A020-小説家

28回『元気100エッセイ教室』作品紹介

 冒頭の30分は毎回、「作品作り」の基本レクチャーをおこなっている。届いた作品を一通り読んでから、講義する内容を決めている。
 今回は「比ゆ」を取り上げてみた。比ゆには大まかに2種類ある。

直喩
「あたかも」「さながら」「まるで」「ようだ」「みたいだ」で、表現されるもの。

隠喩】(比ゆだとはっきりわかるように、表面に出さない)
「眉は三日月」「黄金色の稲穂」「疲れたネクタイ」「落葉の船」という類である。


 比ゆは成功と失敗とに極度に分かれやすい。使う場合はしっかり吟味することが大切だ。比ゆが効果的だと、文章が光る。反対に、しっくりこない比ゆ、手垢のついた比ゆなどは作品の価値を下げたり、駄文扱いにされたりする。

 作品の評価を下げてしまう、比ゆとは。

① 手垢がついた比ゆ
「抜けるような青空」「海よりも深い愛情」「山のような大波」「りんごのような頬」「借りてきた猫のようにおとなしい」「鬼みたいに怖い顔」

大げさな比ゆ
「水晶のような瞳」「噴火口のようなニキビ」「心臓が破れたようだ」「冷酷な女だ」「透き通った肌だ」

 創作とは自分の言葉で書くもの、描くものだ。「比ゆ」も自分の創作であるべきだ。借り物の比ゆは、作品の価値を落としてしまう。


 28回目となる、エッセイ作品を紹介したい。今回は奇抜な題名が目立った。『爆弾のオミヤゲ』『墓場への近道』『ムール貝のバカ喰い』『ついてない』などである。こうした題名に出会うと、どんな内容か、と興味が深まるものだ。


藤田 賢吾 爆弾のオミヤゲ


 成田空港で荷物の重量オーバーで、6万円も払うように言われた。
 驚いた「私」はあわてて中身をチェックした。目的地のノルウェーでは、和紙造形のワークショップを予定している。その材料や道具を持参していた。さらにはノルウェーの友人の結婚式に招待されており、式服も詰め込む。

 重量を軽減するために、不要なものは宅急便で自家に送り返した。そうこうしているうちに搭乗時間が迫ってきたのだ。
『機内に預けるのは、厳しく重量を制限されるのに、機内持ち込みなら、お構いなしというのは、おかしな話』という切り口の良い問題点の提起もある。

 イミグレーションを受ける段になって、「ペイクへのお土産がない」と気づいた。ノルウェーでは手に入らない蕎麦のパスタ。それを探す時間もままならず、「私」は搭乗ゲートまで走った。息を弾ませて機内に入ったのだ。

 一日遅れで到着するワークショップ仲間の女性が、その忘れ物を見つけてくれたのだ。親切に届けてくれることになった。ロンドンのヒースロー空港で爆発騒ぎが起きていたことから、パスターが爆弾の疑いを掛けられたのだ。

 貴重な実体験だが、サスペンス風な展開もあり、楽しませてくれる作品だ。結末では、一件落着だった。良い読後感だった。


山下 昌子 墓場への近道

                            

 地下鉄日本橋駅で、「私」は銀座線から東西線へ乗り換えるとき、改札口の駅員に尋ねた。
「東西線のホームに下りたいんですけど、エレベーターは何処にありますか」
「遠いですよ」やっぱり、と思った。
「あの改札口を出て、まっすぐどんどん進んでください」
 その指差された改札口へ向かった。なんだかおかしい。乗り換えるのに、なぜ改札口を一度出なければならないのか。その改札口にいた別の駅員に同じことを尋ねた。
「墓場へ近道」というタイトルに絡め、なにか出来事が起こるのかな、と興味のある書き出しだ。

 昨年の秋、「私」は突然、右ひざの激痛から歩けなくなったのだ。整形外科では、骨に異常は無く、原因が不明瞭なまま、腰のマッサージの治療がはじまった。
「正座をしてはいけません。階段もだめです」と医者に指示されたことから、外出先ではエレベーターかエスカレーターを探すことになった。

