第14回『元気100エッセイ教室』作品紹介
9月の教室では、「文章のうまいエッセイ」よりも、「味のある作品」を書こう、と強調した。「文章のうまい作品」とは全体に、そつなく、まとまっている。誤字、脱字もなく、文脈の乱れがない。文章を書きなれている。これらは意見を述べる作文、論文、事実を伝える記事などでは評価は高い。
エッセイは「味のある作品」が求められる。全体の文章がごつごつしていても、多少の文脈の乱れがあっても、文体が未完成でも、『光るところ』が必要だ。
「人間って、そういうところがあるよな」と共感と共鳴を覚えたり、「そんなことがあったの」と驚きとショックを感じたりする作品だ。散文となるエッセイ、小説では光るところがあれば、高い評価が得られる。
今月の提出作品は、素材は日常的でも、テーマを絞り込んだ、求心力の強いものが多くなった。他方で、受講者の素材の豊富さにはいつもながら感心させられた。世間ではあまり知られていない材料にも出会えた。
作品紹介は原文を尊重しながら、「光るところ」、心にとどまるところを抽出してみた。
森田多加子 八月十五日
『あの日』になると、いつも決まって思い出す人がいる。
「警戒警報・発令」
「空・襲・警・報」
そのたびに耳をふさいで、小学生だった私は、「私」は頭を地につけ、防空壕で震えていた。幼稚園の仲間のアヤちゃんは、さよならも言わずに直撃弾にやられて逝ってしまった。
叔父は機銃掃射で顔の上半分を飛ばされて死んだ。従妹は泣かなかった。
近所のやさしいおばさんは、下半身裸で屋根の上に吹き飛ばされていた。
いつも遊んでいた近くの神社の境内には、爆弾のあとの大きな穴が三つ出来て、かくれんぼをしていた繁った木もなくなっていた。
子どもの目から、終戦の日を境とした、戦中と戦後がしっかり捉えられている。大げさな言葉がなく、凝縮された文で、戦争の悲惨さが描かれている。
高原 眞 家庭の電話は長電話
家内が不在のときにかかって来る電話には、すかさずビジネス電話の習慣で私は相手の電話番号を聞く。が、[奥様、ご存じでございます]という答えが返る。とくに、オバハンに多い。
ビジネス電話は専ら仕事の武器だが、家庭電話が主婦の専科となると「互いに傷口を舐めあう相互理解」に比重が多くなる。
「留守番電話がありながら、留守番電話にしないのが今の中年女性、それも独り者の人に多いわよ。『留守番電話にしておくと、いちいち聞くのが面倒だし、かけるのが煩わしいの。相手の用事でこちらからかけるのはバカバカしいでしょ。それに料金、こっち持ちだし・・』と言っていたのよ……」
彼女たちの煩わしいという発想がどこから出るのか、私はいぶかしんだ。
携帯電話が普及しない頃、女子大で講義中にオシャベリが多くて困ったことがあった。学生に聞くと[だって先生、私達、友達と逢うのはこの時間しか無いんだもん……]といったのには唖然とした。女子学生のたわいもない雑談の心境は、そのままオバハンの長電話につながるのかも知れない。
作者はいつもながら夫婦の会話、男と女の思考の違い、若者の特徴などを上手く捉えられている。今回もたぶんにもれずである。
山下 昌子 就 職 ―女の生き方を求めて―(四)
そのごろの企業は主に高校卒の女性を求めていた。短大卒業なら採用するという会社はあったが、良妻賢母教育を掲げる女子大に求人は殆ど来なかった。仕事の内容・給料などは男性と大きな差があったし、それ以前に、多くは就職試験を受ける機会さえ閉ざされていた。
男社会で働くなら、女性の特性を生かせる職種はないかと考えた。両親には内緒で東海テレビ局を東京で受験した。最終面接まで辿り着き、旅費・宿泊費も支給され、初めての一人旅で名古屋へ行った。 駅近くの小さな宿の部屋には、簡単な鍵が一つあるだけで、心張り棒が置かれていた。つっかえ棒をしただけでは不安だった。部屋にあった座布団やテーブルなどを扉の前においてバリケードを作って寝た。
それ以前に、札幌テレビの三次試験に落ちており、東海テレビに希望を託していたので、落胆は大きかった。一度は離れてみたいと願っていたのに、七人家族の暖かな家庭が、私の居場所だと諦めるしかなかった。
人生を歩む過程での失望、失意の出来事を直視し、逃げずに描かれている作品だ。就職難の時代。採用試験に的を絞り書き込んでいるので、求心力がある。
和田 譲次 ビールはちびちび飲むものなの?
