A020-小説家

第42回・元気100エッセイ教室=エッセイの虚構、事実、真実について

「エッセイは事実を書くもの。小説とは違う。虚構(フィクション)、作り物はダメ」
 多くのエッセイストはそのような指導を行なう。そこには、うそ、ごまかし、偽りは悪いもの、という思想が底流に流れているからだ。

 「事実や真実を書きなさい。客観的に」
 と求めてくる。
 それにはつよい疑問をおぼえる。


①「事実」とはなにか。
 人間の五感は人それぞれ異なる。おなじ事件、事故、出来事に対しても、見方や捉え方が違う。伝え方も違ってくる。となると、事実は形も、姿も変わってくる。

「となりが真夜中の大火事で、とても怖かった」と隣家のひとはいう。
「住宅街で、火事があった。半焼であり、家族はみな無事だった」と近在の人が語る。
「消防車がたくさん来た。見に行ったけど、たいした火事ではなかった」とアパート暮らしの大学生が話す。
 これを文章化すれば、大火事、ボヤ程度と表現はまったく違ってくる。


②「真実」とはなにか。
 火事の場合は証拠が消えてしまう。漏電、火の不始末、放火などさまざまだ。死傷者が出ない、一般住宅の家事は消防の見解すらも、経験則によるもの。失火の真の原因となると、不明瞭だ。真実とは推量に過ぎない。

「作者は客観的になれるのか」
 人間はつねに自分の立場で、ものを見て、考えて、表現する。没個人で、客観的に書けるはずがない。そんな要求すら、どだい無理な話だ。

 読者は「実際に、どうだったのか?」と問うものでない。エッセイから感動とか、共感とかを得るために読む。読者の興味と関心を誘う、多少の虚構は味付けとして許される。


 これらを定義すれば、

 作者は、私の目(主観)で、より事実に近いところで書く。現実味(リアリティー)がある範囲内で、味付けは許される

 エッセイを書く上で、「又聞き」はやめた方がいい。語った人の主観(フィルター)で、出来事がろ過されている。さらに作者の主観が加われば、事実からより遠くなるからだ。

 
【写真説明】
 「マスコット人形」の作家は森正子さん(東京都)。制作日数は約3日間だという。少女(人形)が小脇に抱えるノートには、微細な文字で『えにっき』と書かれている。 見るからに、細かな根をつめる制作だ。
「皆に楽しんでもらえる。それがうれしいのです」と森さんは話す。
 

 元気に100エッセイ教室には、毎回「演習」がある。これら写真から受ける印象を「五感」で綴る。それによって想像力と文章力を磨いている。
 多少の虚構は許される世界だ。

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