小説家

『幕末歴史小説を語る』(下)=葛飾鎌倉図書館で、講演

 明治時代から77年も軍事政権がつづいた。が、昭和20(1945)8月15日の無条件降伏で終焉(しゅうえん)した。その実、昭和天皇の決断で、軍事国家は終了した。


 もし、昭和天皇が断を下さなければ、「日本人・全員の玉砕(自決)」と声高に叫んでいた軍部に引っ張られただろう。米軍の空爆で廃墟になった日本領土。そこに欧米連合軍が日本列島に上陸し激しい戦いを展開していただろう。狂気の戦場となり、双方の犠牲者数は想像がつかない。


 薩長の下級藩士が明治初年に権力欲で天皇を利用した軍事政権を作りながら、最後は尻拭(しりぬぐ)いができず、天皇にすがって終焉した。この事実はだれもが消すことはできない。


 こんな悲惨な77年に誰がした。私はあえてなんども叫ぶ。『薩長の下級藩士が英雄気取りで軍事国家をつくったからだ』と諸悪(しょあく)の根源(こんげん)をそこにおく。


 1600年の徳川政権樹立から、2015年までの約400年余のスパンでみれば、許されない77年だ。もう維新志士だと、かれらを英雄扱いにするのは、作家も市民も止めようではないか。そんな気持で、講演で語らせてもらった。

 400年中の77年の戦争国家は異常である。怪しげな「明治維新」という言葉をもういちど疑ってみよう。江戸時代の長期の鎖国後の、開国から西洋文化が導入されて、政治・経済・文化が根底からすっかり変わった。
 『安政維新』が最も正しい表記である。


 当時の文部官僚が作った「明治維新」は、やがて修正されて歴史から消されていくだろう。


 私たちはなぜ歴史を学ぶか。日本人が歩んできた過去を正しく知り、将来の指針にしていく必要があるからだ。

 415年のスパン(歴史の範囲)で見れば、日本人は338年間も、戦争のない国を支えてきた。災害列島でも、日本人は助け合って平和に生きてきた。世界を見渡しても、77年を除けば、戦いを好まぬ稀有な民族だ。
 戦後70年は戦場で一兵も死んでいない事実を大切にしながら、この先も、平和国家を一年ずつ更新し、未来に向けてさらに伸ばしていく。

「それが歴史から学ぶことです」
 と私は心から語った。
                                             
                        写真:滝アヤ
                                               【了】

関連情報:幕末歴史小説『二十歳の炎』


 今回の講演は写真撮影、ICレコーダーの録音、さらにテープ起こしは自由にしました。つきましては、 【転載は自由です】ただし、商用目的や非反社会目的、及び誹謗、中傷などは禁止いたします。


     
                       

                  【了】

  

『幕末歴史小説を語る』(中)=葛飾鎌倉図書館で、講演

 葛飾区立鎌倉図書館で、『幕末歴史小説をかたる』の講演で、とくに明治政府の欺瞞(ぎまん)に焦点を当てた。薩長土肥。「肥ってなあに?」。多くが知らない。肥前(佐賀)が文部官僚を占めた。かれらは歴史のねつ造が得意だった。

 明治維新。こんな言葉こそは欺瞞の造語だ。正確には、「明治軍事政府の樹立」なのだ。


 大政奉還で平和裏に京都に明治新政府ができた。ところが、薩長の下級藩士たちが、鳥羽伏見の戦いを機に軍事クーデターが起こし、遷都(せんと)もなく、明治天皇を東京に移したのだ。

 戦後の東南アジアでもよく見られた、民主政権ができると、すぐさま軍事クーデターが起きる。それとまったく同じ構図である。


 日本は天皇制である。古代から、天皇がお住まいになる京都・皇居に兵を挙げ、そして天皇に承認してもらえば征夷大将軍、あるいは国家の頂点に立つと考えてきた。平家、源氏、足利、織田信長、今川、上杉謙信、武田信玄、誰もが天皇のいる京都へと兵を挙げた。