私は、世界中どこにいっても先ず始めにビールを飲む。人それぞれ好みがあるだろうが、チェコのピルスナータイプとベルギーの白ビールが一押しである。ビールの味はその風土にねづいており多彩である。そして、飲み方も国民性によってさまざまだ。
十数年前、初めてロンドンを訪れた。午前中、会社で打ち合わせをしていた。昼少し前に後輩のH君が声をかけてきた。ロンドン風のランチに誘ってくれたのである。ほかに英国人ふたりを含めた4人で車にのり、市中の伝統のあるパブで降りた。
入り口に近いところで、ビジネスマン風の人たちで込み合っている。
私は喉が渇いていたので、ごくりとジョッキ半分ぐらいを一気にのんだ。
ほかの3人はちびちび飲んでいる。早く飲み干して席に着くのかと思っていたのだが、なにか様子がおかしい。周囲の人たちを見ていると皆、一様にビールだけを少しずつ飲んでいる。つまみのようなものは見当たらない。皆さん楽しそうにジョッキを前に置き語り合っている。時々ビールを少し口に含んでいる
「これがランチビアなんですよ」とHが言った。「ええ、何だこれは」と、思わず絶句した。よく見ると食事らしきものを取っている人は見当たらない。
「イギリス人はビールのときはそれだけを飲んでいます。いまはひるどきなので、このジョッキ一杯を30分でのみますが、仕事の後だと一時間はかけてますね」
一パイント(600mリットル弱)は日本の大ジョッキに近い量だ。が、こんなにゆっくり飲んでいたら、泡も消え気がぬけて味がおちる。
ランチが一杯のビールではおなかがすくはずだが、10時、3時のティーブレークには、会社のサロンにダーニッシュ(菓子パン)やジンジャーブレッド(イギリス名物の生姜味の固めのパン)などが出ていて皆、ムシャムシャたべている。これが彼らのスタイルなのかと納得できた。
海外の風習の違い、解析しながら、ストーリーを運んでいる。イギリスの風習の違い。わが国で、あまり知られていないので、作者の驚きが、そのまま伝わってくる作品だ。
塩地 薫 多摩の横山
わが家の周りの散歩コースに、天王の森公園がある。小さすぎて公園の標識もない。どこから公園なのか仕切りもない。西側は多摩丘陵の尾根道で、交通の便がよいのか、車の往来は思いのほか多い。
40段ほど石段を上がった所は、テニスコート一面ぐらいの広さで、八坂神社という小さな祠があり、その左右に、前回書いた「一等三角本点」と「明治天皇御野立所」碑がある。
一年ほど前、道路脇に「天王の森の由来」碑が立てられた。『標高162メートルで、多摩市で一番高い所にあり、万葉の昔より多摩の横山と呼ばれ、誠に風光明媚の土地である』と記されている。「ほんとうにここも多摩の横山なのかな」と心の片隅に疑問を残した。
「多摩の横山」は尾根続きの一つの山で、「よこやまの道」のあるところだと思い込んでいた。
「二つの橋の所で横山は途切れているのではないだろうか」
「そうね。こんな道しるべもあるし、気になるなら確かめてみたら」
妻がいった。
「でも、案外、多摩ニュータウンの幹線道路をつくるために、尾根を削って、橋をかけたのかもしれない。短い尾根で、そうする方がトンネルを作って保守するよりも、安上がりのようだからね」
歩行者のために人ひとりがやっと歩ける歩道をつけたのも、つい最近である。
「万葉の昔、武蔵国の国府や国分寺あたりから眺めた横山を、同じ場所から今、眺めたらどんなふうに見えるのかな」
「ビルがいっぱい建っていて、見えっこないわよ」
「そうかな。どこか見える場所を探したいね」
その願いは早々と思わぬ機会に叶った。
小学校1年生の孫娘が「競馬場の花火大会を観に行こう」と誘いに来た。東京競馬場の西門は稲城の南武線南多摩駅の隣、府中本町駅から立派な通路で結ばれている。競馬には興味がなかったので、どこにあるかも知らなかった。地図で調べると、我が家から真北に多摩川をはさんで4キロメートルしか離れていなかった。
