小説家

石川達三著「生きている兵隊」を読んで=招集兵で、戦争を考えよう

 戦争はひとたびおこると社会システム、個人生活、私的財産までも破壊してしまう。わたしたちにとって、戦争とは何か。太平洋戦争の戦場体験の日本人は、もはやほとんどいない。書物や写真で、戦争の実態を知り、読書で擬似体験しながら、戦争とはなにか、と常に自分自身に問いかける必要がある。
 
 西郷隆盛や山本元帥になった気で、わたしたちは歴史小説を読んでいる。敵と味方の戦力のちがい、戦術・戦略の頭脳の優劣を問う、そんな大将の立場にわが身をおいている。

 しかし、庶民のわたしたちは逆立ちしても、そんなお偉い人にはなれっこない。現況、大臣経験者でもないのだから、太平洋戦争にわが身をおいたところで、陸軍大臣、海軍大臣、首相なんて、とてもなれるはずがない。
 

  わたしたちは、冷酷無比な殺し合いの戦場にかり出された一等兵である。せいぜい小隊長くらい。敵兵と味方の兵の死体がごろごろ横たわる戦場で、弾薬や食料を運ぶ兵士くらいだろう。ときには慣れない銃を敵にむけて、不正確に発砲する。
 敵弾が頭上や周辺で破裂する。あすは死か。わが身をそこにおいて、戦争を考える。このたび石川達三著『生きている兵隊』(中央公論新社・571円+税)を読んで、招集兵のわが身を想像させられた。


 同書を教えてくれたのは、「かつしかPPクラブ」の郡山利行さんである。さかのぼること、約2年半前だった。
「戦前に、こんなすごい作家魂の芥川賞作家がいたんですね」
 感慨した郡山さんが、新聞記事のコピーを送ってくれた。 それは、朝日新聞(2013/07/29)夕刊に載った、石川達三「のんきな国民に不満」という見出しの記事だった。

『日中戦争を現地取材し、残虐性を持つ兵士の本当の姿を伝えようと石川達三(1905~85)が書いた小説「生きている兵隊」は、38年に発禁処分になった。「安寧秩序ほ乱す」として、有罪判決まで出た言論弾圧事件から75年』と書きだす。

 その裁判記録が遺族から、秋田市の記念堂に寄贈されたという内容だった。

『ふたたび戦争を是認するような世の中になったきた。戦争の過程で、真実を伝えようとする言論は必ず弾圧される。こういう事件があったことを知ってほしい』と、達三の長男・旺さんは記事のなかで語っている。

 郡山さんが勧めてくれた同記事は2年余り、脳裏のどこかに残っていた。

 石川達三は昭和35年に、第一回芥川龍之介賞に「蒼茫(そうぼう)」で受賞した。太宰治が第一回の同賞の選者に、ぜひ受賞させてほしい、と手紙を執拗に送っている。受賞作よりも、そちらの出来事の方が有名である。
 石川達三は戦後、日本ペンクラブ会長(第7代 1975 - 1977)も歴任している。


 ことし2月22日(月)に、日本文藝家協会で、文芸評論家・川村湊さんの講演があった。二次会で、山本源一さん(P.E.Nクラブ環境委員長)から、石川達三著「生きている兵隊」はすごいの連発で勧められた。
 とりあえず買っておいた。

「燃える山脈」の執筆の区切りがついたので、「生きている兵隊」を読んでみた。

 作中の日本人の兵隊が、非人道的な不法な行為に及んでいく。逃げる女を裸にし、暴虐し、刺し殺す。掠奪・強奪する。中国の非戦闘員にたいする殺戮などが次々に展開している。

 20代女性の乳房を軍刀で斬り取る。兵士が夜寝るときに、石を枕にするよりも、中国人の死体の腹部を枕にしたほうが柔らかくて寝心地が良いと記す。
 僧侶の兵士が、左手に数珠をもち、右手の鉈(なた)で敵兵の頭蓋骨を叩き割る。
 政府や軍部がつくった皇軍、聖戦、英霊という表現には、ほど遠い戦場描写である。

『作中の事件や場所はみな正確である』
 達三は後日述べている。

 戦前の言論弾圧が忍び寄る暗黒時代に、よくぞ、これだけの勇気ある文筆ができたものだ、と感心されるというか、おどろきである。官憲や軍部の影の力による達三抹殺、暗殺すらも、覚悟の上で執筆したのだろう。すくなくとも、達三は軍部のタブーはいっさい考慮していない。
 

