A020-小説家

33回「元気エッセイ教室」作品紹介

 散文(叙情文)では、「会話がうまく書ければ一人前」といわれている。小説に限らず、エッセイにおいても「会話文」の挿入は重要。会話が入れば作品が読みやすく、登場人物の言動がとらえやすい。短い会話の行数でも、人物が立ち上がってくる。

 今回は「会話の書き方」のPART2として、応用編をレクチャーした。

① 会話を入れる場合、人物の性格とか、特徴とか、相手の表情とかが浮き出るようにする。ストーリーを追わない。

② 仲の良い二人でも、意見の違い、考えの違いがある。それを書いてみる。

③ 会話する、双方の心理が動くような内容にする。

④ 会話には、説明文を入れない。

⑤ 会話は、全体比で2、3割以内にとどめる。多すぎると、会話が目立ちすぎて、軽い作品になる。

 この5点に絞り込んで、事例を出して説明した。

 提出された7月度エッセイは、終戦記念日が近い、ということもあって、戦争が関わる素材が多かった。どの作品からも、戦争は二度としてはならない、という反戦の訴えが読み取れた。

高原 真   上海のりもの考

                    

 中国・上海の七日間滞在し、交通事情を上手に紹介した作品だ。
 孔版画を教える老画家Mさんの招きで、旅券を工面し、老妻と上海に向かった。上海の中心街は自動車の警笛、街行く群れをなす若者などエネルギーでいっぱい。青信号で横断歩道をわたる。目のまえを改造三輪車が容赦なく割り込む。人身事故が起きないほうが不思議なくらいだ。

 Mさんから、タクシーの運転手には上位から『赤・青・白』の順に等級があると教わる。現地に疎い「私」たち夫婦だけで、上海中心街を見学する。
街角でタクシーを捕まえた。「運転手標識」は三つ星の滅多にない上級の運転手だ。乗ってみると、スピードがすごい。追い越し、追い抜き、車線変更、急カーブ。日本のタクシーと比べたら、とてつもなく乱暴だ。
「等級を決めるのは、運転技術か、安全率の高さか? 売上げ高か」と疑問に思った。

 地下鉄では、乗客が我さきにと乗り込む。「私」は遅れて乗って席が無かった。若者たちは私たちを見るなり3、4人がサッと立って席を譲ってくれた。我さきに、という人たちとは思えない親切ぶり。
 
 成田から新宿に着いた。小田急線に乗る。上海のニコニコ顔で「席を譲られた」という余韻で、車中を見る自分を知るのだ。
 異国・上海で親切にされた。それは個人的なものでなく、民族的な親切心だと結ぶ。日本を含めた対比が鋭く展開されている。


中村 誠   新聞の「声」

                

 日常の習慣のなかで、ちょっとした出来事が生じる。それを短く克明に描いた作品だ。
「私」は毎朝、朝日新聞を一面から読みはじめる。最後の社会面まで、約一時間かけて読む。興味のある記事があると、楽しんで、二時間近くもかける。『声』の欄に、学生時代のY君の投稿を見つけた。『責任感希薄 元次官の厚顔人事案』と長い題名だが、時流に見合ったテーマだ。

 3日前の、『6月8日の朝刊一面の記事が素材だから、彼の投稿がタイミングよく編集人の目に掛かったのだろう。昨今の政治家の体たらくに呆れる。今は選挙で政権交代、それを期待する声が大きいのはじゅうぶん頷ける』と作者の主義や主張の考えも挿入されている。

「私」はさっそくY君にメールを入れた。2、3人の仲間にもメールの写しを送った。「メールを見たが、うちは朝日新聞を取っていないので、今から買いに出る。あとで連絡する」と、仲間の一人から電話が入った。

 翌日の朝刊「政策」欄には、『元次官格上げ当面見送り』―農林中金子会社 天下り批評受けーという記事が出た。
『ひょっとするとY君の投稿が〈天下り批判〉の急先鋒と捉えられたと思えてならない。来月のクラス会で談笑の一つとなるだろう』
 作者の昂揚ぶりが記されている。
 小さな発見(投稿)から、学友の深い結びつきまで展開される。構成のしっかりした作品である。


