A020-小説家

第23回 『元気100エッセイ教室』作品紹介

 エッセイの基本は『人間』を書くことである。中核に座るのが、人間の心を描くことである。
 人間の心の動きや異性への想いなどは、ことばでは明確に言い切れないものが多い。
「なぜ、そんなことをするのか」
 ことばでは言い表せず、根拠すら曖昧なものが多い。悶々とした感情、得体の知れない苦しさ、気まずい気持ち、もどかしい苛立ち、これら心の動きをいかに読者に伝えられるか。


 それには心理描写の書き方を学ぶことである。心理描写の書き方が上手くなればなるほど、良いエッセイが書ける。

 ビジネス文に慣れてきた人、記事を書きなれた人は、曖昧な表現を用いず、排除する習慣が身についている。散文のエッセイは、その逆である。曖昧な心をいかに曖昧なまま表現して伝えられるか。それよって真価を問われる。

【心理描写の書き方のコツ】

① 副詞を多めに使う。
「妙な」「なんとなく」「得体の知れない」「悶々とした」など
② 副詞の後には必ず、「なぜ、そう思うのか」「なぜ、そう感じるのか」という説明を添えること。そうすれば、散文の作品には深みが出る。
③ 疑問形を作中に入れる。疑問形で、自問してみる。読者に問いかけてみる。
この3点を中心に、例文をあげて説明した。

 今月の作品には、ユニークで面白いものや、「警察犬になれない」「くそばばあ」という奇異なタイトル、歳時記、展覧会の批評など、小さな体験のなかに世相を斬るものなどと、バラエティーだ。
 私自身は動物が好きではない。むしろ嫌いだが、講師の立場上、連載ものの動物歳時記を読む。いつしか動物愛に感心させられつつ、こちらまでも犬猫の名まえすらおぼえてしまった。
 こうした作品を一作ずつ、紹介して生きたい。


黒田 謙治   ソースか醤油か


 書出しから意表を衝かれた。『「私」はコロッケにソースはかけない。醤油をかけて食べる。ステーキにも醤油をかける。冷やしたトマトにも醤油をかける。「えっ、そんなものに醤油をかけるの」と軽蔑の眼差しで、見られ続けてきた』という出だしだ。

 醤油が世界的に認知されていなかった、という時代にさかのぼる。「私」は長期間の海外出張には、必ず携帯用の醤油を持参した。レストランに小瓶をキープしたこともあった。何故ソースでなく醤油が好きなのか。それは長い間、「私」自身への疑問だった。

 あるとき、書籍から醤油とソースの違いを知った。『醤油は大豆のたんぱく質が醗酵の過程で、化学変化を起こし、アミノ酸になる。これが旨い味を提供するのだと書いていた』。こんなことは百も承知していた。
 むしろ、おどろいたのは『ソースはトマトや玉ねぎなどの材料に香辛料を加えて、ただ単に混ぜたものに過ぎない。物質との間で何の化学変化も起っていない。うまみが発生していない』という差異がわかった。

 これで「私」がソースより醤油を選択していた理由がやっと分かった。作者はなおも、日本の食文化に入り込むのだ。

 欧米文化では、甘み、塩辛み、酸っぱみ、辛みの「四味」を楽しむ。支那料理はこれに苦味を加えた「五味」に舌鼓を打つ。日本食は、醗酵食品が醸し出す独特な味を加えた「六味」となる。
「独特な味」は昔から「だし」と言われ、日本人には当たり前の味付け方法であった。この言葉は英語には訳せないから、「umami」になっている。

 それを知る「私」は、カツレッツにいきなりソースをかける人をみると、哀れに思えるのだ。この作品は、「醤油の味」にテーマが絞り込まれているし、作者の人柄もあるが、会話でも、文章でも話が面白い。楽しく読める作品だ。