何気なく視線を上げて、夕暮れが濃くなっていく遠景に目をやった。そこには「多摩の横山」が横たわっていた。細長い梯形状のシルエットになっている。
現地取材が緻密で、複雑な地形が丹念に書かれている。読者にも理解ができる。濃密な文体はこの素材によく合っている。
上田 恭子 後悔先に立たず
二階から降りてきた主人が、座り込んでしまった。
「どうしたの?」と聞いても返事もしない。とにかく腕を支えて下の部屋で寝かせる。主人は心臓が苦しくて、目が回るそうだ。そういえば、人間ドックに入って間なしで、昔患った結核がしんぱいだからと、お薬をもらったと聞いた。
飲んでいる薬をもって、ホームドクターのところに飛んでいく。
「今の年でこんな量飲んだらどうかなりますよ、こちらで処方したお薬以外を飲まれるときは言ってもらわないと困ります」と、いつもはにこにこなさる先生が厳しい表情でお叱りになった。私は当然と思った。主人は昔から薬の好きな人で、何かの薬をいつも飲んでいたので、私の注意など聞くこともなかったのだ。
即入院。生まれて初めての入院で、不安そうだった。けれど、点滴をしているので、その間にと、私は夕食をしに帰った。ほっとしたところに電話。
「帰るから迎えに来てくれ」そういえば、ベットの頭のところに電話がついていたっけ……息子に電話して帰ってきてもらい、二人で病院へ。
「採血の結果が明日でるから、それまでいたら?」といくら言っても、主人は帰るの一点張り。息子が主治医に相談して帰る許可をいただく。
主人は血液が足りないというのか薄いというのか、苦しいらしく、足を揉んでくれ、背中がだるい、という。私は一晩一睡もしないで指圧する。
「もう七十まで生きたんだからいいよ、入院なんてしない」と言い張った。◎
その晩も、だるい、だるいと言い出した。翌朝、よほど辛かったのか、救急車を呼ぶことに同意する。息子が一緒に乗り込んで、私は入院のしたくをして後から車で追いかける。それから三日間、輸血と点滴、おかゆの食事、私は簡易ベットを借りて泊り込み。
結核が心配と、くださったお薬が、年齢に対して多量であったから、主人の胃に穴が開いた。症状がはっきり出ないので、主人は貧血を起こすまで気が付かなかったらしい。薬が好きで、何種類も飲むということの危険性を知らなかったのだろうか。
このことが、後の「アルツハイマー」につながったと私は思っている。
夫の病状と薬にテーマが凝縮されている作品だ。老いれば誰もが経験する。こうした入院騒ぎは身近になれば、よりリアリティーが増すだろう。
中村 誠 百足(むかで)とへびの出現
「あなた、ちょっと来て。百足よ、退治して」
油虫、げじげじ、百足などを家の中で見つけると、私に声を掛けて、家内はさっさと現場から逃げる。誰も気持ちが良いわけがないが、始末をするのはいつも私の役目だ。たまに息子たちが居ても、この役目は私にまわってくる。二人の息子も母親の虫ぎらいの血を引き継いでいるようだ。
「これで今年は二匹目だ」
私はモップを持ち出し、家内が見つけた戸棚を開いた。確かにいる、モップで叩いたが、元気がよく箪笥の横のすき間に逃げ込んだ。これには参った。箪笥を動かすのも一人でやらねばならない。退散した家内を呼ぶことも出来ず、ひと苦労だ。
「駄目だ、何処かに逃げ込んだようだ」
貴方のどじで逃がしたと、睨み付けるような家内の視線を感じるが、どうしようもない。
「居たぞ、こいつだ」
スリッパで踏みつけようとしたが逃げまわる。モップでそっと押さえつけるとその中にもぐりこんだ。「しめた」と、そのままモップを持って百足が落ちないように、二階から玄関まで一目散。
「この野郎」
外のコンクリートの道にたたきつけ、思い切り踏みつけて完全な退治をした。
二、三日あとに家内の声がした、
「玄関を出たところの床下への換気口に、蛇がもぐりこむ途中だったわ。体のはんぶんは入っていたわよ!」
巳年の家内は、先日の百足騒動とは雲泥の違いで声のひびきが、うきうきしている。
「私の誕生日の前日に現れたのも不思議ね、お祝いに来たのかしら」
