A020-小説家

34回「元気エッセイ教室」作品紹介

 エッセイは作者の『心情』が表現されているほど、良い作品だ。出来事が小さくても、日常の些事でも、「作者の心」が十二分に表現されていれば、読み手を引き込む、求心力の強い作品になる。

書くうえでの『心情』の留意点として

① 日常茶飯事のことがらで、誰もが見逃す、通り過ぎて行く、そこに焦点を当ててみる。
② 人には数々の苦しかった体験がある。自責のミス、落ち度で窮地に立った出来事を取り上げてみる。
③ 事象と自分の心を執拗に往復させ、心理描写は多めを心がけて書く。
④ 「この程度で、読者が解ってくれるだろう」という、読者への甘えは止める


 毎回、写真を使った演習を行っている。今回の『心理描写』の演習は難しかったようだ。

 16歳の妊婦と父親(33)の写真と会話を紹介し、それぞれに「私の心情」「私の考え」「私の思い」を書いてもらうものだった。受講生の世界とあまりにも乖離し、お手上げ状態の人が複数いた。

 エッセイ作品の提出は15人で、過去最大だった。人生経験豊かな受講生だから、味のある作品がずらり並ぶ。それら作品を紹介したい。

筒井隆一   狩勝峠

   

『あえぎながら列車が峠を越えた。石狩側から登り詰め、十勝に下る線路の両側は、まだ深い雪に覆われている』と情感に満ちた表現で、タイトルの情景が描かれている。

 四十数年前、ゼネコンに入社した「私」は、新入社員研修を終えると、北海道支店勤務を命じられた。さらに遠く、狩勝峠越えの鉄道敷設現場に着任した。
 国鉄・根室本線の狩勝峠越えは、急勾配、急曲線が続く、鉄道の難所だった。その解決策で、峠の直下には長い隧道を掘り、緩やかな勾配や曲線にする、大工事が行われていた。「工事が最盛期の1年間、私」はこの山奥の現場で過ごした。休みなしの超突貫現場だった。

 それから10年後に結婚した。相手は土建業界に縁の無い家に育った娘。新婚旅行は、十勝の現場をみせる旅だった。札幌、帯広など、行く先で会社仲間が盛大な歓迎会を開いてくれる。「私」は二次会、三次会まで付き合い、正体もなく酔いつぶれた。
「新婚の嫁さんは、可哀想だったかな」
いまになって反省している。

 今年になって、新婚旅行の罪滅ぼしで、夫婦して北海道にむかった。帯広空港から新得の現場に向かった。『建設当時のコンクリートの橋脚、土留め壁、カルバートなど構造物は四十数年も経つと、周辺の森、林、草原、水にも土にも馴染んでいる。しかも、なお厳然たる存在感があった』と涙する。

 この夜は帯広に戻った。『家内と二人だけで郷土料理を楽しんだ。建設当時の思いと、今日の強烈な印象とを重ね合わせながら、ゆっくり酒を飲んだ。結婚35年目で新婚旅行をやり直し、家内に少しばかり償いをした気分だった』

 翌朝、ふたりは狩勝峠にむかった。「子供たちに誇れる仕事を」を合言葉に突貫工事だった。いま一両編成のディーゼルカーが見えてきた。余韻のある終わり方になっている。

 狩勝峠という題名がよく、難解な専門用語もないことから、夫婦愛と懐古の情感から読んでいける。「建設現場が心の財産」と伝わってくる作品だ。


吉田 年男   菊正宗


「私」は御茶ノ水が大好きな街の一つだ。夏の日差しの下、湯島聖堂を見、神田川に沿って昌平坂をゆっくり歩いていく。昌平橋交差点を通り越し、秋葉原電気街に向かった。
 中学生のころ、ラジオ部品を買いにきた「ラジオデパート」には創業60年の横断幕が下がる。「私」はそこに郷愁を帯びるのだ。

 昼食後に、風情のある、古い白壁の二階建てが目に止まった。その建物は黒塀で、青地に白抜き文字で書かれた暖簾が下がる。見上げると、「菊正宗」と書かれた、木製の看板が目に飛び込んできた。書体はどこか見覚えがある、力強いものだ。