山下 昌子  警察犬になれない

                  
 このタイトルだけで、作品のストリーを予測できる読者は居ないだろう。奇抜な題名だ。『頂いたシャンプーを何気なくあけたら、なんとも芳しく懐かしい香りがした。確かにいつかどこかでかいだ香りだ』という書き出しだ。ミステリーかな、と読み進んでみた。

 幼い頃、風呂場には『首の長いガラス瓶に、透明で鮮やかな緑色のシャンプーが入っていた』という。「私」は母に頭髪をシャンプーで洗ってもらった。当時のシャンプーは貴重品だった。珍しさも手伝って、香りを覚えていたのだ。シャンプーを通した、母と娘のつながりが描かれていく。

「私」は若い頃から、匂いには敏感だった。弟たちから犬だったら警察犬になれるよ、とよくからかわれた。今でもその片鱗は残っている。

 気功を始めて15年が経つ。上手に出来たときと、体調が良くないときは、微妙な体臭の差がわかるのだと、神秘的な特技をみせる。

 義妹が海外からの一時帰国した。成田空港でアグリカルチャー犬が、持ち帰った段ボール箱の『日本の食料品の良く洗った里芋』に付着した、わずかな泥をかぎ分けたらしい。凄い嗅覚だと思った。
 麻薬犬の話は良くきく。アグリカルチャー犬のことは知らなかった。「私」が犬だったら、成田空港にも活躍の場があると思った。

 視覚は早くから近眼だし、最近は聴覚も衰えてきている。自信があった嗅覚さえ、年とともに衰えてきた。くしゃみが出始めたら、簡単には収まらない。10回以上も続いて止まらない。これでは、自慢の鼻も警察犬としては失格である。

 タイトルもユニークだが、シャンプーから警察犬への意外な展開(筋立て)は巧い。意外性で読ませる作品だ。


中澤 映子   マッくんの帰還  動物歳時記その14 

   
 猫のマッくんは14歳で、小俣一家の長老だ。人間でいえば70歳代半ばになる。5月25日の晩から、行方不明だった。4日後になって雨の中、ケガをして帰ってきた。『びしょ濡れで、細くやつれて、おしりのあたり、血と肉が混ざり合っての大ケガ』だった。

 主人と車で行きつけの獣医さんに連れていった。獣医の見解は『キズは他のボス猫に、おしりを噛みつかれたからでしょう。そこから毒が入って化膿し、潜伏期間を経て爆発した』というものだった。
「私」は「うしろから襲うのは卑怯です」と憤った。

 猫のマッくんは「もう自分はダメだ」と思い、死に場所を探しに出て行ったのかもしれない。飼主の目に付かない隠れ場所で、じっーと死期を待つ。化膿部分が爆発し、少しラクになったところで、余力をふりしぼり、帰還したのだろう。

 獣医が栄養補給のための点滴をした。他方で、化膿を防ぐ外用薬、消毒液と内服薬(抗生物質)が渡された。そのうえ、患部をなめないように、キャット用のエリザベス・カラーをつけられた。

 無事家に帰った後、外出禁止のため、キャット用のケージを組み立て、マッくんの部屋を作った。ケガのケアが1週間くらいつづいた。ケガも回復し、食欲も少しずつでてきて、獣医からは治癒が認められた。

 マッくんはやがて食卓や調理台に飛び乗り、「私」の作った料理を狙う。キッチンで悪さのやり放題、手におえないマックにもどった。『多少病んで、おとなしかったマックが、今は、懐かしく思える』と結ぶ。病気と健康をみる、人間の目の違い。そこに普遍性が感じられた。

 この作者には、読者を一気に作品に引き込む構成力が備わっている。マッくんが最悪の死に至る状態になるだろう、と読者に予測させておいて、最後には逆転し、健康体になる。巧い。


青山 貴文   倉庫整理  住み込み店員時代(4)


 大学浪人だった頃の、酒屋の住み込み店員を描きつづけている。連載ものだから、「私」への感情移入がすでになされている。浪人の精神的な圧迫とか、店員の日々の苦労が、さも我がことのように思えてくる。
 店員の仕事のなかで、配達は大変な仕事だという。それでも、配達先のおばさんたちと会話とか、戸外に出る自由が享受できたとか、気持ちにゆとりがあった。

