A020-小説家

第15回 『元気100エッセイ教室』作品紹介・

 教室の冒頭30分間は、テクニカルなレクチャーをおこなっている。今月は散文にとって最も大切な『視点の統一』について。エッセイはほとんどが一人称だから、「私」の視線と目線の統一は不可欠だ。当然ながら、他人の心に入りたい場合がある。そのときは推量、推測、印象、確信で書くことだ、と強調した。


 視点が狂うと、作品は大きな瑕疵(かし)になってしまう。
 書きなれた人でも、ときにはこのミスを犯すことがある。それだけにふだんの執筆から『視点の統一』を頭の中心にしっかりとどめておく必要がある。

 今回の提出作品は13作品。教室に不参加者の批評、コメントは行わないというルールがある。それに準じて、欠席を除いた12作品を紹介する。

奥田 和美   シニア留学(一緒に行った人達)

 ニュージーランド・ロトルア留学に5人が参加した。18歳から65歳まで。一人ひとりのエピソードから、留学グループの全体像を描く作品だ。

 勝浦市のカズ(65)は勉強好きで中国語、韓国語を習得している。韓国の大学に留学した経験がある。息子の嫁がブラジル人なので、英語が出来るようになりたいと思って参加していた。

 名古屋市のタカ(63)は人材派遣会社でスタッフを派遣する仕事だ。「留学図書館」の代表が書いた本を読んで、彼女は参加を決めた。タカは夕食の後すぐに自分の部屋に引きこもる。せっかくのホームステイなのに。家族と話さなければ、英語は上達しない。本人どころかホストファミリーも楽しくなくなってしまう。

 津市のキミコ(60)は夫の経営するユニフォームの縫製会社を手伝っている。
5歳の孫と一緒に海外旅行をするのが夢。そのために英語を上達させたくて参加したという。小柄でスポーツ万能。イエス・ノーのはっきりした気持ちの良い性格の持ち主だと紹介する。

 清瀬市のリカコ(18)は高校を卒業して海外留学を志している。今回は体験留学という。初めてのことなのでお母さんが成田空港までついてきた。ずいぶんと恵まれたお嬢さんだと思った。

 神奈川県川崎市の私は58歳。留学生のホームステイ先でのエピソードを紹介しながら、「私」がコメントしていく。エピソードを通した留学生たちの性格が上手く描かれている。留学は意欲しだいで、収穫が違う、という点にまで及んでいる。


吉田 年男   愛犬「レオ」


 愛犬と「私」の心のふれ合いをすがすがしく描いている。
「私」の家には、娘に置いて行かれた、ミニチュアダックが7年居候している。体重4・8kg。毛色はブラックタンのオスである。「レオ」。名前は勇ましいが、いたって、甘えん坊だ。
「この犬種は脚が短く、胴長なので、お腹が汚れやすいので、本人も判っていて、雨の日は外に出たがらない。たんそく胴長は、物干し竿に沢山の洗濯物を干すように、背中に負荷がかかるらしく、椎間板ヘルニアになりやすい」と動物の習性も紹介する。

 ある晴れた日、電車を利用し、1時間半かけて、荒川の河川敷へ連れていくことにきめた。駅員は「他のお客さんに迷惑をかけなければ、無料でどうぞ」とのことだった。
 ボストンバッグから顔を出す、愛犬はすべてが珍しいのか、キョロキョロして落ち着かない。となりに座った女性に見つめられて、興奮気味。「私」のほうは、駅階段の上り下りに、4・8KGはかなり重い。
 荒川の土手は、近所の公園とは違い、一面の芝生で、野球場が二面あった。愛犬・レオは「狩猟犬で、穴熊捕りの名手である。野生に返ったように、きびきびとした動き、いきいきとした目、近所の散歩では、見られない表情をしている」と紹介し、「家族の一員として、またひとつ、絆が深まったように思う」と結ぶ。
 動物の生態の観察力が優れている。構成がよく、ごく自然にみえるが、綿密に計算された組み立てがなされている。