 当時でも、現代でも、『言論・表現の自由』とは言いながらも、報道は真実を伝えていない面がある。自分たちメディアの不都合はタブー視している。為政者や権力者たちに迎合した画一的なものしか書かない傾向がある。
 戦争という真実を知らせるために、ここまで書ける達三の執念はすさまじい。これぞ、本物の作家だ。
「石川達三の作家魂。それが作家精神の基本である」
 大先輩を越えられるとは思っていないが、「生きている兵隊」を座右の書にし、フクシマ原発の取材・執筆へとむかう。

 

「二十歳の炎」が3刷で発刊=『幕末史のわい曲は国民のためにならない』

「歴史ものは腐らない」と出版業界で言われている。現代小説は時代を背景として展開される。時代の進歩は速く、作品がすぐに劣化していく。文学作品など顕著なものしか、読み継がれていかない傾向にある。
 
「歴史から学ぶ」という格言どおり、歴史小説は時代を問わず、読み継がれる。どんな時代になっても、古代から近代史まで、なにかしら学び取るものがある。

「二十歳の炎」が3刷として、ことし(2016年)3月25日に、重版となった。

 この作品が、広島を中心に読まれている。この先、全国へと広がれば、さらなる増刷も期待できるだろう。

 明治新政府は広島藩が目立ってもらったら困ると言い、広島浅野藩の「藝藩志(げいはんし)」を封印した。そして、薩長閥の政治家が、幕末史を歪曲した経緯がある。

 昭和53(1978)年まで、封印されていたから、過去の小説、歴志学者の論文、教科書すら、幕末広島藩は殆ど無記載だった。

 司馬遼太郎「竜馬がいく」すらも、昭和41年の刊行だから、広島藩はまったく加味していない。龍馬が芸州広島藩の軍艦を借りて、長崎から土佐に1000丁の最新銃を運んだ。
 龍馬がどういういきさつで広島藩から軍艦を借りられたのか。司馬氏すらも、「藝藩志」の存在を知らずして1行文で追求の筆が及んでいない。

 京都で中岡新太郎と坂本龍馬が暗殺された。龍馬と逢う約束で出向いたのが、広島藩の安保清康(あぼ きよやす)だ。もう一刻早ければ、と悔やまれる。かれが目にしたのは血の海だった。
 最初の発見者となった安保は、医者を呼び、厚く手当した。彼は霊山神社に遺体を埋葬した。

 安保は薩摩藩の海軍を育てた人物だ。明治以降は、陸軍=長州、海軍=薩摩、といわれる。安保は薩摩にとっても、日本海軍にとっても重要な存在だった。

 薩摩=龍馬と広島藩との関係は濃密だ。それが解らずして、「龍馬暗殺の真犯人は誰か」と問うても、殺害の動機とか、背景の理解には及ばないはずだ。
 

「二十歳の炎」の副題は『広島藩を知らずへして、幕末史を語るべからず』としている。
 
『幕末史のわい曲は国民のためにならない』
 この理念のもとに、私は「藝藩志」から幕末の事件や場所をより正確に書いた。

『幕府と朝廷と2カ所から政策が出てくるような、こんな国家はいずれ崩壊する。「朝敵の長州・毛利家をダシにして、薩長芸の6500人の軍隊で京都に挙がり、軍事圧力で徳川家を倒す」。広島浅野藩の最強のエリート志士たちは、それを見事に完遂させた』

 だれもが薩長同盟という。しかし、薩摩側の史料として、島津藩主が2藩の同盟に関わったとか、認めたとか、そんな証しは存在しない。トップが関わらずして(当時)国の同盟などあり得るはずがない。

 歴史的事実としては「薩長芸軍事同盟」が成立している。幕末に6500人の兵が広島藩・御手洗港から京都に向けて発進した。

 長州閥(山口)の政治家とすれば、広島浅野藩が「朝敵の長州・毛利家をダシにして倒幕した」という小ばかにした表記の「藝藩志」など、抹殺さなければ、明治政府のなかでいい恰好はできないのだ。