 過酷なしごとは、2~3日ごとにまわってくる、夕方の西側に面した倉庫の整理だった。真夏の西日の差し込む倉庫は、湿気が多く、異臭がして、暗い蒸し風呂のようであった。そのうえ、多くの蚊が襲ってきた。
 この状況下で、「私」はまず醤油、酒、ビール、サイダーなどの空びんを色別、大きさ別に、木箱に入れるのだ。そして、身軽な「私」は4メートルもある天井に届くほど高くつみあげていく。足をかけた木箱のなかには、壊れそうなものもある。足元がぐらつく。実に危険である。下から先輩たちの指示に従い、オラウンターのようにゆっくり動いた。

『粉塵で汚れた汗が、首筋から二の腕をしたたり落ちる。シャツは汗と粉塵でくしゃくしゃになって身体にまとわり着いた。薄黒い脂汗が目や耳や、鼻や口や、顔の中のいたる穴に入ってきて、真っ黒になる。気持ち悪く逃げようにも、下からは店主や先輩が見ているし、どうにもならない。頭がボーツトなり、手足はだるくなり、身体はへとへとになっていく』という体験がなければ、書けない緊張がつづいていく。ギブアップ寸前に、絶妙なタイミングで「一服するか」と声がかかる。読者までも、安堵をおぼえる。

 店員時代の体験が大学を卒業し、鉄鋼関係の職場に就職し、過酷な粉塵高熱職場でも生かされていくのだ。『人間、一度過酷な条件を克服すると、それ相当の条件はこなせる』と過酷な倉庫整理が「私」の大切な財産になったと語るのだ。
 読者にとっては倉庫内の高所作業の臨場感と緊張感がある、読み応えのあるよい作品だ。


二上 薆   お習字


「私」は書の展覧会に出むいた。ビルの地下街は賑やかな商店が並ぶ。書の展示室だけが別世界のように静まり、心に滲み入る空気を感じさせた。
 展示室にはむかし風の行書、草書的な書もある、抽象画のような作品も多くあった。よく見ると、それぞれの書から「私」に何かを語りかけてくるように思われるのだ。
「書の展覧会は、まともに見たことがありません」
と前置きした「私」は書家から、教えを乞う場がもてた。
「必要なだけ、墨を刷り、筆に含ませてさっと書きます。摺った墨、墨汁と比べて輝き、光が違います」

 そう語った書家の作品を見た。『一期一会』には厳とした言葉のなかに、ほんわかとした香りが漂う。『竹』という作品にはスパッとした切れ味があった。ともに、明るさと温かさが感じられた。

 言葉という信号。文化・文明は人々に永年培(つちか)われた習慣・歴史から形成されてきた。書をみる「私」は改めて、象形文字から進化した、日本の漢字の素晴らしさを感じ取るのだ。記号の塊のアルファベットとは、まったく違うものだ、と述べる。

「私」が小学生のころ、『お習字、筆と墨を竹簀のような筆巻きに託して持ち、硯に墨を刷り、紙を広げて一気に筆を走らせた』という思い出にもさかのぼっている。

 他方で、わずか数十分の書展の鑑賞で、『人が人らしく生きてゆく』そのための聴覚・視覚・味覚の意味と大切さを改めて思うのだ。文字は文明、文化と深く関わる。それらの論旨には味わいと説得力がある作品だ


濱崎洋光  釈迦の掌で

                       
「私」は入院中であった。七夕が近づいたある日、看護師が七夕飾りの短冊を持参してきた。
「この短冊に願いを書いておいてね」とベッド脇のテーブルに置いていった。
 仄かな青竹の葉の香り、笹の葉のさらさら、という軽やかな響きには感動を覚える。同時に、幼い頃が「私」の脳裏を横切った。笹の短冊には願いを記し、星に成就を祈ったものだ。