中村 誠  短 い 避 暑


 今年の夏は、連日30度以上の猛暑が続いていた。そこから作品展開されていく。「私の」盆前、家屋全体をビニールシートで覆う塗装が予定されていた。夫婦はとても我慢できないだろうと逃げ出す。
特急列車「あずさ号」に乗り込む。真っ青な空、入道雲、八ヶ岳の山並みの旅情が描かれている。「私」は句会に出す自由句をひねり出した。

    山並みを前に押し出す雲の峯

 家内のコメントは「良いじゃないの」と誉めてくれる。幸先よく旅の一番目の収穫だ。茅野駅からはレンタカーに乗る。強い日差しだが、湿気が低いのでサラリとした暑さ。冷房が嫌いなので、車窓を開け放して蓼科にむけて快走する。街なかや畑を抜けると、山の麓を過ぎ、九十九折の坂道を登る。木々の香り、空気、自然の冷気に感謝する。やがて目的地の親類の古い山荘だ。

 木陰では長袖シャツろがちょうどよい。蛇口の水は手が痛いほどの冷たさ。「私」の開放感が綴られる。5日間の避暑生活が簡素にして、的確な情景文で描かれている。同時に、夫婦の会話には妙味がある。


二上 薆   蒼い海 三浦半島海歩き、最後の海軍大将井上成美


「私」は友人に「何年かかけて三浦半島海岸を一周」の十数キロのハイキングをおこなう。三浦半島の荒崎海岸には『最後の海軍大将井上成美』の旧邸があった。海沿いの崖の上には竹薮と小さな林が見えた。塀はなく古びた門柱だけが二本残る。
 今から3年前、井上大将記念室などが備えられた。『当時の煤、汚れをつけた暖炉はそのまま残され、庭先から目の下に一望の相模灘が広がり、庭に一株の大きな蘇鉄が昔を物語っている』と作者は情景を描く。

 井上大将は戦争末期、海軍兵学校の校長だった。「戦争は何時か終わる、若者は社会に奉仕するために、英語教育は止めてはいけないと明言した」という。校長から海軍次官となった翌年、敗戦となった。
 太平洋戦争には反対。日・独・伊三国同盟は反対。それを信条としながらも阻めなかった人物だと紹介する。敗戦後は一切の要職に就かず、この地に静かに隠棲し、地域の人には英語を教え、86歳で生涯を終えている。

 宮野澄著「最後の海軍大将井上成美」、阿川弘之著「井上成美 新潮社」などでも取り上げられた人物。「知る人ぞ知る仁徳の人であった。さらには昭和の末期、で著名となり、昭和の日本軍人中の良識の一人とされている」と作者は説明する。

 三浦半島のハイキングは、鎌倉時代の運慶の仏像がある常楽寺、郵政の父と言われた前島密の墓などをまわる。他方で、作者の史観が述べられる。


上田 恭子  主人退院後

     
                
 夫の介護のシリーズものだ。
 平成10年の夏、病身の主人を連れて湯河原の保養にいった。10月には日帰りのバスツアーで昇仙峡に行った。
 翌11年1月には2泊3日で沖縄に行った。そこで夫の異変に気づく。深夜、部屋のドアがノックされた。ドアを開けたら主人が呆然と立っていた。
「トイレに行こうと思ったけれど、分からなかった」と夫はいうのだ。単なる寝ぼけた行為ではなかったのだ。病状の予兆だった。
 同12年から、「旅に出ると疲れ果てるから、もう止めると夫はいう。それでも日常からたまに離れたい「私」は、吉野千本桜とか春日大社万灯神事とかに、夫を連れて行った。
旅と夫の看病、さらに病状が悪化する状態が描かれている。『そんな日々が、今から思えばまだ幸せだったのだと思う』と作者は、さらなる介護の苦境を予告する。


森田 多加子   小さな光の祭典


 9月の日曜の夕刻から、市の商工会青年部が主催する、『自転車のペダルをこぐ脚力で、発電させて、光を作り、どれが一番美しいかを競うイベント』が開催された。観客は100人くらい。出場した自転車は9台だった。