 エスカレーターは「墓場への近道」だという。過去にはエレベーターを使わない健脚に感謝し、誇りに思っていたのに、いまでは外出するとまず「墓場への近道」を探している。とにかくリハビリ体操に励んでいる、と結ぶ。
 ひざを痛めた現在、健全な身体のときの脚力、それを交互に重ねあわせた、作品に深みをもたせている。他方で、エスカレーターは「墓場への近道」だという啓蒙的な作品でもある。


中澤映子  「アイのダイエット」  動物歳時記その18

 

 犬の独り言から、流行するダイエットを風刺した、ユーモアと鋭さがある作品だ。
 私・アイは近ごろ太り気味で、飼主からライト(肥満傾向の成犬用)に切り替えられてしまったのだ。私は3本脚の犬なので、食べ過ぎて太ると身体を支えきれなくなる、というのが飼主の考えらしい。
「私」はダイエットの願望や意志などない、と言いたいのに、受け入れてもらえないのだ。

『今年のお正月も、ご主人一家は豪華なおせちやお雑煮など、おいしそうなご馳走をたくさん食べていたようだけど、わたしには<かまぼこ一切れ>のお振る舞いだけでした』(ブツブツ)。

『おとなしくボディ・シャンプーをした後では、(飼主)奥さんが乾燥したビーフやチキンのおやつをご褒美にくださる。それだけじゃねえ』(ブツブツ)。

 6年前の春にさかのぼる。「私」は臨月の子をかかえ、空腹で食べ物を求めて街を彷徨っていた。いまのご主人一家に保護された。この家には猫が多く飼われていたので、キャト・フードや猫缶、ミルクなどを食べさせてもらえた。
『食べ物すべて、あっという間にたいらげました。『3本脚で、おまけにお腹に4人の子供をかかえ、超空腹でしたから、「地獄に仏」でした。こんな経験をした私ですから、ダイエットなんて想定外です』という。

『若い娘さん達がダイエットなどと申して、よだれが垂れてきそうな食べ物をがまんして、あまり食べないのが、わたしには、どうしても理解できないのです』と現代の人間社会をも風刺する、インパクトの強い作品だ。
 犬の生態を上手に捉え、擬人法で処す。これはまさに作者の妙技だ。


吉田 年男   お焚き上げ


 信仰の世界にも、時流の変化があるようだ。
「私」は年の瀬に、仏壇の清掃をはじめた。引き出しには「神田明神」、「湯島天神」、「妙法寺」などのお札が数枚、封筒に入れられている。
 これらお札を妙法寺の「お焚き上げ箱」に入れてこよう、と家をでた。日蓮宗の寺で、落語の「堀の内」にも出てくる「お祖師さま」で有名なところだ。

「お焚き上げ箱」は、本堂の左の隅にいつも設置してある。それがなく、「変だな」と思った。帳場の入口の右側には、鍵付きの大きな箱があった。
『お焚き上げのお札をお持ちの方は、帳場までお入りください。ご参詣ご苦労様です』と貼紙がしてある。
「私」は帳場へあがった。若い僧侶の数人が一斉にこちらを見た。
「お焚き上げ」を御願いします、と茶封筒を渡した。
 僧侶は封筒の中身をチェックする。妙法寺は受け取り、神田明神と湯島天神のお札を二枚取り出し、『頂いたところへもっていってください』とつき返してきたのだ。

 これまでは、他寺のお札を一緒に持参してきても、何もいわれたことがない。大量のお札の焼却を頼むわけでもない。お札は可燃物で小さなものだ。発行元が違うから拒否では、なんというこころの狭さだと、「私」は義憤をおぼえる。