「私」の想いが天体に輝く、星へと展開していく。人類は多くの星と関わりをもってきた。海原での標識、星座と神話、星座や星の運行で運勢、さらには農耕の吉凶をも星で占っていた。

「宇宙の大きさはどのようなものだろう」
「私」の思慮が広大な宇宙に及ぶ。人類は太古の昔から、宇宙の大きさ、無限の広がりを認識していたという。その宇宙に畏敬の念を持って、人々は昼に太陽を、夜空に星を仰ぎ祈った。

 こんどは、「私」の思考が、小さなナノメートルという微細な世界に及ぶ。人間はこの世界を操作し、遺伝子組み換える。
「極小の世界から人間を見たら、人間は巨大な化け物か?」
 これは空想、いや妄想と言うものか、と病床の身で、「私」の考えは浮遊していくのだ。

 1970年の頃、幼稚園生の娘とともに、河川敷から夜空にかがやく星をながめていた。東京の夜空には、まだ数多の星を仰ぐことができた。
「お爺ちゃんはどのお星様に成ったのかな?」と娘がいった。

「私」はやがてベッドの七夕の笹に、気持ちが戻ってきた。一日も早く健康を取り戻し、涼風の中で美味いビールを飲みたい。その願いから短冊には「七夕に病床の夢ビヤガーデン」と記した。

 一つひとつの話題には説得力がある。病身だけに、話の展開が多岐にわたる。それが理解できる作品だ。残念なのは、タイトル「釈迦の掌」の意味がわからない読者もいるので、作中に一度は出して展開してほしかった。


和田 譲次   「続」 私もがんを手術した

                    
 直腸がんの手術から1週間すぎて、退院が目前だった。そこからの連載だ。 『彼ら(泌尿器科の医師)は、私の陰茎の先から、膀胱鏡を押し込み、モニターを見ながら膀胱内を検査している』。両足を上げた「私」は、2人の医師の会話をじっと聴いている。
「大きくなりすぎていますね」
「人相も悪いな」
 医師のやり取りから、すべてを悟った。「私」は、自分の不運を嘆いた。
 昨日、家内には、癌がリンパ節に転移していない、と話したばかりだ。家内にはどう説明するか、迷った。

 医師は、このまま入院していれば、一周間後に手術が可能だという。とんでもない事態になった。冷静に考えてみたかった。とりあえず退院して、自家で心身のリフレッシュが必要だと判断したのだ。

 一時退院してきた「私」は、がん験者や、医学の世界に精通している人の意見を聞いた。インターネット上でも多数の情報に触れた。情報の渦の中に巻き込まれてしまい、判断基準を見失いかけていた。

 最後は私自身が決断を下さなければならない。1日好きな音楽を聴いて過ごした日、夜になって、本来の私を取り戻せた。

『70年の人生を振り返ると、仕事も生活も人間関係の上に培われてきた。今日自分があるのは多くの方々のお陰だ。とくに依頼したわけでもないのに、時間をさいてがんを見つけてくれた若手、外科医のスタッフ、泌尿器医たちの協力から、『膀胱がん』が発見できたのだ。これら医師を裏切ることは出来ない。決して一流とはいえない当院だが、ここに全面的に任せようと決めた』
 そう決断した後、「私」には晴れ晴れしい気持ちが戻ってきた。

 膀胱がんが大きいので、1回の手術では取りきれなかった。深刻な状態だった。膀胱内の組織の部位からがんが見つかった、と聞かされた。
「常識的には、膀胱を全部摘出します。生活面では不便ですが、がんの転移を食い止める必要があります」
 という説明で、奈落の底に突き落とされた心境となった。

「出血や膀胱膜の破損などのリスクが伴うが、もう一度メスで、削るか。効果は薄いが放射線治療を取るか、それとも、ここで膀胱を取るか。2、3日以内に考えて決めてほしい」
「もう一度削ってください、リスクは覚悟のうえです」
と即答した。
「4月から母校で教職につきます。ですから、このオペが臨床医としての私の最後のしごとです。医師人生で得たすべてをこれにかけましょう」
主治医がいった。