 織田信長の天下統一も、天皇が認めたからで、蝦夷(えぞ)から薩摩まで、武力制圧したわけではない。簡略に言えば、「天皇を掌中にした方が勝利者である」という認識だ。それが天下統一だ。

 自民党の党首が選挙で勝てば、天皇の承認が得られる。現代にも通じる、皇国の国家なのだ。


 戊辰戦争後、明治天皇が東京移されると、天皇のいない京都の明治新政府はもぬけの空になった。それは脱皮したセミの殻(から)と同じだった。

 薩長の下級藩士たちは、天皇を東京に移したあと、次に何をやったのか。天皇を利用した軍事国家づくりだ。若き10代の明治天皇もきっと本意でなかったはずだ。むしろ、楯(たて)つけなかったと見なすべきだろう。

 明治軍事政権の施策の一つが、廃藩置県である。これは徳川家が天皇に政権をもどした大政奉還とおなじ。戦国時代に武勲(ぶくん)をたてた大名が藩主になり、そのまま268年も利益を得るのはおかしい。全国諸藩の藩主たちも、天皇に権力をもどすべきだという考えだ。


 幕末に、広島藩の辻将曹(つじ しょうそう)が各藩に呼びかけた。それが実行されたものだ。その詳細は拙著の幕末歴史小説『二十歳の炎』に展開している。


 次なるは、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)だった。それは仏教徒とキリスト教徒の弾圧だった。山伏の活動も禁止したうえで、山岳の山頂には鳥居や社(やしろ)を作った。仏教徒から奪ったのだ。そのうえで、天皇を神とした。


 さらなるは徴兵制(ちょうへいせい)だった。これは最悪である。国民はだれかれなく召集令状(しょうしゅうれいじょう)1枚で、武器を持たされた。文部官僚は学校教育の教科書を通じて、幼い軍国少年をつくりあげた。これは紛(まぎ)れもない歴史的な事実だ。

 そして、海外の戦場や南方の島々へ送り出された。若者たちの意志に関係なく、『天皇のために死ぬのが、国家に対する忠義だ』と玉砕(ぎょくさい・全員の死)させられた者も多い。
 
 東郷元帥や山元五十六になった気分で戦争をみれば、英雄史観になってしまう。私たちは戦局など見れる高所の立場にはなれないのだから。つねに二等兵、一等兵の眼で、戦いの場を見ないといけないのだ。


 師範学校、高等師範学校出の教員たちが、子どものたちを職業軍人の美化へと洗脳(せんのう)した。軍国主義の教育の怖さだ。

 軍人はつねに勝った負けた、それが主眼になる。結果として昭和20(1945)年まで、数百万人の日本兵が海外で死んだ。むろん、9割以上が一般市民だ。外国人はそれ以上に犠牲になった。

 こんな国家は良いはずがない。
            

  写真:郡山利行  

                                【つづく】

『幕末歴史小説を語る』(上)=葛飾鎌倉図書館で、講演

 26年度かつしか区民講座の「区民記者養成講座」の受講生に、葛飾鎌倉図書館勤務の方が参加されていた。幕末歴史小説「二十歳の炎」が出版されたので、「講演をしましょうか」と持ちかけて話がはずんだ。
 ことし(2015年)2月1日(日曜)の午後2時から2時間にわたり、表題『幕末歴史小説を語る』の講演を行った。
 80席が開演前には満員になっていた。

 德川政権には三つの大きな節目がある。

① 天明の大飢饉(だいききん)による、大坂、江戸の打ち壊しで、無政府状態になった。德川政権は天皇から政治を委託(いたく)されている、という皇国思想が生まれた。

 講演では、『尊皇(そんのう)と攘夷(じょうい)とは、まったく別ものですよ』と知らしめた。歴史作家でも、尊王攘夷はひとつものだと考えている。これは歴史認識が間違っているからだ。