 隣りの広島はもともと毛利元就の出生地・聖地だ。広島城も、毛利家が築城した。広島がつねに高い位置に居て目障りの存在だったのだ。

 明治新政府は、「薩長芸軍事同盟」から、芸州広島を抜いて、薩長同盟に仕立てあげた。後世の小説家らが薩長を誇張したことで、独り歩きしてしまったのだ。

 長州閥が政治の中心に座ってきたのは明治新政府が東京にできた数年後からである。大村益次郎は暗殺される。山縣有朋が富国強兵の実権をもってから長州閥が強くなったのだ。

 最近の傾向として、鎌倉幕府が成立した年号が修正されたり、諸々史実が書きかえられたりしている。「薩長同盟」すらも、怪しげなものだと修正されてくるだろう。

 明治政府によってわい曲された幕末史。「二十歳の炎」はより史実に近い道筋をつける役目だと考えている。

【推薦作品・小説】 鮮やかな記憶 = 長嶋公榮

 同人誌「グループ桂」(非売品)の長嶋公榮さんが、「鮮やかな記憶」「鮮やかな記憶」を発表された。その作品は後世に伝えるべき内容なので、このHPに全文の掲載をお願いしたところ、快諾してくれました。
 
 「戦争のむごたらしさ」。それらを後世の人びとに伝えていく。それは「戦争抑止」につながる大切な言論・表現活動である。

 戦争とは、理由のいかんを問わず、人間どうしが殺し合うことである。日本は明治時代から10年に一度は海外と戦争をしてきた。記録や写真などで残されてきた。そこから、私たちは戦争のむごい本質を読みとることができる。

 小説の場合は、過去の戦争を取材や史料・資料で掘り起こし、読者に戦争の疑似体験をさせられる。主人公を通したストーリーが脳裡に焼き付いた読み手は、心から戦争の残酷さを感じとる。
 読者の考え方、将来への行動までも変えることができる。それが小説の使命だと思う。少なくとも、それを目指すべきだと考える。「鮮やかな記憶」「鮮やかな記憶」はその使命をしっかり感じさせてくれる作品である。

 昭和20(1945)年5月29日年の横浜大空襲では、B-29爆撃機とP-51戦闘機による、無差別攻撃(焼夷弾攻撃)で約8千人から1万人の死者を出した。

 主人公・花枝は17歳、横浜大空襲の時、横浜駅でB29の大規模な空爆に遭う。弟は旧制中学2年生だった。家族の生と死を分けてしまう空襲の凄さ、死体の惨さが克明に描かれている。

 戦禍の下で生きのびたひとたちも、戦後の悲惨な食糧事情が惨くの圧しかかってくる。
 都会生活者は自給手段をもたず、飢死、餓死の手前まで追いやられる。「物資移動禁止令」をかいくぐる。法にふれなければ、食べ物が入手できない状態がつづいた。

 必死に生きる過程を通して、花枝には物品を粗末にできない「勿体ない精神」がしっかり宿るのだ。


 戦後70年経った現代は、使えるものでも、簡単に捨ててしまう。「物余り時代」、「使い捨て時代」である。
 88歳となった花枝の「勿体ない精神」は、隣り近所や自治会と軋轢(あつれき)を生じるのだ。

 町内会役員は戦後育ち70歳前後である。花枝とはわずか10数歳ちがいでも、価値観に大きな違いと断層がある。
 作者はここにも鋭い視線をむけた作品である。


【関連情報】

①作品はPDFでお読みください・印刷(A4:13枚)

「鮮やかな記憶」

②著者の作品

「国家売春命令」の足跡  昭和二十年八月十五日 敗戦国日本の序章


赤い迷路―肝炎患者300万人悲痛の叫び!