 手術から3日後、主治医が検査の結果を伝えにきた。ニコニコしている。
「良かったですよ、がんが見つからなかったです。削り取れましたし、電気メスで焼き切れたころもありました」
ふたりは思わず抱き合った。

 ガンと戦う緊迫感がつねに読者を引っ張っていく。『膀胱を執るか、残してリスクを背負うか』と、患者の「私」に決断を求められる。精神的な圧迫と苦悶が読者に伝わってくる。病気とは距離感をおいた、作者の観察力が優れた、完成度の高い作品だ。


奥田和美  くそばばあ

                         
 まだ40歳になっていなかった。他人から「くそばばあ」と言われたことがある。興味深い書き出しだ。
 法務局の狭い駐車場の出来事だった。10台分の駐車場は満車だった。「私」たちには駐車するスペースがない。「用事はすぐ済むから、車の番をしてくれないか」と夫に頼まれた。夫は法務局の建物に入っていった。「私」は運転席で、駐車場の出入口で順番を待っていた。

 30分ほど待って、やっと自分の車を置くスペースができた。ゆっくりと前に進み、お尻から入れようとギアをバックにした。軽ライトバンがすっと頭から入ってしまった。弁当屋が昼食の弁当箱を回収に来たようだ。
(何、これ)
 私は怒りをおぼえた。
 ライトバンから18歳ぐらいの男が降りてきた。彼は「私」より一回り大きかった。彼は法務局の方に行こうとした。
「私」は自分の車から降りて、抗議した。
「30分も順番を待っていたんだから。ねえ」
次の順番を待っている車にも同意を求めた。
「知らねえよ。空いていたから止めたんだよ」
と男はどんどん歩いていく。

「私」はあとを追った。さらに苦言をいった。
 男は知らん顔して法務局に入ろうとした。私は男を必死に摑まえて、建物のなかに入らせなかった。警備員が来たので訴えた。65歳ぐらいのひ弱そうな小柄な人だった。
「ここの駐車場は狭いんでね。お互いに譲り合って、お願いしますよ」
 警備員は役立たなかった。
「私は30分も順番を待っていたのに」
 とルール違反を責め立てた。
「くそばばあ、口を閉じろよ」
 男は捨て台詞を吐いて車をどけた。夫が戻ってきたので、駐車をする必要がなくなった。結末では、「くそばばあ」とを言われる歳になったのか、と複雑な心境を語る。

 作品は緊迫感がある会話が連続する。この作者の持ち味だが、一気に引き込
まれる作品だ。同時に、「私」の勇気にはおどろき、敬服させられる。


塩地 薫   蘇った記念写真


 北京観光ツアーの最後の夜で、スリに遭った。作者はそれを克明に展開させている。盗難に遭ったのはデジカメだった。
 紅劇場で、カンフーショーを観た。同行10名のうち1組の夫婦が集合場所のロビーに約束通りに来ないことが起因している。劇場の出口あたりは帰り客で混雑していた。
旅行会社の手旗を掲げた女性ガイドが、「劇場の外で待っているかもしれませんよ」といい、全員が歩道への階段を下りていった。そして、人の流れの邪魔にならない位置で、一組を待つ。

 約束を守らない夫婦が劇場から出てきた。ガイドが「では、行きましょう」と「私」の前を通りすぎた。この瞬間、得体の知れない手がバッグに伸びてきた。その手を払いのけた。左肩にかけたバッグの留め金がすでに外され、デジカメが失くなっていた。
「ショーを観た座席に置き忘れたのでは?」
 現地ガイドが言った。
「私」はショーの開幕シーンをデジカメで撮った。すると、係員が懐中電灯を「私」に向けて、撮影禁止のゼスチャーをした。バッグの中にデジカメをしっかり納めた、という記憶には自信があった。
「忘れたり、落したりしたのではない。盗られたのです」
そう確信をもって答えた。他方で、警察に届けてもムダだと観念した。

