A020-小説家

私の半生とはなにか。なぜ生かされて、小説家になっているのだろう

 いま、わたしの半生をさかのぼってみれば、物書き、登山、病気の三つが大きな比重を占めているし、それぞれが人生に大きく関わってきた。


 小説を書きはじめたきっかけとか、動機とか、よく訊かれる。
 闘病生活など語りたくないので、さらっと、『28歳で大病したので、寝ながらでも、なにか有意義なものがないかと考えました』と前置きし、それは前まえから願望だった中国古典を読みあさることでした、と話す。
 一年半ほど、その読書がつづきましたが、寝ながら厚い本をもって読むのはとても重くて、手が疲れてくるものです。
 そこで思いついたのが、『寝ながら思慮し、起きたときに執筆する』という小説家への道です。当時はとても高い憧れかな、と応えている。

 つけ加えれば、入退院をくり返した15年余でしたが、この間に、直木賞作家の伊藤桂一氏を師としてあおぐ幸運がありました。それがわたしの人生の岐路になりました。「戦地でも、上官の目を盗み、隠れて執筆していた」という伊藤先生の苦労に近づこう、それに近い努力をしよう、という道筋ができたのです。

 妻には、そのうち作家になるからと宣言し、炊事、洗濯、掃除、育児をすべて押しつけてきた。
「この世に生まれてきたからには、一作品は名作を残したい」
 わたしはとくに純文学に拘泥しましたから、10年、20年経っても、めざす文学賞のひとつもとれない。きびしい世界でした。

 わたしは実印をもたない男です。妻の親が一軒家を建築してくれたし、自動車の免許も持たないし、親の産み方が悪かったのか、病気ばかり。
 妻の内職で、子どもの養育費が賄えていた。

            *

 小説に没頭しながら、入退院の狭間の元気なときは、もっぱら登山でした。妻の嫌味のひとつも飛んでくる。そこで考えたのが、エッセイ作品の投稿だった。

 公募ガイドを折々に購入し、片っ端から応募した。次つぎに受賞した。エッセイの募集要項には、主催者がなにを求めているか、テーマが明瞭だから、わたしには書きやすかった。

 当時のわたしの文章技量は、小説で二次予選、最終予選にもいくレベルでしたから、応募者が1000人いても、3本のうち2本は賞に入るだろう、という自信があったのです。
「エッセイは事実を書く」
 そんな妄想が主催者にあるから、尤もらしく感動エッセイを書けば、最優秀賞でなくても入賞作品になった。
 つまり、選者の目をごまかすテクニックを身につけていた。授賞式には妻と同伴すると決め込んでいました。華やかなパーティー場で、妻までチヤホヤされるので、夫のメンツが立つ。

 しかし、小説の授賞式ではないし、わたしは複雑な気持ちでした。その精神的な苦痛から、解放されたくて山岳登山をくり返していたのです。

「……、やはり、小説の筆力はないのかな。これが最後」となんども折れかけました。挫折感のくり返しでもあった。25年かけて小説の文学賞にやっとたどり着いた。
 そこから受賞癖が付いたのか。毎年のごとく、小説の受賞、優秀賞、入賞と延べ8回もつづいた。


 いま思えば、伊藤桂一氏は『小説の職人』といわれて、数多くの選考委員だった。その教えは「結末が勝負」という極意でした。それがわたしの習作時代の多作で身についていたのでしょう。投稿作品が候補作になると、その作品は結末がぴたりテーマとなっているので、まちがいなく受賞するだろう、と自信を持っていました。

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 この間に、わたしは山岳で3度、「これで死ぬのか」という滑落を経験しました。

 北穂高の山頂直下の大雪渓、新雪の奥日光・根無草山では捜索隊がだされたし、真冬の八ヶ岳・硫黄岳の噴火口では標高差190メートルの滑落だった。
「どんな遺体になるのかな」
 と死の恐怖とともに、わたし自身すらふしぎに思えるほど、反射的なピッケルワークが利いて奇跡的に助かったのです。


 文学賞を受賞してからは、純文学のみならば、雑誌のミステリー連載の注文も受けました。龍馬ブームのときには、「坂本龍馬と瀬戸内海」という雑誌連載のしごとが回ってきた。それが幕末歴史小説の執筆への入口となりました。

 いつしか数かずの史料・資料をあたっているうちに、官僚が作った日本史の教科書がいかに嘘が多いか、と腹立たしさを覚えました。

「明治政府がおこなった、幕末史のわい曲は国民のためにならない」

 薩長の下級藩士が伸し上がった明治政府は、自分たちをより大きくみせるために、前政権の徳川幕府をことのほか批判している。…… 徳川政権は愚劣な政治であり、討幕する必要があったと筋書きを作っている。これはきっとウソだ。そんな確信にたどり着きました。


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 国難(外患内憂)の徳川時代は、有能な人材を最も多く輩出したときです。身分が低くても、抜擢されたかれらは、優秀な語学力で海外文献を読みこなし、国難に立ち向かう外交官になっていきました。そして、かれらはアジアで唯一、植民地にもならず、貿易立国の素地をつくりあげたのです。

 これは日本人の誇りです。

 勇ましい為政者は、能力に関係なく「もう、戦争をやるしかない」と国民を動かせます。反面、戦争をせず、外交で解決する、というほうが数段に難儀で、知的能力を要求されます。
 平和を維持した徳川政権から学ぶ。そんな考えから、わたしは早くに阿部正弘に目をむけはじめました。しかし、阿部正弘の日記は明治に焼かれていましたから、8年間にわたる長い取材になりました。

