石川達三著「生きている兵隊」を読んで=招集兵で、戦争を考えよう
戦争はひとたびおこると社会システム、個人生活、私的財産までも破壊してしまう。わたしたちにとって、戦争とは何か。太平洋戦争の戦場体験の日本人は、もはやほとんどいない。書物や写真で、戦争の実態を知り、読書で擬似体験しながら、戦争とはなにか、と常に自分自身に問いかける必要がある。
西郷隆盛や山本元帥になった気で、わたしたちは歴史小説を読んでいる。敵と味方の戦力のちがい、戦術・戦略の頭脳の優劣を問う、そんな大将の立場にわが身をおいている。
しかし、庶民のわたしたちは逆立ちしても、そんなお偉い人にはなれっこない。現況、大臣経験者でもないのだから、太平洋戦争にわが身をおいたところで、陸軍大臣、海軍大臣、首相なんて、とてもなれるはずがない。
わたしたちは、冷酷無比な殺し合いの戦場にかり出された一等兵である。せいぜい小隊長くらい。敵兵と味方の兵の死体がごろごろ横たわる戦場で、弾薬や食料を運ぶ兵士くらいだろう。ときには慣れない銃を敵にむけて、不正確に発砲する。
敵弾が頭上や周辺で破裂する。あすは死か。わが身をそこにおいて、戦争を考える。このたび石川達三著『生きている兵隊』(中央公論新社・571円+税)を読んで、招集兵のわが身を想像させられた。
同書を教えてくれたのは、「かつしかPPクラブ」の郡山利行さんである。さかのぼること、約2年半前だった。
「戦前に、こんなすごい作家魂の芥川賞作家がいたんですね」
感慨した郡山さんが、新聞記事のコピーを送ってくれた。 それは、朝日新聞(2013/07/29)夕刊に載った、石川達三「のんきな国民に不満」という見出しの記事だった。
『日中戦争を現地取材し、残虐性を持つ兵士の本当の姿を伝えようと石川達三(1905~85)が書いた小説「生きている兵隊」は、38年に発禁処分になった。「安寧秩序ほ乱す」として、有罪判決まで出た言論弾圧事件から75年』と書きだす。
その裁判記録が遺族から、秋田市の記念堂に寄贈されたという内容だった。
『ふたたび戦争を是認するような世の中になったきた。戦争の過程で、真実を伝えようとする言論は必ず弾圧される。こういう事件があったことを知ってほしい』と、達三の長男・旺さんは記事のなかで語っている。
郡山さんが勧めてくれた同記事は2年余り、脳裏のどこかに残っていた。
石川達三は昭和35年に、第一回芥川龍之介賞に「蒼茫(そうぼう)」で受賞した。太宰治が第一回の同賞の選者に、ぜひ受賞させてほしい、と手紙を執拗に送っている。受賞作よりも、そちらの出来事の方が有名である。
石川達三は戦後、日本ペンクラブ会長(第7代 1975 - 1977)も歴任している。
ことし2月22日(月)に、日本文藝家協会で、文芸評論家・川村湊さんの講演があった。二次会で、山本源一さん(P.E.Nクラブ環境委員長)から、石川達三著「生きている兵隊」はすごいの連発で勧められた。
とりあえず買っておいた。
「燃える山脈」の執筆の区切りがついたので、「生きている兵隊」を読んでみた。
作中の日本人の兵隊が、非人道的な不法な行為に及んでいく。逃げる女を裸にし、暴虐し、刺し殺す。掠奪・強奪する。中国の非戦闘員にたいする殺戮などが次々に展開している。
20代女性の乳房を軍刀で斬り取る。兵士が夜寝るときに、石を枕にするよりも、中国人の死体の腹部を枕にしたほうが柔らかくて寝心地が良いと記す。
僧侶の兵士が、左手に数珠をもち、右手の鉈(なた)で敵兵の頭蓋骨を叩き割る。
政府や軍部がつくった皇軍、聖戦、英霊という表現には、ほど遠い戦場描写である。
『作中の事件や場所はみな正確である』
達三は後日述べている。
戦前の言論弾圧が忍び寄る暗黒時代に、よくぞ、これだけの勇気ある文筆ができたものだ、と感心されるというか、おどろきである。官憲や軍部の影の力による達三抹殺、暗殺すらも、覚悟の上で執筆したのだろう。すくなくとも、達三は軍部のタブーはいっさい考慮していない。
当時でも、現代でも、『言論・表現の自由』とは言いながらも、報道は真実を伝えていない面がある。自分たちメディアの不都合はタブー視している。為政者や権力者たちに迎合した画一的なものしか書かない傾向がある。
戦争という真実を知らせるために、ここまで書ける達三の執念はすさまじい。これぞ、本物の作家だ。
「石川達三の作家魂。それが作家精神の基本である」
大先輩を越えられるとは思っていないが、「生きている兵隊」を座右の書にし、フクシマ原発の取材・執筆へとむかう。