奧田 和美   会社訪問

                     
                 
「私」は娘と豊川稲荷にお参りに行った。帰路、二人は赤坂に出かけて来たのだから、鉄矢(末息子)にお茶でもご馳走になろうと、赤坂の新しいビルに立ち寄った。有名レストランKIHACHIが社員食堂になっている。突然の訪問で、息子は迷惑がる。

 入館証を通さないとゲートが開かない。セキュリティは厳重で、駅の改札口のようだ。CMのヘアメイクとマネージャーの打ち合わせだと、二人は取り繕い、入館ゲートを通りぬけた。
 難関を突破できた母娘の嬉しさが会話で愉快に描かれている。
 
 モダンな喫茶店に似たKIHACHIに入った。鉄矢の同期の人で、娘の店にヘアカットにくるナツ君が打合せが、そこで打ち合わせをしていた。ともに驚く。
「オレ、仕事の途中だから」
 息子はさっさと帰ってくれと言いたい口振りだ。他方で、突然の会社訪問にもかかわらず、入社五年目の鉄矢は精一杯やってくれるのだ。
軽妙な会話とアバンチュールで、ことが運んでいく。家族愛を感じさせる作品だ。


筒井隆一   「ナナカマド」発表会


 フルート独奏団「ナナカマド」は、平均年齢が60歳をこえる。メンバーは十数人。秋には山で紅葉するナナカマドに似て、火着きは悪いが、ひとたび燃えはじめると、今度は熱意は止まらない。こうしたフルートへの熱い想いを自負する、熟年集団である。

 顔ぶれはフルート教師のセミプロから、笛を手にして3年目の初心者まで、経験や技量はまちまち。年4回の例会と2年に一度の発表会が17年間も続いている。会則はなく、笛を愛し、酒を楽しみ、仲間を大切にする愛好会だ。

 6月末には第6回発表会が予定されている。それに向けたフルート集団の練習風景、会場手配の苦労が作中で展開されていく。
 問題は会場だ。設備が整い、利用料金が良心的な公的施設の確保が望まれる。大泉学園駅前の「ゆめりあ」の抽選会にかけていた。当然ながら、いろいろなグループが狙う。激戦だ。

「私」に代わって、妻が「ゆめりあ」の抽選会にいった。『何とエントリーナンバーワンで、今回の会場を押さえることができた。殊勲の家内には、この一年間は頭が上がらない』と心境を記す。

 発表会が近づくほどに、舞台慣れしていない「私」にはプレッシャーがかかってくる。懸命に練習し、本番に臨むのだ。
高校時代の同級生が、数人で応援に来てくれた。
「お世辞じゃない。本当に良かった。大袈裟に言えば感動だ」
 年齢に関係なく、誉められると感動するもの。それが今後の大きな励みになる、と結末に導く。

 音楽にかける、シニア世代の愛好会が丹念に書かれた作品だ。作者のフルートにかける思いは、熱っぽく、それ自体が鮮やかに紅葉するナナカマドに似ている。快い曲の響きが聞こえてきそうな作品だ。と同時に、題名のナナカマドが納得できた。


中澤 映子   なき声いろいろ

   
                          
 犬の鳴声は微妙に違う。主人公を犬「私」にして、擬人法で紹介していく。一つひとつに説得力がある作品だ。

① 威嚇、ウッー、ワンワンワン、番犬として怪しい人や見知らぬ人が、ご主人の家に入って来る時などに発します。鳴くというより吠えるです。
② 要求 お腹がすいても鳴くことはあまりありません。甲高くワンッ、ワンッ、と鳴いて要求するのは、「私」がリビングキッチンに行きたいときです。
③ 怒り くつろいでいる時、自慢のしっぽや脚の一部が踏まれると、「キャンッ」と高いトーンの声を発します。人間でいえば「イタイッ!」。
④ 甘え ウーン、ウーン、キューン、キューン、声も小さく、人間の甘え声
に似ているかもしれません。
⑤ 喜び ワン、ワン、ワンと発しながら必ず、しっぽを左右に大きく振り
まわします。おやつをくれる時、お気に入りの人が来宅した時、ご主          人や奥さんの外出から帰ってきたとき、しっぽをフリフリ、大サービスです。