 ここから、「私」はスリの犯行の場所とか、手口とかを推理する。約束時間に来ない夫婦をひたすら待つ。観劇を観終わった人の流れのなかで、立ち止まっていたのは「私」たちグループだけだった。何者かが好都合な標的として狙ったのだ。
 ガイドから再三、「貴重品には十分気をつけるように」と実例を挙げて聞かされていた。「私」はそんな手には乗らないぞ、と思っていた。バッグに左手をのせていた。その手を外させて盗んだのは、やはりプロの仕業だ。

『誰もが約束場所に遅れず、全員が人の流れとともに帰っていれば、デジカメの盗難被害はなかっただろう』
 デジカメ買えばよいが、512枚撮りメモリーカードの記録は、買いたくても買えない。金婚記念に、と夫婦並んで撮った、五つの世界遺産での写真も、悔しいが、すべて幻となった。

『翌朝、ガイドの助手が「私」に一冊の観光アルバムを渡してくれた。それは、5つの世界遺産などで撮った、私たち夫婦だけの写真8枚で編集されたものだ。北京ダックを食べている写真も含まれている。それが一枚800円、8枚で6400円。一度は幻になった記念写真が蘇った。
 デジカメ窃盗事件はここで終わっている。

 金婚記念の夫婦の写真が喪失した心理と、盗難事件が重なり、作品に深みを作っている。ラストで写真を売りつけたガイド助手が、スリ団の一味か否か。それは読者の想像に任されている。


上田恭子   私は体育系 

                       
 小学生の頃の私は、学校の勉強と塾通いで、運動の楽しさを知らずに過ぎた。女学校でバレーボールの魅力を知り、やがてママさんバレーへと進んでいく。これらの推移の動機や背景が描かれている。

 女学校に入学すると、バレーボール、バスケット、水泳、陸上などの各部から勧誘がきた。仲良しの友だちがバレーボール部に入ったことから、「私」も一緒に入った。授業が終わるのを待ちかねて、運動着に着替えて校庭へ行く。3年生には「岡ちゃん」という可愛く、みんなが憧れる先輩がいた。それもバレーボール熱に拍車をかけた要因のひとつ。

 1年生は円陣になってパスの練習。2年生になると、九人制コートで練習に励んだ。後衛のライトに入れてもらえた。ある日、相手コートから来たボールを必死でレシーブした。練習後には先生から、「さっきのレシーブはとても上手だった」と褒められた。
 それ以来はバレーに明け暮れる。成績は下がるけれど、夕暮れに、友だちとおしゃべりして帰るのは楽しく、生きがいになっていた。

「私」は結婚し、子を持つ身になった。下のわが子が一年生だった。PTA「厚生部」の部長が学生バレーの経験者だった。部長は校庭にコートを作り、PTAバレー大会を開催した。バレーボールを触らなくなって歳月が経つ。「見ているだけでは楽しくない」と「私」親として参加した。
「サーブが面白いように入って、たしか、準優勝した」
 と記憶している。
 それから本格的なPTA「バレー部」ができた。小学校に体育館ができると、日体大の男子にはコーチをしてもらい、大田区のPTA大会に出場した。

 わが子が中学生になると、その中学でもPTAバレー部ができた。男性の教員が指導してくれた。このように子どもの進学とともに、バレーに取り組んできた姿が描かれている。
 子どもたちも各学校で、バレー部に入り、厳しい指導に耐えてがんばっている。大会があると、母親の私は、「あちら、こちらと試合のある度、親ばかは追っかけをして見に行った」と熱意をあらわにする。

 今年のオリンピックの予選は、手に汗を握る熱戦で、出場権を確保した。男子も女子もオリンピック出場というのは、何年ぶりの快挙だろうか。私の熱い血がたぎる。

 作品では私の「バレーへの熱意」が終始一貫して描かれている。ただ、描かれた時代のスパンが長すぎて、エピソードが盛り沢山となり、絞込み不足の感がある。それでも、友だちや家族(子供たち)との快い人間関係が、この作品の下支えになっている。


