第92回元気に100エッセイ教室=プロ作家の計算とはなにか
文章の基本として「書きたいことを、思うままに書きなさい。まずは書いてみなさい」と指導するエッセイストがいる。それは草野球の監督とおなじことだ。まちがった指導だと、はっきり言える。
思うままに書くと、筆力が上達しない。低レベルの退屈な作品に終ってしまう。せいぜい作文だ。
草野球にお金を払って観にいくひとはいない。好き勝手に書いたエッセイや小説にたいしては、だれもお金など払わない。
野球、サッカー、演劇、絵画、映画、歌手……。どの分野でも、お金を払った観客に、感動とか、陶酔とかを与える技術をもっている。いっさいムダがなく、一挙一動に、神経が張りめぐらせている。
プロとは何か。お金を払って観にきてもらえるひとだ。エッセイ・小説のプロ作家は、最後まで読ませきる力をもった力がある。お金が取れる文章技術をもっている。100%読者の立場で、文章が書ける人なのだ。
草野球は途中で帰ってもさして未練などない。プロ野球は9回裏まで、なにかしら期待させてくれる。プロの長編エッセイ、長編小説は、読者に最後までなにかしら期待させつづける。
『頭のなかで名作でも、作品にすれば駄作」
これは有名な格言だ。
頭脳のイメージを読者に正確に表現できるか。頭脳が描いたとおりに、文章で正確に書けるか。その技術を磨くほどに、プロ作家に近づく。
プロ野球の選手が正確に打つ、投手が正確に投げる。そこに血を吐くくらい努力する。
打者はバッティング練習で、一球一打、細かく自問する。スイングの身体の動き、バットの出し方、あごの引き方など、ていねいに自問する。
これらを毎日100本、200本、300本とつづける。1日も休まず。
投手においても1球ずつ、打者に打たれないか、凡打にさせられるか、バンド・フライにさせられるか、と丹念に投げ込む。
プロ作家も同じだ。1行ごとに文章の表現に全神経をつかう。ひとつセンテンスといえども、けっして書き殴りなどやらない。
金がとれるプロ作品は、作中の人物に魅力を感じさせる、味がある、そして面白い。よくこんなことが考え付くな、巧いな、この展開は。
このように感嘆させる要素が随所に出てきているか、と作者は丹念に吟味をくり返す。
【プロの技術に近づこう】
作者はまず頭脳のなかに、2人の人物をおくことだ。一人は書き手であり、もう一人は厳しい批評眼の読者である。
ふたりがセンテンスごとに喧嘩腰で、書きすすんでいく。