 犬には言葉がないので、鳴き声でコミュニケーションをとっている。作者はそれらを上手に表現している。そのうえで、犬の鳴声は人間との異文化交流だと結末に導く。
犬の「独白」がわかりやすく説得力をもった作品だ。


和田 譲次   フラメンコ

                

 クルーズの旅仲間は、バルセロナに戻ってきた。絵画、建築、美食でも知られている。フラメンコの名門劇場(タブラオという)に出むく。ディナーが午後8時半から、ショウは10時過ぎに始まる。

「私」は10年前に初めてスペイン旅行をした。このとき、セヴィリアでフラメンコを見た。一時間ほどのショーだったが、退屈して寝てしまった記憶がある。

 今回は違っていた。
 舞台には3人のギター奏者、5人のお囃子隊(手拍子でリズムをきざむ)が控えている。貫禄のあるおばさんがアカペラで朗々と歌う。劇場内の隅々にまで響きわたる。力強いが、もの悲しさも漂う。

『男女二人のダンサーの激しい踊りが続いていた。パン パパーン パパパン、と力強い手拍子にのって踊る。艶めかしいモードが漂う。手拍子がさらにくり返される』
若い美女軍団が登場し、乱舞する。手先から足先まで、全身がしなやかだ。踊りのソロ、ペア、ギターのアンサンブル。唄は休む間もなく続く。フラメンコは壮大な総合舞台芸術だとみなす。

 映像をみているように、音楽と踊りがビジュアルに表現されている作品だ。フラメンコのルーツは、中東地域からイスラム勢力に追われてスペインに逃げ込んできた、少数民族の伝統芸能だ、という説明も添えられている。フラメンコの迫力がだんだん盛り上がってくる良品だ。


塩地 薫   がん検診の勧め


『また一人、六歳年下の友人が胃がんで亡くなった』と強いインパクトの書き出しだ。
物故の人物はある会の副会長だったと紹介する。そして、三年前に話がさかのぼる。
「私」は彼を会長に推そうと考えた。ところが、胃がんが見つかり、胃の三分の二を摘出したという連絡がきた。会長交代の話はできず、副会長の留任でとどめた。その後、胃がんが肝臓と肺に転移したという。
『まだ、自宅に見舞いに行っても、普段と変わらず大声で能弁だった。私より元気そうに見えた』
 
 さらに半年後には、抗がん剤の副作用で頭髪は抜け落ち、丸坊主になった。体重も半減し、気の毒なほど小柄になっていた。それでも、気力は衰えていなかった。
「私」はS・ウルマンの詩「青春」を手渡し、「希望」を持ち続けて「剛毅な挑戦」をするように、と励ましてきた。闘病に役立てばと、元患者が書いた小冊子も送った。
 
 半年後だった。居酒屋の開店披露宴で、彼は「体重が半分以下になって、飛ばされそうだ」と言いながら、強風をついて会場に姿をみせた。そのときのスナップが最後の写真になった。
 抗がん剤の耐性ができて、投薬は打ち切られた。奥さんは医師から「余命三ヶ月」と告げられたという。さらに脳への転移が見つかった。
 彼が死に向かう節目で、「私」は病人と向かい合う。それらが克明に描かれていく。

 他方で、「私」は今年の初めに、転移寸前の大きな直腸がんの手術を受けている。運よく内視鏡の最新技術で剥離切除できていた。
『医学の進歩と幸運で、私はがんから救われた。考えてみれば、自覚症状がなかったので、油断していたのだった。がんでは死にたくない。だから、胃がん検診だけは毎年受けてきた。その他のがんは、そのうちに、と後回しにしていた。認識が甘かった。友人知人には40歳を過ぎたら、がんの定期検診を受けるように、勧めることにした』と啓蒙的に結末を導く。