数年まえに庭の垣根を、蛇が左から右にゆっくりとすべるように渡っているのを見つけた。その時と同じに、家内はにこにこしている。
ムカデと蛇。素材を小動物に絞り込み、読者を脇見させない。夫婦の会話が活き活きしている作品だ。
奥田 和美 電車内でのマナー
二十歳歳ぐらいの外国人の男女が電車に乗ってきた。座席が一人分だけ空いていたので、彼は彼女を座らせた。彼女の膝の上に腰掛けてふざけていた。そのうち彼は電車の床に座り込んだ。彼女の目線に合わせて話をしたかったらしい。ペットボトルとリュックサックを床に置いてお菓子を食べ始めた。近くにいた人達はみな嫌な顔をして、そのカップルを見つめている。五才ぐらいの子がびっくりして見ていた。注意をしたいが私の英語力ではとても出来ない。
「やめろよ。電車の中ではものを食っちゃいけないんだ。子供が見ているだろう」と初老の男性が日本語で言った。
「アメリカでは食べてもいいんだよ」と日本語が返ってきた。
(なーんだ、日本語ができるんだ)
「ここは日本なんだ。日本のマナーを守れ」
「あなた、ここは人が通る場所だから座っていないで立ってください。迷惑でしょう」
車内には少しずつ人が増えてきたので、私も注意した。
「すいているから、迷惑ではないよ」
「すいていても電車の中では立っているのがマナーなの。早く立ってください」と言いながら彼の肩をたたいた。
「たたかないでよ」
「それにあなたが床の上に座ったあと、そのお尻で座席に座ったら汚れるでしょ。もし、あなたのベッドをそのようにされたら気持ち悪いでしょう?」
「僕はアメリカ人だから平気だよ」
「あなたは平気でも、日本人はそんなことしないわ。さあ混んできたから立ってください」
「日本人にもそうやって注意する?」
「もちろんマナーを守らない人には注意しますよ」
「ねえ、仲良くしようよ」と言って握手を求めてきた。
この場の雰囲気をうまく収めようと言う考えらしい。握手した。
この作者はつねにリズミカルな文体で、今回はとくに会話が次々に弾み、一気に読ませる作品だ。
吉田 年男 銀座で見た月
銀座からの帰り道、新橋駅近くで、信号待ちをしていた時、ビルの隙間から、
満月が見えた。その時は、それだけでのことであった。地下鉄に乗ってから、月から発せられていた光が、脳裏に焼きついて、どうしても消えない。それは、ビルの照明、ネオン、信号、車のヘットライトなど、人工的な光が錯綜する中で、ひときわ落ち着いた、静まり返った、優しい光であった。
親の眼差しのようで、今の生活は、それでいいのか。しっかりと、地に足をつけてあるいているか。銀座の月はいまなお私に、何かを問いかけ、かたりかけてくる。私のこころが見透かされているようにも見えるのだ。
近くの公園で見る月、六義園で見る月、向島百花園で見る月、おなじ月なのに、どうしてこんなに、違って見えたのであろうか。
雑踏のなかで、構えも無く、何気なく、見た銀座の月だった。それで、何かを超越した、不動の力強さを、理屈抜きに感じとれたのかも知れない。
一つの象徴(銀座の月)から、心象風景を掘り下げて描いていく、実験的なエッセイだ。これを推し進めていけば、『情景描写と心理描写』の折り重なった作品作りの書き手になるだろう。
二上 薆 夏が来れば 思い出す ―墓参の車窓―
北に向かってひた走る。車窓の両側に広がるのは緑の田園である。白鷺が二・三羽ずつ、絵のようにたたずみ、ぼつぼつと藁屋根の農家が点在する。
昭和一桁時代の後半、小学生の頃、旧盆の前、毎年夏の墓参りであった。
赤羽・大宮間の駅は川口・蕨・浦和・与野の四つだけである。赤羽を出てすぐ左に、線路に覆いかぶさるようなこんもりとした緑の小山が見えた。それが陸軍被服廠であることは後の勤労動員で知った。荒川鉄橋を渡った川口駅近辺には小さな工場らしきものが、ごちゃごちゃと並ぶ。蕨は何処に駅がというような閑駅。県庁所在地の浦和近くなると、やや住宅地の様相を示し、与野を過ぎると、細長い陸橋をくぐる。
