A020-小説家

掌編・ノンフィクション 6月学友会『下町・立石の呑み屋は1人・一軒1500円、大満足』 

 東京・下町の立石にあるモツ煮屋『宇ち田』が、学友会のルーツ。ホームグランドでもある。数ヶ月ぶりに、五人がそこに戻ってきた。夕方5時に、京成立石駅が集合場所だった。


 元焼芋屋が一時間もはやく到着していた。「おれが会議で遅れると、みんながツベコベいうからな。仕事よりも、学友会が優先だ、といって」
 今回はどうも会議をすっぽ抜かしてきたようだ。立石駅に早く着いた元焼芋屋は、立石商店街など、界隈を一巡してきたという。
「良い街だ。かつて日本のどこで見られた町が、そのまま残っている」
 かれはことさら賞賛する。
 葛飾・立石の下町は、京成電車の線路をはさんで、左右に広がる。昭和30年代、40年代からの店舗が連なる。その数は半端でない。商店街の買物にはサンダル履きが似合う。独特の雰囲気がある街だと、元焼芋屋が語る。


 元教授がそれを受けて、「明治時代から、きちんと躾(しつけ)られた『真の日本人』が少なくなり、絶滅の危機にある。いまや身勝手、独りよがりの人間ばかりだ。しかし、この立石・下町にくれば、本物の日本人に接することができる」と話す。


 立石商店街の店主は、昔ながらの客との対面商売を堅持している。客が注文すれば、その場で揚げたて、煮立ての商品を作りだす。居酒屋の女将やおやじたちは、頑固で、ぶっきらぼう。「でも、根が曲がったことが嫌い。江戸っ子気質の日銭を稼ぐ以上の儲けを出そうと思わない。呑み屋に行けば、気骨のある『真の日本人』がまだ沢山いる町だ」と話す。

                            立石駅前は、下町の生活情感たっぷり

 こんな会話の最中にも、現れないのがひとりいた。自宅から駅改札までは4分30秒の最も近距離に住むヤマ屋だ。

 
 例によって、遅れてきたヤマ屋が見苦しい言い訳をはじめた。
「ルーズな性格が原因じゃない。今回はしっかりした理由がある」
 いまから約15分前の出来事を語るのだ。かれがジャージ姿で出かけようとすると、玄関先で、妻に呼び止められた。
「学友に会うんでしょ。よく平気ね、そんなだらしない服装で」
 妻は呆れ顔だったという。
「別に、気取る相手じゃない。それに、この格好はだらしなくはない」
 ヤマ屋は自分の服装の上下をみた。
「あなたしか、知らない人たちだったら、いいわよ。私まで笑われるのよ。着替えてちょうだい」
 妻は真顔だった。

 大学時代のふたりは異次元にすむ男女だった。瀬戸内の海賊の子孫で野暮ったいヤマ屋(当時は宴会屋ともいわれた)と、大会社の重役の令嬢の女子大生。この組み合わせを愉快がって考えたのが、ゼミ仲間の学友たちだ。妻にすれば、学友会メンバーは出会いから結婚に関わったルーツ。だから、ことのほか神経を使う。
「もう5時になる。出かけ間際に、服装のことなど言うなよ。悪い癖だ」
 かれは腕時計をみた。
「ともかく止めて。そんな格好で、皆に会うのは」
 玄関から強引に連れ戻された。そして、かれはニットのTシャツに着替えさせられたのだ。それは妻が手芸教室で仕上げたTシャツだった。
「ズボンもジャージだと、おかしいでしょ」
 柱の電波時計がジャスト5時だと、やたらさわぐ。羽があったところで、駅改札口までゼロ分でつくはずがない。観念したヤマ屋は妻の言いなりになった。
「あなたって、無頓着で、黙っていたら、何十年前の服でも平気で着るひとだから」
 ヤマ屋にはもともとファッションセンスなど皆無だ。登山服以外はすべて無関心だ。ふだん妻が革靴、スーツ、靴下、ワイシャツなどのサイズを知っており、買ってくる。

 あるとき、『よそ行きの靴を買ったら。靴くらいは自分で買ってきなさいよ。サイズもあるんだから』といわれた。ヤマ屋が御徒町のスポーツ店からランニング用のスニーカーを2足買ってきた。『外出は、この方が楽だ』とそれを妻にみせた。『私がいったのは革靴よ』と怒っていた。
 それからはなおさら信頼を失い、買い物の強制もなくなった。つまり、妻が買い与えないと、ヤマ屋の着衣はつねに古いままなのだ。
 かれはそんな経緯で、世間並みの服装に整えてから、家を出た。そして、駅に着いた。