 尊皇とは天皇を敬(うやま)うことだ。攘夷は外国排除の戦争思想だ。これを合体させると、天皇が戦争好きに思わせる、危険な思想なのだ。


② 鎖国から開国へと、世の中が変わり、ここから文明が大きく飛躍した。『安政維新』が正しい。


③ 幕末の経済危機「ええじゃないか」運動が京・大坂から広がり、15代将軍慶喜は外交に強いが内政に弱く、コントロールできなくなり、政権を天皇にもどした。
 その大政奉還から、明治新政府ができた。


 京都に明治新政府ができた。しかし、薩長の下級武士が軍事クーデターを起こした。鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、そして天皇を遷都(せんと)もなく東京に移し、明治軍事政権をつくった。

 京都の明治新政府と、東京の明治軍事政権とは別ものである。かれらは広島・長崎の原爆投下まで77年間、10年に一度は海外と戦争をする国家にした軍人支配だった。


 軍事国家をつくった明治政府は、見せかけの正当化を図(はか)るために、偽りの表記をしている。最たるものは「明治維新」という言葉である。


 維新とは新しく世が変わることである。250年からの鎖国から、老中首座・阿部正弘は開国への道を選んだ。維新はここから始まる。

 海外留学生を送りだす。横須賀に製鉄所、長崎に大型船建造の造船所ができる。大量の蒸気船を発注する。パリ万博では日本文化の良さと美しさを欧米諸国に伝える。白い肌の技師が日本国内に沢山やってきた。
 庶民の畳の生活には、机やテーブルが入ってくる。

 これこそが庶民レベルの生活様式まで変えた文明開化であり、日本が新しくなった「安政維新」である。15年間は上向きにつづいた。

 明治時代は、それを15年後から引き継いだだけである。単純に考えても、「明治維新」でなく、「安政維新」が正しい。


 明治政権を樹立した政治家は、もともと外国排除の攘夷だった。「維新」とか「文明開化」のスタートを使うとは、まるきし虚偽である。
 軍事思想の顔を隠し、政権が文化・進歩的だとオブラートするためのものだった。蒸気機関車にしろ、德川時代に発注されて、新橋・桜木町間の開通が明治時代なのだ。


                  写真:郡山利行

                                 【つづく】


 今回の講演は写真撮影、ICレコーダーの録音、さらにテープ起こしは自由にしました。つきましては、 【転載は自由です】 ただし、商用目的や非反社会目的、及び誹謗、中傷などは禁止いたします。
  

第85回 元気に100エッセイ教室 = 筋立て(プロット)

 エッセイや短編小説を書き慣れてくると、筋立てに一定の原理が見えてくる。
 素材・材料の処理が巧くなってくる。身近な小さな出来事でも、「赤の他人の読者でも一気に読ませる」という筋立てになってくる。

 作品を書き慣れていない(初期の)人は、着想(思いつき)は良かったが、書き出してみると、筆が途中で思うように進まず、悩んだり、投げ出したりする。
『頭のなかは名作だが、書けば駄作』
 見取り図通りに書けないものだ。

『着想から結末』

① 創作のコツは、まず素材を頭のなかでしっかり濾過し、熟成させる。そして、テーマを決めていく。
 テーマが決まると、それを作中のどこに置くか、思慮する。書き出しか。後半のクライマックスか。結末の数行のなかに置くか。
 そこへ「読者を導いていく」のが、よい筋立てである。

 テーマが不鮮明だと、ムダの多い文章で、筋立てや運びが悪くなる。


②冒頭では、ゆっくりと人物や出来事の一端を紹介する。
 筋や構成が整う。あまり緩慢過ぎない。
 次は筋を掘り下げながら、スピードを速めていく。流れが速すぎると、表現が荒く、軽薄になる。ひどい場合は箇条書きになってしまう。
 書き慣れてくると、ここらが緻密に計算できてくる。