 作者は病理に精通している。作品には説得力がある。と同時に、友愛とヒューマニティーとがしっかり作品を支えている。


上田 恭子   終わりよければすべてよし

   
   
 羽田監督の映画「終わりよければすべてよし」を観た。「終わり」というのは人生の終わり、誰にでも公平に訪れる『死』であった。病院での死を望むか、自宅での死を望むか、というテーマである。
 望むような死を迎えられるならば、幸せである。それが出来ない世の中になった。
『映画の中では、表情もなく、会話も出来ず、食事も出来ず、というお年寄りが写されているのを見て、思わず顔を覆ってしまった』と記す。
「ピンピンころり」と死にたいと、多くの人は考える。羽田監督は、「何も知らずに逝ってしまうより、お別れをいい、死に向き合って逝きたい」と語った。

 臓器移植法改正案が衆議院を通過した。これまで子供の移植が国内でできなくて、外国に頼っていた。これからは、提供する子供の親が承諾すれば、移植が可能になった。移植を待つ子供が、
「私が生きるために、誰かが死ぬのね」
 と言ったという。「私」は胸つかれた。

 映画監督の話から死生感から、「私」は自問していく。臓器移植による立場の違いを、わが身で展開する。説得力のある、読者をつよく引き込む作品だ。と同時に、読者は命の重さを考えさせてられる。


濵﨑洋光   防空日誌


 中学校教師で、防護団責任者だった父が記録した、戦時中のノートが見つかった。B4版の用紙がこよりで袋綴されている。
『昭和18年10月22日、10時20分防空訓練警戒警報発令、24時10分解除、長時間の校内訓練』と記録に始まる。
 昭和20年5月頃から警戒警報、空襲警報発令がふえる。

『深夜に警戒警報のサイレンが鳴ると、父は灯火管制の真っ暗闇のなか、手探りで身支度を整え、防空壕へ退避をする準備をしていた。父は急いで学校へ向った』と作者の記憶がよみがえる。

 7月になると、連日の警報発令が日夜、記録されている。沖縄の戦いが終り、米軍の本土上陸が間近だと、うわさされる状況下だった。
「防空頭巾、ゲートル、カバン、服を枕元に整理して寝なさいよ」
 短時間で準備ができるようにと、それが母の口癖だった。

 父が宿直で、43歳の母と二人での夕食どきのことだった。
「敵が上陸して、攻めて来たら、一緒に死のうね」
「いやだ。ぼくは最後の一人になっても戦うんだ」
 当時10歳の私には、幼い末っ子を残して死ねない、という親心を理解できていなかったようだ。

「昭和20年8月15日6時20分、警戒警報発令で記録は終わる。戦いの日は終わった。そこには警戒警報解除の記録がない」と、作者はそこに拘泥する。

 防空日誌は、戦時体験を昨日のようによみがえらせる。戦争とは、平和とは、様々な思いが脳裏をかけめぐる。幾度か処分しようと思った古いノートだが、今夜もまた書棚へ戻す。

「深夜に警戒警報のサイレン」それに懸命になる、父親の姿は詳細に書かれていない。だが、行間から十二分に読み取れる作品だ。
 死の覚悟を持った母親と、死にたくない子どもの素直な気持ちが浮き彫りにされた、深刻な作品。父親の記録した古い日誌が物証(証言)となった、反戦エッセイともいうべき良品である。


森田 多加子   脳の開放


 朝の陽が窓から射す。フィットネスクラブは家から歩いて12分。なだらかな坂が続く。坂上には《ヘルスロードのねがい》いう標識が建つ。『わたしたちの心と身体を健康に導く道です』と記す。
 勾配が3度で300メートルの坂道だ。ここを少し早足で歩くと、ちょうど運動に入る前の準備体操になる。