「一番近いものが遅れた」
 4人が異口同音に批判した。
「遅れたのは、ニットのTシャツのせいだ」
 ヤマ屋が姑息にも、なおも責任を衣服になすり付けた。
「これは本物のニットだ。5800円はするな」
 生地の見立てができる元蒲団屋が指先で、それを吟味した。
「そうか? 2000円くらいだろう。こんな薄っぺらなTシャツなんて」
「奥さんのありがたみが解ってないな。いまどき、誰かれ手作りのTシャツなど作ってくれない。デパートなどで手作りを買えば、実際はもっと高い」
「この類がもう一着ある」
 数日前は暑い夜だった。それを寝巻き代わりに使ったところ、朝になると、妻が怒っていた。そんな夫婦の内輪話を披露した。
「……作り甲斐のない男だな。奥さんが気の毒だ」
 元蒲団屋が、ヤマ屋の妻に同情し、嘆いていた。

 京成立石の駅舎階段を下ると、そこがもう仲見世通りだ。

 入口から3軒目が『宇ち田』だった。店外の順番待ちはわずか2人だ。
「めずらしいこともあるな。空いている」
 この店はどんな時間帯でも、順番待ちが常連の常識だ。開店は昼2時。丁度2時に店頭にきたならば、約30人は並んでいる。そのくらい繁盛店だ。
 モツ煮はどちらかといえば、からだを温める、冬場の食べ物だ。6月の夕方は太陽が高い、外気温は真夏に近いから、客足が少ないのか、たまたまなのか。原因の追及がさしてできないまま、5人は『宇ち田』の店内に招き入れられた。3人は奥のカウンター席に通された。
「五人はすぐ一緒になれるから」
 店員がぶっきら棒の口調で、メンバーを二手に分割した。
 元教授とヤマ屋は入口の暖簾が双肩にひらひら舞う上席だった。背後には通行人を感じ、目のまえには特大のモツ煮の大鍋がある。まさに下町の呑み屋の風情たっぷり。
「一度はここに坐ってみたかった」
 元教授が感慨を口にする。呑む生ビールも美味そうな笑顔だった。
 かれはこのごろ下町・居酒屋の研究にずいぶん熱心だ。博士論文でも書く気なのだろうか。ネット、ペーパーニュースなどで、関連記事を探しだし、現地の踏破調査をくり返す。そんな元教授だけに、呑み屋の上席の酒は感無量なのだろう。
 喜びは束の間だった。店員たちの客捌(さば)きはあまりにも上手だ。元教授の心の感涙が乾かないうちに、
「ハイ、お待たせ。そっちのお客さん、ふたりはこっちへ」
 と奥の席に移動させられた。五人が真横にずらっと並ぶ。一列に並列にさせられると、話題がひとつにつながらず、思いのほか話しづらいものがあった。

 海外放浪癖症の元教授が、5月大型連休後の航空料金のディスカウント率のすごさを語る。ファーストクラスはなんでも七割強の割引だったようだ。ハワイに行ってきたという。
「この先の人生で、ファーストクラスなど、もう経験する機会はないだろうな」
 機内の待遇は最上級。数人のファーストクラスの客のために、搭乗口ゲートも別にあったと教える。

 かれにすれば優越感の体験と、超安価に目がくらんだ旅ゆえに、ハワイのホノルル空港に着いたあとは、なんら目的もなければ、為すこともない。宿泊所は安価な健保保養施設だったらしい。Tシャツ、安物のビーチサンダルを履いて海岸や市内をただ彷徨し、質素な食べ物で節約精神を発揮してきた、それだけのことである。そして、帰路に着いた。

 元教授がさらなる話題を提供した。病弱な愛妻に白夜を観せたい、という過去からの念願で、7月のスカンジナビア半島ツアーを申し込んでいた。30日以前ならば、旅行会社は一方的に、ツアー企画を取り消せる仕組みらしい。合法的とはいえ、企業の身勝手な論理だと怒る。
「旅行者は2、3ヶ月前から、それなりの準備するものだ。1ヶ月前に取り止めだといわれても。……傲慢さには頭にくる」
 といつまでも怒りが収まらなかった。

 最近は中国経済の上昇に引っ張られた、日本国内の景気上昇から、大型株価が上昇し、配当も出る。経済関係の教授だったかれには、先見の目があったのか、偶然か、まぐれか。いずれにせよ、株の恩恵で、このところ旅行資金はやや潤沢になった口ぶりだ。
 経済は見通せても、スカンジナビア半島ツアーの旅行会社を選ぶ、肝心な能力には欠けていたようだ。
 かれは残された人生で、貸借対照表の左右の帳尻が最期で合うように、手持ち資金をゼロまで使い切る気だろう。急遽、トルコ旅行を決めたという。


 海外旅行など、まった縁がないのは元銀行屋だ。かれが学友会に加わったのが、たしか3回目の新橋・焼鳥屋あたりからだ。それゆえに、立石の『宇ち田』のモツ煮屋ははじめてだった。

