芸州藩はなぜ幕末史から消えた?(1)=原爆の資料焼失ではなかった
幕末史において、「芸州は日和見主義だ」と批判されている。はたして本当だろうか。大政奉還まで、徳川倒幕の主導的な役割を担ってきたはずなのに、なぜ幕末史から消されたのか。それ自体がミステリーに思える。
11月には、幕末志士・池田徳太郎の地元である竹原市(広島県)に出むいた。竹原書院図書館で、芸州の幕末史料がほとんどない実態を聞かされた。
「この資料探しは厳しいな」
そんな思いにとらわれた。
なぜ、資料がないのか。考えられることは、昭和20年8月6日の原爆の炸裂で、広島城、家臣が住む城下、さらには資料館、図書館もすべて焼けてしまったからだろう、という認識があった。
ここはあきらめずに歩かなければ、史料・資料にはめぐり合えない。
12月第3週には、幕末・芸州藩の資料を探しもとめて広島、呉を歩いてみた。
広島県立文書館(古文書収集の公的資料館)では、「芸州藩の幕末資料は希薄ですから、山口、土佐、鹿児島、岡山の周辺から見つけ出してくるしかない手はないでしょう」という、途轍もない遠来なアドバイスを受けた。
と同時に、広島には幕末・芸州藩の専門的な研究者がいない口ぶりだった。
次に竹原書院図書館で知りた、呉市(同県)の開業医の郷土史家を訪ねてみた。
「原爆で資料が焼失したけれども、他にも要因があります。広島には帝国大学がなかった。明治から戦前まで広島高等師範だったからですよ」と話された。
高等師範とは何か。明治時代にできた、文部省管轄の中等教員養成学校で、東京、広島、金沢、岡崎の4ヵ所にあった。とくに東京と広島は大学並みの扱い(学士号)を受けていた(校長になるエリート・コース)。つまり、文部省のお抱え指導者だった。
明治新政府の初代・文部卿は、肥前藩の大木喬任(おおき たかとう)である。肥前藩は尊皇攘夷の藩論すらまとまらず、倒幕の成果などないに等しい。それなのに「薩長土肥」を作り上げた。ある意味で、ねつ造だった。
その後の文部大臣は長州、薩摩、肥前(佐賀)の出身者がぎゅうじっていた。それが起因して、薩長土肥が長く文部省の指導要綱となった。戦後教育においてすら、歴史教育の場から、薩長土肥が消えなかった。
戦前までは尊王教育、薩長土肥は重要な位置づけであり、文部省としては芸州藩が目立ってもらうと困るのだ。芸州が目立てば、徳川倒幕が「薩長土肥」でなく、「薩長土芸」となり、皇国史観が狂ってしまうからだ。
広島高等師範学校の指導者たちは文部省の顔色をうかがい、芸州藩の研究を行わなかった。
戦前の皇国教育から戦後の新教育に変わる、重要な過渡期が昭和20年である。ここで広島に原爆が投下された。一瞬にして、広島から貴重な歴史資料が灰になってしまったのだ。
呉の郷土史家から、「明治時代30年に、芸州藩主・浅野家の史料が約200人動員(編集委員は十数人)されて、芸州藩史として編纂されています」と耳寄りの話が聴けた。
戦前は文部省(政府)の認可が得られず、発行できなかった。つまり、歴史研究家の目にふれることがなかった。幕末・芸州藩の研究に寄与せずに終わっていたのだ。
昭和50年代に300冊が発行されたという。広島県内の公立図書館、大学でも持っているところは少ない。けれど、現存する唯一の資料だ。それを読めば、「芸州藩は決して日和見主義ではなかった、とわかるはずです」と教えていただいた。
写真は幕末・芸州藩を書き綴った、希少な書物