『競い合うのはスピードではなく風情です』
 日没後、自転車が闇の中を走るとぼうっと光が浮かぶ。趣向を凝らした光の饗宴になる。『宇宙の正座に見立てたもの、アニメのキャラクター、七輪で秋刀魚を焼きながら走らせたもの』それら自転車が、音楽に乗って観客の前を往復する。あるものは薄いブルーとピンクが混じりあった色が放つ。
 自転車で演じる人は、歓声の中を二度も誇らしげに往復する。「私」は思わず立ち上がって、手をたたいた。

 デモンストレーション後、自転車が中央に勢ぞろいした。観客がまわりに集まって品定めする。走行中は光しか見えなかったが、それぞれが発電の工作に凝っていた。『私』は夫と発表を待つ。この間に、『光る棒状』のお土産をもらった子どもたちとのふれ合いを描く。素材がよく、楽しげな雰囲気が伝わる作品だ。


山下 昌子   女の生き方を考える ㈤ ―青春時代の宝物―


 昭和31年から4年制の女子大生活を送る。制服・校則・カリキュラムなどあまり自由がなかった。卒業時には立派な良妻賢母の女子になるような教育だった。学長による貝原益軒の「女大学」の授業もあった。価値基準が少し時代とずれていたという。
 それでも、女子大生は恋愛の話をしたり、文集を作ったり、英語劇を上演したりもした。『議論する友人たちには、誰も恋人もいなければ、恋愛経験もなかった。本から得た知識からの空想、想像だけの議論だった』という。

 英米文学科の教授陣には、卒業生のほか、外人講師や停年を迎えた有名大学の名誉教授を招いていた。「星の王子さま」を日本に紹介した内藤濯先生。二人の若いフランス語講師と学内を歩いているだけで、珍しい光景で、学園の噂になった。

 早大の本間久雄名誉教授は、ルネッサンスの講義だった。『先生のお宅へ伺っては本を借りたり、色紙を書いていただいたりした』と思い出を語る。
 卒論はアメリカ文学を選んだ。比較文学で著名な太田三郎教授が担当だった。銀座で小坂一也の「ウエスタンカーニバル」を見せてもらったり、おしゃれな喫茶店に連れて行ってもらったりした。
 
 夏休みには大学主催のサマースクールに、全員が強制的に参加させられたが、谷川徹三、五十嵐新次郎などの講義が聞けた。『大学外から自由な空気を運んでくる教授たちとの出会いが、私にとって数少ない青春の大切な宝物だった』と作者は結んでいる。


石井 志津夫  シンプル化事始め

 

「私」は還暦で、定年になった。「余生を自在に生きていこう」と考えた。利害得失がなくなった人間関係は、好縁度のある人のみの交流。毎回参加の会やサークルも思い切りよく、いくつかを退会、休会とした。年賀状も、一気には難しいが、徐々に減らしている。

 生命、損保保険は身分不相応に加入していた。ファイナルシャルプランナーの資格者のアドバイスで、見直しした。解約、再契約、保険会社の変更など3分の1の掛け金で、済むようになった。年金生活者には大変ありがたい見直しだった。

 整理の好きな妻から、催促を受けていた会社関係の書類、書籍、雑誌類は半減できた。ファイルが30個あまり空になった。使用頻度が減ると予測できる、背広、ワイシャツ、ネクタイ、靴は勝手のいいもの、気に入ったものに絞り、大半を処分した。
 作者は他方で、ビデオと写真類、趣味の切手、レコードなどに未練を残すのだ。

 昨年から今年にかけて、シンプル化第2ラウンドに着手した。5年間使わなかったものは「未来永劫使われる可能性が少ない」と判断し、会社関係の書類と、趣味の諸資料も思い切りよく破棄し、日本文学全集・80巻も一度読んだ単行本、文庫本も「ブックオフ」に持込んで処分してもらった。電気製品も使っていないを基準に、すべて破棄した。

 具体的な処分が明瞭に、リズミカルに進み、結末に導く。「捨てる」ことは、なかなか難しい。『冷静にかんがえると、使わないものは、家族にとっても大した価値は無い。使わないものを残して逝くのは、「借金」を残して旅立つようなものかも知れない』と一つの達観に達するのだ。