 フィットネスクラブに行く、きっかけは腰痛だった。『整骨院ではマッサージをやったり、教わった腰痛体操をしたり、有名な通販では痛み止めの漢方を買って服用もしたりした。腰痛に良いと聞くと、何でもやってみた』。ところが効果がなかった。
 頼りない歩き方で、いつ転ぶかも、と不安がいっぱい。怖くて、ますます外出をしなくなった、と腰痛が克明に描かれている。

 近くの友人から、『30分フィットネス』を教わり、訪ねてみた。たくさんの人が、音楽に乗って、楽しげに身体を動かしている。
 腰痛は筋肉をつけることが一番大切だ。「私」はスポーツや身体を動かすことが大嫌い。たった30分ならば、やれるかもしれない、と挑む。
 体操器具を使った情景がリズミカルに描写されていく。スタッフの指導方法も紹介される。フィットネスクラブで流す汗が、読者にも伝わってくる。

 通い始めて二年が経った。マシンの使い方はすっかり習得している。気がつくと、おぼつかない歩き方だったがしっかりしている。マッサージにも行かなくなった。薬の服用もなくなっていたと、快い進歩に結びつく。

 最近は長時間にわたってパソコンをやる。読書会をする。ボランティアの仕事もある。本業の主婦もある。毎日が忙しく、疲れ果ててしまう時がある。それでも、フィットネスクラブでからだを動かせば、脳を楽にする。ストレス解放になっている。

 腰痛の病を克服する過程(苦しさ)が、主婦の目で丁寧に描かれている。読後感のある良い作品だ。


二上 薆   沖縄への想い ―自分史のよすがに―


 昭和55年、沖縄の那覇市を訪ねた。同年に、東南アジア鉄鋼協会の大会が開かれた。それに参加し、無事に終わった。
 宿泊ホテルのすぐ隣の酒屋の棚には、40種類にも及ぶ多数の泡盛がならぶ。
「内地の方ですか、この泡盛がお勧めです」
 奨めた主人は、夕食が取れる気軽なお店を教わった

 そこは繁華街のなかで、簡素な居酒屋風の食堂であった。豚の耳を骨ごと食べる「ミミガー」、黒山羊の料理、烏賊のすみ汁の吸い物、沖縄そばなどが出された。勧められた泡盛にぴったり。
 
 翌日は一人で、がら空きのバスを乗り継いで那覇近辺の戦跡をまわった。陸軍司令官の牛島満中将らが自決した「摩文仁の岬」に出向いた。海に突き出た景勝の地には、男女多数の名前を彫り込んだ、黒い版が目を奪う。『このあたり、いまは平和記念公園だが、何でこんなにたくさんの軍民戦没者が、との思いが先に立った。平和どころか、巨木の陰に鬼啼啾啾(きこくしゅうしゅう)たる思いであった』と悲痛な感情が描かれている。

 次いで南風原の「ひめゆりの塔」を訪ねた。『ポッカリと地下壕の入り口が見える。多くの従軍女学生が閉じ込められて、アメリカ軍の手榴弾、ガス弾などの厳しい火炎攻撃で殺戮されたと聞く。若くして生命を国に捧げた乙女たちの姿が心に痛々しく浮かぶ。国際赤十字病院とは何であったのだろうか』と疑問を持つ。

 日本軍の指揮命令はお粗末。野獣のような敵軍。人間の浅間しさを思い、耐えられず、すぐにここから離れた。

 豊見城村の海軍司令部壕跡に行った。大きな地下壕に入ってみると、壕はいく筋にも分かれ、司令官室、発電機室などがそのまま残されていた。
 昭和20年6月13日、海軍司令官大田実少将(当時)はここで最後を遂げた。最後の通信文には、県民の滅私奉公、奮闘・努力を強く伝えている。
「人影のない薄暗い壕内で、英霊が静かに訴えたのか。なんとも言えない強い感慨に打たれた」と作者の想いが深く沈んでいく。
 沖縄3ヶ所の戦跡めぐった。つらい気持ちから、「私」は沖縄の地は二度と踏むまいと強く思ったのだ。

