A020-小説家

ノンフィクション・8月学友会  徳川幕府はペリー来航の50年前からアメリカと貿易していた なぜ学校教育で教えない?

 学友会は1年以上が経つ。幹事はごく自然に持ち回りとなった。メンバー5人は『類は類を呼ぶ』で、揃いにそろって他力本願、かつ無責任な連中ばかり。なにごとにもツメが甘い。かならず陳腐な出来事が起こる。
「次回は大宮だ、いい居酒屋がある」と焼芋屋の鳴り物入りで決めていた。元蒲団屋が7月の開催日を勘違いし、出張を組み込んでしまったことから、仕切りなおし。8月9日17時、集合場所は大宮駅『みどりの窓口』となった。

 幹事は旧岩槻市と旧与野市に住む2人、それに居酒屋を指定した元焼芋屋が加わった。学友会メンバーが5人なのに、幹事が3人というバランス自体にも問題があった。それが詰めの甘さになり、8月の集合すらも陳腐な展開となった。

「大宮駅構内はいま工事中で、『みどりの窓口』が移設している」と、元銀行屋がいち早く情報をキャッチした。ヤマ屋が連絡網で、ただ横流し、詳細の付加など一切なし。つまり、大宮駅に行けば、『みどりの窓口』なんて、簡単に判るさ、というていどの認識だった。

 5人が時間通りにやってきた。しかし、大宮駅『みどりの窓口』周辺の3ヶ所で、ばらばらに待つありさま。冷房の効いた『みどりの窓口』のなかにいたのが元焼芋屋。ほかの者は暑さに霹靂(へきれき)して待っていたのだ。結果として、最後に現れたのが元焼芋屋で、「大宮で用が早く終わり、1時間前に来て、ずっと待っていたんだ」と、涼しい思いをしながら抜けぬけと恩着せがましくいう。

 皆がそろったところで、東口繁華街の居酒屋『かしら屋』へ向かった。「人気店だから、夕方5時をあまり回ると、座る場所がないかもしれないぞ」と元焼芋屋が時間ロスの原因を棚に上げにした、焦りの口調でいう。この図々しさが学生時代からの持ち前だから、誰も腹を立てない。

 繁華街の左右にはパチンコ屋とか、居酒屋とか、ゲーセンなどが並ぶ。通行人はことのほか多い。「面白い店でな。焼き鳥を注文しなくても、皿が空になると、店員が勝手に焼き鳥『かしら』をもって来てのせる」と元焼芋屋がなおも特徴を述べる。

 期待は高まるが、客席が空いていなければ、何のために大宮に来たかわからない。下手に期待しても損だと思ってしまう。

「ここがかしら屋だ」と指す。繁華街の中ほどで、玄関は表通りからやや奥まっていた。店内はほぼ満席だ。

「だめか」と5人の誰もが諦めかけた。若い店員が威勢良く、「奥に5人さまが座れる席があります」と薦めてくれた。よかったな、と安堵の言葉がもれた。
 席に着き、あらためて店内を見渡すと、女性客が思いのほか多い。こういう居酒屋は安くて美味しい。期待が膨らみ、待合せ時間のロスすらも忘れた気持ちになれた。

 元銀行屋が最初の話題を提供した。昨年12月28日から2週間ほど、網膜剥離の手術で入院したと前置きした。(案内がなかったので、誰も見舞いに行っていない)。それから8ヵ月経った、今月1日の出来事を語りはじめた。
「実は目薬と、水虫の薬を間違って、眼に注したんだ。飛び上がるほど痛かった」と、かれは激痛を再現する苦痛の顔で話す。隣り合って座る元蒲団屋が、
「水虫の薬は皮膚を焼き切るものだ。眼球の薄い皮膜を焼いたのだから、痛かっただろうな」と同情する。
 元蒲団屋は多種の病気を経験しているだけに、同病相哀れむ、という態度だった。

 ヤマ屋となると、まったく同情心の薄い男だ。他人の不幸は面白いとばかりに、「目に水虫ができたのか」と揶揄し、愉快がる。そのうえ、「どうして間違った?」
 と悪い癖で、根掘り葉掘り訊いてくる。
 元銀行屋は点滴後の激痛から、なぜ間違ったか、という記憶のコマがすっ飛んでいた。どこまでも眼球に水虫薬を刺した瞬間、その一点の激痛に拘泥した語りだった。