 親しみを感じた「私」は暑さを忘れて見とれていた。落款には梧竹七十七翁とある。中林梧竹先生は明治維新本格書の騎手だ。卓越した芸術性と独自の作風で有名な大家だ。
 梧竹先生の書額がなぜここにあるのか。先生とお店との繋がりは? 興味が次から次と湧く。

「菊正宗」の看板に隣り合い、ファーストフード、ラーメン店、パチンコ屋などが雑然とならぶ。街の多様性に戸惑いながらも、新たな発見に心弾ませて秋葉原をあとにするのだ。

 街なかで目撃した古い看板には、思いもよらない、著名な書道家の筆だった。古い酒屋の看板の、超大物の書が風雨に耐えている。作者は書家であり、新発見の高まる興奮を抑え、しっかり描き切っている。


和田 譲次  トマトとメロン

                       
 食通だが、トマトとメロンが苦手。それにまつわるエピソードが展開される。
 トマトは幼児期の嫌な体験がトラウマだった。戦中戦後は山形県の田舎で育った。悪ガキたちと野山を駆け回っていた。喉が渇くと泉の水を飲んだり、果樹園の果物類を頂戴したり、畑から水分の多い作物を盗ったりして口を潤していたと懐古する。
 皆が喜んで食べたのは赤く熟れたトマトだった。私はガブッと一口嚙んで、吐き出した。その不快感から、生のトマトを受け付けない体質になったのだという。いまもってゼッタイに食べない。

 誰もがメロン大好き人間。それだけに、メロン嫌いはおどろかれる。トラウマの心当たりはない。メロン・エキスを合成したパン,キャンデイ、シャーベットなども食べない。

 イタリー、フランス、スペイン料理などは大好きだ。壮年期の趣味は音楽と料理、食べ歩きで、自他ともに食通で通っていた。還暦をすぎると、食べ物にうん蓄を傾けるのをやめ、グルメ通の看板もおろしたという。それはトマトとメロン嫌いが原因である。

 海外の料理の特徴、味覚豊かな食感、本場の食べ方が随所で紹介される。それでいて、食通の看板を下ろす過程が、説得力を持って展開されている。

「食べ物嫌い」という誰にもある。普遍的なテーマだけに、読者を強く引き込む。説得力と安定感がある作品だ。


青山貴文   あの日は   ―自分史の一助に―

                            
「私」が5歳ころに東京空襲で、戸越の自家が焼かれた。姉と私は、広島県・福山の母の実家に預けられた。
 そこは市街地から北に約7キロメートル離れた、山間の町だった。母の実家は茅葺(かやぶき)の大きな母屋がある、旧家だった。

 長い白壁、太い木組の正門、くぐり戸があり、門番小屋があった。その小屋には、祖父の思いやりで、元小作人の老夫婦が住んでいた。
 祖父は小学校の先生で、神主でもあった。『先祖の身代を元手に酒造りに手を出した。武士の商法で、失敗したらしい。私が疎開していた頃、祖父はすでに他界し、気丈な祖母が一人住んでいた』という。

 背丈の高い酒倉が三棟建っていた。倉の中は、昼でも暗く、子どもたちはいたずらすると、中央の倉にいれられたものだ、と懐古する。

 姉や近所の子供たちと、裏山に登った。春には草花の中を飛び回ったり、秋には木の実を採ったり、ススキの中を駆け回ったりしていた。

 ある暑い夏の日、遊び仲間といつものように裏山に登った。『紺碧の空は、澄みきっていた。青い広い空の彼方、西南の方向の地平線が異様な状態になった。どす黒い空に変わっていた。その暗い空の下が真っ赤に映えていた。子供心に異様な空の色に恐怖をおぼえた。一瞬立ちすくんだ。誰にもこのことは話すこともなかった』。

 終戦記念日が近づくと、あの情景を思い出す。八月六日でなかったのか。あの広島の悲劇の日でなかったのか。と。

 濃密な文体で、情景文の優れた作品だ。子ども時代の懐古だけに、多少の甘さがあって割り引いたにしろ、ラストの数行で、原爆だったかもしれない、という光景は圧巻だ。良い作品である。