 戦争の悲惨さに対する、数々の示唆に富む、深い内容の作品である。悲劇の地を歩いた結果、「二度と沖縄に足を踏み入れたくない」という作者の気持ちが、反戦として響く作品だ。


吉田 年男   「理系の頭」「文系の頭」


 コンセントの関係から、日立製「IHジャー」炊飯器をガス台近くで使っていた。付属品の「しゃもじ受け」が熱で変形してしまった。
炊飯器は9年間使っている。保障期間は過ぎている。メーカー在庫にも「しゃもじ受け」のスペアーパーツなどあるはずもない。このままでは、逆さにして挿す「しゃもじ」が収まらない。

 炊飯器の上に置いておくか。炊飯器のご飯の上に直におくしかない。気になりだすと、何となく落ち着かない。代用品はないものか。調理台の引き出しや、物置の小物入れの中をさがしてみた。見当たらない。

『炊飯器の引っ掛け溝の寸法をメモして、「東急ハンズ新宿店」に出かけた。店内を探し回った。ちょうど良いものが見つからない。売り場の隅にしゃがみこんで、「しゃもじ受け」の簡単な立体図を描いた。ペンチで簡単に折り曲げができるアルミ板で手作りをしようと決めた』と記す。

「私」は現役のころ、創意工夫で図面を書いて「もの作り」をしていた。そのころの楽しさがよみがえってくる。小さな穴のあいたアルミ板、直径0・5ミリの針金を買い求めた。

 帰宅すると、「私」は立体図を平面図に書き換え、紙で模型を作った。アルミ板に赤ペンで寸法を書き入れ、ニッパーで丁寧に切断した。折り曲げ作業は楽にできた。継ぎ合わせの部分は、穴を利用して、針金でしっかり固定させた。出来上がった「しゃもじ受け」を炊飯器に取り付けたのだ。
「理系の頭」「文系の頭」などとよく話題になるが、「もの作り」を楽しく思えるのは、「理系の頭」なのかもしれない、と結ぶ。

 小さな付属品「しゃもじ受け」にこだわる。その熱意がテーマの絞り込みとなり、読者を強くひっぱる作品に仕上がっている。理系の専門的な用語が平坦で、わかりやすくて、一般にも理解が容易だ。


青山 貴文   戦禍も薄れ 自分史の一助に

                            
 昭和19年11月から、東京・戸越の街は夜になると、空襲警報が鳴りわたった。不気味なサイレンだった。その都度、六歳の姉が玄関先で叫ぶ。
「早くして。防空壕に行くよ」
「押入れに居れば、だいじょうぶだよ」
 四歳の私は眠くてしょうがない。押入れから出て行かない。
「爆弾が落ちてくるのよ。死ぬのよ」
 姉が急かして怒る。
「押入れでいいよ」
 幼少の頃の私はからだが細くて、体力がなかった。昼間は目いっぱい遊ぶので、夕食後は眠くてしかたがないのだ。
   
 戸越の街は昭和20年五月の空襲で全焼した。「私」は4歳7ヶ月であった。
焼夷弾の落ちる中、父は屋根に登って近所の方たちと火の粉を消していたという。小柄な母は防空頭巾をかぶり、私にも小さな頭巾を被せた。嫌がる私をおぶり、戸越公園の方に逃げた。「私」は母の背中にかじりついて半分寝ていたようだ。
「熱いよ」
 突然、左足の踵が痛みに襲われた。姉の靴を履いていたことから、踵と靴の隙間に火の粉が入ったのだ。私は「熱いよ」と何度も言ったが、母はとりあってくれない。周りが燃えているから、熱いのは当たり前だと、母は思ったらしい。

 翌朝、行方知れずになった姉を探す。見つからず、両親は半ばあきらめていたという。昼ころになって、全焼したわが家の近くに、姉は近所の方に連れられて戻ってきた。もし、迷子になっていたら、戦災孤児になっていたかも知れない。

『母の背中で受けた踵のやけどは、ケロイド状で、二十歳頃まではっきり痕跡として残っていた。あれから65年。やけどの跡は年を重ねて硬くなった皮膚のなかに埋没し、消えかかっている』と結ぶ。