 眼科医に駆け込んだ場面に話が移った。
「目医者は、こういうケースは多いといい、妙に落ち着いていた。痛くてたまらないのに、あの落ち着きが憎かった」という。乳幼児ならばともかく、水虫薬を注す事例が多いとは思えない。医者は心のなかで、稀有な出来事だと愉快がり、間抜けな男だと笑ったことだろう。

「医者は洗浄してくれたが、痛みは止まなかった」と話す。眼球の皮膜を焼いた特効薬などあるはずがない。医者は患者の苦しむ姿を嘲笑い、ストレス発散していたに違いない。洗浄とは名ばかりで、単なる水洗いだったかもしれない。
 元銀行屋はいまなお通院しているという。

 かれは元来ひどい近眼だ。最近は老眼。そのうえ眼球の皮膜まで焼いてしまったのだから、焼き鳥をオーダーするにも、メニューを見てメガネを外したり、かけたりしても決まらない。ヤマ屋が元銀行屋のためだといい、自分の好きな奴っ子豆腐、枝豆などと安っぽいものばかりを注文していた。

 元教授は夫婦で、6月に旅行者主催ツアーで10日間のトルコ旅行をおこなっている。現地はすべて自由時間というスタイルの旅行だ。イスタンブールの町並みを語る。

 かれは某県立大学で経済学の教鞭をとっていたが、朴訥としゃべるタイプ。ディテール(遊び)がなくポイントしかいわない。元教授の旅行記は『東海道中膝栗毛』のような面白さなどない。古文で『土佐日記』を読まされているようなものだ。


 かれは10代のころ、戦争による超貧困家庭から、「食べさせてもらえる」という理由だけで、新潟の写真屋に丁稚奉公に出されている。写真の腕前はプロ級。トルコ旅行記の口下手は写真が補填してくれる。それでも興味ある話はいくつかあった。
「イスラム教徒は日本で伝えられるほど、宗教心はない」と話す。礼拝時間がきても、町にそれを知らせる音が流れても、通行人はまったく知らぬふり。アラーの神に祈る姿など見かけなかったという。仏教徒の日本人がお寺に足繁く通うと思われているのと同じか。


 トルコは混血民族で、肌が褐色の母親が白人の子ども手を引いていたという。こうした光景は興味がある。だが、証拠写真はなかった。元教授は旅行先で毎日、デジカメで何十枚か撮影し、夜ホテルに戻ってから気に入らないものを消し、必要なものだけをカメラに保存・蓄積していく方法を取るという。かれは同伴者の妻の手前、現地人とはいえ褐色婦人をカットし、諍いを回避したに違いない。


 元教授は年初に最新パソコンを購入したが、これが大凶でトラブル続き。二度目の修理に出していたから、トルコの写真はウインドーズ98で処理をしたという。マイクロソフト社の新ソフトは評判が悪い。元教授の怒りを聞くほどに、新品のPCを買う気がしなくなった。

 生ビールから焼酎に変わると、話題も多岐になった。
 元銀行屋は岩槻にすむ。岩槻は人形の町で有名だ。バブルの絶頂期は、勤務先銀行の不動産部が駅から15分の一軒家を4000万円強で売り出した。それも抽選機を持ち込む、当選者を決める人気だったという。いまでは1500万円でも買い手がない。同時に、老齢化が進み、80所帯の自治会で、小学生が1人しかいない。子供会すら作れないと語る。
「庶民にとって、土地の値上がりは固定資産税がアップし、暴落したらローンを抱えて苦しむだけだ」と元蒲団屋が、下々の声として怒っていた。
 ヤマ屋は資産も地位も名誉もなく、『印鑑証明』も必要ない男だけに、唯我独尊、一人ビールにこだわり、聞き流していた。
 元教授は足立区内の各団地でも、老齢化の傾向が顕著になったという。かれが利用する竹ノ塚駅から花畑団地行のバスの本数が3分の1になったらしい。

 元教授の話題がふたたび不調なパソコンに戻ってきた。メーカーはとうとう修理できず、新品を送ってくれた。ちょうど留守にしていたが、ヤマト便の不在票をみて電話すれば、数分で配達にやってきた。「宅配便は、このごろ差がついてきたな」といい、ヤマト便と佐川急便を例にあげていた。その差は、運転手の持つ領域が違うからだという。

 ヤマト便のドライバーは狭いテリトリーだから、その分だけはフォローがよいと誉める。元蒲団屋がその話題に乗った。
「郵便の誤配が多くて閉口している。私と類似した名まえの家がすく近くにある。郵便物がたびたび間違って入っている。親切心でそれを届けていた。あるとき浦和レッツのチケットがない、盗んだような口調で言われたから、もう届けない。誤配の都度、郵便局を呼び寄せている」と話す。

