松本『市民タイムス』新聞連載、山岳歴史小説「燃える山脈」が生まれるまで
瀬戸内海の島っこが、信州・飛騨の山奥の農民を書く。それも歴史小説として。取材に入った時、農家の生活、農業について、いかに無知蒙昧かと思い知らされた。1ラウンド、10秒でダウン。そのくらいいきなり叩きのめされた。
それからの取材・執筆で、1か月半で、ことし10月1日からの新聞連載小説としてスタートした。1か月が経った。
この作品が生まれるまでを振り返ってみよう。
国民の祝日「山の日」が国会で通過したのが、2014年5月だった。
私は「山の日」推進委員会のメンバーの一人だった。成立が決まった初会合では、同法案の超党派議員の推進役だった会長・谷垣さん、副会長・衛藤さん、事務局長・務台俊介さんら国会議員が壇に立ち、笑みで、思いのほかに早い制定を喜びながら、
『「山の日」は登山だけでなく、山の恩恵に感謝する日です』
と趣旨を語っていた。
会合後の同パーティー会場(憲政会館)で、ふいに務台さんから、「穂高さんって、長野の方」とネームプレートを見ながら、そう問われた。「ペンネームです、学生時代から登山が好きだったので」と答えた。
その出会いから、「燃える山脈」が生まれた。
私はちょうど幕末歴史小説「二十歳の炎」(芸州広島藩を知らずして幕末史を語るべからず)を出版していた。
務台さんから、「山の日」が成立したばかり。同法案の趣旨に関連した歴史小説を書いてくれませんか、と提案を受けた。
天明・天保の長野には、「拾ケ堰」、「飛州新道」、「槍ヶ岳・播隆上人」の素材があり、同時代的に絡み合っているし、山の恩恵に絡むので、と説明を受けた。
私は一つ返事だった。その実、2-3年後、某新聞社で、維新150年にむけた、鎖国から開国へ大きく舵を取った『阿部正弘』の連載小説の話が進んでいた。
天明・天保時代から德川政権の土台がしだいに狂ってくる、幕末史のスタートでもある。阿部の執筆とも結びつくかな、という思いがあった。
取材は信州(長野県)と飛騨(岐阜県)に入った。
「農業は利口じゃないと、できないんですよ」という話を聞いた。自然環境は例年同じでなく四季の変化に対応する。変化対応業だと教えられた。
私は広島県・島出身で、造船業の町で、田地はゼロだった。農業はまったく知らない。高校一年の時、山越えした先の学校近くに田んぼがあったから、田植えをはじめて見た。自転車で横目で見た通りすぎた3年間だった。大学から東京でまわりに田地などない。
「農業は無知だ。大変なこと引き受けたな」
と取材を重ねるほどに、その思いがつのるばかり。
凶作は稲が枯れるものとばかり思っていた。
「不作は米の実が入らず、ピーンと突っ立っているんですか。実が入ると、穂の頭が下がってくるんです。地面に着く前に刈り取らないと、穂と地面が接着すれば、2-3日で根が出てくるんです」
まったく知らない話ばかり。
「コメの良しあしの一つには、水の温度が影響するのですよ」
「そうなんだ。たしかに、稲は南洋から来ているな」
現地の人から見れば、無知で、頓珍漢な質問ばかりだ。
松本市・安曇野市の元野沢村庄屋の家を訪ねる。
「えっ、母屋のなかに馬小屋があるんですか」
と驚いた。
馬小屋の上に、作男の住まいがあるという。
家の見取り図を入手した。囲炉裏の生活など想像もつかない。水車小屋、米蔵の内部など、みたこともない。これではリアルに農業はかけない。大恥をかいてしまう。
【小説は魅力的な人間を克明に描くことだ】
これは私の執筆ポリシーだ。
この作品で、農業を書くことをやめよう。人間を書こう。
「水と戦う」人間の生きる執念と魂、北アルプス・2800㍍の山稜を2座も越えて、安曇野から・上高地、さらには飛騨へと交易の道をつくる大事業。それらの艱難辛苦を越えていく人間像を書こうと決めた。
すると、バーッと目の前が開けた。まず、河川史の元大学教授を訪ねた。徹底してレクチャーしてもらう。『押し水』という水の特性など力学を数式で教わる。
水は滝のように落下させると、強い力だ。大津波(海水だが)など途轍もない水の破壊力だから、河岸の土手でも洪水が突き破る。小川は穏やかに流れる、静かな力だ。
河川工学は水を知ることでもあった。
安曇野の拾ケ堰が作品の核の一つになってくる。それらの資料も解析してもらった。当時の測定器などから、技術力もみえてきた。
歴史小説といえば、やたら男ばかりだ。人間が成した大きな業績には、かならず女性の支えがある。夫婦、若い男女を立体的に書こうと決めた。
そう思うと、執筆がすーと進みはじめた。
そして、市民タイムスの連載の話しへと及んだ。