 幼い子どもが体験した、恐怖の空襲が鮮明に描かれている。母親に背負われた「私」の靴の隙間に火の粉が入った。熱いのはあたりまえ、という描写は圧巻だ。


山下 昌子   大変 大変

        
「私」は読みかけの新聞を放り出して、居間の出窓に駆け寄った。隣家の屋根で、数羽の鳥が喧嘩をしている。けたたましい鳥の鳴き声だ。
 4羽の椋鳥がしばし睨み合う。突然、一羽が飛び掛る。四羽が入り乱れて、どれが味方か敵が判らないが、しばし戦う。また四羽の睨み合いになる。
「大変、大変。来て、来て」
「私」は夫を二階へ連れて行く。夫婦して4羽の鳥の諍い観察する。何度も戦いがくり返されていた。

 隣家の戸袋には毎年、椋鳥が巣を作る。やがて卵が孵り、ひな鳥のにぎやかな声が聞こえる。親鳥は代わる代わる餌を運ぶ。やがて、巣立ちの日が来る。

『雛鳥は戸袋から、きょろきょろと外の世界を眺めて、今にも飛び立つかと思わせるように身を乗り出すが、なかなか飛ばない。一瞬ぱっと飛び立った。今はじめて飛んだとは思えない見事さで空へと消えた』としっかり観察されている。

 今年は、4羽の巣作りの場所取り合戦をみた。その後の成り行きに注目し、毎日のように観察した。無事に雛は孵った。毎日、餌を運ぶ二羽の親鳥の様子を飽きずに見ていた。
 ある朝、戸袋の穴から小さな嘴が見えた。小さな頭も見え隠れする。いよいよ巣立ちが近い。外出して、夕方に帰宅して二階へあがってみた。
「大変、大変」
 戸袋の白い壁には、真っ赤な血痕がいっぱい付着している。黒い羽根が一面に散っている。何が起こったのだろうか。親鳥は餌をくわえて戻ってくるようすない。残酷なシーンが浮かんだ。

 椋鳥のぎーぎーという鳴声。親鳥の嘆きに聞こえた。巣作りの場所取り合戦で、せっかく安全な場所を確保したはずだった。突然、襲った悲劇に胸が痛んだ。直接、見てもいないけれど、凄惨なシーンが浮かんでつらかった。『これが野生の厳しさ、自然の摂理だ』と私自身に言い聞かせるのだ。

 降り続いた雨で、赤い血痕は色あせ、いつの間にか何事もなかったように消えてしまった、と結ぶ。こ哀れみが一段と深まる。
 動物の残忍なシーンをつぶさに観察し、作者の心情を重ね合わせた、完成度の高い作品。「いのち」というテーマが明瞭で、読み手の心まで、悲惨さが深く入ってくる。


藤田 賢吾   にぎにぎをよく覚え


 江戸の川柳に「役人の子はにぎにぎをよく覚え」がある。「袖の下」ということで使われていた。それを高校時代に知って、うまく言い当てたものだと思った。書き出しから、興味を引く内容だ。

「私」が中央官庁を担当していた頃、毎年、中元歳暮を会社から贈っていた。断る役人はたまにはいたが、殆どは受け取っていた。
 12月の予算折衝は特別の雰囲気になる。役人は夜遅くまで仕事をしていて、辛い時期だ。仕事が忙しくて、家に帰れないこともある。夜になると「陣中見舞い」と称して、どの業者もビールやウィスキーを担当課へ運び込む。

『ボクも重いケースを、汗を流しながら持ち込んだ。課長まで「ありがとう」と素直に受け取る。翌朝など、まだその酔いが残っているのか、目を真っ赤に腫らして、なんだかボンヤリしているみたいだった』とありていに記す。
 ある大手電機メーカーのOBに話してみた。「わが社はビールじゃなかったよ。酒樽だった」。樽に帯を巻いて、「陣中見舞い」と書き込んで、その帯のところに現なま、一万円札を何枚も挟み込んでいた、という。桁違いだ。