 無駄なものを抱えて、部屋を狭くしているひとはこの世に多いと思う。「捨てる極意」について、実利的な参考になる作品だ。


青山 貴文  雪見酒


 平成5年。亡父の四十九日忌の翌日だった。母が脳溢血で倒れる。それからは深谷日赤病院に入院して、左半身不随でベッドに寝たきりの人となった。

 半年後からは自宅療養に切り替えた。『母が、いつ発作が起こるかわからないので、1ケ月間は私の妻が添い寝をしてくれた。病状が安定してきたので、母親の1階との間を呼び鈴で結んだ。しかし、母は、一人でベルなど押せず、一度も用を足せなかった』と病状を説明する。

 母は翌年には妻と3人で、ドライブ旅行ができるまで回復した。だが、便所や、風呂など家人の助けを必要とした。言語障害はなかったが、老人性痴呆ぎみで、「私」を実弟と思うことがよくあった。機嫌がよいと女学校時代の歌『流浪の民』や『羽生の宿』などを歌ってくれた。

 平成7年2月。関東一円に大雪が降った日、下の世話を終えた母の寝巻きを着替えさせてから、居間に連れてきた。雪景色の見事さから、母親と雪見酒と洒落込むのだ。いい情景が描かれている。


長谷川 正夫  戦時中に受け取った便り

 
                 
 押入れの片隅から古い手紙の束がでてきた。戦時中に受け取った小学校恩師、学友、父親の3通の葉書、封書だった。「私」の感想を付け加えた作品である。

 発信人の3人は年齢も環境も違う。それぞれ文体も異なるが、3人からは共通のもの、胸に響くものを感じさせる。
 発掘した作者には敬意を表し、『エッセイ作品紹介』の読者には歴史的な素材を提供するために、原文をすべて紹介したい。
    
☆ 東京世田谷区・国民学校(現小学校)の担任の先生。葉書

お便り拝見しました。如何されたかと心配していましたが、お元気の様子でどんなに喜んだかしれません。皆さんの張り切った様子を拝見する度に、力強いものが盛り上がってまいり、頼もしくなって参ります。
当地も爆撃でやられましたが、たいしたことはありませんでした。今後もこのようなことがあるかと思いますが、どんなことがあろうと死守する意気でおります。
ではご健闘を祈り、ご無事で再会の日をお待ちしています。

☆ 陸軍経理学校の学友(21歳)。葉書

貴様からの便り何より嬉しい。今久しぶりに葉書を書いていたら貴様の第二信が着いたので、また書いているのだ。陸軍経理学校の戦友総べて張り切っている。安心されよ。いうまでもなく生ける験ある秋だ。仇をとるときだ。お互いに頑張ろうではないか。俺は生活に自信をつけようとして懸命である。

☆ 中国北京に在住する父親(52歳)封書
前略 益々壮健の由嬉しく存候 愛知県知多半島にて勤務の由、同地は名古屋にも近く候えば、中部日本の守備を一身に負うた積りにて、一意奉公の誠を尽くさんことを祈り候
眼に青葉、飛び交う燕、砂ほこり、は今日の北京の現況なり。小生帰燕後は空襲一回もなし、大雨将に到らんとして風楼に満つの慨あり。
余暇あらば座禅を修せんことを勧む。大事に臨みて驚かず、突発事に当たりて誤らざるは禅の賜にして古来名将の親しみし処なり、青年将校の必須課目たり得んか。                          さらば                   
  
 作者(長谷川さん)は一つひとつに丹念な感想を述べている。3人の気骨ある精神が鮮明に浮かび上がる。読者のために、あえて割愛してみた。


和田 譲次  自国語をもたない国民

                 
 欧米の先進国・スイスとベルギーは自国語を持たない。
 ベルギーは九州より少し小さい国土に1000万強の国民が暮らす。三つの地域に分かれる。フランダースではフラマン語。他の2地区はフランス語だ。

 ベルギー首相の来日レセプションが大使館で開かれた。「私」はその席にいた。同首相のスピーチは流ちょうなフランス語だった。公用語はフランス語なのかと、「私」は理解した。気がつくとギスギスしたフラマン語になっていた。最後の1,2分英語に変わった。
 最初はベルギー人にたいして、最後は日本人を意識したらしい。『一人が三つの言語をリレー式につないで話した例は、私にとって後にもさきにもこの時の経験だけである』。作者は新発見とおどろきの情報を述べている。
  