 いまやIT時代ですから、外国資料・文献を引っ張ってきて、グーグルで自動翻訳することができます。
 外国側から徳川時代の日本をみると、なんと、わたしたちが教わってきた内容とはまったく違う事象に出合うことが多くなりました。どっちが嘘なのか。ペリー提督の遠征日記などは針小棒大、自画自賛ではないか。そんなところにまで、たどり着きました。

 学校教育では「安政の通商条約」は不平等条約だと教わっています。しかし、当時の5か国はいずこも、日本の外交官(岩瀬忠震・永井尚志など)はしたたかで、強気で、自分たちはとてつもなく不平等な条約を結ばされた、と不満をもっているのです。

 たとえば、日本人が英米仏露蘭に渡来すれば、どの港でも自由に使えるし、国内をいつでも通行できる。しかし、日本は横浜・長崎・函館の三つだけである。(のちに2港追加をする)。そのうえ外国人は10里の枠内から外に出られない。
(外国人は)商品の買付前に現地を見てまわれない。江戸にも、大坂にも行けない。まったく不平等な通商だと記しています。

 日本の輸入関税は20%であり、フランスなどはワイン輸出国であり、酒税35%の高輸入関税が課せられた、不平等な条約だと叫んでいます。(インドは2.5%、中国は5%)。

 個々には強弱はありますが、海外5か国の言い分のほうが正しいと思えます。ここに日本の歴史にねつ造を感じたのです。

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 徳川家は260年余間、海外と一度も戦争しなかった。薩摩がイギリスと薩英戦争、長州が欧米四か国と下関戦争をやった。
 この2藩の薩長が明治の主力の為政者になりました。征韓論、台湾出兵、日清戦争、日露戦争から太平洋戦争まで77年間にわたり、10年に一度は戦争をする国家にさせてしまった。

 この時代に生きた人たちは軍国主義の教育の下で、軍国少年として育ち、制服をきた軍人が格好よく英雄に映っていた。天皇を大元帥として頂点に掲げた戦争でした。徴兵制で、「祖国のために死す」が美化されて海外へと送り出されたのです。
 女性は男児を産むと、この子は戦争で若くして死ぬ、ときっと空しい気持ちに陥ったはずです。

 本来は戦争は外交の手段である。しかし、明治政府からは武力支配が目的になってしまった。つまり、戦争に勝つことが目的になったのです。
 その結果、日本人は戦争が好きだと思われてしまった。

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 日本人は本質的に戦争を嫌う民族です。江戸時代の長い鎖国の理由もそこにあったのです。太平洋戦争後は、ほとんどの日本人が戦争解決・英雄観で、日本の外交を論じることはなくなりました。
 ただ、正しい歴史認識はつねに持っておく必要があります。

 徳川時代に、アジア・アフリカで唯一植民地にならなかったのは、なぜか。戦争せず、優秀な人材をもって開国・通商への道をみずから拓いたからです。日本人が優秀だったからです。
 決して「黒船の砲艦外交に脅えた」わけではありません。こんな嘘はやめる、教科書を糺(ただ)す必要があります。

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 維新とは何か。『旧邦(きゅうほう)なりといえども、その命これ新たなり』(詩経)。つまり、260年の古い体質の徳川家でも、みずから内部浄化によって、新しい近代国家へとむかっています。これこそ安政維新です。
 小栗上野介たちは、外国からの融資のもとで、日本の近代化に突っ走っていきます。製鉄所、造船所をつくり、蒸気機関車まで発注しています。完成したのが明治時代だったのです。

 ただ、鳥羽伏見の戦いが起きます。それは薩長を中心とした下級武士たちの軍事クーデターです。それが成功し、かれらがトップに座る「明治軍事政権」になってしまったのです。
 日本という統一国家が生まれながらも、77年間は暗い戦争国家だった。この軍事革命にたいして「明治維新」をつかうのは不自然です。


 わたしは登山にしろ、病気にしろ、死の寸前で生き長らえてきた。おおかた日本史の教科書において、近代化は「安政維新」から始まる、という正しい表記する、そのために生かされているのかな、と思えてきました。

 

 ☆ 「元気に百歳」クラブ誌20号が最終号になりました。そこに寄稿した「安政維新」から抜粋しました。


【関連情報・「元気に百歳」クラブ
とはなにか】

 2000年に設立し、 首都圏とその周辺及び関西が活動の中心です。
 「パソコン教室」、「俳句の会」、「エッセイ教室」
、「日だまり」、「ゴルフ会」、「健康体操と歌の会」、「スケッチ会」の7種のサロンを中心に活動する。


  高齢化時代の中で社会と家族に負担をかけないで元気に生きられるよう、社会・友人・家族と良好なつながりを持ち、心身の健康を保つことをクラブの目標としています。
「元気であることが社会に対する最高のボランティア」そして、「自立(自律)と支え合い」が合言葉です。

穂高健一は「エッセイ教室」の担当講師です。

【書籍情報】

 元気が最高のボランティア『元気に百歳』第20号

 定価1200円+税

 制作・発行 夢考房
 〒257-0028
 神奈川県秦野市東田原200ー49
 ☎ 0463-82-7652 FAX 0463-83-7355

 

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