中村 誠   抽象画は苦手だ


「私」は家内と品川区・大崎の美術館に出かけた。クラブ間の女流画家の展示会だった。女流画家の出品は油彩、水彩、パステル、彫刻と幅広く、手広い活動を知り感心されられた。

 ここ数年、彼女は抽象画に没頭している。「私」は会場で観る抽象作品にたいして心がピンと響かず、作者の心象を表現も読み取れず、どうも肌に合わない、と苦手意識をもってしまう。
 山岳のパステル画の1点は、暖かく感じられた。プロの女流画家に、それを賛美し、抽象画はどうも苦手、と思わず本音をもらした。彼女は、以前には無い、何かを感じ一気に描いた、と受け入れてくれた。

 家内が展示品のなかから、その画家の海外旅行の絵日記を見つけた。家内も絵日記を描いている。ふたりは話し込んでいた。「私」は絵心を持つひとを羨ましく感じた。

 会場を後にすると、家内からも、抽象画の理解は難しいけれど、色は参考になった、という話題がでた。後日、Hさんから礼状を受け取った。「私」の一言、「抽象画は苦手」が気にさわったような文面が織り込まれていた。

 濃密な文体で書かれた作品で、登場する3人がよく立ち上がっている。主人公の「本音」が作品を強くし、品質を高めている。


藤田 賢吾   墓参り


 お盆が近づいた。母はいつも、お盆は正月と同様に重要な行事だ、と説いた。
 子どものころの、お盆の朝は枕元に真新しいシャツ、下駄が用意されていた。それを身につけて炎天下、3、4キロ先の父方の墓に参る。
 子どもにとって、父方の墓地は格別におもしろくもない。母方の墓地は海に面した墓地で、砂地で育ったおいしいスイカが食べられた。双方の違いが鮮明に残っている。

 妻の祖母が、わが家に来た。その苦節の人生が描かれる。祖母は素封家の長女として育った。実家は東京大空襲で焼かれ、戦後の不在地主政策で広い土地が奪われた。疎開先の福島で、夫まで立たれた。子どもも亡くした。
「千葉で眠る、3人の子どものお墓参りに出かけたい」という。墓は千葉・香取郡にあって、何年も参っていないと話す。「私」はその話にのり、妻と三人で一緒に出かけた。

 丘の中腹に、子どもたちの質素な墓があった。「私」は郷里のりっぱな墓と比べ、心が痛んだ。帰宅後、祖母に新しい墓を作るように勧めたが、気乗りがしない態度だった。墓なんて大嫌いなのだ。これらの墓が富士霊園にできたのは、祖母が亡くなってからだ。

 妻の父が故郷の佐賀・唐津のお骨を引き取りたいという。町工場を経営していたが、経済的に苦しい時期だった。「私」は妻と三人で、唐津に出かけた。唐津は、妻にとっても初めての地だ。義父は郷里の唐津を自慢げに案内してくれた。お城が、あたかも鶴が舞い降りたような形になっている。これら毎鶴公園も一緒に歩いた。

 6体の遺骨を持ち帰るさなか、羽田空港の税関で「それは何か」としつこく問われ、骨壷を見せる羽目になった。そして、鎌倉霊園の墓に納まった。

 07年には妻とともに、妻の曽祖父・阿部徳吉郎の墓参に出かけた。3度目だ。場所はアメリカのバージニア・リッチモンドだ。100年前、徳吉郎は大蔵省葉煙草専売局の役人としてフランスを訪問した。その後、アメリカに留学の途中、病気で帰らない人となった。

 バージニアでは「私」の大学友人の家に泊めてもらった。その友人が歴史図書館に案内してくれた。阿部徳吉郎に関する資料が20ページほど保管されていた。100年前の資料に驚き、全部コピーして持ち帰った。思いがけないお土産となった。