③プロフィール

 1934年東京生まれ。伊藤桂一氏に師事し、1985年同人誌「グループ桂」の主宰者。
 1997年「温かい遺体」が女流新人賞最終候補
 1998年「はなぐるま」が北日本文学賞選奨
 2002年「残像の米軍基地」で新日本文学賞佳作
 2003年「幻のイセザキストリート」で新日本文学賞佳作

        
        写真提供=横浜市史資料室「横浜の空襲と戦災関連資料」

第96 元気100エッセイ教室 = 観察力と文章スケッチ 

 エッセイにしろ、小説にしろ、読者が作品を楽しむのは、文字を読みながら、自身の脳内スクリーンに映像化して、ストーリーを追っていく行為である。作者の腕が良ければ、文字と映像変換が容易にできる作品に仕上げられる。
 そのためにはどうすればよいか。登場する人や物にたいして観察の優れた文章を心がけることである。借り物の文章、手あかのついた表現などは論外である。

  絵画の世界では、スケッチ力の弱い作品は印象が弱い。文章も、まったくおなじである。作者が頭のなかで考えた説明文では、作品が平面的で、立ち上がってこない。
「できごとは解ったけれど、なにが書きたかったの」 と退屈な作品になってしまう。


『キッチンで食事した』。
 この表現では、読者は自宅の台所しかわからない。テーブル、椅子、流し台、炊飯器、鍋、洗剤、調味料など、多種多様なものがおかれた、自宅の台所だ。

 作者がイメージした台所の空間とは、かなり違ったずれがある。
 作中で「台所」「キッチン」ならば、読者はさほど混乱しない。しかし、屋外に出ると、スケッチの差異が作品力のちがいになる。

『川のそばに、カップルがいた』
 一級河川もあれば、小川もあれば、谷川もある。
 年齢はさまざまである。夫婦か、恋人どうしか。腕を組んでいるのか。散策か、デートのさなかか。情景も書かれておらず、読者任せにすると、読み手の負担になってくる。
 途中で、読むのが嫌にもなってくる。

 とくに長編小説などは、文字だけで、読者の脳裏に情景を浮かベてもらう。次へ次へと導いていく。読者が感情移入し、追いかけたくなるには、具体的な観察力のある文章の連続性が必須である。


『若い女性の顔はそれぞれに違う。老婆になれば同じ』
 この格言は、作品の描写力の優劣を端的に表している。

 18歳の女子大生ならば、体つき、肌、黒髪、表情、癖、趣向なども異なった描き方ができる。細かな描写でも、読者を引き込める。人物がはつらつと立ち上がり、若さにも勢いが加わり、読者にたいしてビジュアルな語りかけもしてくれる。

 彼女が60歳を過ぎれば、白髪の人だけで通過できる。埼玉の女子大生、それだけだと、読者は納得してくれない。細かな観察とは、作品の若さである。

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山岳歴史小説『燃える山脈』・連載150回へ=市民タイムス・特集

 国民の祝日「山の日」制定の記念として、山岳歴史小説「燃える山脈」の新聞連載小説が昨年10月1日から始まり150回になってくる。予定としてはことし5月31日まで約240回である。
 松本市・本社『市民タイムス』において、2月19日に特集号市民タイムス・「燃える山脈」佳境へ熱くが組まれた。

『今年開削200年を迎えた安曇野の「拾ケ堰(じゅうかせぎ)」の開削に取り組んだ人々の姿を生き生きと描いた章から、「湯屋の若女将」、「水の危機」、「伴次郎街道の運命」、「湯屋への危機」へと続き、今後も「飛騨の惨状」、「江戸からきた隠密」へと展開する。

 物語はいよいよ最大の山場へと進んでいき、毎回目が離せない』と紹介してくれている。

「あらすじ・これからの展開」「温知堂の雰囲気 務台さん宅に残る」と紙面を割いている。


 筆者側としては「当時の生活思い描く」(挿絵・中村石浄さん)も顔写真入り。「知ってほしい格差構造」(作者・穂高健一)とつづく。

 トップ写真の槍ヶ岳の写真はとても素晴らしい。山岳写真家なのか、報道写真部なのか。昨年12月撮影と記す。
 

『徳川倒幕は広島浅野藩の主導で成した。なぜ歴史から消されたのか』=広島鯉城ライオンズクラブで講演

 2016年2月18日広島鯉城ライオンズクラブで、幕末史の講演をおこなった。場所は「リーガルロイヤルホテル広島」である。

              
 拙著『二十歳の炎』は、「高間省三」を主人公にしている。戊辰戦争の浪江の戦いで、20歳で死んだ青年が、広島護国神社の筆頭祭神である。同神社(正月三が日は、中国地方で最も多い初詣客)に詣でても、筆頭が高間省三だと知らない人ばかり。


