私小説の書き方=「私でも小説が書けますかね」という質問から
私は目黒学園『小説の書き方』、よみうりカルチャー・金町『文学賞を目指す・小説講座』で、指導している。
ある会合で、多少の面識があるひとからふいに、「私でも小説が書けますかね」と質問された。芥川賞が、学歴を問わないところで受賞者を出している。そこからの話題だった。
「あなたが人まえで、自分の愚かさと醜さをさらけ出す勇気があれば、小説は書けますよ」
そう話したが、理解できない顔をされてしまった。
すこし言葉足らずだったかな。
「小説はストーリーだと思っているんでしょ。無関係だとは言いませんが、東京から函館に往って復ってきた、それだけでも小説になります。シナリオライターは演技者用に書きますから、ストーリーは重要です。でも、小説は人間の心理が書けることです」
そう説明した。
私小説の書き方
それを徹底して学ぶことからはじめれば、小説家への最も近道です、とつけ加えました。
人間は、だれもが「私の人生」という海で泳いでいます。無意味な現象や出来事やムダはひとつとしてありません。(死まで)完結もありません。過去からすべての出来事がいまの「私」の人格を作っているのですから。
「私の人生」のなかから、話題(素材)、人物、場面を釣り上げて書く。それが私小説です。
あなた自身の醜い心が書けますか
小説を書くからには、『水準以上の作品が書きたい』、その能力を身につけたいと考えるはずです。
それには「私」の心理描写を赤裸々に書けることがとても重要です。
だれもが「私」の心のなかに必ずや、いやらしさ、醜さ、善(よ)くない気持ちがあります。「私にはこんなにも醜いところもあります」と心の隅々を書くことです。
ストーリーの運び方、学び方ではありません。小説を書くならば、私自身を描くことから始めるべきです。
愚かな「私」の心が書けたとき、「読み手をつかまえる」小説技法が身についたことになります。
反面、「私」の愚かさを棚上げにした、素晴らしさ功績、日々の幸せ感、異性にもてる、金銭が満たされる、家庭円満の姿などは書きやすいのです。苦しまずして書けるのです。だけど、読み手が逃げてしまう作品です。
書くほどに、文章は上手になりますが、駄作の連続になります。しかも、読者は感情移入して最後まで読んでくれず、挙句の果てに、あなたは筆を投げ出すことになります。
小説家を目指して頓挫した人の大半はこのパターンです。
コンプレックスを書けますか
「実に苦しくて、恥ずかしく、逃げ出したくて、つらい。こんな私をさらけ出すなんて、泣き出したいくらいだ」
こうした苦しみの下、私の心の奥底を書き終えると、妙にすかっとした喜びをおぼえます。と同時に、物怖じしない勇気が生まれます。
こうした作品を書き続けるうちに、やがて読者が感銘や共感を呼び起す、あるいは読者が涙して読むような、感動作品を創りだせる能力が身についてきます。
表現を変えれば、小説家になるには、「裸になれる、なんでも書ける」資質をつくることです。
フィクション小説でも、作者「私」のへその緒と結ばれています。私を書かずして、嘘や作り事だけでは小説は成立しません。時代小説、推理小説、ファンタジーでも、主人公は作者自身を描いているのです。ここは重要な抑えどころです。
裸になれないひとの作品には、主人公のどこかに重大なリアリティーの欠落(嘘っぽさ、作者の逃げ、ごまかし)があります。
小説の創作には学歴などまったく役立たちません。海外留学、一流大学・大学院卒の肩書があっても無関係です。視線が高いエリート意識のひとはなぜか私小説を書きたがりません。頭のなかで考えたフィクションに向かいます。
主人公はどこか高慢な、相手を見下した態度で、鼻持ちならない作中人物に仕上がってきます。読者としては読みたくない作品ばかりが生まれてきます。
たとえ、友人が義理で読んでお世辞を言ってくれても、長くは続きません。
小説づくりの基本は勇気です。知的レベルとは関係ありません。本気で、「私」の恥部の小説を書いてみてください。隠し続けてきた私の過去と戦うことです。そうして、書かれた人物はかつて一度も人前でさらさなかった「私」自身です。
そのくり返しが創作のたいせつな資質づくりとなります。己の恥を怖れない、視線の低い私小説から、ごく自然に、ものごとに怖れない、勇気(抵抗、戦い)すら身についてきます。それを磨くのも私小説です。
『小説講座の教材より』