故郷を想う、広島と福島と 「元気に百歳・エッセイ教室」70回の序文より
真夏の太陽が海面にかがやく。波静かな海には富士山に似た大崎上島が浮かぶ。竹原港から乗った中型フェリーが、私の故郷の島に向かっている。この島には橋が架かっていない。瀬戸内海では数少ない離島の一つだ。
東京に出てきたころ、「島育ち」は田舎者の代名詞のようで、人前で語るのは嫌いだった。故郷が恥ずかしいとさえ思ったものだ。
本州や四国との間で橋が架かると、離島ではなくなる。大崎上島はいま瀬戸内海で最も大きな離島になった。淡路島、小豆島も離島でなくなったからだ。
船を使わなければ渡れず、近代化や文化が遅れた、過疎の島と形容できる。しかし、不便さが却って人気となり、メディアに何かと取り上げられている、と島民が教えてくれた。不便さが今後の期待につながっている。故郷は静かに変貌しているのだ。
大崎上島には血筋の身内がいない。それでも私は故郷に足を運ぶ。若いときには、あれほど帰省すら嫌だったのに、と思う。
「故郷は心の財産だな。精神的な支えだ」
上陸すれば、なおさらその想いが強まった。
3・11東日本大震災から、2年半が経った。三陸の大津波の被災地は『海は憎まず』として発刊することができた。その後は、原発事故関連の取材で集中して福島に入り込んでいる。私の故郷に対する、見方、価値観がごく自然に変わってきた。
双方を取材して、私なりに導いた定義がある。
『三陸は大津波による物理的な破壊、福島は精神的な破壊だった』
福島・浜通りの住人は原発事故直後、恐怖ともに故郷から追い出された。そして流浪の民になった。
原子炉の底から沈降した核燃料がメルトアウトしている可能性がある。地下水に触れているかも、と住民はそれを恐れる。
数年先、数十年先に、高濃度の放射線に襲われるかもしれない。それすら現状では予測できない。住民はもはや故郷に帰りたくても、帰れない、流浪の民となってしまったのだ。
年配者やお年寄りは故郷に帰って死にたい、と考える。若者は幼い子を放射線のなかで育てられない、と見限る。親子でも連帯感が失われる。夫婦においても考え方の違い、温度差から、離婚が増えている。
故郷を失くした人の心はしだいに廃っていく。
これら福島の人たちと取材で接すると、故郷がいかに大切なものかと解る。と同時に、広島県の離島が、私の人生の根っ子なのだと再認識させられた。
このたび70回記念誌が発行できた。それぞれ創作の力量は高まり、完成度の高い作品や、生き方を味わえる良品が多い。実に、読み応えがある。
エッセイは作者の体験・経験がベースになっている。だから、当事者の作者しか知り得なかった、貴重な証言であり、将来は研究資料、史料的な価値も予測される作品もある。
滑稽なエピソードが、読み手としては楽しく愉快な作品もある。さらには夫婦、家族愛、人間愛から胸にジーンと響き、涙する作品もある。
作者側から見れば、創作作品が冊子になっていると、いつでも読み返せる。人生を回帰できる。作品そのものが「心の故郷」になっているのだ。
この意義は大きいと思う。
【補足】
元気に百歳が主催する:「エッセイ教室」がことし(2016年)6月で、100回になります。10回ごとに、記念誌を発刊しています。私は記念誌の序文を書いています。それを随時取り上げてみます。
こんかいは元気に百歳:「エッセイ教室90回記念誌」 平成25年7月より
西原健次