 後半はこれまで伝えてきたものを収集しながら、結末に向かって急速になる。


③能の喩から「序破急(じょはきゅう)」とも呼ばれている。
 冒頭で速く舞いすぎると、観能の気分を壊す。破は表現(エピソード)が細かく砕かれて、緻密になってくる。
 最後の急は、スピードを高め、筋を集めて結末とする。

 エッセイは自分の体験と経験を書くだけに、とかく独りよがりになりやすい。それを解消するには、作者と主人公「私」との間に距離感を持つことだ。
 そして、読者の心を引っ張りながら、自分とおなじ疑似体験させる。

 良い筋立てとは、読み手の心理を計算しながら書くことである。

【推薦図書】 本と暮らせば = 出久根達郎 (直木賞作家)

 2015年の元旦は、単行本を1冊、最初から最後まで一気に読もうと心していた。なにしろ、遅読だから、そう決意して、除夜の鐘の後からでないと、一日で読み切れない。
 手にしたのが、出久根達郎著「本と暮らせば」(草思社・1600+税)である。「本との出逢いが、人生だ」という帯が気に入っていたからだ。

 出久根さんは古書店主にして、直木賞作家である。「平たく、わかり易く、それでいて濃密」が特徴だ。エッセイの場合、どこから読むか。サブタイトルから、拾い読みしても、まったく問題ない。むしろ、その方が読み手の負担がない。楽しんで読める。


 サブタイトル「職業当て」で、出久根さんは『最も楽しい読書、というのは、私の場合、蒲団に腹這って好きな本を読むことである』と記している。

 私は時間が経つほどに手と腰が痛くなるし、これはやらない。もし、私がそれが出来て、早々と寝てしまったら、それは書き手の出久根さんの問題だ。
 そんな余計なことも考えながら、読み進む。面白い小説ならば、読みだしたら止められない。だけど、エッセイはどこでも止められるのが特徴だ。時には一気に読んでしまっては勿体ない気持ちにもなる。

 「下街と下町」で、私の名前が出てきた。えっ、と驚き、目が一段と冴えてきた。吉岡さん、轡田さん、新津さん、吉澤さん、と並んでくれば、あの日のあの情景か、とすぐさまわかった。

 私の名前が出ているから、推薦図書にする、どうも心の中がややこしくなったな。実は、元旦はここで打ち切った。中おいて、3日に読むことにした。


 第2部で、『ちょんまげ』があった。きっと新宿で上演された、夏目漱石のあの劇だろうな、と閃いた。まさしくズバリだった。楽しい劇だった。
 出久根さんは、夏目漱石の書物、関連事項の知識では抜群だ。完全消化(昇華)されている。漱石のエピソードなどは、漱石先生の作品を読まずして、知識が身に着いた気分にさせられるから、出久根さんは不思議な作家だ。

 75編のエッセイが次々に魅了してくれる。小説家、文学者の名まえが数多く出てくる。それは当然だ。「本と暮らせば」がタイトルだから。

 おなじくり返しになるが、同書の読み方の秘伝があるとすれば、パラパラっとめくって、自分の好きな作家が目につくと、そこは精読する。たとえば、2日間ほど空腹で、目の前におにぎりが差し出されたように、美味しく味わえる。

「源氏物語」の活字が眼に入れば、パスする人はいるだろう。その実、私はそうだった。「最初から最後まで一気に読もう」と決めておきながら、スルーだ。それは出久根さんのせいではない。

 
 私事だが、2月1日、葛飾鎌倉図書館で講演を予定している。80人くらい収容できるらしい。現地打ち合わせて、1月11日に出むく。
 同担当者から、「穂高さんの推薦する作家を教えてください」と言われている。講演当日に、会場の一角にならべ置いてくれるという。
 恩師の伊藤桂一氏と、出久根達郎さんは頭においている。共通するのは、ともに作品に深みがあり、読みやすい作家だ。読者を裏切らない。 
 
 

