第11回歴史文学散策=江戸城は武将たちの盛衰すらも消えた。春は盛り
文学・作家仲間の「歴史散策」は第11回目となった。メンバーは7人(日本ペンクラブの広報委員会、会報委員会の有志)である。初回からおなじ仲間である。
山名さん(歴史作家)、清原さん(文芸評論家)さんが解説役だ。2人はともに歴史関係の雑誌執筆の常連で、これまでも江戸城の歴史を書いている。同時に、公開講座などでも、歴史散策ツアーの講師として活躍する。
吉澤さん(日本ペンクラブ事務局長)、井出さん(事務局次長)、新津さん(ミステリー作家)、相澤さん(作家兼ジャーナリスト)も、そして私を含めた5人は歴史好きである。
こんかいは夜の呑み屋が決まっていない。これがいきなりの課題(話題)だった。
地下鉄・大手町から5-6分で、「大手門」に着く。集合場所では、山名さんの自筆『名城をゆく・江戸城』が配布された。
その冊子には弓矢を持った太田道灌像がトップを飾る。
そして、江戸城の年表や特徴が明記されていた。
江戸城の入園は無料だ。ありがたい。入園の参観札をもらう。(出口で返す)。
ひとたび城内に入ると、喧騒とした大都会から、別世界に入る。
相澤さんは、長年この近くの大手通信社(千代田区)に勤務していたのに、初めて江戸城に来た、と妙に感激していた。
江戸城といえば、すぐに徳川家と結びついてしまうが、1603年、家康が江戸幕府を開く以前の、江戸城の歴史は一般にあまり知られていない。
1457(長録1)年に、太田道灌によって築城されている。
道灌は暗殺される。やがて、上杉氏、北条氏などの支配下になる。そして、1590(天正18)年になると、豊臣秀吉が小田原・北条氏を滅ぼし、家康が関八州をたまわり、江戸城を領する。
ここらは山名さんが詳しく説明してくれる。
三の丸尚蔵館から、同人番所の屋根瓦に、徳川の象徴・葵の御紋が残っていた。さらに進むと、「百人番所」で、本丸の最大の検問所だった。
鉄砲百人組の与力・同心が交代で詰めていた。
大名たちが登城する行列はここで終る。この先に供侍は入れなかった。
現在はこの先、本丸、二の丸、三の丸(一部)が一般公開されている。
身分制度の厳しかった江戸時代を想うと、隔世の感がある。
大手中の門跡、富士見楼は現存する3楼の一つ。
どこから見ても、おなじ形に見える。江戸初期には、ここが海辺だったという。
現在では考えられない、海が真下にあったなんて。
その後、江戸城の周辺が、どのように造成されてきたか。それが7人の話題となった。
松の廊下跡にきた。かつては畳敷きの大きな廊下だったらしい。
ボランティアガイドが団体さんを相手に、「浅野内匠頭と吉良上野介の刃傷事件」を語っていた。
吉良は名古屋に行けば、良い殿様だ。
「忠臣蔵」が大好きなひとは、おおかた浅野に肩を持つ。それが歴史のおもしろさだろう。
歴史の看板がなければ、「松の廊下」があったとは思えない。周囲はうっそうとした樹林帯だった。
江戸城の石垣の大半は、伊豆の石切り場から運ばれてきた。
これら資金、労力を投入した藩などの家紋が、城石に入っている。
「丸に一」の島津家もあった。
二の丸の雑木林は昭和天皇の意向で、武蔵野の面影が残されている。
クスノキ、ケヤキ、クヌギ、コナラの森がある。そのなかに、シャクナゲが咲いていた。
桜が満開だったので、女流作家の記念撮影です。
人気の女性作家だけに、どこか輝いている。
梅林坂、平川門、書陵部、それぞれの掲示板の前で、皆が食い入るように眺める。
さすがプロ作家たちだ。一字一句も見逃さず、それを読み込んでから、話題にする。
何ごとも関心度が高く、好奇心がなければ、執筆はできないから、当然だろう。
江戸城にはなぜ天守閣がないのか。多くの人には疑問だろう。
「天守台は3度、5層の天守閣が建設されたの。面積は大阪城の2倍以上だった。でも、1657年の大火で、全焼してしまった。加賀前田家がいまの天守台まで築いた」と山名さんは話す。
保科正之(ほしなまさゆき、家光の弟・会津初代藩主)が、もはや平和の世のなかになったことだし、天守閣の再建費用よりも、焼失した庶民の復興につとめるべきだ、と進言した。
それが受け入れられたから、江戸城には天守閣がない。
かつては皇居東御苑であった。いまは徳川将軍の居城の見学コースだ。江戸城内は見るところがたくさんある。
時には都道府県の「木」があったりもする。いきなり現代に連れ戻される。それはそれで楽しめるけれど。
本丸、大奥の跡は広々としている。
江戸時代には最大で約3000人の奥女中がいたようだ。幕末には1000人くらいになった。彼女たちは「行儀見習い」の色彩が強かった。
将軍に見初められて(選ばれて)、側室になるには、宝くじ並みに、かなり確率が高かったのだろう。
戦後の吉田茂元首相の銅像がある。なぜ、江戸城なの?
考えても解らず、さらっと流す。
江戸城の門はどこも凄味がある。
勝海舟・西郷隆盛の間で、江戸城が無血開城した。だから、貴重な城門が無傷で残る。
江戸城は平和裏に残せた。ここで終止符を打っておくべきだった。多くの日本人はそう思うはずだ。
しかし、新政府の下級藩士たちが、そのごも戊辰戦争を拡大し、暴れまわった。
かれらは京都から東京に遷都もせず、「明治天皇の行幸」という名の下、江戸城に移した。そして、明治政府の政権の中核に座ってしまった。
それぞれ史観は多少違うけれども、江戸から明治へと話題が運ぶ。
江戸城を出ると、千代田区役所の前から神保町の方角に向かう。酒場さがしである。「ビールで早くのどを潤したいね」
最初の居酒屋は座敷だった。だから、パスした。次なるは、『そば処・こんごう庵』のまえで立ち止まった。
「雰囲気が良さそうだ、ソバで飲むのもいいね」
相澤さんが交渉するが、カウンターだと言われた。二の足を踏んでいた。
「どうせ、1軒で終るはずがない」
入ってみれば、囲炉裏形式の7人がゆったり座れたコの字型だった。見てきた江戸城にからむ歴史の話題が弾む。
次なる2軒目に入った。
横文字の店名『Bal Marrakech』は、ワインの店だった。
作家はワイン通が多い。おいしいを連発する。確かな味なのだろう。
おしゃれな制服の女店員がカウンター内で、生ビールを注ぐ。ジョッキーの泡も、3度もていねいに処理する、きめの細かさだから、まろやかな味わいがあった。
「この店はあたったね」
皆おなじ感想だった。
「もう一軒行こう」
神田神保町では、文学者、作家、編集者がやってくる店がある。
著名な作家の色紙なども壁面に並ぶ。