A020-小説家

推薦図書 出久根達郎著「七つの顔の漱石」(エッセイ)=文豪の素顔

 夏目漱石といえば、日本を代表する大文豪である。東京帝国大学教授、作家、朝日新聞の記者。ここらは多くの人が知る。あとはどんな顔があるのだろうか。

 夏目漱石をこよなく愛し、漱石の生き方まで研究しているのが、直木賞作家の出久根達郎さんだ。「漱石に七つの顔があった」。それは七変化のように、作家から素早く、身を変える正体不明な人物ではない。漱石は多彩な人物で、幅広い能力を持った人だという。

 学生時代は器械体操の名手であったと、同級生が証言している。富士登山は2回、ボートは東京から横浜間、乗馬やテニス、相撲観戦などと多彩である。
 漱石のイメージといえば、胃病に苦しむ憂うつな表情である。それだけに、スポーツマンの漱石はおよそ従来のイメージと結びつかないものがある。

 これらをエッセイで楽しく読ませせてくれるのが、5月20日に発行された、出久根達郎著「七つの顔の漱石」(晶文堂・1600円+税)である。

 第一部は「七つの顔の漱石」である。

 漱石が大好きの出久根さんは、漱石に関連ある書籍、手紙、掛け軸などは片っ端から集めた。これら資料から、漱石の七つの顔を一つずつ丁寧に紹介している。

 多くの漱石研究書は内容が良くても、論文調でなかなか作中に溶け込めない。しかし、同書はユーモアたっぷりのエッセイで、とても読みやすい。単なる偉人紹介でなく、七つの顔が解き明かされていく、楽しさがある。と同時に、ごく自然に漱石の人物像に近づくことができる。


 漱石の本は『漱石本』と称し、装丁の図柄、色彩、品格などが同時代の書籍に比べて抜きんでている。古書界において、カバー自体にも美術工芸品としての高価な値がつく。漱石が単なる作家でなく、美術評論家、装幀家の顔があった、と同書で記す。
 出久根さんは古本屋稼業が長かっただけに、古書の価値となると、説得力がある。

 漱石がソバが好きだったか、饂飩(うどん)が好きだったか。
 それにまつわる数々のエピソードが同書で紹介されている。「吾輩は猫である」の内容からすれば、ソバだろう。
 漱石がなぜ松山中学の教師に赴任したのか。それはいまだに謎である。漱石は松山への都落ちを受け入れた理由は饂飩党だったからかもしれない。
「好物が人生を変えた」
 出久根さんはそう愉快に推論する。

 漱石は友人らに、いまでいう自筆の絵手紙を送っている。自画像のスケッチもあれば、日露戦争の時に、裸婦の絵も送っている。官制はがきだから、役人から不謹慎だとクレームがつきそうだが、漱石は堂々と差し出している。

『吾輩は猫である』
 夏目家に迷い込んだ捨て猫は、育てられながらも、名前が付けてもらえなかった。その猫が死んだ。漱石は門下生に、はがきに黒枠の猫の死亡通知を出した。漱石の機知か、猫への愛情か。
 出久根さんも、それを真似て愛犬が死んだときに、「ご会葬には及び申さず」と死亡通知を出したところ、花や悔み状が届いたという。
 読んでいて、思わず吹き出してしまう。

 漱石の悪妻説は一般化している。それに対して、出久根さんは世にほとんど知られていない「漱石夫人」の手紙を紹介し、従来の概念を打ち破っている。特筆するべき点である。
 この第一部は全体を通して、漱石の功績を随時紹介しながらも、軽妙なタッチのエピソードの紹介で、漱石の素顔、生き方、人間味を掘り起こしている。


 第二部は「虚実皮膜の味わい」

  虚実皮膜の味わい  寺田虎彦
  我こそは達磨大師に  樋口一葉
  『本当の』江戸弁  泉鏡花
  『非形式主義者の芥川論  芥川龍之介と児島政二郎
  時代は謝ったか  船橋聖一
  ういういしい幸田ファン  幸田文
  藤沢周平の「桐」を訪ねて  藤沢周平

 この章では、文豪たちのあまり世に知られていないエピソードが紹介されている。 文学好きな方には、とくにお勧めである。読むほどに、明治、大正時代のひとたちの生き方、風俗、金の価値観など、興味深いものが連続する。
 もはやはるか昔となった、100年前の風俗研究や資料にもなる。

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