幼いころ、岩槻から当時数少ない自動車で、与野の医者井原先生のところへ通院し、それによって小児麻痺らしき病から逃れたという、その時、車が渡ったのがこの細い陸橋である、と母親の説明があった。なぜか車は濃い緑色であったように思う。
大宮から私鉄で十五分。下車駅から徒歩で向かった、菩提寺は鬱蒼たる森林を背にたたずんでいる。母と昔なじみのお寺の大黒様(住職夫人)の御招きで、庫裏に上がり昔話に花が咲く。お茶菓子はいつも田中屋の栗饅頭、それはそのままお土産となって半紙に包んでいただく。地獄極楽の絵が飾られ、ひんやりとうす暗い本堂の御本尊様に手をあわせた。庭先の季節の花を惜しげもなく切っていただいて、それが我が祖先の墓前の供えとなる。
再び大宮へ、一息つき、駅立売りのアイスクリームを買う。甘みもコクも無い氷菓子の舌触りで、義理にも美味いといえないが、その四角い経木の肌触りが今に新たである。
現在の京浜東北線、線路の両側は一面のビル、コンクリートジャングル、赤羽大宮間の駅の数もほぼ倍になっている。白鷺はおろか緑の田圃はいずこにか、明治十六年開業以来同じ路線と聞いているが、特に戦後の環境の変化、同じ路線とは到底思えない。
時の流れとともに変化はやむをえないが、願わくは美しい自然、心の思いだけにならぬように。
墓参にと車窓の情景に絞り込まれた作品。情景描写は濃密です。車窓の風景が一こまずつが、簡素に繰り出されるので、文章にはリズム感がある。
平田 明美 夏の夕暮れの出来事
七月のある夕方、開けていた台所の窓から、得体の知れないものが急に飛び込んできた。バタバタと騒々しい。私は一瞬息が止まった。虫大嫌いな私は、揚羽か、大きな蛾かしらと凍りついた。冷静になって目を凝らすと、小鳥が壁につかまろうとしている。羽を動かして必死だった。私は夢中で大きなハンカチを手に、バタバタしているシロモノをそっと捕まえた。手のひらには暖かさと柔らかさが伝わってきた。グレーの頭とパッチリした黒い目。おとなしく私の両手におさまっている。
私はグレーの頭を見て、飛び込んできたときに、ホコリが頭についたのだと思い、頭をそっとなでてみる。ホコリではなくグレーのうぶ毛がパフのように柔らかい。手の中で安心しきったように動かない。いろいろ迷ったが、とにかく外に出すことにした。猫に狙われないようにと、草をつめたゴミ袋と井戸のモーター箱との隙間にそっと置いた。
夕闇も迫ってきたので、気になって見に行くと、もとの暗がりでジッとしていた。夫が帰って来て、尾長の子だという。「あそこで大丈夫かしら」と不安で聞いた。「お隣の生垣の上に置いたら」と言う。私はすぐ飛び出してヒナをお隣の刈り込まれたばかりの平らな生垣の上にそっと置いた。これで安心。夜中にも見に行った。生垣の上でジッとしている。また一安心。
月日が経つと、尾長が三羽でやって来たり、一羽で来たりして鳴くようになった。「こんなに大きくなりました」と親子で挨拶に来たり、一羽で挨拶に来たりしたのだと思えて、私は、毎朝「ピーちゃんおはよう」とくり返している。あのぬくもりと小さいグレーの頭つぶらな瞳はほんとうにいとおしい。
動物愛護の心が、読者に心地よく響く作品だ。素材選びに成功している。
石井 志津夫(いしい しずお) 野菜生活礼賛 I氏の自給ごっこ④
飯をすませると、40キロ離れた、セカンドハウス「茶論亭」に移動する。翌朝、日の出とともに八積の畑に出かける。朝一番にこだわるのは、暑くならないうちで、私たちが気持ちよく作業ができるからだ。三アールの畑は、夏野菜の旬で、一年のなかでもいろいろ野菜が収穫できる時期である。
なす、きゅうり、ピーマン、シシトウ、ミニトマト、ねぎ、にら、ゴーヤ、つるむらさき、モロヘイヤ、唐辛子など、多種多彩である。
畑の隅に何本か植えた、ブルーベリーも、いまが盛りで、夫婦は肩を並べて素手で一粒ひとつぶを収穫する。
「さつまいもは、ちょっとはやいが、ためし掘りをしてみょうか」
「おおきくなっているといいわね」
