第64回・元気に100エッセイ教室=豊かな表現力
人はなぜ時間をかけてエッセイや小説を読むのでしょうか。テレビや映画を観ている方がフリーで楽なはずなのに。
その一つに、読み手は自由に、自分好みの作品を選べるからです。文字から得た内容が、私たちの頭にある脳細胞のスクリーンに描けるし、人物の心理までも読み取れるからです。
エッセイや小説などを読めば、読者は楽しんだり、感動したり、涙したり、情感豊かに心を刺激してくれる。さらには長く記憶にとどまるからです。
ただ、文章や単語がぶっきら棒すぎると、映像化が難しくなります。文章が説明調になると、なおさらイメージが浮かびにくくなります。強いては読み手の負担になり、読んでいる途中で嫌になります。
エッセイや小説を創作する人は、読み手の脳裏スクリーンを意識した書き方が重要です。それには豊かな表現力を身につけることです。
・ 駅から男がやってきた。
・ 港から船が出航する。
どんな駅かどんな男かもわからない。ひとまず新宿駅を描いてみる。
どんな港か、客船船か貨物船か、それすらもわからない。読者なりに横浜港あたりを頭脳スクリーンにイメージしてみる。
それがまったく違っていた場合はどうなるでしょうか。
・ 奥多摩の無人駅から、登山姿の40男がやってきた。
・ 夜が明けた入江の漁港から、釣り客を乗せた船が出航する。
読者は脳裏スクリーの描き直しになります。これがくり返されると、義理で読む場合を除いて、作品は途中で放棄されてしまいます。
(ミステリー小説の場合は、意図的に豊かな描写を避けることがあります)
豊かな表現力があるほど、作者と読者の一体感が生まれます。これにはテクニックとコツがあります。それは「名詞」を形容させることです。それが最大のテクニックです。
私は高尾山に登った。
私は紅葉の高尾山に登った。
私は赤黄で燃える紅葉の高尾山に登った。
親友と新宿で酒を飲んだ。
親友と新宿で愉快に酒を飲んだ。
親友と新宿で談笑しながら愉快に酒を飲んだ。
彼の性格は嫌いだ。
彼の欲得な性格は嫌いだ。
彼のごう慢で欲得な性格は嫌いだ。
【注意点】
あまり形容を多段に重ねすぎると、『土台の名詞』が支えきれずに、倒壊してしまいます。作中の名刺を次々に形容すると、文字数が多くなり、枚数オーバーだったり、煩わしくなったります。
ここらは書き慣れていくことです。
表現力が高まると、作品に奥行きや立体感が生まれてきます。なおかつ独自の文体が生まれ、読者があなたの作品を深く味わうようになります。