第84回 元気に100エッセイ教室 = 段落:改行の分け方

 エッセイ作品は小さな出来事ごとに段落を付けながら、組み立て、全体を構成していきます。

 文章は改行ごとに、一つのブロック(パラグラフ)、一つの意味合い、新たな話題(出来事の小単位)でくくるのが理想です。それは気分や思いつきでなく、計算づくで段落をつけていくと、作品が際立ってよくなります。

① 作者の呼吸にもよりますが、センテンスは3~5個くらいがちょうど手頃です。(センテンスの文字数の理想は42字平均として)。
 読みやすさにもつながります。


② 話題の料処理においても、200字以内でまとめた方が切れ味は良くなります。
 一つブロック内にセンテンスが多いと、内容が捉えにくくなります。


③ 視覚的な長短の工夫も必要です。
 一つセンテンスごとに改行すると、詩的な雰囲気になり、叙述文としては文章や視点が荒っぽく見えてきます。読み手の感じ方、捉え方が散漫になってきます。


④ 一つ出来事でも、延々と文章がつづいて改行が無ければ、「べた書き」と言い、圧迫感から読みづらく、苦痛になります。


⑤ つねに作品の流れによる緩急とリズムで、ブロックの長短をつけていくと、変化と勢いが出てきます。作者の文体づくりにも役立ちます。


          【ポイントとコツ】

① 初稿が書きあがった後、全体を通すよりも、まず段落ごとに統一感から加筆と削除をしていくと、焦点がハッキリします。


② 書き出しから次の段落まで、さりげなく疑問形(あるいは自問など)の文章を入れておくと、作品の求心力がつきます。そして、全体を見直す。


③ テーマの統一感からも手を入れていく。時にはブロックごと捨ててしまう。内容が引き締まります。


④ 結末の段落は1~3センテンスで止めると、読後感が良くなります。

第13回 歴史散策 築地・月島・佃島

 もう3年半になるだろうか。第1回が、真夏の立石散策と飲み会だった。集まったのが、作家仲間で歴史好きなメンバーだった。「次回もどこかへ行こう」

 そんな気楽な集まりだった。これまでどこに行ったのか。ミステリー作家の新津きよみさんが、手帳に克明に書きとめてくれている。1人が記載すれば、まあ、過去の流れは解ることだし、ここで述べる必要はない。
 こんかいの集合場所は11月13日午後1時で、メトロ・日比谷線の築地駅だった。出口1番の改札を出て、階段を上がると、
「いま、遅刻魔の穂高さんがこんかいも遅れたら、置いて行こうね、と相談していたところよ」
 歴史作家の山名さんが開口一番に言った。
「そんな予感がしたよ」
 こればかりは病気かな。出かけ間際にあれこれやりすぎるのだ。そんな言い訳もせずに済んだ。なぜか。早め着きすぎたジャーナリスト兼作家の相澤さんが、昼食を取りに行って、まだ帰っていなかったからだ。私の3分遅れは救われた。こんなことで安堵をしてはいけないのだが。

 散策のコーディネートは、文芸評論家の清原さん、歴史作家の山名さんである。まず築地本願寺に出むく。外観はどこかカトリック建築を思わせる重厚感に満ちている。
 親鸞聖人の生誕を祀る大きな法要の最中だった。寺院の厳かな内部では、ミサならぬ釈迦の歌がコーラスで歌われていた。
「写真撮影は、大丈夫ですよ」
 新品の袈裟をきた僧侶が、愛想よく応えてくれた。
 このメンバーでかつてロシア正教の教会に出むいた。バッグは背負うな、帽子はダメ、そのうえ撮影禁止だった。つい、それに比べてしまう。
(日本の仏教は開けているな)
 日本ペンクラブは表現の自由をうたう団体だ。
 写真による伝達、歴史的な記録には映像が不可欠だと考える。やたら個人の肖像権を振りまわす風潮は困りものだと思う。集団のなかに、己の顔が大きく写っていたにせよ、それによる不都合な面が、どのくらい生じるだろうか。一兆分の1の不都合など生じないはずだ。
 最近では、メディアの報道の自由よりも、優先すると考えている輩が多い。大半は自意識過剰だ。
「あんたは写したくなかった、どいてほしかった」
 そんな嫌味の一つも言いたくなる。