 ベルギーのブラッセルにEU本部がある。街は人種のるつぼである。母国語を持たない、ベルギー人は外国語を覚えるのが早い。
 2年前、「私」がアントワープにある会社に顔を出すと、受付嬢が綺麗な日本語で挨拶した。日本の若い女性よりもしっかりした敬語を使う。前回、彼女と会ってからまだ2年もたたないのにすごく上達している。

「日本語をどうやって勉強したの」。家でビデオ教材を利用して学んだという。「お休みの日には、時々日本人のお友達に発音を治していただきました」。職場では日本語に接する機会がないけれど、彼女のボーイフレンドの存在が日本語熱をたかめたようだ。

 ベルギー国民には、国境という認識がない。買い物に、コンサートに、と気軽にオランダ、フランス、ルクセンブルグへと出かけていく。横浜や千葉にでかけるような雰囲気だ。ベルギー人としての意識よりヨーロッパ人としての誇りの方が強い。独自の国語を持たないからだろうか、と作者は解析するのだ。

 絵画の世界では、レンブラント、ルーベンスの時代からフランダース派は多くの名画を生み出している。文学の世界ではめにつく作品は何もない。ベルギー文学と言う言葉すらない。風土に固有な言葉がない地域から、は文字で表現する文化は育たないのだろう。言われてみれば当然だが、あらためて新発見させられる。

 スイスも事情は同じだろう。優れた演奏家、特に、器楽奏者を多く輩出している。世界をリードしている演奏者が多い。しかし、作曲の世界をみると、現代に至るまでろくな作品すらない。
『ふだん考えたことはなかったが、日本人は素晴らしい文字と言葉を持つ幸せを改めて認識したほうがいい』と結ぶ。

「言語」という硬いテーマだが、エピソードを築き上げながら、作品を構築している。情報提供が作品を価値あるところまで高めている。


藤田 賢吾   ヤマボウシ


 子どもの頃、盆踊りといえば、必ず流れてきたのが、「越中おわら節」だった。
加賀平野の学校の校歌には、白山を詠いこんだものが多い。「私」の卒業した小・中・高いずれも、白山という言葉が入っている。

 恩師の中村先生は、年に30回も白山登山をしていた。毎年、山頂の消印付き葉書が届いた。一句が墨で書かれている。それは息災の便りを楽しみにするものだった。
 帰省した「私」は一升瓶をさげて中村先生の家を訪れる。「生きているってことは、何か目標をもっていないとダメだよ」と言われた。それを登山にたとえられていた。
 昨年、母の法事で郷里へ帰った。「先生に会ってゆこう」と同乗する妻とともに出向いた。突然の訪問で、しばらく待たされた。頭に手ぬぐいを巻いた元気そうな先生に会えた。妻が「ヤマボウシがきれいですね」と言った。玄関に武士のように端然と座る先生の背後には、ヤマボウシが咲いていた。

 1ヵ月後、中村先生の訃報が届いた。「この前、先生に会ったばかりなのに」と言葉を失った。

 今年5月、散歩中の妻が「これがヤマボウシの花よ。先生が亡くなってもう1年経つのね」と感慨深げに言った。「私」は花の名前が苦手。関心が薄いためか、何度教わっても頭に入らない。このときばかりは、ヤマボウシをしっかり覚えた。

 中村先生の夫人に手紙を書きはじめた。『ヤマボウシを見て、先生のことを思い出しました』と書くうちに涙する。思い出が次々と浮かび、筆が進まなかった。先生の赴任スピーチは、「倶利伽羅峠の山奥から、はるばる加賀平野へ」というものだった。クラスで流行語になった。先生に初めての子どもが生まれたとき、生徒から名まえを募集した。
『先生の肉体は、この世にはないけれど、魂はまだ生きています。思い出す人がいる限り、先生は生きています」と自らを励ますような思いで、手紙を終えた、と結ぶ。

 子弟の関係は、思い出を重ねると胸につよく響くものがある。作者はそれを白山やナマボウシという花の名に重ね合わせている。

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