白川 ゆり  映画の会に参加して


 8月下旬、3年ぶりに「映画の会」に参加した。15名前後のメンバーが同じ映画を観たうえで、感想、印象を述べあうもの。読書感想に似た映画版。
『ものの見方、感じ方、価値観など、あらゆる角度で、自分と他者との違いを知る。映像の楽しみ方は人それぞれの趣がある。何を言っても受け入れてくれる』
人間の感じかたの集大成で、至福の瞬間でもある。

 ここ3年間は仕事関係で遠ざかっていた。退職を機に参加した。初対面の人が多く戸惑ったが、映画に対する熱い感情が一気に蘇ってきた。
 この日は、30年前の映画「悲愁」と45年前の映画「山猫」で、どちらも洋画。主演の俳優が誰だとか、監督が誰だとか、どうでも良いと思った。

「監督の名前を覚えておくと、その監督カラーが見えてきて、より楽しいものよ」とアドバイスを受けた。「私」はなるほどと思った。楽しみ方とは何事にもいかにその対象物と向きあうか。その意味がわかったようで、嬉しかった。今後映画鑑賞の新たな楽しさを知った、という説得力のある方向性で結ばれている。

 映画鑑賞会の様子が興味深く伝わる作品だ。と同時に、3年間の空白のなかに、作者の人生の過渡期、転換点などが織り込まれた作品だ。


森田多加子   エノコログサは遠く


 開放された窓から小さな風が入ってくる、朝の情景から書き出される。庭に目をやると、夏帽子のような、むくげの花が咲く。この思い出が語られてから、残暑の日照りのなか、小さい日傘に身を隠して外出する。

 日差しを嫌う今、「遠い、遠い日」の夏キャンプ、海水浴など大喜びしていた子どもの頃、ふたつを対比してみせる。読者を子どもの頃に誘い込む。

 コンクリートの隙間からエノコログサ(ネコジャラシ)が数多く顔を出している。穂にさわると、幼い頃に、遊んだ感覚がよみがえる。
 五年生の怖れられるガキ大将が、なぜか「私」を妹のように可愛がってくれた。竹馬、独楽、北九州地方ではパッチンというとメンコ、ビー玉など、男の子の遊びを教えてくれた。それがうれしくて、いつも一緒だった。

 里山の遊びでは、食べられない蛇イチゴと、山イチゴの違いを教えてくれた。ガキ大将の少年が胸につけてくれる『くっつきぼう』が、「私」の勲章だった。こうした日々から、気が遠くなるくらい歳月が通り過ぎていった。

 アスファルトの道で、いま手にしたエノコログサ。そこからよみがえった遊び仲間。『山道を歩いている4人のこどもが霞みの中に見える。エコーがかかったような会話が遠くに聞こえる』と郷愁に満ちた、情感のある結末に導かれる。

 大人の目線で書かれた作品だ。そりだけに現在と幼いころとの落差と対比から、「人間は年を取るんだな」という隠れたテーマを強く感じさられる。


中村 誠 縁起をかつぐ蛇の出現


 梅雨明け宣言がでた。湿気のある重くるしさから一転し、太陽がじりじり照り出す、いつもの夏がやってきた。『わが家は江ノ島よりの海風で二、三度は低く、過ごしやすい。それがせめての慰めだ』と季節のつなぎ目の描写から、導入していく。

 梅雨のあい間と梅雨明けに、蛇の出現が二度あった。一度は分譲地の掲示板の近くだった。裏山との境界の金網にいた、1メートル以上の蛇だった。わが家の近辺でよくかける種類。蛇のこまかな生態が描写されている。
 読者は蛇が好き機会は別にして、引き込まれる。

 二度目は、わが家の門柱で、鎌首を持ち上げた黄色い蛇がこちらを睨んでいる。何かを狙っている。
「長い箒で追い払ったら」と妻がうながす。
「私」が箒を振り上げておどすと、蛇が鎌首を少し下げ、音もなく門柱の郵便受けに入り込んだ。とたんに、守宮(やもり)が這い出して逃げていった。蛇の狙いは守宮だったのか、とうなずけた。
「私」は箒で門柱を叩きつづけた。蛇は郵便受けから出て、垣根を伝い、庭木の間にいなくなった。動物の戦いと、夫婦の様子が緊迫感をもって描写されている。