 ともかく、仏教徒の開けた撮影許可には感動した。信仰の自由だな、とも思う。

 築地場外市場の狭い路地の買物風景を観てから、「かちどき橋の資料館」に出むいた。実物の電動モーター、太いロープの断片などが展示されていた。無料で、社会科勉強ができる。

「橋が開いてるのを見たひとはいるのかな」
 日本ペンクラブ事務局長の吉澤さんが、訊いていた。東京に生まれ育った人は、小学校の遠足できたようだ。(写真は勝鬨橋の中央部)

 東陽院の十辺舎一九の墓は、時間の都合からカットだった。山名さんは朝日カルチャーの公募・歴史作ツアーで、数日前に歩いたコースだと語る。
 トリトンブリッジ・トリトンスクェアの桜並木の散策道は、みな急ぎ足だ。なにしろ東京海洋大学・明治丸(船内見学)の受付時間が2時半だ。それに遅れたくない。本日のメイン中のメインだから。

 同大学が遠方に見えてきた。ごく自然に小走りになった。
 しかし、残念なことに、明治天皇が乗った明治丸は、大掛かりな改修工事の最中で、見学はさせていなかった。船体の外観はすべて保護シートに包まれていた。
 7人は失望した。

「せっかくここまで来たんだから。説明だけでも聞きたい」
 作家の好奇心は廃(す)れない。工事を請け負う大手建築会社の現場主任に掛け合った。作家7人はヘルメットを持っていないので、現場のそとで、明治丸の精密な設計図をもとに説明を受けた。
 天皇の乗られた場所を問うと、推測ですけど、と前置きしてから、船尾のキャビンが示された。
 

 大学港内は誰しもが、青春をほうふつさせる。黄葉の並木道、赤レンガの建物、われら世代には懐かしい想いがみなぎる構内を散策した。
 大学構内のレストランは閉まっていたが、ウィンドーをのぞき見て、「安い、安いな」と相澤さんがとても感動していた。交通費をかけてでも、食べにきたい語調だった。


 次なるは、月島開運観世音へと向かった。この間に、「もんじゃ焼店通り」を散策しながら、お好み焼きともんじゃ焼きとの談義になった。
 広島育ちの私には、ドロドロしたもんじゃ焼きはどうも苦手だ。かつてどんなものかと一度食べた。その時から、もう食べたくないと思った食品の一つだ。
 とはいっても、周辺には、若いカップルが多かった。

 まだ民間人が住んでいる佃島高瀬家住宅(区文化財)から、佃波除稲荷神社に向かった。皆して、まずはツクダ煮を買った。その上で、歴史散策にもどる。

 家康が関東に来た時、関西から漁師を連れてきた。かれらのために東京湾の埋め立てが行われた。それが佃島だ。
 外洋から打ち寄せる波が強くて、埋め立て地の岸壁の土砂や石が流されてしまう。若い娘の人身御供で、波を鎮めた。そんな悲しい伝説が残っていると、山名さんが教えてくれた。

 佃島渡船場跡(石碑)の近くに、一本の大樹の銀杏があった。神社の天井を打ち破った巨木だ。見応えがあった。これには感心させられた。
 
 住吉神社は大坂から猟師たちが庶民が移り住んだことから、祀られた神社だった。いまでは喧騒とした東京にありながらも、静寂さが漂う。心が休まる趣があった。


 いよいよ井出さん(日本ペンクラブ事務局次長)がセッティングした「月島スペインクラブ」だ。料理は抜群の美味しさである。
 井出さんはヨーロッパに生まれて育った。それだけに、ワインには詳しい。実は、私以外はみなスペインを旅している。荒れ地だからこそ、ブドウの樹が育つと私は教えられた。それぞれがワインの銘柄にこだわっていた。
「ビールしか飲まないの?」
 周りの作家から同情された。