 戊辰戦争の時、広島藩エリートの若者たちが自費で出兵し、かれらを中心にした官軍が、いわき市から相馬・仙台まで福島・浜通り(現在のフクシマ原発街道)で戦った。相馬・仙台藩の主力をあいてにした壮絶な戦いであった。
「奥羽列藩の主力・仙台藩を倒さなくては、戊辰戦争は終わらない」
 それは自明の理であり、双方の戦死者は会津攻めよりも、福島・浜通りの戦いのほうがはるかに多いに。 しかし、明治政府がこの戦いを歴史から抹殺した。他方で、会津の白虎隊を軍国主義に利用した。
 悲しいかな、日本じゅうが教えられていない「福島・浜通りの戦い」なのだ。(明治政府の黒い隠ぺい政策から、私たちすらも逃れられていない現実がある)

 
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 広島県にもっと、奇異なことがある。義務教育の場に、郷土史がない。「毛利元就から、いきなり原爆」で、江戸時代が真空地帯である。これは異常である。なぜ郷土史を教えないのか。
 元高等師範学校(現・広島大学)がありながら。教員や大学関係者らは、江戸時代の広島藩を知らないから、教えようがないのである。

写真提供:広島鯉城ライオンズクラブ(写真の上を左クリックすると、2月18日のクラブ速報が出ます)

 国民を洗脳するには、歴史教育のねつ造が一番だ。明治から77年間、10年に一度は海外と戦争する軍事政府だった。国民を軍国主義に洗脳し、徴兵制をとり、国民皆兵制で海外に送りだした。

 広島・浅野藩が中心となった大政奉還を進めた。つまり、広島の平和主義が明治政府には目障りで仕方なかったのだ。

 「薩芸」倒幕を「薩長」討幕に置き換えた。

 肥前の文部官僚は、「薩長土芸」を「薩長土肥」にすり替えた。

 浅野藩「芸藩誌」も封印された。広島藩の幕末史はこうして歴史から消された。

「芸藩誌」が昭和53年にわずか300冊だけ出版された。それを解読し、解析し、より事実に近いところで小説化している。『二十歳の炎』で、広島藩はこんなに活躍した藩だったのだと、多くに認識してもらいたいと、執筆した。


 幕末史のわい曲は国民のためにはならない。私は、まずは広島県の義務教育の場で「郷土史」を教えようよ、という運動の推進になれば、と願っている。

 広島鯉城ライオンズクラブで講演させてもらい、一つ輪が広がったと感謝している。

 会報の執筆依頼があり、『広島人のつよい結束力は、江戸時代の伝統から』とさせてもらった。会報が出た後に、HPで紹介させてもらう予定である。

歴史散策・目黒周辺=節分だけれど、堪能したのはひな人形

 第16回の歴史散策は、目黒周辺の史跡めぐりである。2016年2月3日(水)13時に、東急目黒線・不動前駅の改札口に集合だった。ガイド役の山名美和子さん(歴史作家)がインフルエンザで、39度の高熱を出して、ダウン。責任感の強い彼女からFAXで資料が送られてきていた。

 山名さんは『真田一族と幸村の城』(角川新書)を出版しているので、NHK大河ドラマ「真田丸」との関連の話題を楽しみにしていたが、先送りになった。


目黒・雅叙園にて。メンバーは毎回おなじなので、割愛します。

 不動前駅から、成就院にむかった。

 蛸薬師成就院の本堂の『ありがたや、福を吸い寄せる蛸』というキャッチフレーズをみて、思わず苦笑した。なにかのごろ合わせだろうが、愉快な寺だ。

 蛸の由来など知らないほうが、余韻があってよい。


 目黒不動尊は平安時代k創建で、日本三代不動尊である。都内でも、名高い寺だ。

 ちょうど節分の日で、境内は関係者や参拝者で賑わっていた。

 目黒不動尊・龍泉寺の豆まきまも、きっと規模が大きいだろう。どんな豆まきになるのか。ただ、1時間先だった。

「ここで、時間をつぶすのはもったいない」と誰もがおなじ考えだった。


 6人はごく自然に、次なる目的の「五百羅漢寺」にむかった。仏教彫刻の「羅漢像」の一体ずつ不気味で迫力があった。全部で305体がある。撮影禁止だった。

 顔付がそれぞれちがう。内面描写にすぐれた顔の表情だった。すべて松雲元慶禅師ひとりで彫られたときいて、またしても驚愕した。

 われわれ作家でも文章上で、人間の顔の表情を300も違えて描けないだろう。一体ずつを見ながら、そう思えた。


 北一輝は、「国体論および純社会主義」を論じた。「天皇の国民」でなく、「国民の天皇」が明治維新の本質だと批判した。さらに、「天皇の軍隊」から「国民の軍隊」にするべきだと主張した。

