A020-小説家

第92回元気に100エッセイ教室=プロ作家の計算とはなにか

 文章の基本として「書きたいことを、思うままに書きなさい。まずは書いてみなさい」と指導するエッセイストがいる。それは草野球の監督とおなじことだ。まちがった指導だと、はっきり言える。

 思うままに書くと、筆力が上達しない。低レベルの退屈な作品に終ってしまう。せいぜい作文だ。

 草野球にお金を払って観にいくひとはいない。好き勝手に書いたエッセイや小説にたいしては、だれもお金など払わない。

 野球、サッカー、演劇、絵画、映画、歌手……。どの分野でも、お金を払った観客に、感動とか、陶酔とかを与える技術をもっている。いっさいムダがなく、一挙一動に、神経が張りめぐらせている。

 プロとは何か。お金を払って観にきてもらえるひとだ。エッセイ・小説のプロ作家は、最後まで読ませきる力をもった力がある。お金が取れる文章技術をもっている。100%読者の立場で、文章が書ける人なのだ。

 草野球は途中で帰ってもさして未練などない。プロ野球は9回裏まで、なにかしら期待させてくれる。プロの長編エッセイ、長編小説は、読者に最後までなにかしら期待させつづける。

『頭のなかで名作でも、作品にすれば駄作」

 これは有名な格言だ。

 頭脳のイメージを読者に正確に表現できるか。頭脳が描いたとおりに、文章で正確に書けるか。その技術を磨くほどに、プロ作家に近づく。

 プロ野球の選手が正確に打つ、投手が正確に投げる。そこに血を吐くくらい努力する。
打者はバッティング練習で、一球一打、細かく自問する。スイングの身体の動き、バットの出し方、あごの引き方など、ていねいに自問する。
 これらを毎日100本、200本、300本とつづける。1日も休まず。

 投手においても1球ずつ、打者に打たれないか、凡打にさせられるか、バンド・フライにさせられるか、と丹念に投げ込む。

 プロ作家も同じだ。1行ごとに文章の表現に全神経をつかう。ひとつセンテンスといえども、けっして書き殴りなどやらない。
 
 金がとれるプロ作品は、作中の人物に魅力を感じさせる、味がある、そして面白い。よくこんなことが考え付くな、巧いな、この展開は。
 このように感嘆させる要素が随所に出てきているか、と作者は丹念に吟味をくり返す。
 

【プロの技術に近づこう】

 作者はまず頭脳のなかに、2人の人物をおくことだ。一人は書き手であり、もう一人は厳しい批評眼の読者である。
 ふたりがセンテンスごとに喧嘩腰で、書きすすんでいく。

「書き出しのセンテンスで、次の一行を読みたくなるかな?」→「説明文じゃだめただよ。小論文みたいだ、次の行は読みたくないね」

「この文章の表現はお洒落かな」→「凝りすぎ、凝りすぎ、内容が空疎だな。作者だけが気取って空回りしている感じだ」

「ここの文は読みやすいか」→ 「読点(、)がなく、まさに老人文学だ。主語が遅くに出過ぎでいる」

「この会話は性格が表現されているか?」→ 「月並みで、魅力が乏しい会話だな。人物が立ち上がる会話じゃない。性格も、職業も、特徴すら読みとれないね。ストーリー運ばすだけの会話だ」

「このストーリーはどう思う」→ 「書き急いで、粗いね。エピソードが少なく、単なる事象の列記で、退屈だ」


最も重要な「作者の計算」とはなにか

 おなじ事故・事件・出来事を扱っても、プロは名作だといわれる。アマ作品は読むほどに興味を失い、途中で放棄しい、駄作だと酷評される。

 名作と駄作の差はなにか。読者の目線で書く人と、作者の考えで書く人のちがいだ。書き出しから結末まで、徹底して読者の目線で綴っていく。

 読み手が途中で、止めてしまえば、『無』だ。プロのエッセイ、小説の作品は、一気にラストまで読ませる技量がある。
 
 どんなプロでも、最低でも5回くらいは書き直さないと、ラストまで一気に読んでくれる作品にならない。

『書けない』
 プロになりたければ、毎日練習するプロ以上に練習しないと、その社会に割りこめない。
 書けないで悩んで筆を取らない。メディアの虚像のつくりごとの世界だ。信じてはいけない。そんなプロはひとりとしていないはずだ。

毎日書かずして、プロ作家にはなれない
 最大の鉄則である。

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