「今年の三匹目の蛇をみたぞ」
 日課のごみだしの途中で、アスファルト道で、S字型に横切る蛇を見つけた。裏山との境の金網に逃げ込んだと、家に戻ると、妻に教えた。巳年の家内は何故か蛇の話にはにこにこしている。
 この5月にはムカデを退治した。蛇は追い払った。このたび三匹の蛇の出現といい、何故か気候の異常を感じる。それでいて、
〈百足は御足が一杯だし、蛇はお金に困らない〉
 という縁起かつぎの「私」を発見するのだ。

 小動物(蛇、ムカデ)を素材とし、しっかりした観察で、日常些事の生活体験をつづる良品だ。と同時に、さりげなく夫婦の姿を織り込む。「夫婦ものエッセイ」という、作風のひとつが結実してきたともいえる。


藤田 賢吾  宿ハンティング (アメリカ編11)


 西部劇の映画に、よく使われた壮大な風景。イエローストーン公園を東に出ると、ワイオミングの大平原を眼下にみる断崖に出る。この感慨のあと、宿探しが始まる。
町のモーテル、インもすべて満室だ。100キロ先の町へ車を走らせていく。不毛の砂漠地帯を通り抜けた、次の町の宿もすべて満室だった。

「週末で、大きなイベントがあったので、次の町も恐らく空きはないだろう」と町の人は話す。ハイウェーを行かずに山へ登れば、恐らく見つかるだろうとアドバイスを受けた。

 山岳道路は曲がりくねり、路肩は切り立った崖だ。月明かりだけだ。慎重に運転していく。彼方に車のテールランプを見つけた。それが頼りの運転だったが、それも消えた。「はたして宿はあるのか」という不安が付きまとう。
 夜の10時近くになって、「アロウヘッド・ロッジ」という山小屋を見つけた。遅い到着で食事はなく、持参の食料だけで食事を済ませた。

 翌朝も、広大なアメリカをドライブする。初めて走る先々で、すばらしい景色に出会う。一方で、今夜はどんな宿か、という気持ちをもつ。

 宿にはランクがあって、ホテル、イン、B&B、安いのはモーテルという順になっている。アメリカは広い。目的の町に宿がなければ、隣町まで1時間も運転することになる。宿泊探しのノウハウが展開される。

「小さな町で、宿を探す地図が欲しいと切に思っていた」
 ある町で警官たちと、ユーモアに満ちた、地図探しの体験をする。良い宿探しが成功できた、警官たちの親切心に感動するのだ。『小さな町はこういった親切がうれしい。宿ハンティングは様々の思い出をはらみ、自由な旅の醍醐味の一つだ』と結末に導いてくる。

 海外の旅先の不安、焦燥感がしっかり書かれている。海外の体験による、旅エッセイとして、マニュアルにもなる上質な作品だ。


高原 真   分らん、分らんことだらけ


 妻の友だち宅に、夕食を招待された。夫のTさんは英文学者だ。「歳をとると失策が多くなり、また、他人に迷惑を平気でかけることもしばしばある」という話題になった。
 Tさんの先輩には、芥川賞作家がいる。90歳を過ぎの作家で、いまなお執筆活動を続けているという。真夜中でも平気で「ロシア文学の、あの主人公の出身地はどこだったかねー」という電話が掛かってくる。「私たちもその年代になると、人の迷惑はお構いなしでしょうね」と互いに相槌を打った。

 Tさんは博学で、文学となると、私は太刀打ちできない。帰り際に、芥川賞作家の二冊を持たされた。「いただいた本は読了しなければ相済まないと、読み出してみた。Tさんとの交流の話が冒頭に出てくる。その後もTさんの名前が時々あらわれる」
 本腰をあげて本にとりくんだ。話がつぎつぎ変わり、読み返しても、つながりが頭に入らない。読了にはほど遠く、二つの本とも枕元に置いてある。