 僧侶は、『今までは、他のところのものもお預かりしていましたが、基本に立ち返って、やり方をかえました』という。その言い方は上司から言われて棒読みしているように聞こえた。
 僧侶と問答してもはじまらない。反論もせず、お札を家に持ち帰った。『何か割り切れず、気持ちがおさまらない』と結ぶ。作者の怒りや疑問が、読者に怒りの共感を呼び起こす作品だ


濱崎 洋光   共に生きる


 マレーシア東海岸の1月下旬は、雨季が終わりに近い。陽射しが強さを増してくる。草木の生長に勢いが見られ、花の色も際立って美しくなる。
 中国系マレー人の正月「チャイニーズ・ニューイヤー」が巡ってくる。かれらの多くは清朝時代に、国を追われた子孫だが、祖国の正月の風習を400年以上も守り続けているのだ。

 店頭には蜜柑箱がうずたかく積まれる。ミカンは中国人に縁起のよい果物として好まれている。中国街には大小の赤提灯が満艦飾に灯り、墨書された赤い短冊が、赤竹の狭間に揺れて、正月への雰囲気を盛りあげている。

 元日になると、小型トラックに乗った獅子舞の若衆が、ドラ、太鼓の音を高らかにくり出す。二人一組で、大きな目玉で愛嬌のある獅子が舞う。その踊りが終わると、家主は門前に集まった人々を家に招き入れ、軽食を振舞う。家の中に、正月の和やかな雰囲気が漂う。日本人の「私」の目で、観察力豊かな描写が展開される。

 マレーシアは多民族国家だ。イスラム教徒の断食明け「ハリ・ラヤ・プアサ」、ヒンズー教徒の灯明祭「ディーパバリ」、中国人の正月「チャイニーズ・ニューイヤー」が三大祭で、国の祝日となっている。
イスラム暦、ヒンズー暦、陰暦で決まるので、毎年、この祭日が太陽暦のいつになるのか分りにくい。

 暦は、民族(宗教)の長い歴史で守られてきた、文明の心髄だ。中国系マレー人社会のカレンダーには、一日のマスの中に、太陽暦の日付を中心にイスラム暦、ヒンズー暦、陰暦の日付がすべて印刷されている。
 各暦の一年の日数が異なる。時間についても、イスラム教徒の1日5回の礼拝時間が日毎に変わる。時間の感覚も異なる。
「4つの暦が共存するのは、一つの国に複数民族が共に生きていく上での、生活の知恵の象徴なのかも知れない」と、説得力のある結末となっている。

 作者の体験による異文化の説明はシリーズ化している。それぞれの事象が日本人の考え、常識を超えているだけに、興味はつきない。


和田 譲次   ムール貝のバカ喰い

                        
 ベルギー料理の紹介を織り込み、食文化の違いから有毒を知らずして、バカ喰いをした、小事件を扱う。
 ベルギー・アントワープのオフィスで、「私」は日本から出張してきた若手技術者のM君、S君に会った。二人を誘い、古都,ゲント、ブルージュに一泊旅行に出かけた。地元で人気のあるレストランでに入った。前菜とスープを兼ねて先ずムール貝を注文した。一人前でいいだろうと思ったが、値段が安いので二人前にした。

 3人は山盛りの白ワイン蒸のムール貝に挑戦をはじめた。ベルギーでは寒い季節に良く食べられる庶民的な料理である。スープも美味しい。それぞれは一言の話もしないで、ひたすら食べている。バケツ大のボールの底は未だ見えないけれど、殻が目の前にうず高くつまれていく。
 白ワインでながしこんでいると、いくらでも美味しく食べられる。他方で、メイン料理は名物の牛肉のビール煮込みにするべきか。すぐには決まらないので、ムール貝を食べながら考える。

 ウェイターが大きな鍋を持ってきてノーサンキューという間もなく、ムール貝をどかっと注ぎ足した。一人当たり50個くらいは食べている。貝をこんなに食べて大丈夫かな、と心配になってきた。