 この主張が危険思想だとみなされて、すぐに発禁処分になった。活躍の場を失くした北一輝は、中国の辛亥革命に参加した。

 2.26事件(軍部のクーデター)が勃発した。反乱軍とみなされた青年将校たちの「理論的指導者」だといい。北一輝は逮捕された。そのうえ、極秘の軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。

 青年将校と北一輝の思想はまったく違う。むしろ右と左とまるで逆だ。そのうえ、2.26事件には関与しておらず、非公開・弁護士なしで、死刑判決を受けた。

 かれの処刑じたいが、暗黒社会の思想弾圧を象徴するものだった。

 青年将校が起こした2.26事件が、日本の戦争加速となった、おおきな分岐点には間違いない。
「どんなことがあっても、軍人が首相官邸に突入し、政治家を殺してはならない」
 政治家を殺せば、政治家は軍人にものが言えなくなる。兵器を持てば、軍人は使いたがる。シビリアン・コントロールをなくせば、それは戦争への道だと、北一輝の墓前で思った。

 海福寺には『永代橋崩落事故の供養塔』がある。

 文化4年8月19日 (1807年9月20日)、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日だった。当日の午前中には、橋の下を一橋公を乗せた御座船が通過するという理由で、永代橋は通行止だった。祭りの八幡宮に早くいきたい群衆はいらだっていた。

 昼過ぎに橋の通行禁止が解除される。と同時に、左右から群衆が一気に橋の上に押し寄せた。その重みで、木製の橋は崩落した。

 その瞬間の犠牲者だけでなく、後ろから、さらに後ろから、と群衆が押し寄せてきたのだ。止めようがない。当時の人はほとんど水泳ができない。川に落ちれば、次々に水死だ。

 多くの文献は1000人以上の死者・行方不明とする。寺の案内板には、空前の大惨事としながらも、溺死者440名と明記していた(東京都教育委員会)。
「えっ、そんなに少ないの?」。それが最もおどろきであった。

 歴史には史実・資料のあいまいさはつきものだ。


 青木昆陽(甘薯先生)墓

 享保の改革の時代のころ、米の不作から大勢が餓えていた。蘭学者の青木昆陽は琉球、長崎を通して伝わってきた『さつまい芋』の栽培の試作(千葉県)に成功し、農民を飢えから救った。


「目黒川の桜はまだかいな。まただよな。3月末の染井吉野は素晴らしい河岸になる」
 
 桜花情景を想像しながら、大鳥神社にむかう。


 引き返して太鼓橋をとおり、目黒雅叙園へと足を運ぶ。

 


  雅叙園百段階段(実際は99段)では、東北地方のひな人形が展示されていた。踊り場ごとの小部屋で展示。各地の豪商の家に伝わる、江戸時代の京雛が多かった。(1月22日~3月6日まで公開中。入場料1500円である。

 女性は「人形」が大好きだから、目を光らせていた。男性は50段くらいで、飽きた顔つきだった。しだいに、気持ちが 二次会のJR目黒駅付近の居酒屋にシフトしていた。

古都・奈良を歩く「神さまと戦争」を考える=真の黒幕はだれか

 年末・年始は、山岳歴史小説「燃える山脈」の執筆で、私なりに全力投球していた。新聞連載小説と、単行本と両面で書きつづけた。分量がちがうから、2本立てになってしまう。
 祝「山の日」はことしの8月11日だから、それまでに単行本は書店に並んでいなければならない。逆算すれば、1月下旬までに完全原稿にしておかないと間に合わない。
 
 連日連夜、根を詰めていたから、ふらっと旅したくなった。古都・奈良に行ってみよう、と決めた。目的がなければ、なにかしら出会いがあるものだ。

 春日大社・春日山原始林はユネスコの世界遺産になっている。なんどか行っているが、森林浴くらいの気持だった。鹿が群れて遊ぶ。最近は、山岳の色彩豊かな高山植物が、1輪たりとも花がなくなるほど、鹿に荒らされている。
 だから、私の目は鹿にたいしてあまり好意的ではなかった。


