A020-小説家

終戦記念日=太平洋戦争はなぜ始まったのか。薩長史観の歴史教育がまねいた惨禍だった

 石原莞爾(かんじ)は関東軍の参謀で、満州事変を起こした首謀者である。かれの〈世界最終戦争論〉が、太平洋戦争の発端となる思想だった。

『いずれ日本はアメリカと航空機戦を戦うことになる。それに耐えうる国力をつける必要がある。五か年計画で経済力をつけてきたソ連が、満州を奪う前に、日本がまず植民地にし、持久戦になっても、アメリカと戦える国力を保持するべきだ』

 この石原理論が実行された。関東軍は占領下においていた奉天(ほうてん)・吉林・黒竜(こくりゅう)江(こう)省に満州国を樹立した。そして清朝(しんちょう)最後の皇帝だった愛新覚羅(あいしんかくら)溥儀(ふぎ)が就任させた。
 それはまさしく傀儡(かいらい)国家だった。

 日本国民は石原理論と関東軍の行動を熱狂的に支持した。それが太平洋戦争につながった。
 12月8日の真珠湾攻撃の日に、軍艦マーチによって米国との開戦が国民に知らされた。ここにおいても国民が熱狂したのである。

 こうした国民の熱気が太平洋戦争への最大のけん引力になった。軍部・政治の強烈な指導にしろ、国民の声をないがしろにできないからである。

 戦争責任を問えば、それは国民にある。

 太平洋戦争の敗戦のあと、東京裁判がおこなわれた。石原莞爾は病気や開戦前に反東條英機の立場だったことから、戦犯が免(まぬ)がれた。ただ重要な証人として、アメリカの判事が石原の自宅を訪ねて訊問している。

「太平洋戦争のA級戦犯は、だれだと考えていますか」
 ーー戦犯は原爆を落としたトルーマンだ。アメリカ大統領こそ真の戦犯だ。
 あ然としたアメリカ判事が次のように質問した。
「日清・日露戦争までさかのぼれば、戦争を起こした最大の責任者はだけですか」
 ーーそれならば、東京裁判にペリー提督を呼んで来い。日本は約三百年間にわたり鎖国政策の下で、他国に対していっさい干渉もしない国だった。自給自作で、国民は平和に暮らしていた。ところが黒船を率いたペリー提督に脅迫されて開国させられた。
 西欧の侵略帝国主義の列強から身を守るために、日本はみずからも帝国主義になった。太平洋戦争に突入した、すべての元凶はペリーにある。
ペリー提督.png
 日中戦争当時において最高の知能といわれた石原莞爾すら、小学校の教科書の『鬼の顔のペリー像』が頭脳にすり込まれた。生涯消えなかった。

              *

 教育が人間をつくる。人格も思想も形成する。

 徳川政権は260余年の平和を維持し、海外といちども戦争をしなかった。幕末に戦争をしたのは薩英戦争(薩摩・島津家)と下関戦争(長州・毛利家)の2つだけである。  
 
 明治に入ると、この二家の薩長閥の政治家たちが天下を取った。
 前政権を見下すために、江戸幕府の老中首座・阿部正弘は、ペリー来航におびえ、砲艦外交に屈して開港・開国した。そんな弱腰だから腕力・武力・知力にすぐれた薩長が倒幕したのだという。
 
 はたして事実だろうか。ペリー初来航はわずか9日間である。かれは統領国書を手交する久里浜に一度だけ上陸し、四隻の海兵はほかに一度も上陸させていない。
 当時の江戸は天然痘のパンデミック下にあり、「自粛」というべきか、市内には人出はなかった。死の街だ。黒船見学や騒動などあり得ない。
 江戸城といえば、将軍・世子の家定の正室および継室(二番目の妻)も天然痘で死去する。将軍・家慶も病で倒れる。
 こんな江戸城にペリーが行こうとしない。うかつに天然痘を艦船に持ち込むと幽霊船だ。
 ペリーは外交の予備交渉すらせず、久里浜で国書を渡すと、さっさと退散した。わずか九日間のうち、浦賀すら上陸していない。そのペリーは日本を離れると、マカオで居を構えている。
 そこで一年間待つつもりでいた。

 明治時代派から始まった義務教育で、少年・少女らに事実無根を教えた。
『太平の眠気(ねむけ)をさます上喜撰(じょうきせん)たった四杯(しはい)で夜も眠られず』
 これは明治十年に詠まれた狂歌である。さも、ペリー初来航の強化だと教科書に載せた。

 さらには、江戸城内も大騒ぎ、右往左往し、政治はノーコントールになったと教える。そんな徳川幕府側の資料などない。

ペリーの似顔絵 (2).jpg 挙句の果てには、ペリー「夜叉面の鼻の高い」似顔で、米国にたいする恐怖を煽り立てる。
 当時の幕府は狩野派など精緻な画家をたくさん抱えていた。二度目の来航の時に、写真とほぼ同じような絵画をたくさん残している。
 それなのに、明治政府の教科書編纂委員は、あえて精緻なペリーの顔は載せず、「鬼の顔・ペリー」をどこかから見つけたきたのだろうか、もしかすれば、あえて描かせたのかもしれない。それを載せて、少年・少女に「米国憎し」と洗脳したのだ。

 この薩長史観は、力と腕力に勝れたものが政治の勝者になれる、と教えた。すべからく軍国少年となった。

           *  

 明治政府は富国強兵を目標にした。世界の一流国に肩を並べたいがゆえに、帝国主義で大陸侵略となる日清・日露戦争を起こした。
 かたや、軍国少年らは優秀な生徒があつまる兵学校・士官学校を目指した。海上・陸上で階級を上りつめて、やがて海軍大臣・陸軍大臣となり、さらに内閣総理大臣となった。
 軍人が政治に関与する軍事国家になった。
 国民も、教科書で習ったペリー憎しの歴史を信じていた。政府が言う敵国の米英鬼畜をすなおに信じた。全国民一致で太平洋戦争に突入した。
「教える歴史がまちがうと、国家が破滅する」
 それが石原莞爾が後世に残した教訓だろう。

 教育は見方を変えれば、これほど怖いものはない。この歪んだ教育は、石原莞爾の時代で終わったわけではない。
現代でも、この鬼の顔が平然と載っている教科書があるし、私たちはなおも洗脳されているのだ。

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