 流れて2次会は居酒屋だった。記憶があいまいだが、「浅田軒」だったと思う。月島が下町だとわかる飲み屋だった。

 次回はからだが寒さになれきった2月になるだろう。

ミステリー小説および歴史小説の書き方の類似点

 このところ信州(長野県)と飛彈(岐阜県)の歴史小説の取材で飛び回っている。入手した資料を昼夜にわたって読みこんでいる。

「歴史小説を書くのは大変でしょう。資料をたくさん読む必要があるし」
 取材先で、そう言われることが多い。
 たしかに取材で集めてきた資料の質を問わず、読みこなすには時間がかかる。

 ただ、やみくもに読んでいるわけではない。ある基準で、資料は読みこんでいる。それは一言でいえば、歴史的な事実に近いか、否か、と見極めながらである。執筆するときに採用できるか、採用できないか。そうジャッジメントしながら読むのである。

 一つの歴史的な事柄にも諸説ある。だから、不採用だなと解っていても、一応は読みこむ必要がある。「これはダメだ」と頭から決めつけると、私の先入観が歴史的な事実を見落としたりするからである。

 1-2割は真実に近そうだと思うと、再度読みなおすことがある。その点では慎重である。


 私は若いころに純文学からスタートし、中間小説といわれたエンターテイメント小説に移り、長編ミステリーも投稿作品でよく書いていた。かなり良い線まで何度も行った。受賞しなかったが、別途に書いてみませんか、と大手出版部長に声掛けされたこともある。


 雑誌にミステリー小説の連載をしたことがある。これはさかのぼって伏線が張れないので、じつに神経を使った。警察と海上保安庁がらみのミステリー小説は、捜査の専門家になんども取材をくり返した。知識が豊富になった。

「指紋を隠す目的で、手袋をしていると、確実な証拠品になりますよ」
「なぜですか」
「人を殺傷するときは、必ず手のひらに汗をかく。とかく手袋は現場近くに棄てている。それを回収したり押収したりする。そして、内側の汗をDNA鑑定すれば、確実な証拠になるからですよ」


 広島拘置所で死刑囚と向かい合っていた、副所長から長時間にわたり取材したこともある。
「死刑囚は毎日、観察日記を書いて、法務省に提出するんです」
「毎日ですか。その理由はなんですか」
「精神が正常か否か、それを観察するんです。もし精神が発狂したした状態では刑の執行ができないからです」
「死刑が最終確定していてもですか」
「当然ですよ。罪の意識が無くなった人を殺せば、それこそ殺人でしょ」


 小説講座で、ミステリー小説はTVを観て書いている受講生が多い。私の知識から陳腐に思えることがたびたび目にする。警察官と刑務官の職種の違いすら、混同している。
「TVはシナリオライターが書いているんだよ。プロデューサーだってプロ捜査官でないから、ノーチェックだと思った方が良い」
 と指導することが多い。

「裁判を傍聴しなさい。生々しい現場を知ることができるから。どんな凶悪事件でも、公開だし、検事が証拠品を出してくる」

 裁判所が証拠として採用するか否か。裁判官が採用した証拠品から、犯行の全体像をつかみ、犯人に間違いない、と決める。あるいは証拠からしても、無罪だとする。
 

 歴史小説はこれによく似ている。たくさんの「歴史的な資料」を集めてくる。郷土史家などから意見を聴いたり、学術論文を読みこんだりする。執筆する上で、採用する、あるいは捨てる。