「なぜ分からぬのだろう」と自問した。著者の言い回し、独特な発想に「私」がついていけない。文字は追うが、事柄、内容、言葉、人名などにまつわる知識が浅く、茫漠で、連想の糸が途絶えてしまうのだ。

 手許には『化学―意表を突かれる―身近な疑問』という文庫本がある。「昆布はなんでダシが海水に溶け出さないの?」というウタイ文句に引かれて購入した。「私」には元素記号や分子式となると、ギャフンである。

 テレビで「高校生クイズ日本」というのを見た。ほとんどの問題が私には解答できない。『世の中の知識は無尽蔵だがら、知らないことは恥ではない。だが,知ろうとする努力を怠るのは恥だ』という気持ちにたどり着く。。

 テレビの後半は「数学五輪」の難問題で、出演者は数分で計算して正解をあげていた。高校生はすごいと感じた。博学も驚異だが、知識を動員し「武器」を駆使し、内容を理解して正解を導きだす。理解力・推理力などに、いたく感服した。作者の心象がよく描かれている。

 芥川賞作家の本は読了できなかった。「私」は勉強不足で、解きほぐす「武器」を持っていないのだ。クイズを観ても政治・経済・地理・歴史・理学・文化なども分からないことだらけだ。生活をとりまく身近なことすらも。そんな自分を恥じ入るのだ。
ラストで、「友のみな われより偉くみゆる日の 花を買いきて 妻と楽しむ」という啄木の歌が取上げられている。

 難解な素材(T作家の本、テレビクイズ、化学の本)を、明瞭に、わかりやすく展開する。文章力の長けた作品だ。
「押し付けられた本」は読む努力はしてみるものの、結果の多くは放棄に及ぶ。誰もが体験する。それだけに、読者は納得させられる。


奧田 和美  花火と称名寺

                        

 書き出しは『八景島の花火は対岸の「海の公園」で見るのがいい。仰向けに寝っころがっていると、天から花火が降ってくる』と奇異な引き込まれ方をした。
 
 12人の仲間が金沢文庫駅に集合し、酒とつまみを買って浜辺に行く。同じ会社のOB・OGたちが、車座になり、宴会を始める。海からは涼風が吹いてくる。トルコ人のセシルさんが加わっていた。33歳で睫毛の長いナイスボディの美女だ。トルコで日本語通訳ながらも、初の来日だった。

 花火開始の七時が迫ってきた。周りは物凄い人数になってきた。誘っていた「私」の娘から携帯電話が入った。落ち合うのに、「私」自身がどこにいるのか、説明がつかない。花火はどんどん打ち上がっていく。入り口の方へ迎えに行った。ケイタイでやり取りするが、合流できない。

「探すのもう止めよう。花火見たら帰るよ」
 娘は一人で花火を見ることになる。つまらないだろうな。せっかく寝っころがって見る花火を体験させてあげようと思ったのに、と母親の心情が描かれている。
 花火が開くと、セシルさんが大はしゃぎとている。

 娘にはもう一つの見せ場、称名寺のライトアップを見せようと思い、メールで「称名寺で会おう」と送った。
 3200発の花火が終わり、帰途につく。娘からの電話で、「称名寺、ライトアップされてないよ。暗いし恐いから先に帰る」という。
 その寺にいってみると、本当に暗かった。

 去年は太鼓橋が紅くくっきりライトアップされていた。池に反射して、まん丸な橋になっていた。本堂はブルーに輝き、幻想的だった。今夜は池の周りの外灯だけがポツリ、ポツリと灯りをともしている。月明かりもない。
 ライトアップも経費がかかる。これも不況の波なのか。

『目が暗闇に慣れてくると、池に太鼓橋と平橋が薄っすらと写っている。静かなたたずまいだ。これこそ日本の庭園だ。セシルさんだけがとても喜んで、太鼓橋や鐘楼、本堂の前でフラッシュをたいて写真を撮っていた』という情景描写で結末に導く。

 花火大会が情景豊かに描かれる。一方で、娘と会えない。この先も会えないか。母親の心理描写がラストまで、読者を引っ張っていく。求心力が強い作品だ。12人の仲間がいながら、トルコ人に絞り込んだ展開が見事に成功している。