 元蒲団屋がおもむろにカバンから貴重な資料を取り出した。家法のような、大切そうな書籍だ。郵便で送り、もしも紛失すると、大変だといわないばかりだ。
 それは繭山順吉著『美術商のよろこび』(1988刊行)で、日本語と英文の併記だった。著者が美術商として、過去に扱ったなかで特別な美術工芸品50点を取り上げていた。同時に、作者や関係者が、50点個々にどのように関わったかを述べたものである。元蒲団屋の父親も載っているという。

 かれの父親は中国陶磁美術や工芸品の鑑定に優れた人物だったと、前々から聞いていた。

「戦後、世が貧しくても、ぼくの家は白米しか食べなかった」という。裕福な生活だったらしい。その理由が述べられた。……敗戦による財閥解体。一方で、戦後成金の大金持ちが突出してきた。安宅産業、ブリヂストンなど財をなした企業や個人が余剰利益で、競って絵画、美術工芸品、陶磁器、骨董品を買い漁った。
 元蒲団屋の父親は中国美術品の鑑定力が高く、権威者だったことから、時流に乗り、高い収入を得ていたという。

 白米で育った元蒲団屋だが、『親の苦労、子知らず』か、大学入学後は授業に出席せず、学生街でマージャンばかりやっていたという。
 他方で、学友の中には、写真屋に丁稚奉公に出された元教授、家業が倒産寸前だった元銀行屋の家庭などもあり、戦後の貧富の差は、現在の格差社会よりもぶれ幅が広いと思う。

 佐賀県出身の元焼芋屋が、『美術商のよろこび』を捲りながら、元蒲団屋の父親はそれだけの人物だ、という。元焼芋屋の細君も同郷で、伊万里陶芸などを扱う店を開いていたことがある。夫婦して陶磁器には関心度が高い。それだけに元焼芋屋と元蒲団屋の談義が続いた。

 中国の陶芸品の歴史から、日本史へと話題が移った。こうなると、歴史に強いヤマ屋の独壇場だ。
「明治政府は学校で教える日本歴史、とりわけ江戸幕府の実力を過小評価し、そのうえ捏造している」と語気を強めた。「徳川幕府は鎖国、明治政府が文明開化を成した、とおしえる。それは明治政府を作り上げた連中の策略だ。かれらは尊皇攘夷論者で、閉鎖的な人物たちだ。文明開化の先陣を切ったのは徳川幕府だ」と、ヤマ屋はばさっと一刀両断にした。


「われわれは学校で、ペリー来航(1853年)、このときアメリカ人が日本にはじめてきたかのように教わった。これは大嘘だ。ペリー来航よりも50年前から、徳川幕府は長崎・出島でアメリカと貿易していた」と怒る。
 ほかの4人は驚きの表情で、耳を立てていた。

 18世紀末、オランダがフランス革命に介入した。それが起因してフランスからの侵攻を受けた。他方で、オランダはイギリスとも戦争状態にあった。その後、ナポレオンの台頭がある。
「オランダは、イギリスやフランスとつねに戦争状態で、大西洋、インド洋を回って日本に行けない。日本との貿易の権利をアメリカに譲渡した。1797年からアメリカ船籍が、オランダの国旗を掲げて長崎出島に入港してきた。徳川幕府はアメリカとの貿易を容認した」 
 現在、船名まで明確にわかつている米国船舶は13隻ある。

「アメリカは植民地政策を採っておらず、徳川幕府は米国との貿易を認めた。そればかりか、幕府は有能な長崎の通詞(通訳を家業とする人)たちに、アメリカ船員から英語を学ばせた」
 徳川幕府には先見の目があった。植民地政策の英仏を嫌い、アメリカとは親しい関係をもとうとしていた。オランダ国旗を掲げないアメリカ船舶も入港してきた。徳川幕府はそれすらも受け入れていた節がある。

 「多くの日本人は、なぜアメリカの博物館に浮世絵が大量にあるのか、と七不思議のように思っている。徳川幕府が18世紀末から19世紀にかけて、アメリカと貿易していたからだ。
 かれらは堂々と長崎出島で、江戸時代の美術工芸品、浮世絵、芸術品的な家具などを貿易品として購入し、本国に持ち帰った。フランス革命後、オランダに代わってアメリカの商船が日本と貿易していた。日本の教科書は、浮世絵が貿易品だったと教るべきだ」
 このヤマ屋の話で、元焼芋屋などは納得していた。