 メイン料理を注文する前に、二人は「おなかの調子がおかしい」といい、レストランには事情を説明したうえで、チップを多めに置き、逃げるように店を出た。帰りついたホテルで、M君が持参する漢方の胃腸薬を飲み、少しはすっきりとした気分になった。

 帰国後、ベルギー料理店のオーナーシェフと、ムール貝談義のなかで、バカ喰いの話を披露した。「その程度ですんで、ラッキーでしたよ。下手をしたら胃けいれんや腸ねん転も起こしかねないですよ.牡蠣にも注意してください」と聞いてびっくり。時期によっては微量だが、二枚貝のムール貝には毒もあるらしい。

 後日、会社の会合で、若手技術者のM君、S君の二人に会った。思い出話に花がさいた。別れ際に「東京にもムール貝の美味しい店があるよ。都合がついたら一緒に食べに行こう」と言って別れた。いまだに連絡がない、と読後感のある結末に導く。

 作者は海外経験が豊富なだけに、欧米の食を素材とした作品が多い。ベルギーで食中毒になった実体験は、しっかり読ませる作品に仕上げている。とくに、食中毒になった青年技師二人の心理が書かずとも読み取れる。上手な運びになっている。

二上 薆  市場原理・資本主義 暴走への戒め ─ある読書子の感想より


 米国発の金融不況問題が、いまや関係者たちを右往左往させている。心ある識者にいわせれば、「今頃なんだ、当然だ、起こるべくして起こった」といわれるかもしれない。「私」なりに、読書に託して想いを述べた作品だ。

 7年ほど前、米国ウォール街で活躍する神谷(みたに)秀樹さんの著作『ニューヨーク流たった五人の「大きな会社」』を読んだ。それによると、米国でのベンチャービジネス繁栄の大きな要因は、金融資本のあり方にある、と述べている。

 その後の「さらば強欲資本主義」(神谷秀樹著)によると、『現在の金融主体資本主義はそれぞれの金融機関、バンカーの一人ひとりが自己の利益だけを他人の犠牲のもとに貪欲に追求する、強欲資本主義だ』と言い切っている。

 格差は拡大し、貧者はますます脱落し、生きる希望も失われる。こうした醜いアメリカだが、良識あるリーダーも多い。アメリカは必ずしも棄てたものではない、と付け加えている。

 堤未香さんは日米で活躍するジャーナリストだ。著作「ルポ 貧困大国アメリカ」では、『…国境、人種、宗教、性別、年齢などあらゆるカテゴリーを超えて、世界を二極化している。格差構造と、それをむしろ糧として、走り回り続けるマーケットの存在がある…。恐ろしい暴走型市場原理システムだ…』という。

「日本人の背中」(井川慶子著)では、『日本人が尊敬されるためには何が必要か、対等に意見が言えること、恥じらいや遠慮は美徳にならない、自国の文化と歴史を知ることだ』と諭す。

「私」は3冊の本を通して、アメリカの格差構造を如実に浮かび上がらせている。その上で、米国発の金融不況問題の根源に迫る。同時に、建国300年に満たない新興国家・アメリカではやむを得ない現実の姿か、とみなす。
『古き共生の歴史とよき習わしを持つ、敷島の豊葦原大和の国(日本)が実践を通して、どうやって新興国に教えるか、大きな課題であろう』と結ぶ。

 金融不況問題がいまや世界を大きくゆるがす。それら時流を読み取った作品だ。とくに作者「私」の構築は論理的であり、説得力がある。


奧田和美   ついてない

                        
 題名「ついてない」といから、どんな出来事が起きるのか、と読む前から期待を持ってしまう。『私は何をやっても、ダメな日が年に数回ある』と書きだす。

 郵便局のATMで、通帳を入れ、暗証番号や金額を入力し、「確認」を押した。急に機械が故障した。出てきた通帳には出金の金額が記帳されている。現金は出てこない。

「私」は急いでいた。常勤でない案内係がATMにきてくれたが、何もできない。内心は苛立つ。他のATMではお金は取り戻せない、と「私」は判断し、機械が直るのを待つ。
 常勤の局員がやっときて、機械をあけて調べてくれた。直らない。そこで、他の機械で記帳してくれた。『取消(機械故障)』とあった。(何だ、別の機械でもできるんだ)。
人が並んでいたので、もう出金せずに駅に向かった。予定していた急行電車を見逃してしまった。