濵﨑 洋光   運転免許の更新


 夕暮れの機内から見た、成田空港に近い高速道路には車のヘッドライトが黄金の鎖のように連なっている。『車の動く明かりが織り成す動の光景は、豊な車社会の輝きのように見える』と書き出す。

 子どもの頃の「私」は車に強い興味をもち、バスの運転席のわきに立ち、早く車の運転ができるようになりたいと思っていた。

 社会人になったころ高度経済成長期で、交通戦争という言葉がにぎわっていた。「私」が自動車運転教習所の門をたたこうとすると、身近なところで、飲酒運転による死亡事故が遭った。「私は、酒を飲んで運転をしないと、自制できるか」と、免許取得をためらってしまった。

 無免許のまま還暦が近づいた。仕事がひまになり、外出先で酒を外で飲む機会も減り、運転免許取得にチャレンジした。3ヶ月間の教習所通いで、六十歳にして念願の運転免許証を手にした。

 行動範囲が広がった。公共交通機関のないへんぴな場所にも足がのばせた。海外生活では、車の便利さを十分に味わった。

 15年間は無事故、無違反ですぎた。免許更新のとき、高齢者は特別講習を受ける必要がある。面倒だ。更新をやめようかと迷った。

「病気で不自由な左手と、運動機能の低下した身体で安全運転ができるか?」と自問自答する。大丈夫だ、という自己過信は事故の元。運転免許証は財布に入り、便利に利用したと、容易に手放す気にはなれない。

 近い将来は、技術の進歩や社会環境の変化などで、GPS(全地球測位システム)の新しい交通システムが生れるのではなかろうか。出発地と目的地を車に指示すると、自動的に目的地に行ける。そのとき運転免許証など紙きれだ。

 そんな思いから、潔く運転免許証を返納しようと決断する。意外性が強い結末だ。高齢化にすすむ車好き人間が、免許更新にこだわる心情が描かれている。過去、現在、将来が一本の線で貫かれている。


二上 薆  三浦半島海歩き


「毎年一回は残夏の三浦半島を歩こう。最終的に半島を一周しよう」という、友の提案からはじめた、海沿いの歩きはもう十数年におよぶ。毎年、欠かさずに実施している。今回で、念願の三浦半島の海歩きは一周完了となる。

 参加者は特定せず、来る者は拒まず、去る者は追わず。
 8月最後の土曜日、参加者5人が早朝の静かな京急追浜駅に集った。雷神社から、横浜南共済病院の手前を曲がって海へ。さらに野島公園、八景島を経ていく。海沿いの散策路コースでは、数々の情景が描かれる。古跡や昨今の変貌ぶりが紹介される。

『雷神社は小さな社だが、本殿はキラキラと彩り鮮やかに輝く。急な階段の手前には、大きな御神木がある。注連縄がきちんとめぐらされている。戦没者慰霊の立派な石碑が並ぶ』という情景が示されてから、12人の乙女の生命が救われた、という伝説に及ぶ。

『衆議院選挙の看板があった。政権交替々々と叫ぶ、劇場政治の情けなさを憂う。いや違う、一般人は劇を愛するぞ、最近のTVを見てごらん、云々』と5人で語り合った。足を進めると、共済病院はもうすぐだ。この先は横浜市金沢区に入り、地理的には、三浦半島が終わる。

 5人の散策はなおも続く。平潟湾に開く侍従川から、伊藤博文に関係する野島公園へと進む。展望台で四方の景色を眺める。輝く蒼い海、造船所の鉄の船骨、鮮やかな緑の丘 、住宅団地などが一望できる。そこで昼食を取った。

 横浜では唯一の砂浜の海上公園から八景島へむかう。「私」は一人で、谷津坂から山を越えて海よりへと歩いた。そして、野口英世の旧細菌検査室の場所で、仲間と合流する。能見台駅近くの店で、ささやかな別れの宴となった。三浦半島部分の海歩きが、この日に完遂した、という思いが湧き上がる。