 春日大社の参道の左右には、灯籠がならぶ。参道入り口から、平成、昭和、大正とだんだん古いもの順となる。それは当然で、奥にいくほど、古くに寄贈した灯籠になる。苔のつきぐあいも濃緑になってくる。 私は灯籠の背面の建立日をみていた。


 明治時代になると、灯籠が一気に増えた。
「時代を映しているな」
 私の頭は德川政権と明治政府のはざ間に立っていた。

 仏教は江戸時代において優遇された。しかし、明治に入ると、廃仏毀釈(神仏分離令)で、その地位を失っていく。
 奈良の興福寺などは売りに出される。その一方で、春日大社などは武勲の武将を祀る神社としておどりでてきた。

 戦争はとかく宗教は結びつきやすい。明治政府は神教をことごとく利用してきた。

「日本には蒙古襲来以降、神風が吹く。建国以来いちども負けたことがない、神代の国だ」
 政治家・軍人のことばが連日に飛び交う。
 ほとんどの日本人が信じ込まされてしまった。結果を先に言えば、大ウソだった。東京は大空襲、沖縄は悲惨、あげくの果てには広島・長崎の原爆投下だ。
 これが神代の国なのか、というほど叩きのめされた。黒幕は誰なんだと、考えてしまう。


 明治時代に、山縣有朋が主導し、徴兵制ができた。ここから、すべての日本人が悲惨な戦争の犠牲になっていった。
 日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争、と段々と神々がつかわれ始めた。……聖戦、玉砕、国民総動員、総力を結集、お国のために死ぬ、戦死者を英霊、軍神としていった。生きても、死んでも、神と結びつけられた。これらはいまとなれば、虚しくひびく。

 銃を持たない女子においても、家族のだれかれをなくし、学校では学べず、工場で勤労動員させられた。これらも戦争犠牲である。
「太平洋戦争では神風は吹かなかった」
 政治家も軍人も、大嘘をついていた。


『日本の国の安泰と国民の幸せを願い、尊い神々をお祀り申し上げ~。神さまのありがたさがしみじみ感じられる』
 春日神社のパンフレットをみながら、そうなのかな、とおもいながらも、参道をいく。
『古事記』『日本書記』の神話の世界をタテにした、神々の一本調子は危ないな、とおもう。日本人は「お上に従う」という従順型の民族だから、黒幕には好都合なのだろう。

「神々は崇高なのに、利用した黒幕がいるのだ」
 聖戦、軍神と書いたのは新聞だ。筆の怖さも思い知る。

 大社の奥から古い順であり、江戸時代あたりは神仏習合(しんぶつしゅうごう)だから、寄進された灯籠は少ない。
 日本人には「神と仏が一体」になっている方がよい。宗教は多彩で、自由なほど、戦争の少ない国家になるのではないかな。
「戦争と宗教は結びつきやすいが、国境問題でも戦争は火がつくからな」
 私は春日山山ろくの森林の道を歩きながら、そんな思慮をしていた。

第95回 元気100エッセイ教室 = 情景の説明文と描写文

『説明文とはなにか』

 主語と述語の関係で、物事の骨格の要点を書きつづった文章である。用途として伝達、報告、記録など、ビジネス社会では最も適している。
 エッセイでは、流れをつくるだけで、味わいが少ない。


『描写文とはなにか』

 出来事、動作、変化たいして、一つひとつに修飾や形容をなしていく。読み手が場面を想像できる利点がある。描写文は文章が長くなるので、片や内容を削る作業が必要である。
 エッセイ、小説には欠かせない。

【情景の説明文】

 電車が伊豆海岸を走っていく。車窓には伊豆諸島がみえた。
 旅仲間三人の初日は熱川温泉だった。駅に着くと、温泉街から湯煙りが昇っていた。
 私たちの新婚旅行の思い出の地よ、出会いは伊豆大島よ、とおしえた。熱川の夜はその話題でもり上がり、翌日は伊豆下田を経由して、堂ヶ島にむかった。
 そして、島巡りの船に乗った。