 しかし、元銀行屋は若い頃から葛飾・立石を知る。それはヤマ屋との関わりからである。ヤマ屋が市川の社宅から、この下町に引越ししてきたのが昭和40年代後半だった。ライトバンを運転する元銀行屋が、人手をも集め、学友の引越しに活躍したのだ。元銀行屋は結婚した後も、細君を連れて、ヤマ屋の家に訪ねてきたことがある。そんな話題の提供があった。


 元銀行屋の結婚の推移はヤマ屋のみが知る。となると、ほかの3人がそれに関心を持った。堅物の元銀行屋が恋愛上手だとは思えない。だれもが予想した通り、見合い結婚だった。彼女はおなじ高校の下級生で、在学中から、元銀行屋の存在を知っていたらしい。
「おれは記憶ないんだ、見合い前のカアチャンを。別の女子(カアチャンのクラスメート)に惚れていた。おれの友だちの妹だった」と淡い胸のうちを打ち明けた。

「明るくて、陽気な、ユーモアたっぷり。ともかく快活な奥さんだ」とヤマ屋が教えた。夜十時に電話すれば、「うちのトオチャン、いま爆睡中。学友会ね。尻をたたいてでも、首に縄をつけてでも、どんなことがあっても参加させます」と抑揚豊かな口調で話す。
 夫婦の性格は両極が最良だ。勤勉一筋堅物と、陽気なカアチャン。仲人はまさしく先見の目があったと思う。
「おれは勤勉一筋じゃない。会社では好き勝手にやらせてもらった」と元銀行屋が語る。トップの方針に鋭意努力するわけでもなく、出世意欲などみじんもなかった。銀行から出向先した都内の菓子問屋でも、「好き勝手にやらせてもらった」と強調する。定年後はバイトとして防災関係の会社に勤務している。「いまも好き勝手にやっている」と話す。
「好き勝手といっても、しょせん組織のなかの人間だ」
 元教授が茶化す。

 元銀行屋は、世情の悪にはことさら義憤をもつ男だ。菓子問屋で経理を担当していたころの怒り、某大手コンビニ(本社・東京)のリベート問題にふれた。
「菓子問屋の収益が挙がれば、決算書を見て、リベートを要求してくる」と話す。
 菓子問屋の従業員が汗水流して得た収益を剥奪する、大手流通業の横暴さが許せない、とかれは熱弁を振るっていた。


「高説を賜ったところで、恒例により、もう一軒」
 元焼芋屋が線路ぎわ中華料理「海華」を推す。下町・立石の情報通の元教授が、有名な餃子屋がある、そこに行ってみたいという。意見が二つに分れた。決定を見ないまま、『宇ち田』を出た。


 元蒲団屋が通りすがりの自転車に乗る、年配のオバサンを止めた。かれはオバサンの肩を抱きこみ、「いい呑み屋を教えて」とささやく。元蒲団屋がくどき上手なのか、下町のオバサンが親切すぎるのか。買い物を止めたオバサンはニコニコと、細い路地裏の『呑んべ横丁』の一軒まで案内してくれた。ところが、狭い呑み屋の店内からカラオケの下手な歌が飛び出してきた。そのうえ、レーザーディスクの演奏が鼓膜を裂くような音量だ。
 学友会のメンバーは総スカンだった。

 オバサンの心は元蒲団屋に移ったのか、嫌な顔もせず、こんどは『中みっちゃん』という安価な店を薦めてくれた。こちらが興味を示すと、電話まで掛けてくれた。ところが満席だった。他方で、元教授が希望する有名な餃子屋は夜にならないと営業していない、という。


 ここでオバサンとは分かれた。こんどは、踏み切り近くで、元焼芋屋がカラカイ半分に、ビラ配りの20代の娘さんに『良い店はない?』というふうに訊いた。彼女は地理勘に疎く、情報は皆無だった。写真に納まってもらうのが精一杯。それが狙いだったかもしれない。


 結果として、元焼芋屋のお勧め、『海華』に入った。この『海華』は学友会が見つけた下町の穴場のひとつ。明るい美人の中国人お姐さんがフロント係だ。席に着いたとたんに、元焼芋屋がなじみ顔で、鼻の下を伸ばす。
 スーマートなプロポーションの彼女は、堪能な下町ことばで、料理を勧める。推奨する大半の単品が480円~680円前後だった。鯉やアヒルなどの特別な料理でも安価だが、それらは勧めない。こちらの懐具合を熟知していた。

 学友はそれぞれ品数多くオーダーした。手際よく出てくる。横浜中華街に劣らない味で、なおかつボリュームがある。
「この味にしては、横浜中華街の3分の一の価格だ」
 箸を伸ばす5人は口々に料理と金額を賛美する。食べ物がいいと、酒の味もよく、美酒になる。

