A020-小説家

化粧する少女 さとう良美(小説の書き方・受講生)

化粧する少女


                        さとう良美 

 電車内で、少女が化粧をはじめた。
十五、六歳になるだろうか。肌は健康そうな、ピンク色をしていた。ついこの間まで、青空の下をかけずり回っていたような、幼さが見えた。

 電車の車内で、少女が化粧する場面を、目にするようになったのは、ここ十年ほどのことだ。はじめはとても違和感があった。時と場所をわきまえなさいと、しかりつけたい衝動に駆られた。
同じような場面に、しばしば出会うようになり、しだいに衝撃も薄れてきた。最近は、ああ、またこの子も、これも時の流れなのだろうと、軽く受け止めるようになった。

 この日、出会った少女は車内で、ベージュ色の大きなバックを、ひざにのせた。そして、B5版ほどの鏡をとりだした。これまで車内で見かけた鏡のなかでは、一番大きかった。もはや手鏡とはいえない代物だった。
 少女に興味がわいた。わたしは読みかけの本を閉じ、隣席の彼女に目をやった。これから、彼女はどんな化粧をするつもりなのだろうか。
 少女は、自分の顔がよくうつるように、バックの上の鏡をセットした。手を差し入れ、底のほうから化粧道具の詰まった化粧ポーチを取り出した。
 彼女は、そのなかから平たいプラスチックケースを出した。ケースのふたを開けた。青や茶のアイシャドーの、固められた粉が並んでいた。
 少女は化粧筆に茶色の粉をたっぷり含ませた。筆がまぶたの上を何度か往復した。少女は、出来上がりを確認するため、鏡をのぞき込んだ。両まぶたには、アイシャドーが重ね塗りされた。少女の顔が、少しだけ女になった。
 少女は鏡に向かって、目をパチパチさせ、小さくほほえんだ。どうやら合格らしい。

 次に、バックから取り出されたのは、マッチ箱ほどのプラスチックボックスだった。つけまつげが何組か入っていた。
 少女は、最も長くカールした、つけまつ毛を選んだ。左の親指と人差し指でつまみあげると、右手に持った、小さいチューブに近づけた。
 白い糊がチューブから、にょろにょろと押し出されていく。それがつけまつげの根元に塗りつけられた。1ミリくらいの、白い線になった。糊のついたつけまつげは、手早く、少女の本物のまつげ、その上に運ばれた。実物のまつげと重なり、浮いたようになった。少女は細いプラチックの棒で、まつげの根元をぎゅっと押しつけた。目じりから目元まで、なじませていく。
 つけまつげはついに、実物まつげと一体になった。彼女が瞬きをするたびに、ばさばさと音が聞こえてきそうだ。まばたきは重くないのだろうか。わたしはそれが気になった。
 少女の顔が、大きく変わった。アニメに登場する、美少女のようになった。

 鏡をのぞき込む少女は、出来上がりに満足したのか、緊張した表情をゆるめ、ふっとため息をついた。
 少女の化粧が一段落したことで、わたしはふと周囲をながめた。昼下がりの、私鉄電車はすいていた。立っている乗客はなく、七人がけのシートに数人の客が座っていた。


 少女の周辺にいた乗客が全員、少女を見つめていた。背広姿の中年男は、手もとの週刊誌がひざから落ちそうになっているのにも気づかず、少女を見つめていた。
 向い側に座った、小太りの中年女は、眉間にしわを寄せ、少女を非難する表情を浮かべていた。ほかの乗客も、ちらりちらりと、少女に視線を向けている。
 唯一、シートのはじに腰かけていた、二十歳前後の男だけは、ゲーム機に夢中で、少女の存在すら気づかないようだ。

 少女の化粧はなおも続く。まゆが描かれた。目元が力強くなった。
 目元の化粧が出来上がってみると、どうやら別の問題点が、気になってきたようだ。彼女の厳しい目が、ほおのそばかすに向けられた。じっと目を凝らさなければ、他人には目立つほどのものではない。
 少女の、若く張りのある肌。わたしも、このくらいの年には、きれいな肌をしていたわ。もう五十歳をすぎて、しみだらけ。
(悲しいことだわ)
 そんな想いの私は、少女から意識が外れなかった。
 少女は肌色のスティックで、そばかす一つ一つなぞっていく。三分ほどの、ていねいな作業で、そばかすはなくなってきた。

