第56回・元気100エッセイ教室=感動エッセイを書こう
講座の冒頭、30分間が私に与えられた、レクチャーの時間である。受講生17人には、事前にレジュメを送っている。だから、前置もなく、いきなり本題に入れる。
講義が始まる10分ほど前だった。ある受講生から、「先生、これ参考にどうぞ」と渡された。わが国の著名なエッセイストで『エッセイの書き方』に類する内容で、A4コピーが2枚だった。一読すると、小説家の私とはかなり違う。ある部分ではまったく逆だな、と思った。
最近私が取材した・酒造メーカーを思い浮かべた。それに例えると、上澄の清酒を造るのが、エッセイスト。その教えは「エッセイは書くことを楽しむ」ものだ。美しい風景に巡り合ったら、その感動を文章にしてみる。美的に書く。そんな雰囲気の指導書に思えた。
ところが、私の指導は下部にある濃い濁り酒を取り出すのと同じ。あえて己のドロドロしたところに、手を染めていく。そこから逃げてはダメだ。
「己の心を痛めても、隠しておきた恥部をさらけだす。それが感動を呼び起こします。楽に書いてはダメです。苦しんで書きなさい」
私はつねに受講生に語りかけている。
やはり、私は小説家の指導するエッセイ講座だなと思った。と同時に、高いレベルを要求するから、受講生は応じるのは大変ろうな、と妙に同情してしまった。しかし、指導方針は変えるつもりはない。
受講生どうしが作品を誉めあいごっこ、美辞麗句を並べあうサロン化する気など毛頭ない。今後も、苦しんで書きない、それが連続していくだろう。
文章技巧の上手・下手を超越した、「感動するエッセイ」にチャレンジしましょう。それが今回のレクチャーだった。
誰もが生きてきた道をふり返れば、必ず他人を感動させる素材をもっています。提出作品の数回に1回は、それを引き出してみましょう。
①エッセイは「他人に読ませる」もの=作者の独りよがりにならない。
②「心の動きをとらえる」もの。=「私」の心理を追う書き方にする。
③「生き方の断面を書く」もの=私の生き方の『へその緒』を感じさせる。
執筆姿勢として、「心的に苦しまずに、書きやすい素材を取りあげた」場合は、出来事の紹介、単なるエピソードという平板な作品になります。読者は、作中人物の心理を追うほどでもなく、低い評価になります。
独りよがりの作品はどんなに長く書いても、最初の数行、あるいは途中まで読んだら、ポイされてしまいます。【読者とはまったく面識のない赤の他人です】
①書き出し、結末、テーマ、題名の4つがリンクされていると、良い作品です。
②さらに圧縮と省略で、文章が磨かれていると、成功作品になります。
③そのうえ、作中に光るところが2カ所あれば、感動作品になります。
感動するエッセイは、「私」自身の逆境やコンプレックスを思い浮かべ、赤裸々になれる勇気から生まれます。書きながら実に辛い気持ちになる。こんなにも私自身を裸にしても良いものなのか。それを押し切って書き抜けると、作品が光ってきます。
読者がまちがいなく深く感情移入してきます。
時として、私はなんでこんなことで、深刻に何十年も悩んで隠してきたのだろうか、という解放感すら生まれることがあります。