 三浦半島をあえて十数年間かけて歩いた。分断されていた区間が、この日に一つの線で結ばれた。感動が描かれている。一つひとつのポイントが丁寧に書き進められている。と同時に、地形、街並みの変貌に、鋭い批判精神が随所に出ている。奥行きのある作品だ。

山下 昌子  水をたくさん飲んでいますか

                      

 今年の夏は日照が少なかった割りに、熱中症の話題が多かった。高齢になると、あまりのどの渇きを実感しないらしい。95歳の母と92歳の姑には、水分補給をさせるように心がけている。書き出では、長寿の家族、と知らしめる、良いリード文だ。

 昨年秋、「私」の膝に激痛が走った。それからは整形外科に通う身だ。稲毛の病院には2時間余りかかる。理学療法士がマッサージを施し、自宅での体操を教えてくれる。人気がある先生らしい。
 
 病院は遠くて、1ヶ月1回しか通えない。自宅体操ができたか、さぼったか、理学療法士にはすぐばれてしまう。
自宅体操をさぼると、「治す氣がないなら、もうこなくて結構です」と言われた人がいるという。優しい先生に見放されないように努力している。

『ズボンの上から1回で、痛いところをぴたりと押さえてマッサージする。その太い親指は魔法のように効いた。帰り道はすっかり治ったのではないか、と錯覚するくらいだ』と若手の理学療法士が魅力的に描かれている。

 8月の診察のとき、水をたくさん飲んでいますか、と聞かれた。「私」は若い人から水分補給の心配をしてもらう年齢なのだ、と氣がついた。理学療法士の言葉が、病院を後にしても耳に残った。
 高齢の母、姑が自宅にいるので、「私」はついつい若いつもりでいた。若手の理学療法士見れば、母世代も私も同じ高齢者だ。

「こうして時々、自分の年齢を知らせてもらえるのは、ありがたいことなのだと納得した」とラストに結びつく。いつしか「私」の加齢を認識させられる、人間の摂理が伝わってくる。それが良い読後感になっている。


塩地 薫   青春ウオーキング

 新青春の会で、「青春ウオーキング」の世話を始めてから、三年目になる。きっかけは、ひと回り先輩の渡辺弥栄司さんに刺激されたからだ。小柄な渡辺さんは事務所の廊下を歩幅80センチ、1キロ10分の速さで、颯爽と歩く。125歳まで生きるために、この歩き方で毎日八キロ歩いているという。

「私」にはとても真似ができない。1日に1万歩を越えるのは週一度ぐらい。一日平均8000歩が私の目標だが、あと一歩の感じ。不足分はスポーツクラブで補ってきた。

 渡辺さんレベルを目標とする仲間作りで、「青春ウオーキング」の提案となった。賛同者を得て、年1回、秋には8キロの企画・運営を行う。
 春の総会で発表すると、佐倉のUさんが手を上げた。佐倉は歴史の街、さっそくUさんに資料を作ってもらい、第1回が実施された。参加者は13人で好評だった。

 第2回は、「皇居をぐるっと一周」コースだ。参加者は87歳から5歳まで17人。歴史の話題が豊富な場所でもあり「私」が作った資料を手渡した。東御苑の大奥跡は、珍しい10月桜が満開になろうとしていた。
 最高齢者は「60年間、東京に住んでいて、こういう場所があったとは驚きです」と感激の面持ちだった。

 定例の秋以外の3シーズンは、青春ウオーキングとは別の企画で、「美しい日本の歩きたくなるみち500選」の中から選ぶ。千葉・埼玉・東京・神奈川と順番に選定する。

 第3回は、根津神社の近くに住むAさんの企画で、「上野・谷根千の街歩き」コースで8キロ、3時間だ。
『同じ道を歩き、同じ物を見ても、予備知識の有無で、頭や心の中は別世界となる。充実度、満足感も異なる』
 参加意思がある会員42人には、開催1ヶ月前に案内書に、見所キーワードを添付して連絡を取った。

 中高年のウオーキングが盛んだ。立案企画の立場から、発足時から3回目まで、具体的に丁寧に展開されている。構成には無駄がなく、歩幅など数値的な解析もあり、切り口の良い作品だ。読み手も、健康面の取組みの必要性を意識させられる。

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