歴史上の人物の描き方=早乙女貢著『世良斬殺』より
実在した歴史上の人物を小説で描く、その場合はなにが大切か。どんな人間でも長短もあり、裏表もあり、良し悪しの両面が必ずある。それを大前提におくことだろう。作者の先入観、価値観だけで、人物を悪者だ、非道だと決めつけて書くと、歴史観のミスリードになってしまう。
早乙女貢さんは満州生まれで、生れたふるさとを喪失した、と生前に語っていた。戊辰戦争で、会津落城(開城)で、藩士たちは斗南(青森)に流されて過酷な生活を強いられた。
会津の悲劇をもっとも世に訴えた作家のひとりだろう。代表作が長編小説『会津士魂』(直木賞受賞作)である。
私は「戊辰戦争・浜通りの戦い」を執筆することになった。ここ数年、歴史小説から遠ざかっていたので、多少なりとも勘を取り戻すために、江戸時代により近いところで生きていた世代、海音寺潮五郎、村上元三、山岡壮八などの作家の短編集に目を通していた。
早乙女貢さんが亡くなった年、私は2時間に及ぶロングインタビューをしたことがある。(写真)「薬を飲んだことない、病院に行ったことがない」など元気な語調だったのに、数カ月で逝ってしまった。
その後、鎌倉・早乙女邸で開かれる「ミニ講演会」も、何度か出向いていたし、会津の早乙女さんの墓参りもした。親しみがある作家だった。
早乙女貢『世良斬殺』を読みすすめると、言いようのない嫌悪感に襲われた。たとえ悪行に対する批判があったにしろ、地獄の底から現れた人物のように書いたらいけない。それはむしろ作者の偏狭性にすら思えてしまう。
幾つか取り出してみると、
「世良修蔵は人柄も荒々しく、声も大きく、人相も険悪だった」(世良の写真を見てもそうは思えない)
「長州奇兵隊は狂犬の集まりのようなものだ」
「明治になって、天下を取った長州人の人材の大半が幕末に死んでしまって、残ったのはカスだけだった」
「大島の漁師あがり」(萩の藩校・明倫館に学び、江戸で儒者・安井息軒に学び・塾長代理をつとめる)
「島の荒風と、血のあらしの中で、世良修三という冷酷非常、残忍な性格が醸成されていった」
「世良修蔵の暴虐な行為」
「生り上り者の猛々しく、情の一片もない男であった」
「犬畜生」
ここまで来ると、もはや文章を拾いたくなくなる。
「東北人は、雪の深い冬を耐えてきている。耐え忍ぶことを知っている」と対比させる。このバランス感覚の悪さはなんだろう。
世良はなぜ会津の松平容保を憎み、許そうとしなかったのか。早乙女さんは、世良の生まれ故郷・周防大島に脚を運んで、郷土史家たちから話を聞いていない、と推量できる。歴史作家として最も大切な現地取材を放棄した作品だと思う。
世良が総督府下参謀で、仙台に来たあと、仙台藩士たちが、「会津の松平容保公の武力攻撃はやめてほしい」とくり返し、嘆願した。しかし、世良はいっさい応じなかった。かれの言い方にも態度にも問題があり、仙台藩士らは勘にも触った。世良の悪評がいっきに広がったのだ。
世良が抱いた松平容保にたいする憎しみは、そのすべては第二次長州征討にある。強引な宣戦布告で、周防大島が突如として、艦砲射撃の砲弾を無差別に撃ち込まれたうえ、幕府陸軍と松山藩に占領されたのだ。占領軍の兵卒は島民に強奪、略奪、婦女の強姦と、惨殺などをくり返す。
長州藩は、この周防大島に軍勢をまったく置いていなかった。なおさら、占領軍は連日、無抵抗の島民の食料を奪い、抵抗するものは殺し、婦女子を裸にし侮蔑の限りを尽くした。近世日本史の中でも、あまり例がないほど人民を侮蔑し、恐怖に陥れたのだ。
世良にすれば、「俺たちの島民は何を悪いことをしたというんだ。ふるさとを目茶目茶にされた」という強い恨みがあった。
第1次長州征討では、幕府が要求した通り長州藩は3人を切腹し、首実検に応じた。これで禁門の変は解決したのだ。
しかし、一ツ橋慶喜と松平容保は違った。幕府の威厳、意向を見せたくて、その後において、長州藩主・親子を後ろ手に縄にして(罪人として)江戸に連れてこい。なおかつ七卿都落ちの公家もつれてこい、と要求したのだ。
そんな無理難題は長州が絶対に飲めるはずがないし、拒否をつづけた。さらには桂小五郎と高杉晋作を差し出せ、と要求したのだ。これも拒否する。これは狙い通り戦争への環境づくりだった。一ツ橋慶喜と松平容保は、要求をのまないならば、と帝から長州征伐の「勅許(ちょっきょ)を取って宣戦布告したのだ。(帝は半年間も出ししぶった)。
大義のない戦いだといい、薩摩、広島、宇和島藩などは出兵拒否だった。
長州藩は広島藩を通じて、10数回も「戦いを回避してくれ」と願い出ている。
慶喜と容保のふたりは、権威が失墜してきた徳川家の威厳を取り戻すためだけの戦争だった。
渋しぶ戦いにやってきた諸藩の兵卒の士気のなさに、如実に表れていた。
幕閣は一方的に攻撃日を決めると、4か所から討ち入ったのだ。これが第2次長州征討だった。
世良にしてみれば、「徳川慶喜と、松平容保が一方的に戦争を仕掛けてきて、罪もない島をめちゃくちゃにした。会津は絶対に許さない」と敵意と復讐心に満ちていたのだ。第2次長州征討から戊辰戦争まで、わずか1年半だ。
現代的に言えば、原発事故でふるさと福島がめちゃくちゃにされた住民にとって、「東電は憎い」。1年半経ったから、まわりから「東電を許してあげください」、と言って許せるだろうか。
総督府下参謀の世良が仙台藩から、「会津を許してあげてください」と言われて、2年も経たずして、「そうしますか。水に流しましょうか」といえるだろうか。会津の松平容保が戦争さえ仕掛けなければ、大島の親兄弟、親戚、縁者たちは幸せな日々だったという強い想いがあったはずだ。
第2次長州征討から、わずか1年半で戊辰戦争が勃発した。「(長州)やられたから、(会津)やり返す」という単純明快な一つの流れからみれば、理解しやすい。
慶喜と容保のふたりは、幕閣や諸藩から戦争回避への建言がなされたが、まったく聞く耳を持たず、第二次長州征討への戦争を推し進めた。
それこそ、世良が仙台でとった、武力討伐せよ、という強硬姿勢とおなじだった。
早乙女さんは、世良を書くならば、「周防大島の虐殺」もくみ取るべきだった。それでなければ、戦場で生きた人間の心をしっかり読みとった歴史作家といえないだろう。
小説は作者が亡くなった後でも、作品や執筆態度は批評できる。それが芸術や文学の特徴だ。
いま歴史小説を書こうとする私は、自戒を含め、あえて『世良斬殺』を論評した。
写真は周防大島で、世良たち第2奇兵隊が反撃のために、上陸した地点。ゲリラ戦を展開し、多くの犠牲を払って島を取り戻した。
周防大島・写真提供=滝アヤ