幕末史の空白と疑問(2)=尾張藩はなぜ徳川を敵にしたのか
尾張16代藩主の徳川慶勝(よしかつ)が、なぜ戊辰戦争で勤王側についたのか。その疑問から、名古屋市東区の「徳川美術館」に訪ねた。
同館の原史彦主任学芸員が、芸州藩研究の私の立場と疑問を理解してくださり、飛び込み取材に応じてくれた。原さんは歴史学の立場から、慶勝を説明する。
14代尾張藩主になった慶勝は、水戸斉昭らとともに尊王攘夷を主張し、安政の大獄では蟄居を命じられている。このとき尾張藩主を交代した。しかし、幕末の尾張の実質的な藩主だった。
第一次長州征伐では、幕府は36藩15万の兵で長州へと進軍させた。徳川慶勝が幕府側の総督となった。
「慶勝は慎重な性格でした。戦争とは金と人を浪費するもの。戦いよりも和平を求めたのです。(幕府から全権委任を取り付けていたから)、大勢のひとの血を流させず、長州藩の家老3人の切腹で終わらせた。武力でねじ伏せるよりも、外交で勝つ。それが慶勝の取った最善の策でした」
この経緯としては、慶勝が戦争を回避させるために、岩国(吉川)藩、下関(長府)藩の2藩が長州藩との仲立ちになるように、西郷を使いに出したのである。
多くの書物は総督・慶勝を飾り物として、勝海舟が西郷が和平の知恵をつけて、西郷がみずから岩国、下関に出向いて解決したと記している。
「旗本の勝海舟と德川家の慶勝とは、あまりにも身分が違いすぎて、ふたりの間に接点はなかった」
と原さんは語っている。
名古屋に来て、尾張の視点から見ていると……、
勝海舟が龍馬を介して、武力討伐思想の西郷に初めて会い、和平へと仕向けた、これはどうも作り物ぽく思えてくる。
旗本の勝は常に低い身分の家の出だと意識して生きていた人物である。封建制度のきびしい上下関係からしても、勝海舟や西郷がふたりして36藩15万の幕府軍の戦いを終結させた、とするのはあまりにも無理がある。それはあり得ないのではないか。
明治時代以降に、德川家の力を過小評価させようと、作為的に作られたものなのか。あるいは後世で、(西南戦争で死す)悲劇の主人公・西郷を英雄視する者が、第一次長州征伐で、德川家総督よりも参謀の藩士・西郷が采配をふるった、と創作したものか。それとも、勝海舟の西郷談に尾びれがついたものが、歴史上の大勢になってしまったのか。いずれかの可能性がある。
現代人の多くは、山口県という視点から長州藩と他の2藩を混同し、同一視している。しかし、当時は国(藩)はまったく別もの。幕末の2藩と長州藩とはむしろ敵対する面が多々あった。
高杉晋作などは下関・長府藩の藩士たちに命を狙われ、逃亡しつづけていたのだ。
「身分の低い薩摩藩士の西郷が、徳川家の総大将を差しおいて、勝手なことはできません。総督に会って進言できる、という身分でもありません。総督が、参謀の西郷を出向かせたのです」
原さんはそう断言する。聞くほどに、私も同感となった。
岩国(吉川)藩はまさに幕府寄り。さかのぼれは吉川家は毛利の縁戚でありながら、「関ヶ原の戦い」では西軍総大将の毛利を裏切り、德川家康についた。これが西軍の敗退につながっているのだ。
長州とすれば憎き德川、憎き岩国・吉川家なのである。(現代の山口県で同一視できない)
そんな恨みの背景があるだけに、岩国藩としては、尾張・徳川家、総督・慶勝の命令があったから、長州藩に三家老の切腹の話を持ち込んだのだろう。一つ間違えば、使者は殺されるのだから。幕臣の勝海舟の入れ知恵ていどで、西郷が来たからといって岩国が動くはずがない。
「戦わずして、長州藩をつぶさずに終わった。それが徳川15代将軍の慶喜の癇にさわり、糞みそに言われたのです。だから、慶勝は慶喜が大嫌いになった。それが戊辰戦争での、尾張藩の動きにおおきく影響したのです」
原さんはそう説明する。
【つづく】