 今日はついてない日なのだ。
 夕方、各駅停車の電車には女子高校生がたくさん乗っていた。私は立っていた。目の前のシートには80歳ぐらいのおじいさんが座っていた。隣には日本的美人のキリッとしたOLが座る。
突然大声がした。
「ベチャクチャ、ベチャクチャしゃべりやがって。お前ら先輩に席を譲るってこと知らねえのかー? まったく。どこの学校だー?」
 65歳ぐらいの酔っ払っている男が怒鳴った。車内はシーンとした。男はまたしても、「オラーッ、先輩に席譲らねえのかー」と怒鳴った。女の子は飛び上がらんばかりにビクついた。
 これら女の子の一番近くにいたのは、私だった。「もしかして、席を譲られるべき「先輩」とは私のことだったのか?」と結ぶ。お年寄りに見られた、女性のショックが明瞭に読みとれる。

 「私」の心理の動きがリアルタイムに描かれている、勢いのある楽しい作品だ。


中村 誠   ある冬の朝食

                       

 リタイアした「私」は、会社勤めの朝の慌ただしさから解放されて、自由な落ち着いた朝の時間を味わい楽しんでいる。もはや8年間が経つ。
 冬の朝の庭には、すずめ、尾長、めじろ、のばと、台湾リスなどがやって来る。日課となったゴミ出しから戻ってきた「私」は、それら野鳥たちに餌まきをする。書き出しの動物愛は、求心力のある魅力ある作品へと導く。

 野鳥たちを相手にした後、食卓に向かう。わが家には数十年しみ込んだ、食べ方の習慣があるのだ。
『一枚のトーストにバターをつけ、4等分に切り分ける。最初の2切れにはオリーブオイルで焼いたハムかソウセイジ、時にはチーズをのせてまず食べ始める。残された2切れの内、1切れには食べやすいマーマレイド、家内の友人の手作りである』と、トースト一枚にも味覚と栄養のこだわりがあるのだ。

『最後の一切れは、デザート感覚でニュージランドの蜂蜜をこってりとのせる。知人から、風邪予防に最適と聞いてから、スプーンに一杯は毎朝続けている』と拘泥する。

 冷たいデザートは、産地直送のリンゴを赤ワインで煮込んだ、家内の手製である。直輸入の英国製の紅茶で、テイーポットに作り、コージーできっちりと暖め、蒸らし保存する。

 食事中は家内との会話を優先と心掛けている。それだけに食卓においた朝刊は、食後の楽しみとなる。やがて紙面を広げると、「天声人語」がスタートとなる、これも毎日の決まりだ。

 日常些事な「朝」の行動が、一つひとつ丁寧に、つぶさに描かれている。4分の1のトーストすら訳ありだ。決して冗漫でなく、説得力がある、不思議な作品だ。


高原 真 年賀状は「楽しい一葉」


  年賀状作りの苦労と喜び、数々のエピソードを紹介している。他方で、賀状の歴史を語っている。
『賀状は貰って楽しいものである。直筆で一条でも言葉が添えてあると、永年お逢いしていなくても、その方の顔が浮かび、心が通じ合う。だから、私も必ず「ひとこと」を手書きで添えている』と書きだす。

 自分で図柄を描かれた賀状には、個性があるし、ことのほか興味がある。他方で、「来年はまた欠礼します」と、隔年しか賀状を出さない信念の人がいる、と作中で紹介する。
 民間人の発想で昭和24年に「お年玉付き年賀はがき」が初めて発売された、と歴史に及ぶ。そのとき、「お年玉付きじゃなきゃア、面白くねえぞ!」といってきた友人がいた。今年、その人の賀状が「私製はがき」だった。
 「私」は長く教壇に立っていた。教え子からの賀状は子供の写真が多い。こっちは「教え子本人の顔がどう変わったか」を知りたいのに。