 役所側から、ビールは現物でなく、ビール券で持ってきて欲しい、という注文がでた。こちらも重いケースを運ぶ手間がなくて、応じた。
 こちらの狙いは、テレビ番組を半年ではなく、年間を通して放送したい、という下心がある。その予算増加を働きかけているので、ビール券ぐらいは安いものだといえた。

 警察庁の仕事はちょっと事情が異なっていた。全国の警察官募集というポスターを作る職務のセクションが相手だった。
 警視庁のような大きな警察は別だが、地方の県警は広報予算が少ないし、デザインセンスも持ち合わせていない。そこで、中央の警察庁では雛形を作成して、各県警の希望をまとめてから発注する。これは国家予算ではなく、県警の予算。だから、予算編成のうま味がない。

『担当官から「今年もいつもの費用を、この口座に入れてくださいね」という。なんと40万円という金額だ。それを振り込めというのだ。ボクはビックリして前任者に確認した。
「言うとおりに振り込めばいい」
 彼からはそんな返事がきた。
 警察官は悪事に対して取り締まる、というのが、ボクのイメージだった。その片棒をかついで、裏金作りに手を染めたかと、しばし考え込んだ。上司に相談した』と内情を明かす。

「それで仕事が続いているのだから、今までどおりに」
 という指示だった。

 役人の不祥事がしばしばマスコミで取り上げられる。「私」が手を貸した、棘は胸に刺さったままである。江戸時代から連綿と続いている「にぎにぎ」は、未だに残っている。

 公務員との贈収賄は法に触れる。他方で、江戸時代からの日本の風習である。警察庁まで切り込んだ作品で、最後まで一気に読ませてしまう。企業側の立場の批判や反省もあり、作品に公平感がある。


石井 志津夫   笑心生活考


 人間は笑いの遺伝子を持っている。それが眠っている人もいる。皆して笑いの遺伝子を目を覚まさせたい。
「私」は、生活に笑いをテーマにした、シニア向け講座を担当している。講座の始めと終りには、全員で「大笑い三唱」をする。インドのヨガからヒントを得たもの。顔がほころびて、心はリラックスしてくる。

『笑う。人間にとってはいいことだらけだ。病気の予防をしたり、免疫力を高めたり、人間が本来持っている、自然治癒力を高めたりする。人間関係も良くなるし、楽しくもなる。笑いは、和來(わらい)からきていて、人と人との和を結び、安らかさを味わうことができる』と効能を紹介する。

『社会面の暗いニュースを見ると、笑いが消える。肉親、夫婦、友人相手の殺人や殺傷事件を知ると、笑いを失った家庭や崩れた人間関係を想像してしまう。そこに笑いがあったなら、こんな事件にはならなかったはず』
そう思うのは、「私」だけだろうか、と社会全体に目を向けている。

 人生はいろいろなことが起こる。「私」にも、まさかの事態が起こった。一昨年の暮れに人間ドックで、肺にかげが見つかり、呼吸器科の精密検査を受けた。結果は肺がんと告知された。その先、落胆する間もなく入院し、半年に及ぶ抗がん剤治療を受けた。副作用も強く、つらい入院生活となった。

 病院と医師を信頼し、「患者のプロに徹しよう」と覚悟を決めた。自分自身も努めて 、笑い飛ばせるものならと、病室で「笑いの医力」にもかけてみた。それらの具体策が紹介されている。

 四クールに及ぶ抗がん剤治療が終わった。精密検査の結果、「心配された転移もなく、腫瘍も小さくなってよかったですね」と医師から、退院の許可がおりた。

 いまは与えられた命に感謝し、残された人生もPSK(ピンとして、シャンとして、これからを楽しく)をモットーに、どんな時にも、何が起きても、笑いの心を忘れずに、笑心生活を続けていく、という気迫でいる。

 体験的な説得力ある作品だ。とくに肺がんになったあと、悲しみ、失意、落胆もせず、笑いと明るさを自分に課した。それが仕上がりの良い作品にさせている。

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