文学者たちと紅葉の小江戸・川越「喜多院」を訪ねる
11月30日、作家、文学者たち7人が川越の喜多院に訪ねることになった。北からの紅葉がすでに首都圏にも到達していた。同院の奥庭は、江戸城の紅葉山を模すだけに、赤色、黄色の彩り豊かな情景が楽しめた。
顔ぶれは猛暑の8月に『昭和の街』立石で、下町情緒と居酒屋を楽しんだ、日本ペンクラブの広報、会報委員会の有志である。その折、次なる計画がごく自然にできあがり、「紅葉の川越の歴史散策+飲み会」になっていたものだ。
清原さん(同会報委員長、文芸評論家、歴史家)から、事前に教材『野外講座・川越』が配布されていた。
歴史小説家の山名さん(同会報委員)は江戸時代の将軍、武家、庶民生活まで詳しい。吉澤さん(同事務局長)は川越の喜多院の裏手で育っているから、同院の隅々まで知り尽くす。
相澤さん(広報委員長)は、喜多院で「ボクはここで厄払いした」と思いだすくらいだから、川越に縁がある。
新津きよみさん(推理小説作家)は埼玉県在住だから、何度か、川越に来たことがあるようだ。
井出さん(事務局次長)と私(穂高健一・広報委員)は、ある意味で豪華なガイド付きの川越歴史散策だった。
同日の午前ちゅうは東武東上線が踏切事故で全面運休だった。川越まで埼京線か、西武線か、どちらかに変更すべきか、と判断に迷っていた。12時20分に復旧したことから、それぞれが川越駅、本川越駅から、2時には銀杏の黄葉がもえる喜多院に集合してきた。
吉澤さんが「私はこのすぐ裏で育った。この寺が遊び場だった」と話す。東京大空襲で、東京の邸宅(吉澤家は映画配給会社)が焼け、映画弁士の口利きで、この地に引っ越ししてきたという。小学生の集団を見て、わが母校だと懐かしがっていた。
喜多院は平安時代に慈覚大師円仁によって創建された。やがて関東天台の中心となった。
「この院の興隆と川越の発展は、ひとえに天海(てんかい)僧正と徳川家康接見から信頼関係から始まったといえる」と清原さんが多宝塔の側から、すぐさま解説をはじめた。だれもが興味深く耳を傾けた。
本堂の内陣の先には、徳川3代将軍・家光が生まれた部屋があった。この由来について、山名さんが語ってくれた。
1638(寛永15)年の川越大火で、同院はすべて焼失した。(一部、山門を残すのみ)。家光の命で、堀田正盛が復興にかかり、江戸城の紅葉山の別殿を移して、それらを客殿、書院にあてた。このときに、家光誕生の間、春日局の間も、同院に移された。
「15代将軍のなかで、正室の子は家光だけよ」と山名さんが教えてくれた。
一連の復興で、東照宮なども造られた。だが、明治時代の廃仏毀釈から、現在は別管理になっている。
室内は撮影禁止だが、紅葉が盛りの奥庭にかぎり、撮影は自由だった。
「前夜のTVで、この庭がライトアップで中継されていたわよ」
新津さんが話す。紅葉の名庭は素晴らしい。
歴史と紅葉を堪能した7人は、小江戸・川越の散策に入った。
平安時代初期の創立の三芳神社に向った。わらべうた発祥の地「とおりゃんせ」の石碑が目立った。川越城本丸御殿は外観のみの見学だった。川越城の築城は太田道灌で、その銅像が市役所の正面玄関にあった。400年前から打ち鳴らす、「時の鐘」の櫓を見上げた。
菓子屋横丁は狭い路地で折れ曲がり、昭和初期の情緒を感じさせる20軒余りが軒を並べる。飴菓子、せんべい、駄菓子、ハッカ飴、焼き団子の香ばしいにおい、露店の口上も楽しい。
「蔵造の町並み」に一歩入ると、江戸時代にタイムスリップする。町家形式の土蔵造りの店舗が並ぶ。一軒ずつが芸術的な価値を感じさせる。
「小江戸蔵里」では、7人が川越の銘酒・「鏡山」やビールを試飲した。(有料)。その酒の勢いで、本川越駅に近い居酒屋に入った。この場において、次回は同一メンバーで、1月半ばの「浅草歴史散策」に決まった。