類選考だったと思う。(黒井さんの推測)。
 中学生になったときから、11人が同人誌活動を行った。(いま現在亡くなった人は5人だから、もう一人出ると、生存者の方が少なくなる)。そこが小説家活動一筋のスタートだった。

 学制改革で、府立中学が都立高校になった。だから、入学試験は大学(東大・経済学部)だけだったと語る。
 父親がずーっと役人(最高裁判事)だったから、生産する民間企業に勤めたかった。地方にはいきたくなかった。東京・もしくは近郊の会社を狙った。日産を受験したが、マルクス経済学の学生の身には、近経の設問は難しくて、不合格だった。

 中島飛行機の解体後にできた「富士重工業」に入り、太田工場など勤務した。ベルトコンベアーの前で働く労働者がめずらしく、かれらとの対話(雑談)などが小説の材料になった。5年ほど経つと本社勤務で、マーケットリサーチが主な仕事だったという。
 勤務のかたわら同人誌活動を展開してきた。最初のうち、黒井さんは会社内で小説活動は隠していた。やがて、どこからか知れ渡ってしまった。
「小説とは良い趣味ですね」
 このことばが一番腹立たしかったという。
「趣味で、こんなものが書けるか」
 黒井さんはつよい反発を覚えていた。

 小説は書きたいモチーフや衝動だけで、作品を書けるものではない。「何を書くか」、それを「如何に書くか」と考え、創作していくものだ。それは趣味をはるかに超えたものだ。
 小説家になってからも、小説ひと筋で、余裕がなく、世間でいう趣味らしいものはなかった、と話す。

 20代で『青い工場』を発表して注目される。36歳の時には、『聖産業週間』で芥川賞候補になった。38歳のときに発表した「時間」で、芸術院奨励賞をもらった。この段階で退職した。
 退職してから、食べることが大変で、ルポ、ノンフィクション、なんでもやったという。

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