ふたりは青々としたつるを、取り除き、三株を掘り出す。一株に三、四本、思ったより育っていて色、形も良い。肝心なのは味がどうかである。ためし掘りした芋の味の楽しみこめて、ミニバケツに入れる。
夫婦して体力的に、二時間が限界、9時前には、朝採り野菜を持ち帰る。
私がサツマイモの天日干し、野菜の整理をしていると、妻は、朝食の準備にかかる。採りたて野菜を使った、炒め物、おひたしに、味噌汁とヘルシー度の高いものが、朝食としてならぶ。どれもおいしい。
「サツマイモで、ふかしいもと、スイートポテトをつくろうか」
私は朝食後を見計らって提案した。
「孫たちの大好物なので、いいね」
妻は、すぐに、ふかしてくれた。
「この味なら合格だね」
と、ふかし芋のあじもまずまずだ。
こんな、二住生活、野菜生活を始めてから、五年がすぎた。
一年中何かしら自分たちがつくった、安全・安心の自然農法野菜が食べられる。その幸せを味わっている。野菜をたくさんとると、ビタミンCがあるから、体にいいといわれる。特に緑や黄色の野菜には、ビタミンB2も多い、そうしたビタミン類とミネラルが健康に役立っているようだ。
耕作の楽しみと、健康のために始めた「自給ごっこ」野菜生活が、家族の健康とふたりの気分転換、生きがいになってきたようだ。
緻密なしっかりした観察力で、無駄がない構成力。夫婦の会話がいい雰囲気の作品だ。
河西 和彦 会社OBの訃報雑感
最近になって、なぜか勤めていた会社のOBの訃報が多く、気が重い。その発端は賀田恭弘さんの急逝からである。六月の「元気に百歳クラブ」のエッセイ教室で賀田さんの急逝を知り、愕然とした。最近まで、一緒に学んでいたからだ。
翌月は賀田さんの追悼文を発表し、「元気に百歳」の機関誌八号にも掲載した。ソニーの偉業を知る人はあっても賀田さんのソニーでの活躍を知る人は少ない。せめて百歳クラブの人には知って貰おうと思い書いた。
職場のOB会から先輩の訃報が届いた。その日がお通夜で翌日が葬儀と知った。発見が遅くて時間的にはお通夜には間に合わず、翌日の葬儀に川崎の溝の口教会まで出掛けた。ホールは満席。出棺まで立ち会ったが、私は長時間炎天下にさらされ、猛暑で体力を消耗した。こんな暑いときに死んでは、周囲に大変迷惑を掛けるので、うっかり死ぬ訳には行かないと肌で体験した。
いろいろなことを体験した。受付で香典を出そうとしたら故人の希望で一切受け取れないと断られ、記帳して貰った御会葬御礼の封筒を開けてみると、喪主の奥様の挨拶状と「私は復活であり、命である。」(ヨハネ福音書十一章二十五節)と書かれた紙の下には、百科事典の上に胡蝶蘭の花の乗った写真の図書カードが挟まれていた。私はまたまた考え込んでしまった。
故人が周囲に迷惑を掛けたくない気持ちは理解できるが、それが双方の納得のゆくものでないと問題が発生する。今回は、私の方には金銭的負担が軽くとも、借りを作ってしまったという、精神的負担が重くのしかかってしまったのである
朝日新聞の惜別の欄には、同時通訳の先駆者である西山千さん。同日の日本経済新聞の追想録にはミスターウオークマンと呼ばれた黒木靖夫さんと、二人の故人が写真入りで大きく載った。偶然とは言え同じ日に同じ会社の二人が載るとは、私は大変興味を持って紙面を見つめた。
西山さんはNASAのアポロ十一号が月面に到達した瞬間をテレビで同時通訳して一躍有名になった方である。国際企業には語学の達人が必要で、三顧の礼で顧問として迎えられた方で、英語で困ったときなど、大変お世話になった。
最近、会社のOBの訃報で気になるのは、故人が周囲に迷惑を掛けたくないと香典を受け取らない風潮がでてきたことである。双方が納得の行く旨い方法は無いものかと、真剣に考えるようになった。自分も後期高齢者なっており、明日はわが身と思うからである。私も自分流に人生の後始末をスマートなやりかたで締めくくりたいものだ。
作品には得体の知れない寂寥が全体に漂う。人間の死。それは避けて通れないもの。距離をおいて、自分の後始末までしっかり見つめている。