第97回 元気100エッセイ教室 = 隠れ主語と大和ことばについて
日本人には、主語や目的語がなくても、推察できる能力があります。その面では、古来から他民族に比べて、優秀だと言われてきた所以(ゆえん)があります。
「あれ、どうだった?」
「結構、いけるわよ」
こんな会話でも、前後の情況から、私たちの会話はながれていきます。
「よかったわよね、きのうのあれは」
「感動よね」
手ぶり、身振り、顔の表情も入るので、主語がなくても、読み取れます。
「ちょっと、頼んでも、いい?」
「いいけどさ。いまはやめたほうがいいわよ」
こんな会話もごく自然に成立します。
古来から大和ことばの言いましにおいて、主語を抜いたほうが心優しくひびきます。
「なにとぞ、お聞き届けください」
「お返事を、心待ちにしております」
「身のほど知らずで、生意気なことを言うようですが」
欧米人の方、あるいは東洋系の大陸のひとたちとの会話で、こうした大和ことば、隠れ主語の展開では意味が取れないケースがあります。
「なにとぞ、私のねがいをお聞き届けください」
「あなたのご返事を、私は心待ちにしています」
「身のほど知らずで、私は生意気なことを言うようですか」
大和ことばならば、やはり主語のない方ほうが、流麗な心優しい表現になります。
随筆はこうした大和ことばで書かれてきました。欧米からエッセイ手法が入り、主語・述語の文体が中心になりました。
エッセイは「私」を中心において描かれます。少なくとも、日本人には、英語のように、「I」、「it」「there」と、主語を書かなくても、文意は読み取れます。
と同時に、隠れ主語のほうが、大和ことばの手法から、文章が美しく、輝くときが多いのも事実です。
それが昂じて「エッセイには、『私』は要らない」と指導する方もいます。しかし、これもていど問題です。
初級の方にはは、文章力向上のためにも必要でしょう。
上級になっても、すべて隠れ主語で、『私』が皆無になってしまうと、作品全体が平板に陥りやすくなります。盛り上がりに欠けてくるし、なにを強調したいのか、読み手には伝わりにくくなります。
『強調したいところで、あえて私を挿入る」そうすれば、読み手の心を響かせられます。
① 全体のストーリーの流れのなかで、盛り上げていくさなかに、「ここぞ」と思うところは、主語「私」を明瞭に出したほうが効果的です。
「こんな破廉恥な息子にむかいあって、腹が立った」
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「こんな破廉恥な息子とむかいあって、私は腹が立った」。私の怒りを強調することができます。
② まわりの人物までも隠れ主語にすると、「私」と混同し、意味不明領になりかねません。相手はできるだけ隠れ主語にしないことです。
「怒っていることは、返事もしないので、すぐにわかった」
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「妻が怒っていることは、洋子が返事もしないので、私にはすぐわかった」
③ 感情表現などは、むしろ主語『私』を出したほうが効果的です。
緒事情を述べてから、「悲しみで泣いた」
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「私は悲しみで泣いた」
④ 隠れ主語としては、急ぐ、慌ただしい、行動が早いときに効果的です。この場合はむしろ主語をつけると、かえって動きが緩慢になります。
「奴が雑貨店からとつぜん追いかけてきた。男は棒切れを振りまわす。捕まれば、半殺しに遭いそうだ。川沿いに逃げた。奴は大声で、泥棒呼ばわりをしている」
私は川沿いに逃げた。これでは逃げ方が緩慢になります。
【ポイント】
エッセイは原稿用紙400字詰めで、一カ所くらいは『私』を入れたほうが、「私」の行動・心理・性格を強調した、良い作品になります。