 朱の鯉の文様のガラス窓のむこうには、京成電車が行きかう。赤い車体が通り抜けていく。心地よい車輪の音を響かせる。下町の情感はたっぷり。映画『寅さん』の情緒がこの立石一帯には残っている。
 葛飾・柴又は映画のヒットでゾクぽくなった。『寅さん』並みの雰囲気のいい下町情緒を味わいたければ、もはや葛飾・立石だという認識で一致した。

 中国人お姐さんは愛嬌者で、接客が良い。ころあいを見て、紹興酒を薦めた。これも超安価。グラスに砂糖を入れるのは野暮なヤマ屋だけだ。

駅から1分。味は抜群で、安価な『海華』


 美酒に酔う元蒲団屋が、「おれの出生は、中国北京だ」と中国人お姐さんに教える。かれの父親は近世中国史家だ。蒋介石時代の著名な人たちとの交流も多かったと聞く。
 そんな関係で、元蒲団屋の出生が北京で、なおかつ有名な大病院の産科だったらしい。数年前、元蒲団屋が北京に旅した折、ホテルの窓を開けると、偶然その病院を目にしたという。その感動を語って聞かせるのだが、『海華』のお姐さんはその病院を知らなかった。

 ヤマ屋が、あるメールの話を持ち出した。それは元蒲団屋の次男からで、『穂高健一ワールド』に載る父親に関した内容のものだ。『学友会に参加した、父親の元蒲団屋は実に楽しげである。過去において、見たことも接したこともない父親の顔である。父親は仕事一途のみという認識だった。そんな父親にも、こんなにも親しく打ち解ける、学友がいたのか。大学卒業から約40年後においても、学生時代にもどれる父親が羨ましくもある』という内容だった。つまり、父親の再発見だ。

 元蒲団屋は永年にわたって、父親の威厳の裃を着ていたのだろう。
 しかし、学友会メンバーは、元蒲団屋の素顔を知る。先刻の線路際で、下町のオバサンに呑み屋を聞く、フランクな姿が素顔だ。
「うちの次男はいま八潮市に住む。学友会に興味を持っている。一度同行したい、というが断っている」
 元蒲団屋は、息子がそばにいると、呑みづらいらしい。
 1月学友会の二次会で、メンバーはあつかましくも深夜に元蒲団屋の家に押しかけたことがある。夜の訪問客は、女性は嫌うものだ。元蒲団屋の細君は豪華な料理を作り、十二分にもてなしてくれた。
「その節は迷惑をかけたな。後で、女房に絞られただろう。ひどい連中を連れてきた、と」
 元教授が気の毒がった。
「うちの女房はそういうことはない。つねに三つ指だ。何でも亭主の言う事を利く」
「ほんとうか?」
 学友のだれもがわが身に置き換え、真偽を図りかねた顔だった。
「女房は従順だ。むかしから」
 元蒲団屋がやたら強調する。それが事実とすれば、現代女性から最も攻撃されやすい典型的な人物だろう。男性の傲慢さ、明治の精神。批判と攻撃は止むことはないはずだ。
「次に押しかけるとしたら、元焼芋屋だな」
 ヤマ屋がいった。
「冗談じゃない。このメンバーがきたら、うちは離婚だ」
「隣の家に、深夜、間違って上がりこんだ。いい話題もあるしな。奥さんに近所の風評とか、噂とか、亭主の態度を聞いてみたい」
「それだけは止めてくれ。いま、首の皮一枚でつながっているんだから。やっと話題が鎮まったところだ」
「別に、離婚したところで、学友会の交流は従来通りだ」
「やめてくれよな。ヤマ屋なんて、いいネタ作りだといい、おれが伏せたい、隠したい話題を平気で持ちだす。なんでも面白がって暴露する性格だ」
 元焼芋屋は青ざめていた。
「他人の不幸ほど面白いものはない」
「さあ、きょうはこれで切り上げるか」
 元焼芋屋が立ち上がった。そして背広に腕を通した。

 元銀行屋が会計役だ。『海華』と『宇ち田』二軒分を合わせて一人3800円だといった。メチャメャ安い。間違っていないか、という声もでる。
 元銀行屋はソロバンの達人だ。高校時代には三重県の算盤大会でトップ、日本ソロバン選手権でも上位入賞した。六、七段だったか? 計算には間違いない。

 学友会のホームグランドの下町・立石は、美食、好きなだけ飲んで、一人1500円だ。こんな街は少ないだろう。(注)今回の1軒1500円よりやや+α したのは、貨幣価値の認識の疎いヤマ屋が食べきれないのに、やみくもに料理を追加オーダーしたことによる。

 五人が席を離れかけた。別テーブルの男性が元焼芋屋を呼び止めた。
『あの、それ僕の背広ですけど』
 と指した。

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