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第83回 元気100エッセイ教室=擬音語と擬態語

 エッセイのなかで、擬音語と擬態語は使わない方が賢明である。これは小説でも言える。理由は、描写が甘くなるからである。時には児童文学だとさえ陰口をたたかれてしまう。


擬態語』とは、音を立ていないものを表現する。

「きょろきょろ見廻す」「冬の星がきらきら輝く」「砂がさらさららこぼれた」「一人でくよくよ悩む」「先刻からいらいらしている」「涙がぽろぽろ落ちた」

「たくさんの鯉がすいすい泳いでいる」


擬音語』とは、外界の音を写した言葉である。

「廊下がぎしぎし鳴る」「犬がきゃんきゃん鳴く」「心臓がどきどきした」
「戸をぴしゃっと閉めた」「馬がぱかぱか走る」「雨がざーざー降りになった」


 擬音語や擬態語は他人が作った決まりきった言葉である。事実をしっかり見据えた描写だとはいえない。良い文章とは事象をていねいに観察し、「私」のことばで表現すれば、人の胸を打つ文章になる。それに反してしまう


 擬音語と擬態語はいっさい使わないで書く。この覚悟をもって書くのが望ましい。ただ、うっかり使ってしまう場合がある。
 

・人の態度は割に気づかないで使いやすい。
 きょろきょろ、そわそわ、ぼんやり、むっつり、やきもき、どきどき、なよなよ、ひやひや、ふにゃふにゃ、

・人の行動の場合は擬態語だと思っていない
  ずっしり重かった。じっくり考えた結果、すたこら帰って行った。
  とげとげしい人間関係、ぼーと見ていた、べらべら喋る、きっちり閉める

 擬音語や擬態語をどうしても使いたい場合はどうするか。
 作者が独自に表現すれば、創作の効果として評価される。ただ、過度に使うと、作品が滑稽となる場合があるので、要注意である。

光と影=恩師と私

 私はいま2つの歴史小説を追っている。一つは「阿部正弘と日露和親条約」、もう一つは「天保の信州」である。阿部は福山藩主だったから、広島・福山へ。信州は長野、岐阜へと取材に飛び回っている。
 むろん、歴史小説には、史料(資料)の発掘と、その読み込みが不可欠だ。読むべきものが机の周辺に高く積まれている。寝床の周りにも……。

 私は区民大学、カルチャーセンター、NPOなどの「小説講座」、「エッセイ」、「写真エッセイ」など、各講座を持っている。すべて添削がともなうから、往復の車中やホテルでは、それに集中する。
「大変だな」と自分のハードなスケジュールに呆れることが多い。


 そんなときには、私の恩師・伊藤桂一先生を思い浮べる。直木賞作家で、売れっ子でハードなのに、「講談社フェマース・スクール」で、私たちの小説作品を実に丁寧に読みこんで指導してくれた。むろん、プロ作家の目で講評するのだから、実に厳しかった。

 伊藤先生のことばを思い浮べる。「講師の話しがきた当初、講談社に断りつづけた。結果として、引き受けた。やるからには後輩を育てる、それを生き甲斐にする」と述べられた。それには感動した。この先生のもとで、プロ作家になるぞ、と強い意志を持ったものだ。


 講談社が絵画部門の不採算で、4年くらいでクローズした。私は皆を代表して、伊藤先生に引き続き小説指導を頼み込んだ。快諾してくれた。同人誌「グループ桂」が生まれ、いまなお指導してくれている。
 たしか今年で95歳だと思う。頭脳は若い。なにしろ、ビッグな文学賞の選者として活躍されているのだから。


 私は約7年くらい前から、後輩指導で、みずから講師に乗り出した。「伊藤先生が私を育ててくれた。それを次世代に引き継ぐ」という精神である。
 人間の命は有限だから、今持っている私の技量を基本的に全部出し切る。私が永年蓄積したものをこの世に残していきたい。だから、出し惜しみはしない。手抜きはしない、と私自身に言い聞かせている。
「良い面を育てる。瑕疵(かし・キズ)は改善してもらう」と作品に赤とか、青とか、ていねいに入れて指導している。

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