 墓参りに対する思い入れが母譲りであり、一つひとつが丁寧に書かれている作品だ。それぞれに含蓄ある内容となっている。阿部徳吉郎はふくらませてほしい素材だ。


吉田 年男   南台商店街


「私」の日々の散策には工夫がなされている。往きと復りは道を違えてみる。おなじ道を通るならば、行きが右側なら、帰りは左側を歩く。見る向きが変わると、多少なりとも、違った景色に見えるし、新しい出会い、新しい刺激があったりするからだ。

 ある日、「私」は自宅から40分ほど歩いた。中野通りの坂を上りきって、南台三丁目の交差点に着いた。その先に『南台商店街』の看板が目に留まった。「私」は以前から、商店街に興味があった。定年後、電気工事士の免許を取得のために、赤羽の専門学校に通っていた。通学路には、大きなアーケード街の『十条商店街』があった。コンビニらしきものが一軒もなく、自営商店ばかりだった。昔ながらの活気と、人間のくもりがあった。

『南台商店街』はアーケードもなく、ごく普通の商店街にみえる。何となくいい感じに思えた「私」は歩いてみた。ここにもコンビニがない。

 新発見となった『南台商店街』について、『地元の人たちの固い結束の姿勢が伝わってくる。八百屋さん、肉屋さん、惣菜屋さん、そして洗濯屋さん。それぞれがしっかりと店を構えている。活気のある店主の掛け声、昔ながらの商店街の原風景があった。昔の香りがして、連帯感が漂う、いい雰囲気』と作者は思いを書き込んでいる。

 コンビニ、大型スーパーは商品の並べ方も、接待の仕方も、便利さを追求しすぎて、味も素っ気もなく、ひとのぬくもりも感じられない、と「私」の思慮は展開していく。賞味期限切れ商品の膨大な廃棄、地域発展には無頓着、利益のみを追求する姿勢。そこにはやさしさ、温もりが感じられず、街並みや人のこころまで変えてしまっている。
 昔の香りがする『南台商店街』は忘れかけている、大切なものを教えてくれた。「私」はこころが和むのだ。

 新旧の町の情感がしっかり書き込まれている。作者の想いと考え方が伝わってくる作品だ。


森田 多加子   若者のやさしさ


「私」がふだん乗り換える上野駅の構内はいつも混雑している。どこを歩いても大勢の人だ。身体が少々ぶつかったくらいでは、たがいに何も言わないで通り過ぎていく。そういう世相になった。

 ある日、地下鉄に乗り換えるので急ぎ足だった。すれ違う男性と右腕が触れてしまった。「ごめんなさい」と双方から同時に声が出た。(おや?)と思って、振り返った。相手もこっちを見ていた。互いに良い会釈をした。

 渋谷の街で『たばこと塩の博物館』の道順を大学生らしい3人の若者に訊ねた。「こっちです」と、5分も歩く目的地まで連れていってくれた。青年の態度には恐縮してしまった。

 地下鉄に乗った。隣の席で20代の男性が携帯を使う。地下鉄では『圏外』だけど、使えるのか、と不思議に思って青年に訊いてみた。電車が駅に停まるとネットにつながるから、メールを作っておいて停車すると送る、と教えてくれた。話は弾んで、笑い声が出るほどの楽しい会話になった。

 手首を傷めたので、包帯をしてコンビニにでかけた。レジ係りは、高校生のアルバイト店員だった。坊主頭である。「痛そうですね。大丈夫ですか?」と可愛い笑顔で訊いてきた。「私」はあわてて顔の筋肉をゆるめて答えた。「ありがとう、大丈夫よ」。

『(今時の若いものは)とよく言われるが、そんなことはない。やさしい若者がほとんどだと思う。それを表わすきっかけさえあれば、充分優しさは持っている。それを引き出すのは、歳をとった私かもしれない』と結ぶ。

 一つひとつのエピソードには、小さな人間愛が感じられる作品だ。年配者が「若者」を再評価する。それを体験で示す、切り口の良い作品だ。

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