【情景描写文】

 私たちの電車が伊豆海岸の波打ぎわを縫っていた。洋上の海面には秋の陽光がきらめく。かなたには小粒な島影が浮かぶ。
 車窓が一瞬まっ暗になった。トンネルを抜けるたびに、遠方の島々がしだいに電車に近づいてきた。
 熱川駅のホームは、小高い丘の中腹にあった。降り立つと、眼下には温泉街の白い湯煙りが潮風でたなびく。新婚の夜はこの地の宿だった。
 私の心は湯煙りにかすむ伊豆大島をとらえていた。妻との出会いは真夏で、島の民宿だった。

 ※ 堂ヶ島まで書かない。


【会話による情景文】

「ほら、いちばん大きな島が伊豆大島よ。となりの小粒な三角形が利島。そのずーっと奥が船形した神津島なんよ。週なん便か、下田港から連絡船が出ておるよ」
 むかいあった乗客の老女が、車窓の島々をていねいに指して教えてくれる。
 妻との出会いは真夏で、あの神津島の民宿だった。一人旅のさなか、私は静かに思い起こしていた。
 
 ※ 会話がストーリーの展開に影響を与える。
 

新聞連載小説・山岳歴史小説「燃える山脈」が郷土の話題=松本・市民タイムス

 日本ペンクラブの忘年会が12月15日、東京・中央区の鉄鋼会館で開催された。夕方6時から2時間足らずで終わり、作家たちはそれぞれが2次会に流れた。

 私はあちらこちらから声をかけられた。野坂昭如さんが数日前に亡くなり、小中陽太郎さんが「野坂さんの歌のテープを聞かせるよ」というので、そちらに出むいた。
 

 その席上で、長野県安曇野市出身の作家・高橋克典さんから、
「市民タイムスの連載小説がすごい人気だよ。まさか、私の地元ちゅうの地元、おひざ元で、広島出身の穂高さんが連載するとは夢にも思わなかった」

 と絶賛してくれた。

「なにしろ、田植えも、稲刈りも、まったく知らない人が田園地帯の歴史小説を書くんだから、おどろきだよ」

「穂高って、だれだ。穂高岳、穂高神社など、著者名からして長野県人だと信じて疑わない。本名探しがはじまっている。それほど注目されているよ」

 飲み会の席で、松本市を中心とする新聞社だけに、東京では読めない。いろいろ質問された。

 10月1日に連載を介してから、約1か月後、同紙が10月29日号に、「燃える山脈」の特集号を掲載してくれた。

 その紙面を紹介してみた。

『物語は「プロローグ」から、来年開削200年を迎える安曇野の「拾ケ堰」(じゅうかせぎ)の章へとすすみ、水がないために米が作れない安曇野の地に、奈良井川から灌漑用水を引こうという当時の先駆者の勇気ある行動が展開されている

 年内は「湯屋の若女将」、「水の危機」の章が続く。物語はこれからが佳境、ますますめが離せない』

 燃える山脈では、拾ケ堰の開削や、上高地を越えた、岐阜県の飛彈を結ぶ、「飛州新道」の開拓に取り組んだ人たちの郷土愛や人間愛を描く。


 こうしたリード文で紹介されている。



 作者の私は「国民の祝日」が来年8月11日から施行されます。人間は山から多大な恩恵を受けています。それを改めて見直してみよう、というのがメインテーマです。

 拾ケ堰は水の恩恵、飛州新道は山道の恩恵、そして山岳信仰の三部構成になっています。人名と地名は実名ですが、物語はフィクションです。

 史料・資料の列記の学術書とは異なり、歴史小説は「人間って、こういうところがあるよな」と描写する文学です。そんなことを頭の片隅において、たのしんでください、と記している。


「拾ケ堰計画、次々と難問」と「ここまでのあらすじ」で、登場人物が紹介されている。


 同紙面では、
【拾ケ堰】が平成18年に農林水産省の「疎水百選」に選ばれた、と写真付きで紹介されけている。

【飛州新道】は当時の小倉村(現・安曇野市三郷小倉)から、大滝山(2,616㍍)を越え、上高地を経由し、焼岳(2,455 ㍍)の中尾峠を越え、飛騨高原中尾村に至った。
 着工から16年目にして、天保6(1835)年に完成した。

 槍ヶ岳を開山した播隆上人も、この道を利用した。

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