 明治政府は自分たちをことさら大きく見せたかったらしい。徳川幕府の能力をあえて過小評価し、中国、オランダ以外は鎖国一辺倒で教えた。その歴史教科書が第二次世界大戦まで続いた。
 戦後教育でも、歴史の修正は図られなかったから、われわれ日本人は徳川幕府=鎖国としか思っていないのだ。

 ヤマ屋の怒りは、ペリー来航にも向けられた。
「ペリー来航より7年前の1846年、東インド艦隊司令長官のビッドル提督が浦賀にやってきた。かれは国交を求めるアメリカ大統領の親書を持参していた。『交渉は長崎でする、長崎に回れ』と幕府は浦賀での交渉を拒否したのだ。
 ペリー提督は、ビッドル提督からわずか7年間に浦賀に着た、2度目の米国司令長官だったと、日本の歴史教科書はなぜ明瞭に教えないのか。ペリー来航で、アメリカ人をはじめてみた日本中がひっくり返ったように教える。明治政府には作為がありすぎる」
 
 明治政府は幕末史や近代史がペリー来航から始まったと、位置づけたかったのだ。徳川幕府はペリー提督が来るまで鎖国政策一辺倒でなければ、明治政府は光り輝かないと思ったのだ。

「ビッドル提督が来航したとき、浦賀には大勢の見物人がやってきた。屋台が多く出た。ペリーのときも浦賀に見物人が集まった。ペリー来航で別段、日本中が恐れ戦いてはいない。こんな歴史教育はもうやめてほしい」
 ヤマ屋は強調した。

「ペリー来航の翌年には日米和親条約が日本語、英語、オランダ語の三ヶ国語で結ばれている。一年間英語を学んだくらいで、条約を交わせるか? 中学一年生の英語力で」
 ヤマ屋が周りの目を見た。だれもが次の言葉を待った。
「漁民だったジョン万次郎の身分は低い。幕府はかれに英文の条約をみせていない。幕府は自前の通詞に、英文一文字ずつチェックさせているのだ。それはこういうことだ」

 1846年、東インド艦隊司令長官のビッドル提督が浦賀にやってきた。2年後の1848年に捕鯨漁船に乗り込んだ、アメリカ人の冒険家・マクドナルド(マクドナルドの創設者の祖父)が利尻島に上陸した。役人によって長崎に移された。幕府は半年間、通詞14人を長崎に送り込み、英語を学ばせたのだ。

 そのなかの森山栄之助という秀才がいた。ペリー提督がきたときに日本側代表の通訳で、なおかつ日米和親条約の英文のチェックをおこなったのだ。
「第二次世界大戦のさなか、敵国の英語を学ぶな、と文部省通達を出した日本政府と比べると、通詞14人を長崎に送り込んだ徳川幕府の有能さがわかる」

 マクドナルドはその後、長崎に入港していたアメリカ船プレブル号に引き渡された。このように、長崎にはつねにアメリカの船舶が入港していたのだ。

「高尚な話になったな」歴史音痴の元焼芋屋が感心していた。

「徳川幕府は、自民党の外交よりも能力が長けている」
 下田でおこなわれた、日露和親条約の交渉で、択捉島、国後島が日本の領土になった経緯と、隠された真実をヤマ屋が話す。 それを証明する、十数年前に執筆した『501人の遭難』という小説がある。それを延々とここで書いていたら、うんざりしてしまう。
 別途に掲載することに決めた。上記の森山栄之助も通詞として出てくる。

トルコ写真集(写真・キャプション提供:元教授)

カッパドキア:石灰岩の照り返しで体感温度は40℃? それでもこの奇景には圧倒される

ノアの方舟のアララット山:帰りのトルコ航空でフト思いついてスチュワーデスに尋ねたら嬉しそうに教えてくれた

これが昼間のアスペンドス劇場:2世紀頃に造られ2万人収容したというからとにかくエライ


パムッカレ:温泉が干上がり始めていてハラハラさせられた。まもなく“危機遺産”になるではないか

エーゲ海に面したリゾート地クシャダス:この写真を撮った直後、この家族から一緒に記念者写真を、と言われた

エフェス遺跡(5世紀頃)は、トルコへの観光客が全員集合という感じ。雑踏の中のケルスス図書館

5時45分、ブルーモスクを前景にした日の出。ホテルの部屋から3日間この光景を見て大満足

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