 少女は、なぜ電車の中で化粧をするのだろうか。電車の中は、公共の場だ。たしなみのある振る舞いをする場所であるはずなのに……。化粧をしたければ、家ですればいいのに。
(そうか、少女は家族に内緒で、化粧をしているのか)
 電車の中にいる人間は、見知らぬ他人ばかり。彼女にとっては、どうでもいい人たちなのだ。
 わたしが十五,六歳のころ、化粧にあこがれていただろうか。いたずらに姉の口紅を塗ったことはあっても、それは家の中での話しだった。口紅をぬって外出したのは、大学生になってからだ。薄く口紅を塗っただけなのに、意識がすべて唇に向かってしまい、身体が熱くなったものだ。
 
 少女用の化粧品が、いつのころからか、ドラックストアに並ぶようになった。
 美しくなりたい。可愛くなりたい。少女たちはドラックストアの化粧品コーナーで、長い時間をつぶすようになった。
 資本家たちは、少女たちに受けそうな、かわいい、きらきらした商品を次から次へと売り出していく。
 少女たちはコンビニやファーストフード店で、せっせとアルバイトをする。もう、親たちにせがんだりしなくていいのだ。少女たちは、働いたお金で、自分の欲しい化粧品を買う自由を手にしたのだ。
 親が知らない間に、娘たちのバックにはたくさんの化粧品が買いこまれていく。親が駄目だというもの、ちゃらちゃらしたもの、きらきらしたもので一杯だ。
 少女は地味な服装で、家を出る。渋谷や原宿で買い物をする。デパートや駅のトイレで、買ったばかりの服に着替え、街に繰りだす。少女は親の知らない間に、少しずつ変身していく。
 
 少女たちを、こんなに甘やかしていいものか。化粧にうつつを抜かして、不良娘にならないかしら。そう案じても、少女を閉じ込めてしまえないのだけれど。
 今も昔も変わらない。うぶな娘をねらう、とんでもない男たちが、繁華街の裏通りに潜んでいる……。親たちがやきもきしても、もうだめだ。彼女たちは、もう後戻りはしないだろう。

 いまの時代は、家庭が貧しくて、生計の維持に手助けするために、アルバイトするのではないのだ。
 すべてのサイクルが、お金と物との間を回っている。大人も子供も、少女も、そうしたサイクルにからめ取られている。

 揺れる電車の中では、隣の少女がマニュキュアにとりかかった。バックから取り出した、一本のマニュキュア。ビンを振ると、ピンクの液体がゆれ、光る粉末が舞った。
少女は手早くマニュキュアを塗った。揺れる車内だけれど、マニュキュア筆は爪を的確にピンクに染めていく。一分もすると、爪は桃の色合いになった。

 全部の爪を塗り終えると、少女は、爪に息を吹きかけた。早く乾燥させたいのだろう。
 少女は、誰に向かって化粧をしているのか。化粧の間に垣間見える幼さ。特定のボーイフレンドがいるとは思えなかった。アイドルかテレビタレントだろうか。

 口うるさい母親。小言ばかりの父親。制服で管理された学校。化粧をした少女は、そんな日常から解き放たれる。心が自由にはばたける気になるのだろうか。
 少女が、化粧をしていることを、知ったら親は、驚きあわてるかもしれない。
『おまえはまだ子どもなのだから、そんなことをしてはならない』
そうたしなめるだろう。
『そんなことに時間を費やさないで、勉強しなさい』
あるいは二、三年前にせがまれた、おもちゃなどを買い与えるかもしれない。
もうすべては遅いのだ。伸びたのは背丈だけではない。春を迎えた身体は、女という性に迫っている。その意欲をむきだし、化粧に夢中になってきている。
 
 少女たちには毎日、多くの情報がシャワーのようにふりそそがれている。少女は一気に花咲くように強いられていく。……フリルの沢山ついたドレスを身にまとい、まだ知らない恋の周囲をかぎまわり、大人たちの秘密をのぞきこもうとしたり、背伸びをしたりしていく。早熟な思いが心のなかで乱れまわる。
 
 電車の少女は、唇にリップクリームをぬった。赤い口紅を塗るには、まだ抵抗があるのだろうか。薄いつやつやしたクリームが唇を目立たせた。唇からは桃の香りがただよった。
 少女は鏡と化粧ポーチをバックの中にしまった。そして、少女コミック雑誌を取り出し、熱心に読みはじめた。少女として、本来の姿を取り戻したように見えた。
わたしはなおも少女を見つめていた。いまや母親気分になっている。おろおろしていたわたしは、ようやくほっとした。【了】


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