 毎年、家内とあわせて600枚を作る。家内は200枚ていどだから、私は400枚となる。印刷屋さんにモノクロのオフセットを頼んでいる。
 それを受け取った方から「毎年あなたの年賀状を楽しみにしています」というコメントの一言が書いてある、と賀状作りに励みがでてくる。他方で、正月に因んだ図柄を使い果たしてしまうと、さて、と困ってしまう。
 数年前まで「宛て名書き」はすべて毛筆の手書きだった。最近はソフトを買ってコンピュータにたよっている。

 戦争がはじまった昭和16年前後に、「年賀状はよしませう」という運動が起こった。それは昭和15年に「年賀郵便の特別取扱を当面中止する」という逓信省の通達がでたからだ。昭和23年に、それは解除された。
 戦後もときどき「年賀状は虚礼だ」と新聞の投書欄に書かれている。「同感だ」と、「私」はその言葉に振り回されたこともある。
『作って苦しみ、送って楽しみ、もらって喜びのある。虚礼であろうが労力がかかろうが「楽しい一葉」にしたい。五十円では買えない人との交流がたまらなく嬉しいのである』と結ぶ。
 素材は身近な年賀状である。エピソード一つひとつが、深みと味のある展開で推し進められている。歴史をからめた、完成度の高い作品だ。


青山 貴文   ロス・パラダイス ハワイアンバンドの誕生(4)

                             
 連作で、ハワイアンバンドの誕生までが描かれている。
 練習場のわが家の居間は、楽器と人でいっぱい。各種の楽器で合奏する。それでもメンバーが増えていく。『スティールギターのAさんの参加でハワイアンらしくなってきた』という。『近所のOさんは、「私」と同年配だが、貫禄があり、音感も抜群である。私の間違いを指摘してくれる先生だ』と技量にも及ぶ。

 練習場所のわが家は、もはや演奏するには狭すぎる。ワイアンに興味がない隣近所の住民にとっては、騒音でしかない。適切な演奏場所として、篭原公民館が見つかった。隔週2回、1回約3時間練習となった。

 その後も、ギターの名手などが加わってくる。同期のM君の奥さんも、我々の練習風景に引き寄せられて加わる。フラダンスとウクレレ。さらにはハワイアンのボーカルをこなす才媛だ。この奥さんの社交性のお蔭で、いろいろの老人ホームに、我々男性バンドマンが出演できるようになった。

 バンド結成まで、メンバーがアルファベットで処されている。実名、仮名を使えば、読者への負担は解消するだろう。

 楽器としてはウクレレ三人、ギター二人、ベース、フルート、ボンゴ、スティールギターなど。毎月2回の練習をくり返す。練習曲は『ブルーハワイ』『南国の夜』『小さな竹の橋』など、80曲余り。総勢9人が1人も欠けずに続いている。
 ハワイアンバンドの名称を皆で考えた。いろいろ意見が出たが、『ロス・パラダイス』と決まった。第二の人生を『楽園』にしていこうという、みんなの願いが一致したからである。

『ロス・パラダイス』の初演奏会は、近所の老人ホームだった。その後は各種老人ホーム慰問、地域の祭事のオープニング、企業の祝い事、ハワイアンフェスティバルなど、年20回前後の演奏会を行っている。
 地元大レストランのハワイアンの夕べには、350人が集まった。ついには、祝儀袋をいただくまでになった。

 連作の結末の「祝儀袋」は、全体を支えるほど、光っている。9人が1人も欠けず、メンバーが続いている。欠落者がないのは、主催者の「私」が『ウクレレは新米で、ミスばっかりしているし、合奏でごまかしている』という、最も下手なウクレレ弾きだから、支えになっているようだ。
 少なくとも、それが読み取れる作品だ。

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